小説「真理の微笑 夏美編」

二十
 一週間後、夏美は祐一を連れて、刑務所に午前八時半に着いた。高瀬隆一との面会手続きを取ろうとしたら断られた。
 何故断られたのか理由を尋ねると、月二回の面会回数を超えるからだと言われた。誰か他に高瀬隆一に面会に来ている者がいるという事になる。誰が面会に来たのか訊いたが、答えてはくれなかった。
 埼玉の実家から、東京の某所にある刑務所まで、朝早く起きて、息子を連れて面会に来たのに会えなかったのは、夏美にとってショックだった。

 夏美は九月になると早速、最初の平日の午前八時半に刑務所に出向いた。面会手続きを取って、会えたのは午前九時過ぎだった。
「おはよう」と言って入ってきた高瀬に対して、「お早うございます」と返した後、「この間も会いに来たのよ」と言った。
 高瀬は「そうだったのか」と言ったきりだった。
 夏美は「誰が会いに来たの」と訊いた。
 高瀬はポツリと「真理子」と答えた。
「真理子さんは、会いに来られるの」と訊くと、「僕の赤ん坊の母親だからね」と高瀬は答えた。夏美は椅子に座っていたが、へたり込みそうになった。
「あなたは変わったわね」
「僕が変わった。そうだね。そうかも知れない」
 夏美が今会っている人は、夏美の知っている高瀬ではなかった。顔は、夏美の知っている若い時の高瀬に戻ったが、心はその時には戻らなかったようだ。
 夏美は振り絞るように「今はどうしている」と言った。
 訊きたい事はいっぱいあったのに、それが無くなっていた。
「暇な時は、本を読んでいる」
「どんな本」
「コンピューターの本」
 本の差入れは夏美はしていなかったから、真理子が差し入れたものだろうと思う他はなかった。
「欲しいものはある」
「いや、今はない」
「本当」
「ああ」
「お金も差し入れられるようだけれど、足りている」
「それなら大丈夫だ」
 これも真理子が差し入れているのだろうと思った。
 夏美は、この質問をするのが怖くて少し躊躇った。しかし、時間を無駄にはしたくなかった。
「わたしにして欲しい事ある」
 高瀬は夏美を見た。悲しいほど優しい目をしていた。
「ない」
 高瀬の返事は、予想していたとはいえ、夏美を打ちのめした。
「本当にないの」
「ああ」
 夏美は次の質問をするのにも、少し躊躇った。しかし、勇気を振り絞って訊いた。
「わたしが会いに来て嬉しい」
 高瀬はすぐには答えなかった。そして、夏美をじっと見た。その目は、さっきよりも悲しいほどに優しかった。
「嬉しいよ」
 夏美はその答を聞いて、一筋の涙を流した。
「本当」
「本当だよ」
「そう、良かった」
「…………」
「わたし、あなたに会いたかった」
「そう」
 しばらく間が空いて「僕もだよ」と言った。
「嬉しい」嘘でも……。
 夏美はとうとう泣き出した。
 高瀬がアクリル板に手を広げて押しつけた。
 そして「この手に合わせて」と言った。
 夏美はハンカチで涙を拭って、その手に合わせた。
「僕たちは一緒だよ」
 高瀬はそう言った。
 夏美は、涙を落としながら、「そんなに優しい事を言わないで」と言った。
 言った後、夏美はアクリル板から手を離して泣きじゃくった。
「時間です」と言う刑務官の声が聞こえた。
「じゃあ」と言って、高瀬はドアに向かった。
 夏美は立ち上がるとその背中に「また、来るからね」と言った。