小説「僕が、剣道ですか? 7」

    僕が、剣道ですか? 7 

                           麻土 翔

 

 秋も過ぎ、寒さが増してきた頃だった。

 みねは、年若いきくをたてて、二人は仲良く炊事をしていた。

 もうすぐ朝餉だった。

 みんなが、卓袱台の前に座った。僕が「頂きます」と言うと皆が「頂きます」と言って箸を取った。

「風車殿、昨日はどうでした」と僕が訊いた。

 みねが風車の方をちらっと見た。

「それはもう……」と風車は言っただけだった。

 僕は「これは野暮でしたね」と言った。

 きくが箸を口元に持っていき、笑いを隠した。

 食事が進んでいたところで、風車が真面目な顔をして「こうして住まわせてもらっているのは、いいのですが、何もしないでいるというのはどうも心苦しくてなりません」と言った。

「今までと同じでいいですよ」と僕が言うと「それでは、どうも居心地が悪くて……」と風車が言った。

「風車殿は変なことを言われますね。私がいいって言っているでしょう」と僕が言うと「そうなんですけれど、何かしたいんですよ」と言った。

「そうですか」と僕は考えた。風車は剣の腕は立つ。ここに道場があれば、道場を開けばいいが、道場はない。それに江戸には、いくつもの道場がある。今更、道場を開いても、門弟が集まるだろうか。それが駄目だとすると……、と考えていて、寺子屋という考えが頭に浮かんできた。風車は達筆だ。習字をさせればいいのではないか。

「字を教えてはどうですか」と僕が言った。すると、みねが「筆学所ですね」と言った。

「筆学所というのですか」と僕がみねに訊いた。

「はい。吉原でも教えている人が来ますが、その人は筆学所と言っていました」と言った。

「では、筆学所を開きましょう。門にそう貼り紙をすれば、習いに来る人もいるでしょう。朝餉が済んだら、早速、その準備をしましょう」と僕が言うと、風車は途惑ったように「はぁ」と言った。

 

 門に「筆学所」と書いた紙を貼った。

「これで教わる子が来るのでしょうか」と風車が言った。

「分かりません。ともかくやってみようじゃないですか」と僕は答えた。

 すると、すぐに八歳ほどの男の子が来て、「ここで文字を教えてもらえるんですか」と僕に訊いた。

「そうだが、教えるのは、私ではないよ。こちらの先生だ」と風車の方に手を向けた。

「こちらが先生ですか」

 風車は困ったような顔をしたが、すぐに頷いた。

「束脩(そくしゅう)(入門料)と儀謝(ぎしゃ)(月謝)はいくらですか」

「束脩はいらない。儀謝は月ごとにもらうから、月謝と呼ぼう。一分ということにするがどうかな。親と相談して来なさい」と風車が言った。

 男の子は頭を下げて走って行った。

「束脩は取らないんですか」と僕が風車に訊いた。

「そんなもの、取れませんよ。月謝だって、少し多めに言ってしまったかなと思ったくらいです」と答えた。

「どんなことを教えるか、考えておいた方がいいですよ。あの子が来たら、教えなくてはなりませんからね」と僕が言うと、「そうですね」と風車は真剣な顔になった。

 

 半刻もすると、さっきの男の子がもう一人少し小さい男の子を連れてきた。その後ろに母親と思える人がついてきた。

 表座敷に上げ、風車が応対した。僕が席を外そうとすると、袖を引っ張られた。

 みねがお茶を運んできて、座卓に置いた。

 母親が話し始めた。

「わたしどもは両国の和菓子をやっている富士というものです。わたしはとみと言います。富士にとみですから、よくからかわれます。この子は、長男が修太郎、次男が修二郎です。八歳と六歳です」

 風車は一々頷いていた。

「この子たちに、文字を教えたくても時間が取れなくて、そのままにしてきましたが、ここに筆学所があると修太郎に聞いたので、見に来たのです」ととみは言った。

 風車が何も言わないので、僕が「そうですか。筆学所は今日から始めたところなんですよ」と言った。

「そうなんですか」ととみは不安そうに言った。

 とみの不安が分かるので、僕は「何事にも始めはあるでしょう。ここもそうです。あなた方は最初の門弟になるかも知れない人たちです」と言った。

「はぁ」ととみの不安はさらに深くなったようだった。

 隣で硬くなっている風車に僕は言った。

「風車殿。いや、風車先生、硯と墨と筆と紙を用意してください」と言った。少し緊張を解いた方がいいと思ったのだった。

 風車が立って、離れに硯と墨と筆と紙を取りに行った。

「儀謝については、聞いていますか」と僕はとみに言った。

「月に一人一分だと修太郎から聞いています」

「それについては、どう思いますか」と僕は訊いた。

「ちゃんと字を教えてもらえるなら、そのくらいはと思っています」と答えた。

 僕は修太郎、修二郎に「毎日、来られるかな」と訊いた。

 二人は頷いた。

 風車が硯と墨と筆と紙を持ってやってきた。

「水を」と僕が言うと、風車はみねに硯に使う水を持ってくるように厨房に向かって言った。

 みねが小さな水差しに水を入れて、持ってきた。

「百聞は一見に如かずでしょう。今、風車先生がこの紙に文字を書きますから、それを見て頂けますか」と僕がとみに言った。

 とみは頷いた。そして、風車はどういうことになっているのかは分からなくても、自分が文字を書かなくてはならないことは分かったようだった。

 僕は風車の邪魔にならないように、茶碗をどかした。風車は硯に水を垂らして、座卓の上で墨をすった。

「風車先生に何て書いてもらいますか」と僕はとみに訊いた。

「では、うちの店の名前である富士屋と書いてもらえませんか」と答えた。

 風車は墨がすりあがると、筆を硯につけて、紙に大きく富士屋と書いた。達筆だった。

「どうです」と僕がとみに訊いた。

「お上手ですね」と答えた。

「そりゃあ、筆学所の先生ですから」と僕が言うと、とみは「失礼なことを申してしまいました」と言った。

 僕は笑った。

「あの先生は代筆も得意ですから、必要な時はどうぞ」と言った。すると、とみは袖で口元を隠して笑った。そして、胸元から、財布を取り出して、二分、座卓に置いた。

「よろしくお願いします」ととみは言った。

「時間はどうしますか」と僕がとみに尋ねた。この問いは風車にもしているつもりだった。

「何時から始められるんですか」ととみが訊いた。

「いつからですか」と僕は風車を向いて、とみの問いを繰り返した。

「いつ来られる」と風車が訊くと、修太郎と修二郎は、「いつでも」と答えた。

「だったら、朝餉が済んだら来るといい」と修太郎と修二郎に言った。

「今のところ、二人だけだから、昼餉まで学んで昼餉にいったん帰って、昼餉が済んだらまた来てもいいし、昼餉の後どうするかは、これから考えよう」と風車は二人に言った。その声はとみにも届いていただろう。

「風車先生、二分いただきましたよ」と僕は座卓の上の二分金を示した。

「これはどうもありがとうございます。では、明日から来てください」と風車はとみに言った。

「わかりました。よろしくお願いします」ととみは風車に頭を下げた。

 

 三人が出て行くと、風車は深く溜息をついた。

「さあ、風車先生、明日の準備をしなくちゃ」と僕が言った。

「何をしたらいいんですか」と風車が僕に訊いた。

「まず、ひらがなの読み書きを教えて、それから漢字を教えたらどうでしょう。あっ、それから、あの二人には、自分の名前を漢字で書かせる練習もさせるといいでしょう。そうすれば、きっとあの二人は母親に書いて見せたくなるでしょう」と僕は言った。

 どこでも、教育に関しては、母親が主導権を握っているんだから。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

三十六

 料亭を出ると、夜風が気持ちよかった。

 少量の酒だったが、何だか酔った気分になった。

 風車はみねと手を繋いでいた。

 僕はききょうを抱いていたので、それはできなかった。代わりに、きくが頭を預けてきた。それは少しの間だけだったが。

 ききょうは今日はとても大人しかった。珍しいものを見ているようで、楽しかったのだろう。魚はよく食べた。吸い物もほとんど飲んだ。

 

 家にはほどなく着いた。

 通用門の鍵を開け、玄関の鍵を開けて中に入った。

 上がり口に、ききょうを置くと、僕はぐったりと座り込んだ。今日は精神的に疲れた。

 しかし、きくや風車、みねが入ってくると、上がり口を塞いでいることもできないので、表座敷に上がった。

 そして、羽織は脱いだ。暑かったからだ。羽織を持って、寝室に行った。そして、袴も脱ぎ、普段の着物に着替えた。

 表座敷に行くと、風車とみねがいた。

 僕が入って行くと、二人は揃って「今日は何から何までありがとうございました」と頭を下げた。

 そして「これから着替えます」と風車が言った。

「そうですか。ゆっくりすればいいでしょう」と僕が言った。

 風車たちは、僕が来るのを待っていたんだということに気付いた。

 僕は湯屋に行って、風呂釜に火をつけた。風呂を焚くのも手慣れてきたものだと思った。

 

 寝室に戻ると、きくも普段着に着替えていた。ききょうもだった。

 僕はききょうを抱き上げると、「今日は大人しかったな。偉いぞ」と言った。ききょうは、何を言われたかは分からなかったろうが、僕が抱き上げたことで喜んで笑った。

 僕はきくに「今日も大変だったが、明日からも頼む」と言った。

 きくは僕を見て、「わかっていますよ。心配しないでください」と言った。

「そうか。任せるよ」と僕は言った。その後で、蚊帳を吊った。蚊帳の中はききょうの遊び場だった。

 

 風呂が焚けると、離れに行った。襖の前で、声をかけた。

 風車の「どうぞ」と言う声で、襖を開け、中に入った。蚊帳が吊ってあり、二人は、その外に出て正座していた。僕は足を崩すように言い、風呂が焚けたことを告げた。

「それなら、鏡殿が先にお入りください」と風車が言った。

「だが、今日は特別な日だから」と僕が言ったが、「鏡殿がお先に。わたしたちは最後でいいです」と風車が言った。

「そのことですが」と言う声がしたので、振り返ると、ききょうを抱いたきくが来ていた。離れに入り、座ると、「お風呂の順番のことですよね」と風車が言った。

 きくが「ええ」と言うと、「それは決めておきましょう」と続けた。

 そして「それなら、この家の主である京介様が先に入られ、その後で、風車様のご夫婦が入られればいいと思います。わたしとききょうは最後に入ります」と言った。

「それなら、わたしたちが最後に入りますよ」と風車が言った。すると、きくが「わたしが最後に入るのは、ききょうのおむつなどを洗うためです。洗濯をするので、最後にして頂きます」ときっぱりと言った。

「でも」と風車が言いかけたが、僕が「それまで。きくの言うとおりにしましょう。その方が入りやすいでしょう。まず、私が入って、それから、声をかけますから、風車殿たちが入ってください。そして、きくとききょうが最後に入ることにしましょう。いいですね」と言った。

 風車は頷いた。

「では、私が先に入ります」と言って、きくとききょうを連れて離れを出た。

「きくが来てくれて、助かった」と言うと、「だって、京介様はお風呂が焚けたので、離れに声をかけに行ったのでしょう。どういうことになるのかは、わかりましたわ」と言った。

「そうか」

「ええ。京介様がこの家の主なのですから、先に入るのは当たり前です。今日、風車様が祝言をあげたからといって、それは変わりません。問題はその次ですよね。それなら、わたしが最後に入る方が洗濯などをするので都合がいいのです。ですから、この順番しかなかったんです」ときくが言った。

「分かった」と言うと、僕は風呂に入る準備をして、一人湯屋に向かった。もう、風車と一緒に入ることはないのか、と思うと少し寂しい気もした。

 

 僕は風呂から出ると、離れに行き声をかけた。中から返事が返ってきた。楽しそうだった。

 風車たちが風呂から出ると、今度はきくがききょうを連れて、風呂に行った。

 一度、ききょうを寝室に連れてきて「見ていてくださいね」と言って、今度は洗濯をしにきくは湯屋に戻っていった。

 きくが湯屋から、寝室に入ってくると、僕は「大変だったね」と言った。ききょうは眠っていた。

「だったら、ご褒美をくださる」ときくが言った。

 僕が頷くと躰を預けてきた。僕はきくの躰を受け止めた。お腹が出ているのが分かった。優しくきくを抱いた。

 

 夜が更け、きくも眠ったので、時を止めた。

 そして、奥座敷に行った。

 あやめがいた。

「風車様は、ようございましたね」と言った。

「そうだな」

「この家も賑やかになりますわね」

「迷惑か」

「いいえ」

 僕はあやめの髪をたくし上げた。そして、その唇に口をつけた。

 あやめの中に入っていった。しばらくすると、あやめが言った。

「あまり、時を止めていると、困る人たちがいますわ」

 僕が一瞬、何のことだか、分からないでいると、もう一度、あやめは躰を寄せて来て、「一晩中でもこうしていたい人たちがいるでしょう」と言った。

「そうか」と僕は苦笑すると、「今日はこれで引き上げるよ」と言って、寝室に戻った。そして、時を動かした。風車のところの時も動き始めたことだろう。

 

 次の日、顔を洗って、居間に向かおうとすると庖厨で、「おはようございます」と揃って声をかけられた。

 きくと、その隣にみねが立っていた。みねは、昨日は遅くまで起きていただろうが、今は頑張って朝の庖厨に立っている。その顔には、疲れよりもこれからの生活に向かう輝きのようなものを感じた。

 僕は「おはよう」と返して、台所に立つ二人を見ながら、新鮮な空気を大きく吸い込んだ。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

三十五

 船着き場に着いた。

 みねの手を取りながら、桟橋に降りた。

 舟は空いていた。

 二艘使うことにした。

 一つの舟には、風車とみねを乗せた。そして、もう一艘の舟に僕と行李を担いでいる小僧が乗った。

 向こう岸には、すぐに着いた。

 舟から下りると、船頭に代金を渡した。

 風車はみねの手を引いて土手に上がった。そして、家に向かった。

 

 風車はゆっくりと歩いてくるので、小僧には風車たちの後ろを歩くように言って、僕だけ先に行って、門を開けようと思った。

 門を叩くと、すぐにきくが門を開けてくれた。

 門を大きく開いて振り向くと、太陽を背にした風車とみねが見えた。

「さぁさぁ、中に入って」と言うきくの声がした。まだ着物は着替えていなかった。

 風車とみねが玄関に入ると、きくは二人を表座敷の方に案内した。

 座卓には、上座に二枚並んで座布団が敷かれていた。

 行李を担いできた小僧には、行李を玄関の上がり口に置かせた。そして、帰りの船賃とは別に祝儀を含んだ駄賃を渡した。小僧は、こんなにもらっていいのか、という顔をしたが、「今日は祝いの日だから」と言うと、嬉しそうに玄関を出て行った。

 僕は門を閉めて、表座敷に上がった。

 二人は、座布団を外して、畳に座り、僕を待っていた。

「さぁさぁ、座布団に座って」と僕が言うと、風車が頭を下げ、それに習うようにみねも頭を下げた。

「この度は、ありがとうございました。いくら返しても返せぬ借りができました」と風車が言った。

「そんなことは……」どうでもいいことです、と言おうとしたが、それでは、この身請けの値打ちが下がってしまうと思い直して、その先は言わなかった。僕は値打ちが高い方がいいと思っているわけではなかった。風車とみねにとって、どれほど大事なことだったかが重要なのだ。

 二人がもう一度僕の勧めで、座布団に座ると、きくがお茶を持ってきた。頃合いを見計らっていたのだろう。

 きくが、二人にお茶を出すと、僕の隣に座った。

「これがきくです」と僕はみねに言った。

 きくは二人に頭を下げて、「きくです。よろしくお願いします」と言った。

「奥方ですよね」とみねが言ったので、横で風車が肘でみねを突っついた。みねは言ってはいけないことを言ったことに気付いて、「済みません」と小声で謝った。

「以前は京介様のお世話係をしていました。でも、藩を出た今は何でしょう」ときくは、この時ぞとばかりに言った。

 僕は「私の方に事情があって……」と言い出したが、どんな事情で結婚ができないのかは、説明できないことに気付いたので、そこで止めた。でも「妻のようなものです」と言うと、きくは嬉しそうに僕を見た後、顔を俯けた。

 あーあ、絵理が遠くなる、とちらっと思った。

 

 僕は気を取り直して、「さて、お二人に話したいことがあります」と言った。

「お二人は夫婦になりたいと思っていますか」と訊いた。

 風車とみねは顔を見合わせた。そして、風車が「わたしはおみねさんを嫁にしたいです」と言った。

「おみねさんはどうですか」と僕が訊いた。

「わたしは……」と言った後、「それは本当のことですか」と訊き返した。

「本当です」

「でしたら、わたしに異存はありません」と答えた。そして「わたしには過ぎたることです。でも、本当でしたら、風車様と夫婦になりたいです」と続けた。

「それを聞いて安心しました。結婚の祝宴をもう用意しているんです」と僕が言った。

「えっ」と風車は驚いた。

「この前、会席料理を食べたでしょう」と風車に言うと頷いた。

「そこで、今日、結婚の祝宴を行います。形ばかりの簡単なものですが、それで結婚式としましょう」と僕は言った。

 そこまで言うと、みねが泣き出した。

「わたし……信じられません」

 きくがみねの隣に行って、背中をさすった。

「本当ですよ」ときくが言った。

「あの時、そこまでお考えになっていたんですか」と風車が言った。

「まぁ、いいじゃないですか」と僕が言うと、「うかつでした。でもありがとうございます」と風車は言った。

「ですから、今日の夕餉はあの料亭の祝宴の料理になります。祝宴を始めるのは、酉の刻です。そして、風呂は遅くなりますが、帰ってから入りましょう」と僕は言った。

「まだ、時間がありますから、おみねさんに家を案内したらどうだろう」と僕は風車に言った。

「そうですね。そうします」と風車が言った。

 二人は立ち上がると、まず自分たちの住む離れに向かった。

 僕は、玄関の上がり口に置いてあった行李を離れに運んだ。その時、風車が「わたしが運びましたのに」と恐縮した。

 

 午後四時を過ぎた頃に、僕はきくに「そろそろ着替えたらいいだろう」と言った。

「ええ、そうしますわ」

 ききょうはずうっと大人しくしていた。何かがあるんだろう、と子どもながらに思ったのだろう。いつもと違う雰囲気に興味を持っていたのかも知れない。

 きくの着付けはすぐに終わった。後はききょうだった。ききょうも大人しく、新しい着物を着た。

 

 風車とみねが一通り見終わったようなので、「じゃあ、出かけましょうか」と言った。

 きくは新しい下駄を出して履いた。

 ききょうは僕が抱いた、ききょうの履くかどうか分からない下駄を持って。

 風車とみねは、まず風車が草履を履き、みねの手を握って、下駄を履かせた。

 玄関を出ると、門の隣の通用口から外に出て、そこの鍵を閉めた。

 五人でゆっくりと両国に向かって歩き出した。

 僕ときくが先になって、風車とみねが後になった。

 酉の刻の少し前に、料亭に着いた。

 川に面した二座敷が取られていた。

 一方の座敷に宴会の準備がされていたので、もう一方は何か芸を見せるためのようだった。

 僕は宴会場を見ると、女将に紙に包んだ三両を渡した。

「後でよろしかったのに」と女将は言ったが、「騒いでいるうちに忘れたら困るでしょう」と僕は言った。

 面倒なことは、早めに済ませたかったからだった。

 その他に一分金を紙に包んで用意して置いた。高砂を歌ってくれる人に渡すためだった。

 酒は一本だけ用意してもらった。

 杯は、四つだった。酒は飲めなかったが、結婚の固めの杯を上げるためだった。

 時間が来た。

 どう宴会を進めていいのか、分からなかったので、太鼓持ちに訊いた。すると「任せてください」と言った。それから、結婚をする者、仲人をする者の名前を訊かれた。僕が仲人なのか、と思ったが、仕方なく名前を言った。すると、「奥様も」と言われ「きく」と答えた。

「最初に固めの杯をしたいのだがな」と言うと、「わかりました」と言った。

「では、夫婦になられる風車大五郎様、おみね様、お二人は杯をお持ちください。仲人の鏡京介様、おきく様も同じように」と言われた。

 僕らが杯を持つと、酌女が酒を注いで回った。

「では、鏡様からお言葉をお願いします」と言われた。

 えー、急に言われてもな、と思いながらも、言わないわけにはいかなかった。

「風車大五郎殿。そしておみねさん。今日はおめでとうございます。今日からお二人は夫婦になられます。これは固めの杯です。どうか、円満に、末永く共に歩まれるように。乾杯」と言った。

 僕は飲めない酒を飲み干した。きくは少し、口をつけただけだった。お腹に赤ちゃんがいるからだった。

 風車とみねは酒を飲み干した。周りの者が拍手をした。そして、太鼓持ちが「おめでとうございます。これで晴れて夫婦になられました」と言った。

 そして、三味線が鳴った。太鼓持ちは太鼓を後ろに回して、背筋を伸ばした。

高砂やー」と歌い出した。

 歌い終わると、僕たちも拍手をした。

「どうぞ、料理を召し上がってください」と言った。

 僕らは料理に箸を付けた。

 向こうの座敷では、二人の女が三味線に合わせて踊っていた。

 そのうち、ひょっとこが出て来て、杯を差し出す。仕方なく、酒を注ぎ、酒を追加した。

 二時間もかからず、宴会は終わった。

 僕は高砂を歌った太鼓持ちに、紙に包んだ一分金を渡した。

「ありがとうございます」と言って懐に入れた。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

三十四

 その日が来た。

 朝早くに目が覚めた。風車も同じだったろう。

 昨日に増して、風車は落ち着きがなかった。それは当然だった。

 僕も、朝餉を食べたが、何を食べたか覚えてはいなかった。

 午前中に使いの者が来るはずだったが、それを待つのが長かった。

 僕は一体、何度、今日着て行く物を点検したことだろう。

 何よりもお金だった。

 寝室の押入れを開けて、ショルダーバッグの中の千両箱を取り出すと、包み紙に包まれている金子を三百両、巾着に入れた。もう一つの巾着には別に百両を入れていた。このお金も何度も数え直した。

 きくを見た。きくは落ち着いているように見えた。ききょうに冷めた白湯を飲ませていた。

 

 門を叩く音がした。午前十時頃だった。

 腰が浮いた。しかし、我慢した。風車は隣に立っていた。

 きくが門の戸を開けた。そして、僕を呼んだ。

 僕は立ち上がると風車の袖を掴んで、一緒に玄関に向かった。

 そこには店の小僧がいた。

 店の小僧は「まずはおめでとうございます」と言った。僕らも「ありがとうございます」と返した。

「今日は未の初刻(午後一時)に来て頂くようにと言われて来ました」と言った。

「未の初刻ですね」

「はい」

「分かりました。必ず、その時刻までにお店に伺います、と伝えてください」と言った。

「はい。ではそのように伝えます」と小僧は言った。店の小僧に駄賃を渡して帰した。

 

 僕は振り向いて、「未の初刻ですよ」と言ったら、風車が頷いた。

 未の初刻と言えば、真っ昼間だった。それは夕方からの客入れに支障がないようにしたからだろう。

 昼餉は食べないことにして、それをきくに告げた。

 正午前には、船着き場に行っていなければならなかった。舟が混んでいるということも考えなければならなかった。

 着替えるのには、時間がかからなかった。しかし、鏡の前に立ってはあっちを直し、こっちを直し、していた。そして、お金もまた、数え直した。落ち着かなかった。

 風車はもっと落ち着かないことだったろう。

 何度も厠に行っていた。

 そして、時間が来たので、草履を履いた。これも新しく買っておいた物だった。

 風車が来たので、玄関を出ようとしたら、きくが火打ち石を打った。

 僕は頷いてから「行ってくるよ」と言った。

 

 船着き場は、それほど人がいなかった。

 すぐに舟に乗れ、向こう岸に渡った。

 岸に着くと、船着き場を管理している者に、事情を話し、一艘は風車とみねだけ乗せてやってくれないか、と言った。

「空いていれば、よござんすよ。でも、混んでいるときは、ご勘弁くださいね」と言った。

「分かった」と僕は言って、船着き場を離れた。

 未の初刻までには、まだ時間があった。浅草で浅草寺にお参りをした。店でお守りを買った。

 それから吉原に向かった。まだ、少し時間は早かったが、高木屋の暖簾をくぐった。

 

 座敷に通され、店の者が来て、お茶が出された。

 僕らは湯呑みを口にした。喉がカラカラだった。

 しばらくして、高木五兵衛が現れた。

 僕らは、座布団から降りて、頭を下げた。

 高木五兵衛は「まあ、まあ」と言った後、「座布団にお座り直しください」と続けた。

 僕らがそうすると、それを待っていたかのように「今日はお日柄もよく……」と口上を述べ始めた。僕はしまったと思った。口上を考えてきてはいなかったのだ。

「縁あって、風車大五郎殿に鈴蘭を身請けさせることができることを嬉しく思っています……」と口上は続いた。そして、最後に「何とぞ、よろしくお願い申し上げます」と言って頭を下げた。

 僕らも頭を下げた。

「こちらこそ、よろしくお願いします。無事、身請けすることができましたら、鈴蘭ことおみねさんを、風車殿はきっと幸せにしてくれるでしょう」と僕は言った。それしか言えなかった。

「では、身請けに必要な事柄を早速、始めましょう」と高木五兵衛は言った。

「約束の金子はご用意、頂いているのでしょうか」と訊いたので、僕は巾着を取り出し、「はい、この中に入っております」と言って、巾着から包み金を取り出し、卓の上に並べた。

「改めさせて頂きます」と高木五兵衛は言って、その包み金を破って、中の小判の数を数えた。それを見ていると、包み金を装って、金額を誤魔化す者がいるんだな、と思わされた。

 しばらくして、「確かに三百両ございました」と言った。

「では、お受け取りください」と僕が言った。

 高木五兵衛は三百両を箱の中にしまうと、「これが、身請けの時の証文とそれからこちらが今回の次第を書いた念書です。お改めください」と言った。

 僕は証文と念書を受け取ると、それに目を通した。達筆な字で書かれているが故に、僕には、半分ほどしか読めなかった。

 読んだフリをして、風車に渡した。

「どうですか」と僕が風車に訊いた。風車は頷きながら、「これでいいです」と言った。

「では、身請けについてはこれで成立したということでいいですね」と高木五兵衛は言った。

「はい」と僕と風車が同時に返事をした。

「それでは鈴蘭を呼びましょう」と高木五兵衛が言い、「こちらへ」と言って玄関の方に向かわせた。

 玄関の上がり口にいると、二階から白地に銀色の花柄の入った着物を着た鈴蘭こと、みねが下りてきた。まるで、白無垢を着ているようだった。

 この時ばかりは、綺麗に見えた。

 鈴蘭こと、みねが階段を下りると、風車が手を差し出した。そして、みねの手を握った。

「さぁ、行こうか」と言う風車の声が聞こえてきた。

 みねの後ろには行李を担いだ小僧がついてきた。

 風車が先に草履を履き、みねが下駄を履くのを手助けした。二人は手を繋いだままだった。

 僕も草履を履いた。その間に、馴染みの女たちがみねに声をかけていた。みねは「ありがとう」と返していた。

 支度ができると、二人が店の方に向き直り、頭を下げた。誰かの「よぉー」と言う声がして、三三七拍子が打たれた。

 高木五兵衛も草履を履き、二人の前に立った。

「吉原を出て行くまでは、わたしが先を歩きますから、ついて来てください」と言った。

 僕らが店を出る時、女将さんが火打ち石を打ち鳴らした。その時も女たちが、みねに声をかけた。みねは黙って頭を下げた。

 

 吉原の通りは、まだ人は疎らだった。だから、僕らは目立った。

 高木五兵衛が先頭を歩き、その後ろに手を繋いだ風車とみねが続いた。そして、僕がその後を歩き、最後に行李を背負った小僧がついてきた。

 高木五兵衛はゆっくりと歩いた。窓という窓から女たちの顔が見えた。そこには、羨ましさや悔しさが渦巻いていたことだろう。祝福する者もいたかも知れない。

 日は天高く輝いていた。黒々とした影が足元に落ちていた。

 吉原の門までが長かった。

 しかし、永遠はない。やがて、門に辿り着いた。

 みねは高木五兵衛に頭を下げて、「お世話になりました」と言った。

 高木五兵衛は「もう、戻ってくるんじゃないよ」と言った。そう言われると、みねは涙ぐんだ。そして、はっきりと「はい」と応えた。

 ついにみねは吉原の門を越えた。

 その時、よろめくように風車に抱きついた。気を張っていたのだろう。

 風車はしばらく、その肩を抱き、そして離して歩き始めた。

 これからが二人の一歩一歩なのだと僕は思った。

 

小説「僕が、剣道ですか? 6」

三十三

 鈴蘭こと、みねの迎えに行く前日になった。もう準備はおおよそ整っていた。足りない部分は、おいおい揃えていけばいい。

 朝から風車は落ち着かなった。

「明日ですよ、明日」と僕が言っても、耳に入らないようだった。

 今日は夕方に着物を呉服店に取りに行けばよかった。その時、きくに女物の浴衣も買ってきて欲しいと頼まれた。みねの分だった。

 

 昼餉を食べた。

 風車が落ち着かないので、僕も落ち着かなかった。買い残した物はないか、風車に訊いた。風車は首を振った。

 今日は着物を取りに両国まで行くのだから、買い残した物があれば、買ってくるのだが、と思ったまでのことだった。その首を振っている風車を見ていて、あっと、思った。床屋に行くんだ、と思いついた。風車の髪や髭は何ともむさ苦しい。明日は、どういう手順になるかは分からないから、今日行っておく方が良かった。僕も床屋に行きたかった。

 きくに床屋に行く話をした。

「床屋って何ですか。髪結床のことですか」ときくが言うので、「そうそう」と僕が言うときくも得心したようだった。

「これからその髪結床に行って、その帰りに着物ももらってくるよ」と言った。

「浴衣を忘れないでくださいね」ときくが言った。

「分かっている」と僕は言った。

 

 床屋は何故か混んでいて、結構待たされた。

 僕は月代を剃られるのが嫌なので、それは注文を付けた。髪結人は「月代を剃った方が似合うと思うんですけれどね」とは言った。だが、そこは譲れなかった。

 風車もいろいろと注文を付けていた。

 髪結人はいろいろと話しかけてくる。風車は、吉原の女を身請けするんだという話をしていた。僕にも話しかけてくるから、その介添え人のようなものだと言った。

「どんなふうなんですか」と訊くから、「私も初めてだから、よく分からない」と言った。

「そうですか」とまだ訊きたそうだった。

 風車の方は、話がはずんでいた。他の客が「わしも吉原には良く行くんだよ」と言ったりした。

 髪結いが終わったのは、おやつ時間をかなり過ぎていた。風車も僕も綺麗に整っていた。

 呉服店には夕刻に行くことになっていたが、これならいいだろうと思って、呉服店に行った。

 店の者が出て来て、「できております」と言った。

「お召しになりますか」と訊いたので、僕は頷いた。着物の着方はさすがに慣れてきていたが、紋付羽織袴の正式な着方は知らなかった。恥をかきたくないので、試着するという名目で着方を覚えようと思った。

 店の奥に入った。襖を閉めて、他の客の視線を避けてから、着物を脱ぎ、着替えた。着物は自分でも着られた。袴もなんとかなった。羽織は、ただ、紐を結べばよかったのだが、上手く結べない。

「こんな具合です」と結んでくれた。

 鏡の前に立った。いい感じだった。

 風車も着終わったので、鏡の前に立った。

「どうですか」と風車が訊くので、「いいですよ」と答えた。

 これなら、明日も何とかなると思った。

 着てきた着物に着替えて、紋付羽織袴は風呂敷に包んでもらった。代金を支払おうとしたところで、みねの浴衣を買ってくることを思い出した。

「女物の浴衣もください」と言った。

「身長はどれくらいですか」と訊くので、僕が手の位置で僕の肩ぐらいを示した。

「それなら、これで合いますね」と言って、浴衣を出してきた。

「柄は選べますか」と訊くと、何種類かを出してきた。風車を呼んで、どれがいいか、訊いた。風車はアサガオをあしらった柄の物を選んだ。

「じゃあ、それをもらう」と僕が言い、紋付羽織袴と一緒に風呂敷に包み直してもらった。そして、代金を払った。

 

 家に着いた頃には、少し陰ってきていた。

 寝室にきくを連れて行って、紋付の着物を着せてみた。似合っていた。櫛もいつか買った漆塗りの物をした(「僕が、剣道ですか? 1」参照)。

「これならいい。ききょうは明日着るんだぞ」と言った。

 

 風呂は僕が焚き、風車を先に入らせようとした。しかし、風車は「鏡殿と一緒に入ります」と言った。

「そうですか」と僕が言うと、「今日が一緒に入る最後じゃあ、ありませんか」と言った。

「あっ、そうか」と僕はつい口に出してしまった。

 気がつかなかったのだ、これが風車と一緒に入る最後の風呂だということを。明日からは、みねが来る。そうすれば、風車は当然、みねと一緒に入ることになる。

 僕は風呂に入る用意をして、風車と湯屋に向かった。こうして、湯屋に一緒に向かうのも、今日が最後かと思うと少し感慨もあった。

 脱衣所で着物を脱いだ風車の躰には、怪我の様子はなかった。すべて治っていた。古傷だけが残っていた。

 風呂場では、躰を洗っていると、風車が背中を流してくれた。

「この度はお世話になりました」と風車が言った。

「そんなことは……」と僕が言いかけると、「いいえ、このご恩は決して忘れません。それに仲人までして頂き」と言った。

「そんな……」と言いかけて、僕は止めた。風車が言った仲人という言葉が強く響いたのだった。そんな感覚はなかったが、風車とみねを夫婦にさせる役割を演じたのは確かだった。仲人と言われれば、そうかも知れなかった。

 

 風呂を出ると、蚊帳吊りをした。

 離れにも行った。風車が踏み台を使って、蚊帳吊りをするのを見ていた。明日からは、風車が自分で蚊帳吊りをするんだ。だから、彼がするのを見ていた。

 蚊帳は十分大きかったから、二人の布団を敷いても余裕があるように見えた。明日は、二つの布団が並ぶのだ、と思った。

 

 夕餉はいつもと変わらなかった。

 ただ、明日からは、風車の隣にみねが座るんだなと思った。

「もう、明日ですね」ときくが言った。

「はい」と風車が応えた。

「五日後と聞いた時は、まだ時があるように思っていましたが、経ってみればすぐでしたね」ときくは言った。

「そうですね」と風車は応えた。

「今は、どんなお気持ちですか」ときくが訊いた。きくがこんなことを訊くのは珍しかった。

「何て言っていいのか、よくわかりません。ただ、明日が来るのが待ち遠しいです」と答えた。

「そうでしょうね」ときくが言った。

 風車はお代わりをせずに、「ごちそうさまでした」と言って、席を立った。

 心は明日に向かっているのだろう。

 

 僕はきくに明日のことを話した。

「明日は、おそらく、使いの者が来て迎えに行く時間を知らせてくると思う。向こうでどういうことをするのか分からないが、きくの着物は時間を見て、着るなりしていてくれ」

「わかりました。わたしたちは仲人をするっていうことになるのでしょうか」ときくが訊いた。

 これには、僕も不意を突かれた思いがした。風車も同じことを言っていたからだ。

「風車殿もそのようなことを言っていた」

「そうですわよね」ときくは言った。

「でも、わたしたちは夫婦ではありませんけれどね」と続けた。

「そんなことはどうでもいいんじゃないか、風車殿とおみねさんをしっかり結びつけることができれば」と僕は言った。

「そうですね」ときくも言った。

 そして「わたしたち、やはり仲人ですよね」と言った。

「それでいいんじゃないか」と言うと、きくは嬉しそうに「はい」と言った。

「わたし、嬉しかったんですよ。京介様と同じ家紋の入った着物を作っていただいて」と続けた。

「当然だろう」と言うと、きくは「はい」と応えた。

 

 夜半に、時を止めて、奥座敷に行った。

「明日、一人増えますね」とあやめが言った。

「よろしく頼むよ」

「大丈夫ですよ。わたしは何もしませんから」とあやめが言った。

「でも、おみねさんが羨ましいです。夫婦になれるのですから」

「そうだな」

 僕はあやめを抱いて、叶わぬ夢もあるんだよ、と囁きたくなった。それを囁いてどうにかなるものでもないが。

 あやめと深く交わると、寝室に戻り、時を動かした。

小説「僕が、剣道ですか? 6」

三十二

 風車と風呂に入った。

「後、四日ですね」と僕が言った。

「ええ、それでわたしの人生も変わります」と風車が言った。

「いい方に変わりますよ」と僕が言った。

「そう、信じています」

「明日はどうされますか」と訊いた。

「おみねの布団を買おうと思っています」と風車は答えた。

「茶碗や箸なんかもいりますよね」

「ええ。取りあえず用意しておいて、後でおみねが気に入った物にすればいいと思っています」

「それから鏡台なんかも必要になりますよ」

「それはおみねに選ばせます」

「それがいいですね」

「多分、足りない物があると思うんですが、おいおい買い揃えていくつもりです」

「そういうことも楽しいでしょうね」と僕は言った。

 風車は照れたように笑った。

 

 風呂から出ると、風車は離れに行った。これからは離れが二人の主な生活の場になるのだ。いろいろと整理しておくこともあるのだろう。

 夕餉は昼餉が会席だったので、慎ましやかだった。

 風車は口数が少なかった。お代わりをしたときに、発したぐらいだった。気持ちは身請け後のことにいっているのだろう。

 夕餉が済み、風車が離れに行くと、僕は居間に残って、後片付けをしているきくに「これから大変だと思うが、よろしく頼むな」と言った。

「なんですの」

「おみねさんが来るだろう」

「そのことですか」

「年は上だが、彼女は遊女をしていたから、台所仕事などはもとより、洗濯もろくにできないだろう。それなりに気は遣うだろうが、教えてやってくれ」と言った。

「大丈夫ですよ。万事心得ていますから」

「そうか」

「そう言わないと困るでしょう」

「まぁ、そうだが」

「わたしも、正直言えば不安ですよ。でも、おみねさんの方がもっと不安でしょう。同じことです。折合いを付けてやっていくしかありません」

「分かっているんだな。頼む」

「そんなこと言われなくても……」

 僕はきくに口づけをした。どうしてそうしたのか、分からなかった。ただ、そうしたかったからだった。

「もう」ときくは言いながら、嬉しそうに「驚きましたわ」と続けた。

「とにかく、任せられることが分かって、ホッとした」と僕は言って、寝室に向かった。

 蚊帳を吊らなければならなかった。

 ききょうが待っていて、蚊帳を握っていた。

 

 夜半になり、時を止めてあやめと会った。

「賑やかになりますね」

 あやめが最初に言った言葉はそれだった。

「そうだな」

「わたしが一人で暮らして一年、そして、亡くなって七年になります。その間は、静かでした。主様がいらしてから、すっかり変わりました」

「…………」

「また、変わるんですね」

「嫌なのか」

「いいえ。わたしは一人の時を過ごしすぎました。賑やかになることはいいことです」

「そうか」

「でも、わたしがいることを忘れないでくださいね」

「そんなことあるものか」

 あやめを抱いて、寝室に戻り、時を動かした。

 

 次の日は、朝餉の後に、風車が買物に浅草に行くと言った。

 僕がじっと風車の顔を見ていると、「吉原には行きませんよ。茶碗などを買ってくるんです」と言った。

「布団はどうするんですか」

「昼餉の後に、両国に行ってきます。そこで買います」

「そうですか。今日は忙しいですね」

「ええ、いろいろと考えていたら、揃えなければならない物が次々に浮かんできます」

「それはいいことです」と僕は言った。

 風車はお代わりをして、食事を済ませた。そして、しばらくして家を出て行った。

 きくが「お魚やおやつを頼めば良かったかしら」と言ったが、僕は「それはやめておいて良かったんじゃないかな。今の風車殿はそれどころじゃないんだから」と言った。

「そうね」ときくも言った。

 

 昼餉前に帰って来た風車は、買ってきた茶碗や箸をきくに見せて、「これでどうでしょう」と訊いた。きくは風車に笑顔を向けて、「風車様が買ってきた物ですもの、おみねさんも気に入るのに違いありませんよ」と言った。

「鏡台は、みねが選ぶ物を買うとして、当面必要だろうから、手鏡を買ってきました」と、これもきくに見せた。

「まぁ、素敵」ときくは言って、それで自分を写そうとしたが、「おみねさんが最初に使うんですよね」と言って、風車に渡した。

 

 昼餉をとった後は、風車は両国に向かった。布団を買うためだった。

 おやつ時に店の小僧二人に棒にぶら下げた大きな包みを持って帰って来た。離れに運び込んでもらうと、店の小僧二人には、風車が駄賃を渡して帰らせた。

 風車には珍しく、饅頭も買ってきていた。

 おやつを食べた後で離れに行くと、布団が畳まれて置かれていた。その上には、枕も載っていた。柄は分からなかったが、赤い色が主体の布団だった。

 風車は布団を触っていた。これでみねが眠る光景を思い描いていたのだろう。

 

小説「僕が、剣道ですか? 6」

三十一

 家に戻ると、きくに饅頭と魚を渡しながら、今日のことを話した。

「そうでしたか。大変でしたね」と言った。

「身請けの後に祝宴もしてあげようと思うのだがどうだろう」と言った。

 すると、「祝宴は両国のどこか料亭を借りて行えばいいんじゃありませんか。そこで高砂を歌える人も付ければ祝言にもなるじゃあ、ありませんか」と答えた。

「そうか、そういう手があったか」と僕は感心した。

 ちょっとした結婚式みたいなものだ。料亭に頼み、そこに任せればいいのだときくに教えられた。

 おやつは饅頭だった。

 風車は離れに籠もって、出てこなかった。

 

 夕餉の席で、風車に「おみねさんを身請けしたら、夫婦になる気はござらんのか」と訊いた。その時、風車ははっと顔を上げた。

「そのことに気付きませんでした」と言った。

「どうなんですか」

「拙者はそう思っていますが、向こうは……」と言ったので、きくがすぐに「風車さんのお考えでいいんですよ。身請けするんですから」と言った。

「それなら、拙者は夫婦になりたいです」

「そうですか。それなら、私たちに任せてもらえますか」と僕が言った。

「ええ」

「身請けしたその日に、夫婦にしてあげますよ」と言った。

「形ばかりの祝宴をご用意しますわ」ときくが言った。

 しばらく風車は黙っていた。そして、涙を流した。泣きながら「ありがとうございます」と言って、頭を下げた。

「では、進めてもいいんですね」と僕が言うと、風車は頷いた。

「それと、今の着物で身請けに出向くのはどうかと思うので、明日、紋付羽織袴を買いに両国に行きましょう。きくも紋付の礼装の着物を買うんだぞ。ききょうもな」と僕は言った。

「わたしも吉原に行くんですか」ときくが言うので、「きくは行かないよ。行くのは私と風車殿だけだ。その後の……」と言葉を濁すと、「ああ」ときくは頷いた。

 

 風呂に風車と入ると、「何から何までありがとうございます」と言った。

「大したことではありませんよ。それに後五日です。五日経てば、ここにおみねさんを迎えましょう」と言った。

「はい」

「こちらも準備が必要だし、向こうも準備があるでしょうからね、五日はあっという間に過ぎますよ」

「そうですね」と風車は言った。

「おみねさんを迎える準備は、いいですね」と言うと「どうしたらいいのですか」と訊いてきた。

「まず、布団がいるでしょう。それに茶碗や湯呑みや箸。湯上がりの浴衣。いくらでもすることがありますよ。明日から、それらを風車殿が用意するんです」と言った。

「そうでしたね」と風車は言った。

「それほど時間があるわけではないんですよ」と言うと「確かにそうですね」と応えた。

 

 蚊帳を吊り、寝室できくとききょうが眠ると、時を止めて、奥座敷に行った。

 あやめが出て来て、「風車様はようございましたね」と言った。

「ああ」

「主様がホッとされているのが、わかります」

「だから……」

「心を読むなでしょう。そんなこと言われなくても、わかりますよ。見ていれば」

「そうか。でも、こうなればこうなったで、これからが大変なんだがな」と言った。

「そうですわね。でも、風車様が羨ましいですわ」

「…………」

「京介様にこんなにも思われているんですもの」

 僕は笑った。

「男に焼いてどうするんだ」

「それだけではありませんよ。風車様はおみねさんと夫婦になれるんですもの。羨ましいですわ。わたしは最初から夫婦には決してなれませんでしたから」と言った。

 あやめの言いたいことは分かった。

「そうだな」と言った。

「わたしを憐れんでくださいますか」と言うと、抱きついてきた。

 女の術中に嵌まったとは思ったが、そのままあやめを抱いた。

 

 翌日、朝餉を済ませたら、早速、風車ときくとききょうを連れて両国に行った。

 大きな呉服屋を探し、そこに入った。

 紋付羽織袴を二組と、きくの紋付の礼服に、やはり紋付のききょうの着物を買いたいと言った。

 店の中に上がり、それぞれ採寸をした。それが終わると、布の見本を取り出してきてどれがいいか訊くので、流行の物で高級な物を選んだ。ききょうは見本を見て、適当に指を差していた。

 家紋について訊かれた。

「風車殿の家紋は」と僕が訊くと「風車です」と言った。そのまんまじゃないか、と思った。

 店の者が見本帳を見せて、「これですか」と訊くと、「それです」と風車は答えた。

 次に僕だった。僕の家の家紋は珍しい名前だったので覚えていた。

三種の神器というのは、ありますか」と訊くと、店の者は見本帳を繰って、「ああ、これですね」とその家紋を見せた。家紋の図の下に「三種の神器」と書かれていた。

「それです。ではそれでお願いします」

「確認しますね。こちらにいる風車様が『風車』の家紋でいいんですね」

「そうです」と風車が言った。

「そちらの鏡様は『三種の神器』という家紋でよろしいんですね」と言った。

 僕は「結構です」と答えた。

「それでですが、四日後にその着物を着たいので、三日後までに仕立てられますか」と訊いた。店の者は奥にいた職人に確認して、「大丈夫です。では、三日後の夕刻にでも来て頂ければお渡しします」と言った。

「代金は」と言うと「八両になりますが、その時で結構です」と言った。

「分かりました」と言って、店を出た。

 

 昼餉時になっていた。

 大川沿いの料亭に入った。

 入る時、きくが「昼餉を料亭で食べるんですか」と訊いた。

「どんな味か知っておきたいじゃないか」と僕は答えた。

 一番安い会席料理を頼んだ。

 そして、店の女が来ると、女将を呼んでくるように言った。

 しばらくして、女将が来た。

 僕は座から離れて、通路に出て、女将と話をした。話すことを風車に聞かせたくなかったからだ。

「四日後の夕刻に、ちょっとした宴席、祝言なんだが、それをしたいと思っています。来る人数は、今いる四人、それにもう一人、女性の五人です。あそこにいるのが風車殿というのですが、彼と夫婦になる女が来ます。その時、細やかながら祝宴を開きたいと思っています。そこで、高砂を歌える者がいるんですが、都合がつきますか」と訊いた。

 女将は「わかりました。それはご用意できます。ちょっとしたお囃子の者も呼べば、高砂を上手く歌ってくれますよ。それに祝宴が盛り上がります」と答えた。

「全部で、いくらかかりますか」と訊いた。女将は指を三本出した。

「三両でいいのですか」と確認すると、頷いた。

「時刻はわかりますか」と女将が訊いた。

「夕刻としか言いようがありませんが、時間を指定して欲しければ言ってもらえればなるべく都合をつけます」と僕が言った。

「酉の刻(午後五時から七時頃)ではどうでしょうか」と女将が言った。

「大丈夫だと思います。遅れるようなら、誰か使いを出して知らせます。その時は追加料金も払いますよ」と僕は応えた。

「あまり、遅れなければ、気にされなくても結構です」と女将は言った。

 それで、女将からは離れた。

 座敷の卓には、料理が沢山用意されていた。

 僕が来るのを待っていたのだ。

「いただきます」と言って、最初の箸は僕がつけた。