小説「真理の微笑 夏美編」

十八

 六月になった。

 判決が申し渡される事になった。

「主文、被告人高瀬隆一を懲役八年の刑に処する。罪状、殺人及び死体遺棄罪、罰条、刑法第**条**項及び、刑法第**条**項。……」

 主文が言い渡されると、報道陣は一斉に法廷を出ていった。

 弁護側も検察側も上告しない事にし、刑は確定した。

 そして、高瀬隆一の形成手術も行う事になった。手術自体は、高瀬が形成手術を行った大学病院で行う事になり、容態が安定したら警察病院に転院する事になった。

 

「高瀬さん」

 そう名前を呼ばれて、男は頷いた。

「さあ、ゆっくり目を開けて」

 男はその言葉に従って、徐々に目を開いていった。

「そう、いいですよ。ゆっくりと開けて下さい」

 暗い夜道を歩いていて、遠い向こうに光を見たような感じだった。

 最初はただ明るいだけでぼやけていた。長く目を閉じていたので、うまく焦点が合わなかったのだ。

 そのうち、目の前を何かが動いた。何かと思ってみていると、手だった。

「見えますか」と訊かれたので「はい」と答えた。

 次第に回りの様子が見えてきた。男を囲むように何人もの人が覗き込んでいた。

 どこからとなく、おお、という声が聞こえてきた。

「さぁ、見てご覧なさい」

 看護師らしい女性が丸い手鏡を差し出した。

「どうです。わかりますか」

 医師の声だった。

 男は、必死になって看護師が持っている鏡の中を見た。

「ご自分の顔ですよ」

 医師がまたそう言った。

 男は、そこに今までとは違う別の顔を見た。

 あまりにも長く今までの顔を見てきたので、別の顔を俄には自分の顔だとは思えなかった。

「どうです。ご自分の顔ですよ。元の、高瀬隆一さんの顔ですよ」

 もう一度、確認するように医師が言った。

 男は「はい」と答えた。

 医師は「良かった」と言い、「これで元の顔を取り戻しましたね」と続けた。

 男は、もう一度鏡の中の自分の顔を見た。

 これが元の顔だったのか、と男は思った。

 

十九

 警察から押収された品物が返却されてきた。

 夏美は、それを二階の高瀬の自室となるところに収めた。

 八月半ばになって、高瀬と面会できる事になった。弁護士事務所から連絡が来たのだった。

 面会室のアクリル板越しに見る高瀬は、少し、いやだいぶ若返った顔をしていた。しかし、高瀬隆一である事に間違いはなかった。夏美は一目見ただけで涙した。窓に手を当てて、「あなた」と呼んだ。高瀬は軽く頷いた。

「何度もあなたの夢を見たのよ」

「うん」

「そして、やっと本物のあなたに会えた」

「うん」

「わたしがどんなに嬉しいか、わかる」

 高瀬は困った顔をした。

「そんな顔をしないで。わたし、嬉しいの。また、あなたに会えて」

「そうか」

「だって、もう一生会えないのかも知れないと思った時もあったのよ」

 高瀬は黙って頷いた。

「出した手紙は読んでくれた」

「ああ」

「どうして返事をくれないの」

「何を書いて良いのかわからなかったからだ」

 高瀬の声は、完全には元には戻っていなかった。それでも夏美には、昔の高瀬の声に聞こえた。

「何でもいいの。今、あなたがどうしているのか、知らせてくれるだけでいいの」

「わかった」

「じゃあ、手紙書いてくれる」

「そうするよ」

「ありがとう。待ってるわ」

「そうしてくれ」

 夏美はアクリル板越しに手を広げた。そして「この手に合わせて」と高瀬に言った。

 高瀬は夏美の手に手を合わせた。

 その時、再び、夏美は泣いた。

「時間です」という刑務官の声がした。

「じゃあ、また来るからね」と言う夏美に「待っている」と高瀬は答えて、面会室から出て行った。

 

 刑務所を出ると夏の暑さが身に染みた。

 弁護士が用意していた車にすぐに乗った。

 

 面会時に、祐一を連れて行くかどうかについて、夏美は悩んだ。しかし、最初の面会は弁護士も同席しているが、夏美だけで行こうと思った。ちょうど、祐一はテニスクラブの合宿中という事もあった。弁護士に同席してもらったのは、面会の仕方がわからなかったからだ。弁護士に同席してもらったのは刑務所での面会の方法・手続きを教わるためでもあったのである。

 次の面会は一週間後にした。これは予め決められているのではなく、高瀬隆一の場合、まだ入所したばかりなので、面会回数が月二回に制限されていたからである。次回は、弁護士同席ではなく、自分で手続きをしようと思った。そして、祐一も連れて行こうと考えた。

 

二十

 一週間後、夏美は祐一を連れて、刑務所に午前八時半に着いた。高瀬隆一との面会手続きを取ろうとしたら断られた。

 何故断られたのか理由を尋ねると、月二回の面会回数を超えるからだと言われた。誰か他に高瀬隆一に面会に来ている者がいるという事になる。誰が面会に来たのか訊いたが、答えてはくれなかった。

 埼玉の実家から、東京の某所にある刑務所まで、朝早く起きて、息子を連れて面会に来たのに会えなかったのは、夏美にとってショックだった。

 

 夏美は九月になると早速、最初の平日の午前八時半に刑務所に出向いた。面会手続きを取って、会えたのは午前九時過ぎだった。

「おはよう」と言って入ってきた高瀬に対して、「お早うございます」と返した後、「この間も会いに来たのよ」と言った。

 高瀬は「そうだったのか」と言ったきりだった。

 夏美は「誰が会いに来たの」と訊いた。

 高瀬はポツリと「真理子」と答えた。

「真理子さんは、会いに来られるの」と訊くと、「僕の赤ん坊の母親だからね」と高瀬は答えた。夏美は椅子に座っていたが、へたり込みそうになった。

「あなたは変わったわね」

「僕が変わった。そうだね。そうかも知れない」

 夏美が今会っている人は、夏美の知っている高瀬ではなかった。顔は、夏美の知っている若い時の高瀬に戻ったが、心はその時には戻らなかったようだ。

 夏美は振り絞るように「今はどうしている」と言った。

 訊きたい事はいっぱいあったのに、それが無くなっていた。

「暇な時は、本を読んでいる」

「どんな本」

「コンピューターの本」

 本の差入れは夏美はしていなかったから、真理子が差し入れたものだろうと思う他はなかった。

「欲しいものはある」

「いや、今はない」

「本当」

「ああ」

「お金も差し入れられるようだけれど、足りている」

「それなら大丈夫だ」

 これも真理子が差し入れているのだろうと思った。

 夏美は、この質問をするのが怖くて少し躊躇った。しかし、時間を無駄にはしたくなかった。

「わたしにして欲しい事ある」

 高瀬は夏美を見た。悲しいほど優しい目をしていた。

「ない」

 高瀬の返事は、予想していたとはいえ、夏美を打ちのめした。

「本当にないの」

「ああ」

 夏美は次の質問をするのにも、少し躊躇った。しかし、勇気を振り絞って訊いた。

「わたしが会いに来て嬉しい」

 高瀬はすぐには答えなかった。そして、夏美をじっと見た。その目は、さっきよりも悲しいほどに優しかった。

「嬉しいよ」

 夏美はその答を聞いて、一筋の涙を流した。

「本当」

「本当だよ」

「そう、良かった」

「…………」

「わたし、あなたに会いたかった」

「そう」

 しばらく間が空いて「僕もだよ」と言った。

「嬉しい」嘘でも……。

 夏美はとうとう泣き出した。

 高瀬がアクリル板に手を広げて押しつけた。

 そして「この手に合わせて」と言った。

 夏美はハンカチで涙を拭って、その手に合わせた。

「僕たちは一緒だよ」

 高瀬はそう言った。

 夏美は、涙を落としながら、「そんなに優しい事を言わないで」と言った。

 言った後、夏美はアクリル板から手を離して泣きじゃくった。

「時間です」と言う刑務官の声が聞こえた。

「じゃあ」と言って、高瀬はドアに向かった。

 夏美は立ち上がるとその背中に「また、来るからね」と言った。