小説「真理の微笑 真理子編」

三十五

 火曜日の午前八時半頃に、真理子は病室に入っていった。富岡は朝食を済ませていて、看護師がその御膳を片付けに来ているところだった。

 ショルダーバッグに入れてきた手帳とインタビュー記事が載った雑誌を、真理子は「これでいい」と渡すと、富岡は「うん」と頷いた。

 ドアがノックされ、医師が入ってきた。主治医の中川だった。後ろに何人かの若い医師を従えていた。真理子は土曜日に中川医師に会いたいと思っていたので、良かったと思った。

 中川医師は、真理子の隣に座ると「腎臓は、一時は透析も考えたくらいでしたが、随分と回復してきましたよ。肝機能の数値も良くなっている。皮膚はもう安定してきているので、包帯は明日取りましょう。手と足の骨折は、ほとんどくっついているんですが、肘と膝はまだ保護が必要なので、もう少しっていうところですね」と言った。

 真理子は「歩けるようになるんですか」と訊いたが、中川医師は首を横に振り、「短い距離なら、松葉杖でも移動できるでしょうが、膝の損傷が激しいので、普通に歩くというのは難しいでしょう」と言った。

 富岡が暗い顔をしたのを、真理子は見て「大丈夫よ。わたしが足になるから」と勇気づけた。

 真理子が中川医師に富岡の記憶について尋ねた。特に、本人の記憶が失われているのではないか、ということを。

「頭の方は、脳に損傷も見られませんし、外科的に言えば何の問題もありません。ただ、記憶が失われているというのは、原因は事故によるショックとしか言いようがありません」

 中川医師がそう言うと、真理子はすぐに「全部を忘れているというのではないんですよ。プログラムのことはよく覚えていたし……」と言った。

「もちろん、全部の記憶を失っているわけではないと思いますよ。部分的に記憶があるというのは、よくあることです。第一、私の話していることが理解できているでしょう。言語能力は失われていないわけです。そのうち、記憶を取り戻すということもあるでしょう」

 そう言うと中川医師は椅子から立ち上がり、「では、これで……」と、部屋から出ていった。後ろにいた医師達も出ていった。

 真理子はドアまで見送ると、富岡の枕元に座った。そして、「急いで、おうちをリフォームしなければね」と言った。

 富岡が「えっ」と驚いているので、「バリアフリーにするのよ。一階と二階全部」と続けた。

 中川医師の話を総合すれば、記憶のことについては不明だが、富岡は歩けるようにはならないので、車椅子の生活を送るしかないということになる。富岡はもはや自由に動き回ることができなくなったのだ。

 真理子は心の中で、もう、あなたは女と遊ぶことができなくなったのよ、と言っていた。

「あなたが退院してくるまでに改修しておかなくちゃ」と言いながら、真理子はどこかそれを楽しく思っている自分を感じた。

 富岡が「ありがとう」と言うので、真理子は、えっ、と思った。

「どうした」と、富岡が言うので「えっ、だって、あなたがそんなこと言うなんて……」と答えた。以前の富岡なら、真理子が何かをしてあげても「ありがとう」なんていう言葉は言ったことがなかったからだ。

 富岡は「事故のせいだろう。事故が性格を変えたのかもしれない」と言った。

 下手な言い訳に聞こえたが、真理子は「そうね、そうかもしれない」と応えた。

 

 富岡が手帳を開いたので、その様子を真理子はしっかりと見ていた。

「何か思い出した」

「いいや」と首を左右に振り、「俺はどんなんだったのだろう。会社人間だったのかな」と言った。

「あなたが、会社人間?」と真理子は言った。

「違うのか」と富岡が訊くので、「さぁ」と、真理子は言った。富岡の手帳が示しているように、平日は誰かと会うかクラブに寄って帰ってきたし、日曜日はゴルフに出かけた。しかし、会社での富岡を真理子は知らなかった、ということに、富岡に問われてみて、真理子は初めて気付いた。

 富岡を見れば、自分が載ったインタビュー記事を読んでいた。そして、ベッドの上で手を組んでいるのを見た。左親指が上に来る組み方をしていた。開かれている雑誌の写真を見ると、写真の富岡は右手の親指が上に来るように手を組んでいた。真理子はベッドの下で手を組んでみた。自分は右親指が上に来る組み方をした。こうしたことは、記憶が失われたことで変わることなのだろうか。

 わからなかった。

 富岡が拘っているようなので、「何してるの」と問いかけてみた。すると、富岡は慌てて「いや、何でもない」と言って、雑誌に手を戻した。

「良く写っているわね」と言うと、「ああ」と富岡はすぐに次のページを開いた。そのページには富岡の顔が大きく写った写真が載っていた。

 富岡はまたすぐにページを前に戻した。まるで大写しにされた自分の顔の写真を見たくないように、真理子には見えた。

 このインタビュー記事を読んでいた真理子は「ここで言っていること、みんな、あなたの言ったとおりになったわね」と言った。

 そう言うと富岡は「今日は、これから会社に行くのか」と言った。

「ええ」

「毎日、大変だね」

「そうでもないわ。これも慣れね」

「そうか」

「サポートで大忙しよ。何しろユーザー数が何十倍、いえ何百倍にもなったんだから」

「…………」

「会社が終わったら、すぐに来るわね」と言って、真理子は病室を出た。

 

 会社に着くと、会社の中は騒然としていた。

 社長室に入って、滝川がお茶を運んでくると、「どうしたの」と訊いた。

「みんな、サポートに追われて大変なんです」と答えた。

「そうなのね」

「通常のサポートならいいんでしょうけれど、バグの件は大変なようですよ。サポート要員が足りなくて、サポートが追いついていないんですよ。開発部の人もサポートの電話対応に駆り出されているほどです」

 そう言って滝川が出ていくと、真理子は椅子に深々と座った。バグの件は、社内的にはこの土日で決着がついたが、ユーザーにまで伝わるには、まだ相当日数がかかることは容易に想像ができた。

 

 真理子は午後六時の夕食の後に、病室に入っていった。

 富岡が「何かトラブったのか」と訊くので、真理子は「そうじゃないんだけれど、サポート要員が少なすぎて、サポート・サービスが追いついていないのよ。開発部門の人達まで電話対応に追われていて、大変だったの」と言った。

「そうか」

「このままじゃあ、通常業務にも支障をきたしかねないわ」

「そうだな」と言った後、富岡は考え込んでいるようだった。

 やがて「真理子。こんなこと言うのは情けないのだが、会社がどんな所だったか分からないんだ」と言った。

「思い出せないの」

「ああ。何処にあるのかも、覚えていない」

 富岡を当てにしてきていた真理子は当てが外れたことに困惑した顔になった。

「そこは狭いのか」

「狭いって言うか……」

「今は手狭になっているんだね」

「そうね。バイトでオペレーターを何人か雇ったんだけれど、もう限界ね」

 真理子は昼間の会社の様子を思い出していた。大袈裟でなく、通路にまで人が溢れ出している状態だった。そうしている時に、突然、富岡が「会社移転しよう、もっと広い所に」と言い出した。

 会社移転ですって……。真理子には悪い冗談にしか聞こえなかった。第一、富岡はベッドから出られないではないか。

「それはそうしたいけれど、今のあなたの状態じゃあ……」と真理子は言った。

 それに対して「俺が病院にいたって、会社移転なんて簡単にできるさ」と、富岡はこともなげに言った。

 真理子は富岡の顔を見た。富岡が冗談を言っているようには見えなかった。

 真理子は「経理と相談してみる」と言うと、富岡が「専務と常務はいるよね」と訊いた。

「ええ、専務は経理部長の高木さんで、常務は営業部長の田中さんよ」と答えた。

「だったら、その二人に相談して決めてくれ」と言った。

「わかったわ」と言うと、富岡が「明日、シャワーがあるんだ」と嬉しそうに言った。そして「だから、肌着が欲しいんだ。売店に買いに行きたいんだけれど」と続けた。

「いいわよ」 

 

 コンビニに入ると、真理子は車椅子を押しながら「ようやく、躰を洗えるようになったのね」と言った。

「うん」

「わたしも何か手伝えることあるかしら」

「いや、いいよ。それより、会社移転の方の話を進めておいて欲しい。心に留まった物件があるなら、チラシでもなんでもいいから見せて欲しい」

 真理子は「わかったわ」と言った後、「ほんとは裸を見られるのが恥ずかしいんでしょう」と珍しく冗談を言った。

 富岡は「馬鹿」と笑いながら、右手で真理子のおでこを押した。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

三十四

 月曜日午前九時だった。病院に寄らずにそのまま会社に直行した。

 真理子は、昨日の件がどうなったのか、気になっていたのだった。富岡もそれを知りたいだろうと、思ったのだった。

 社長室に田中を呼んだ。

 昨日の件を訊くと「方針が決まったので、今日はバリバリやるだけです」と応えた。

「そう、それは良かったわ」

「社長は、細かいことまでよく気付きますよね」

「そうなの。わたしも傍で聞いていてビックリしたほどだもの」

「早く治ってほしいものですね」

「ありがとう。そう富岡に伝えておくわ」

 

 田中が出て行くと、真理子はすることがなかった。滝川に今日の面会予定がないことを確かめると、これから病院に行くと伝えた。

 病室に入ると、富岡はいなかった。ナースステーションで訊くと洗髪中ということで、もうすぐ戻ってくると言われた。

 病室で待っていると、しばらくして車椅子に乗った富岡が戻ってきた。

 看護師が出て行くと「さっぱりしたわね」と真理子が言った。十数年前の富岡を真理子は思い出していた。

 くぐもった声で「ああ」と富岡は応えた。

「会社に寄ってきたわ」

「そうか」

 やはりくぐもった声だった。

「昨日みたいに混乱していなかったわ。田中さん、張り切っていたわ。指揮官がいないと駄目ね。あなたには、早く治ってもらわなければ……」

 そう言いながら、真理子は半身を起こしている富岡の後ろに回った。そして、後ろから富岡にキスをした。上下逆さまのキスになった。それから、前に回るとディープキスをした。富岡が包帯に巻かれた手を動かして、真理子の腰に触れたのがわかった。

 昼食が運ばれてきた。

 食べ終わるのを見届けた真理子は、「会社に寄ったらまた来るわね」と言って病室を出た。

 

 会社の方は順調に進んでいるように見えた。

 しばらく社長室にいたが、何もすることがない部屋にいつまでもいるには真理子にとって退屈過ぎた。

 午前中にした富岡とのディープキスが思い出された。かつてした富岡とのディープキスとは違っていた。それは顔や歯の形成手術のためだけのようにも思えなかった。自分の記憶をなくしていたとしても、キスの仕方まで変わるだろうか、と真理子は思った。しかし、今の富岡のディープキスは決して嫌ではなかった。むしろ、優しく包んでくれる感じがした。いったんは、ブレーキに細工をして殺そうとした男だった。しかし、それは愛憎が混じった殺意だった。こうして一命を取り留めて、十数年前に若返ったような富岡が戻ってきたのだ。記憶をなくしていることもあり、やり直せばいいことなのではないのか、と真理子は思った。

 そう思うと会社にいるのが馬鹿らしくなった。滝川に早退する旨を伝えて、病院に向かった。

 病室に入ると、富岡は眠っていた。真理子は富岡を起こさないように枕元に座った。

 そしてしばらく、富岡の寝顔を見ていた。こうして富岡の寝顔をまじまじと見るのも久しぶりだった。やがて、富岡は突然、大声で「夏美ぃ」と叫んだ。その声は、ゴロゴロもしていなければ、しゃがれてもいなかった。そして、真理子が普段聞き慣れている富岡の声とも違っていた。富岡がはっきりと「夏美」と言ったのを真理子は聞いたのだった。

 すぐに富岡は起きた。真理子は「譫言を言っていたわよ」と言うと、汗をかいている富岡の額を見て、クローゼットの中からフェイスタオルを取り出して拭いた。

「よほど怖い夢を見たのね。それとも……」と言うと、その先を真理子は続けなかった。その代わりにキスをした。可哀想な富岡の口に蓋をしたのだった。

 少しして「会社の方はどうだった」と、いつものように少ししゃがれた声で富岡が言った。

「大丈夫よ。上手く行っているわ」

「そうか」とこれもしゃがれた声だった。

「あなたの方は、どお」と真理子が訊くと、「退屈で仕方がない」と答えた。

 すると「良くなっている証拠ね」と、真理子は笑った。

 しゃがれ声で「明日来る時、私の手帳を持ってきて欲しい」と富岡が言った。

 すると、真理子は富岡が言った「私」という言葉に引っ掛かった。

「どうした」

「今、わたし、って言った」

「それがどうした」

「変ね、いつもは俺って言うのに」

 そう言うと、富岡は黙ってしまい、俯いた。そして俯いたまま「記憶を失っているからだろう」と答えた。

「そうね、きっとそうよね」と真理子は言った。

 顔を上げた富岡はしゃがれ声で「それと、この前、インタビューした記事の載った雑誌も。それと……」と言った。まだ、続けようとしていたので、真理子は人差し指で富岡の唇を封じた。

「気になるのはわかるけれど、無理はだめよ。今は躰の方が大事。早く治してね」と言った。

 富岡の唇を封じたのには訳があった。富岡にかまをかけてみようと思ったのだ。

「でも、いつも持ち歩いている手帳なら事故を起こした時に焼けてしまったんじゃないの」と言ったのが、それだった。

 真理子は富岡の手帳を別荘から自分で持ってきたことはわかっていた。わかっていてそう訊いたのだ。

「いや、手帳は持って出なかった……と思う」と富岡は答えた。狼狽しているように真理子には見えた。

「事故前の記憶が戻ったの」と、さらにかまをかけた。

「いや、そう思うだけだ」

「どうして」

「どうしてって、理由など……」

「だって、東京に戻ろうとしたんでしょ」

 真理子は富岡が東京に戻ろうとしてなどいなかったことを知っていて、そう言った。

 富岡は首を左右に振った。

「やっぱり、事故前の記憶が戻ったんじゃないの」

「そうじゃない」

「そう。じゃあ、どうして普段着で車に乗ったの」

 疑問に思っていることを富岡にぶっつけた。

「あなたが、意識をなくしているひと月の間、わたしは何もしなかったわけじゃないのよ。警察の人に案内してもらって、事故現場を見に行ったわ。保険の調査員も一緒だった。もちろん、わたしはわたしの車で行ったけれど。事故現場は急カーブの手前だった。そこでブレーキをかけたけれど間に合わなかったのね。ガードレールを突き破って崖下に落ちてしまった……。車は大破してしまったけれど、こうして助かったのが、奇蹟的なくらい」

 真理子は、最初に別荘に行ったことを隠して、その後のことを話した。

「それから別荘に行ったわ。合鍵を持っていたからそれで入ったの。警察の人とは事故現場で別れたけれど、保険調査員には、上がってもらってお茶を出したわ」

 真理子は一呼吸置いた。これからが本番だった。

「ジャケットとズボンがクローゼットの中にあったの。ジャケットの中には財布もあったわ。そして、あなたの言っている手帳は机の上だった。だから、東京に戻ろうとしていたんじゃないことは、すぐにわかった。それにね。不思議なのは、お酒を飲んでいたあなたが、どうして車を運転しようとしたのかなの」

 真理子は、富岡のブランデーとコップがテーブルの上にあったのを見ていた。そのブランデーを棚にしまい、コップを洗った記憶は忘れられるはずもなかった。明らかに富岡はブランデーを飲み、好きなワーグナーの曲を聴いていたのだ。

 しゃがれ声で「そんなこと分からないよ、どうしてなのか。第一、酒を飲んでいたことも覚えていない」と懸命に訴えた。

「そうよね、事故前の記憶がないんだものね」と助け船を出した。

 富岡はホッとしたように「ああ」と応えた。この時はしゃがれ声ではなかった。

 再び、富岡はしゃがれ声で「それで手帳はどうした」と訊いた。

「もちろん、持ってきたわ。財布や服も一緒に」

「それなら、明日、持ってきてくれ」

「いいわ」

 真理子がそう答えると、沈黙が重苦しい空間を作り出していた。

「一階に売店があったよね」としゃがれ声で富岡が言い出した。

「ええ」

「車椅子で買物に行けるかな」

「欲しい物があるのなら、買ってきてあげるわよ」

「あ、いや。自分で行ってみたいんだ。雑誌なんかも選びたいし……」

「そうよね、退屈だって言っていたものね。いいわ、看護師に訊いてくる」と真理子は言うと病室を出た。ナースステーションまでの僅かな時間だったが、真理子はさっきの富岡とのやり取りを反芻してみた。やはりどこか不自然さを感じた。

 真理子は、ナースステーションに着くと、「一階の売店に富岡を連れて行きたいんですけれど」と話すと、看護師は「わかりました」と言って、車椅子を用意して、一緒に病室についてきてくれた。

 看護師は富岡が車椅子に自分で乗れるのを確認した。真理子は、富岡が包帯だらけの姿に甚平のようなパジャマを着ているのを見ると、一階の売店に行くのだから人目が気になり、病室備え付けのクローゼットから薄手のカーディガンを取り出して、富岡に羽織らせた。病室を出ると、「あとは私が……」と真理子が言い、看護師はナースステーションに戻って行った。

 

 一階の売店にエレベーターで下りていくと、普通のコンビニとあまり変わりがなかった。富岡が書籍コーナーに行きたがるので、連れて行くと、パソコン雑誌と週刊誌を何冊か買物かごに入れた。

「これでいい」と真理子が確かめると、富岡が頷きレジで会計を済ませた。

 病室に戻ると、ナースステーションの看護師に声をかけて、富岡が自分でベッドに上がるのを確認してもらってから、車椅子を持って行ってもらった。

 富岡の方を見ると早速、パソコン雑誌を開いていた。

 真理子が後ろから覗き込むように見ると、トミーソフト株式会社のワープロソフトの広告が大きく見開きで出ていた頁を開けていた。

「凄いでしょう」

 真理子の言葉には返事をしなかった。

「何を考えているの」

 真理子は後ろから、富岡の首に腕を巻き付けるようにしながら訊いた。

 しかし、富岡はパソコン雑誌に目が釘付けになっていた。

 しばらくして富岡は「こんなにも載っている」と、パソコン雑誌を真理子に見せると「そうね」と言った。

 

 病院を出て車で家に向かっていた。

 今日の富岡との会話は変なところがいっぱいあった。しかし、それよりも「夏美ぃ」と叫んだ富岡の声が消えなかった。

 夏美とは一体、誰なのか。真理子には、新たな疑問が湧いてきた。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

三十三

 日曜日だったが、真理子は午前九時過ぎに会社に行ってみた。会社は平日のように動いていた。TS-Wordが発売されたからだった。今は、会社にとっては土日もなかったのだ。

 開発部に顔を出した。

 寝袋から出てきたばかりの、真理子は名前の知らない人が「お早うございます」と言って、真理子の横を通り過ぎていった。

 西野が「お早うございます」と言った後、「やはり、社長の指摘通りでした。確認もできました。今、修正プログラムを作っているところです」と言った。

「そう、それは良かった。でも、大変だったわね。ご苦労様」

 

 会社を出て病院に着いたのは、午前十時半頃だった。

 病室に入っていくと、富岡は眠っていた。そっと枕元の椅子に座ると、富岡は目を開けた。

「起こしてしまったわね」と真理子が言うと、「いや、いいんだ」と富岡はゴロゴロする声で何とかそう言った。

 富岡が電動ベッドを起こすと、真理子は顔を近づけて富岡にキスをした。

「あなたの指摘通りだったようよ。昨日、泊まり込んだ人もいたくらい。すぐに修正プログラムを作るって張り切っていたわ」

 富岡はそうなることがわかっていたように「そう」と言った。

 少し、違和感を持った真理子は、「でも、やっぱり不思議よね。プログラムのことは覚えていたのね」と探りを入れてみた。しかし、富岡の表情は変わらなかった。

「他のことは忘れてしまったようなのに……」と真理子は富岡の目を覗き込むようにして、そう言ってみた。やはり、富岡は表情を変えなかった。

「でも、それでいいと思っているのよ」と言った後、「新鮮だもの」と続けた。富岡が記憶をどこまで失っているのか、本当は知りたかった。

 しかし、「まるで新婚時代に戻ったようだもの」と言った後、「また夕方来るね」と言って病室を出た。

 

 真理子が会社に戻ると、営業部の田中と開発部の内山が、すぐに社長室にやってきた。

「どうしたの」と真理子は訊いた。

 まず内山が「修正プログラムは今週中には、何とかできる見通しがつきました。でき次第製作を始めるつもりです」と言った。それに続けて、田中が「そのことなんですが、修正プログラムができれば、ユーザー登録している人には、その修正プログラムを送付すれば済みます。しかし、全員がユーザー登録しているわけではありませんので、その人達をどうするのかというのと、すでに出荷した分についてはどうするのかというのが、問題になっていまして……」と言った。

「それなら回収してプログラムを修正したものに差し替えればいいのではないかしら」

 真理子がそう言うと、「すでに出荷した分を回収するにしても、かなり刷り増ししているので実際問題として大変です」と田中は言った。

「確かにそうよね。今、どのくらい売れているの」

 真理子がそう言うと、「販売宣伝部の松嶋に訊かないと確かな数字はわかりませんが、一万ロットを超えて、うなぎ登りに売れているようですから一万五、六千ロットぐらいには対応しないといけないでしょうね」と田中が言った。

「それで、どうしたらいいと思うの」と真理子は訊いた。

 内山は「ユーザー登録している人には、修正プログラムを送付すればいいと思います。今、出荷している分については、取りあえず回収して、プログラムを修正したバージョンに差し替えるのが筋だと思います」と言った。すると、田中が「今、出荷分を回収するのは、そんなに簡単にはいかないよ」と口を挟んだ。

「どうしたらいいんでしょう」

 三人はしばらく黙ったままだった。

「考えていても仕方ないわね。問題点はわかりました。田中さんと内山さんは持ち場に戻ってください」と真理子は言った。

 二人は社長室から出て行った。そうは言っても、真理子に何か考えがあるわけではなかった。

 その時、富岡のことが頭に浮かんできた。

「富岡に訊いてみようかしら」

 そう真理子は思った。どうせ、駄目でもともとの話ではあったのだ。

 

 真理子が会社を出たのは、午後三時前だった。そして病院に向かった。

 病室に入ると、ゴロゴロする声で「どうしたの」と富岡が訊いたので、会社での顛末を真理子は富岡に話して聞かせた。

 すると、富岡が、声にこそ出さないものの笑い出すのが、真理子にはわかった。

 真理子はそれを見てびっくりした。富岡も深刻な顔をするだろうと思っていたからだった。

 しかし、違った。

「何か考えがあるのね」

 真理子は、そう富岡に尋ねた。富岡は頷いた。そして、しゃがれ声で「プログラムを担当している者と営業の責任者を呼んでくれ」と言った。

「わかったわ。電話してくる」と真理子は病室を出て、ナースステーションで電話がかけられる場所を訊いた。この階の北側の一角に公衆電話があることを看護師から教えてもらった。

 会社に電話をすると、滝川が出たので、田中と西野と遠藤に病院に来るように言った。

 真理子は病室に戻ると「すぐに来るって」と言った。

 三十分ほど待つと、三人が病室に駆けつけてきた。

 真理子は、富岡に西野と遠藤は知っていると思ったので、営業部長の田中を紹介した。

 富岡は、真理子にメモ用紙を取ってもらうと、何やら書き出した。

 この間に、田中は真理子に「社長は思ったよりも元気そうですね」と囁くように言った。真理子が頷くと、「若返ったような気さえします」と言った。やはり、そう見えるのね、と真理子は思った。

 しばらくすると、富岡が真理子を呼ぶので、近寄ると、箇条書きにしたメモを見せた。

 そこには次のように書かれていた。

『一、ユーザー登録しているお客様には、修正プログラムを送る。

二、今出荷している分は、修正プログラムを添付する。これは外箱に貼り付ける。

三、フロッピーディスクを付録にしているパソコン雑誌に修正プログラムを載せてもらうように頼む。

四、そうでない雑誌には、修正プログラムの入手方法を掲載してもらう。

 三と四は、広告費をはずめば何とかしてくれるだろう。』

「三人を近くに呼んでくれ」と言うので、真理子はそうした。

 富岡はメモ帳を三人に見せながら、話そうとした。しかし、富岡は上手くしゃべれないので、真理子が富岡の言いたいことを聞き取って、三人に話した。その内容は意外に細かかった。真理子が知らない言葉が飛び交った。

 事細かに二時間半ほど富岡の説明は続いた。

 そして、富岡は営業担当の田中に、「出版関係の方をくれぐれも頼む」と言うと、田中は「わかりました」と言った。

 そうしているうちに、六時になった。夕食の時間だった、そこで、三人は病室から出て行った。

 真理子は残った。

「この前もそう思ったけれど、今まであなたの仕事ぶりを見て来なかっただけに、今度もやっぱり目の当たりにすると凄いわね。事故に遭ったなんて思えないぐらい」

 真理子は、本心からそう思って言っていた。富岡には、変に几帳面なところがあったが、ルーズな面も多かった。しかし、今、三人を相手にしていた富岡には緻密さがあった。

 富岡はしゃがれた声で「そんなことはないさ。田中の顔も覚えていないんだから」と言った。それに対して、真理子は「そんなの気にすることないわ。そのうち思い出すわよ。いいえ、思い出さなくても覚えていけばいいのよ」と言ってみた時、何かが閃いたのだが、それはすぐに消えた。何だったんだろうと、真理子は思ったが、一度消えた考えはすぐには戻っては来なかった。

 富岡が夕食を食べ終わるのを待ってから、真理子は病室を出た。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

三十二

 会社に寄ってから病院に行くことにした真理子は、午前九時には、会社にいた。昨日、富岡から託されたデバッグをやっている人を富岡の病室に連れていくためだった。

 社長室に入ると内線で開発部長の内山を呼んだ。

「今、TS-Wordのデバッグをやっている人は誰かしら」と訊いた。

「主に作業に従事しているのは、西野と遠藤ですが」

「だったら、西野さんと遠藤さんをお借りできないかしら」

「そう言われましても」

「富岡の頼みなのよ。デバッグをやっている人を連れてきて欲しいと昨日頼まれたの」

「社長の頼みなんですか」

「そうなの」

「わかりました」

 

 社長室に入ってきた西野と遠藤は大きな鞄を提げていた。その中には、数千頁に及ぶプログラムのデータが打ち出された物が入っていた。

「さあ、行くわよ」

 真理子がそう言うと、社長室を出て駐車場に向かった。そして真っ赤なポルシェの後部座席に二人を乗せると、「これから病院に行くからね」と言った。二人は乗り慣れない高級外車に乗って、窮屈そうに縮こまっていた。

 

 朝の回診が終わるのと入れ替わるように、真理子は病室に入った。

「連れてきたわよ」と富岡に言うと、入口付近にいる西野と遠藤に「何してるの。さぁ、早く入って」と言った。

 二人は見慣れない特別個室に恐る恐る入ってきた。

 富岡はベッドを起こしていた。真理子は二人に富岡の側に座るように椅子を出した。二人が座ると、真理子は、富岡の枕元に座った。

「あ、あの~~」と西野が口を開いた。

「一度にコピー&ペーストを何度も繰り返すとフリーズするんです」

 遠藤が「どうしてそうなるのか、さっぱりわからないんですよ」と言い、西野が「続けて、コピー&ペーストをしなければ大丈夫なんですけれどね。それでバッファに問題があるかと思ったんですが……」と言った。

 富岡は『プログラムデータをプリントアウトして持ってきたか』と書いて真理子に渡した。真理子はそれを二人に見せた。

 西野が「はい」と言って鞄の中から、分厚いファイルを三冊取り出した。

 富岡はそれらを広げて見ていった。

 最初のファイルのある箇所で、富岡の目が留まった。そして、何か書く物をという仕草を見せた。真理子が周りを見廻していると、西野が三色ボールペンを差し出した。

 富岡はそれを受け取ると、赤のボールペンである箇所に丸印をつけた。そしてその余白に『これを削除してみろ』と書いた。

 二人は同時に「えっ」と声を上げた。真理子には理解できなかったが、おそらく二人が予想していなかった箇所を富岡が指摘したのだと思った。

 真理子に向かって富岡が何か言っているようなので、口元に耳を近づけると、「試してみろ」と言っているのがわかったので、それをそのまま二人に伝えた。

 二人は「わかりました」と言うと、ファイルを鞄にしまった。

 真理子は二人に近づくと、「わたしは残るので、帰りはタクシーでね。お願い」と言った。二人は「はい」と言うと病室を出ていった。

 二人が病室を出ていくのを見届けると、真理子は富岡に近づき、「凄いわね。なんだか、前より鋭くなった感じ」と言ってキスをした。

 だが、キスも長くは続かなかった。ドアがノックされて、「昼食です」と看護師が入ってきたからだった。

 看護師に手を貸してもらいながら、富岡は流動食を食べた。

 

 真理子はポルシェに乗り会社に向かう時、昼食が運ばれてくる僅かな時間だったが、富岡との濃厚なキスを思い出していた。今までの富岡のキスの仕方とは違っていた。

 それにプログラマー二人が、この何日間かかってもわからなかったバグを、いともあっさりと見つけてしまったのには驚いた。富岡が優秀な経営者だということはわかっていた。そして、かつては優秀なプログラマーだったかもしれなかった。しかし、今は一線から退いて久しい。それが、まるで初めからそこにバグがあることが分かっていたみたいに解いてしまった。真理子にはそう思えた。

 

 会社に戻ると、開発部に顔を出した。

 すると西野が「社長の指摘、どうやら正しかったようですよ」と言った。

「そうなの」

「ええ、指摘された部分を削除して、起動してみたら、バグが発生しなくなったんですよ」

「今、確認中ですけれど、コピー&ペーストで起こっていたバグはなくなりました」と高橋が言った。

「そう、良かったじゃない」

「でも、社長、プログラムデータを見ただけで、よくバグのあたりをつけたものだよね」と西野が高橋に向かって言うと、「本当にそうだよね。もう何年も現役のプログラマーから退いているのにね」と応えた。

 真理子は、そのやり取りをじっと聞いていた。

 

 土曜日だったので、真理子はすぐに会社を出て、病院に向かった。

 病室に入ると、富岡はベッドに躰を起こしていた。真理子は富岡に近づくと、「あなたの指摘、どうやらいけそうよ」と言った。しかし、「でも、不思議よね。ソフトのことだけ、どうして覚えていたのかしら。まして、あなたがプログラムをわかるとは思ってもいなかったわ」と続けた。

 疑問に思っていたことを、富岡にぶっつけての反応を見たのだった。しかし、富岡は何の反応も示さなかった。それならと思い、第二弾を放った。

「それにね。キスしたの、どれくらい前になるのかしら。この前はついそうしてしまったけれど……」と言って、富岡の顔を凝視した。

 富岡は困っている顔をした。そんな富岡を見ていると、自分の思い違いかと思えてきた。

「あなた、そんな顔をしないで」と言いながら、真理子は富岡の腕をとって言った。

「この前も今日も嬉しかったの。ほんとよ」

 富岡は何も言わなかった。

「出会った頃のあなたを思い出していた」

 そう真理子が言ったのは、本当だった。富岡の顔が若返ったせいもあるのかもしれなかったが、記憶を失っている富岡は、言ってみれば、初めて会った頃の富岡そのものだったのだ。真理子は富岡を抱き締めた。

 富岡も真理子を抱き締め、ゴロゴロする声で何か言った。真理子が、「『記憶を失ったことで、初めて出会った頃のような気がしている』と言っているの」と訊くと、富岡は頷いた。

「そうね。そうよね」と、真理子も言った。そして、キスをした。それも僅かな時間だった。すぐにドアがノックされ、夕食が運ばれてきたのだった。

 

 真理子はナースステーションに寄って、主治医の中川医師に会えないか訊いた。

「すみません。今日は土曜日なので、主治医はもう帰られたと思います。確認しますので、ちょっとお待ちください」と言われたので、真理子は近くのソファに座った。

 しばらくして「すみません。主治医は、やはりもう帰られました。朝の回診の時に主治医に同行した医師の話では、すでに主治医から本人に現状については説明があったそうです。ご本人に直接、お訊きになったらどうですか」と言った。

「いえ、それなら結構です」と言って、ナースステーションを離れた。

 プログラマー二人を病室に連れて行った時に、富岡の病室から医師達が出てきたのは知っていたが、あの中に中川医師もいたのか。急いでいたものだから、気付かなかった。

 看護師は、主治医が本人に、今の状態を説明したと言っているのだから、富岡はうまく話せないだけで、意識は完全に戻っているのだ、と真理子は思った。そして、主治医に尋ねようとしたことは、主治医でもわからないのかもしれないと思うようになった。主治医に訊きたかったのは、富岡の記憶のことだったからだ。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

三十一

 帰りがけにナースステーションを通ると、看護師に呼び止められて、「富岡さんは、明日から流動食になりますので、ご承知ください」と言われた。

「点滴はなくなるんですか」と訊くと、「いいえ、点滴はそのままです」と応えが返ってきた。

「わたしが食べさせるんでしょうか」と訊くと、「いえ、自分で食べられるようになるまでは看護師がやります」と答えた。

 

 病院を出て車に乗ると、富岡とのキスが思い出された。思えば、久しぶりだった。随分としてなかった気がした。

 キスをした時、富岡の歯に自分の歯が当たった。初めて、富岡とキスをして以来のことだった。

 違和感はあった。しかし、それは歯を形成したことと唇がまだ上手く動かせないからなのだろうと思った。

 ただ、舌を絡ませてきたのには驚いた。それは富岡が、新婚当初とは違い、この数年ではしないことだったからだ。

 

 木曜日に会社に行くと、大騒ぎになっていた。

「どうしたの」と滝川に訊くと、「さぁ、バグがどうした、こうしたとか言っているようなんですけれど、わたしにはわかりません」と答えた。

 社長室に開発部長の内山を呼んで、事情を聞いた。

「まだ原因はわからないんですが、製品にバグがあったようなんです」

「バグって」

「ソフトに欠陥があったということです」

「大変じゃない」

「そうなんですけれど」

「すぐに直せるものなの」

「今、調査中です」

「そうなの。困ったことね」

「なるべく早く対応します。失礼します」

 そう言うと、内山は走るように社長室を出て行った。

 

 金曜日に会社にいると病院から電話がかかってきた。長野から刑事が二人やってきていると言うのだ。

 真理子は「わたし、すぐに行きますので、わたしが行くまで病室に入れないでください」と言った。

 真理子は滝川に早退する旨を告げて、病院に向かった。

 ナースステーション前のソファに刑事が二人座っていた。

 真理子が近づいていくと、一人が島崎、もう一人が高橋と名乗った。前に来た二人だった。

 島崎が「病院に電話をしたら、富岡さんの意識が戻られたということなので、お伺いしました」と言った。

「またですか」と真理子が言った。

「済みません。ご本人から直接、お話を伺いたいものですから」

「本人はほとんどしゃべれませんよ」

「構いません」

「では、どうぞ。しかし、できるだけ早く済ませてください」と真理子は言った。

「わかっています」と島崎が答えた。

 二人を病室に案内すると、富岡はベッドを起こして、窓の外を見ていた。

 真理子が入っていくと、顔をこちらに向けた。

 その後ろに二人の男がいたので、富岡は医師だと思ったようだ。

「刑事さんよ。この人たち、前にも来たのよ、あなたが意識をなくしている時に」と真理子が言うと、驚いたような顔をした。と言っても、まだ上手く表情を作れるわけではなく、真理子にはそう見えたのだった。

 刑事達はそれぞれ警察手帳を、富岡に見せて名乗った。

「事故当時のことを訊きたいんですが」と高橋が言った。

 富岡は無表情だった。

「スピードを出し過ぎていたんですか」と島崎が訊いた。

 富岡は首を傾げた。

「それでは、運転していて何か変わったことはありませんでしたか」

 今度は高橋が訊いたが、やはり、富岡は首を傾げた。

「何か思い出したことはありませんか」と高橋が訊いても、同じように首を傾げるばかりだった。

 そして、何か言おうとした。

「何ですか。何か言いたいんですか」

 島崎が意気込むように訊いた。

 富岡は首を左右に振って、真理子の方を見た。真理子は富岡の口元に顔を近づけた。

 すると、ゴロゴロする声で「思い出せない」と言った。

「思い出せない、と言っています」と真理子は二人に向かって言った。

「何か思い出せませんか」と高橋が言った。

 真理子は富岡の口元に耳を近づけると、「記憶がない」と言っているように聞こえた。

「記憶がないそうです」

 真理子がそう言うと、「わかりました。これも手続き上のことなので、ご理解ください」と島崎が言った。

「手続き上のことなら、電話でも済むんじゃありません」と真理子が言うと、「そうも行きませんものですから。お手数をおかけしました」と島崎が言い、二人は病室を出ていった。

「全くいやね。手続き上のことなら、何もここまで来ることなんてないのに……」

 真理子は腹を立てていたが、その一方でビクビクもしていたのだった。ただの自動車事故に二度に亘って、茅野から刑事が来ることなんてあるのだろうか、と思った。何か事故に疑いを持っているのではないか、とも思った。

 だが、そんな考えてもわからないことに拘ることは無駄だと考え直した。

 その時、富岡が真理子の腕を軽く叩いた。

 刑事が出ていった方を向いていた真理子が富岡を見ると、メモ帳のようなものを持っていた。そこには、『会社の方はどうなんだ』と書かれていた。

 真理子は、「売上は順調よ。もう凄いの。もうすぐ一万本売り上げるそうよ」と答えた。

 富岡はまたメモ帳に何か書いた。そこには『いい事じゃないか』と書かれていた。

「そうでもないの……。バグが見つかったそうなの」

 真理子がそう言うと、『そのバグがどこか、分かれば修正できると思う』と、富岡が書いてメモ帳を渡した。

「そうなの」

 富岡は頷いた。

 それを見て「やっぱり、あなたは凄い」と真理子は言った。

 すると、富岡がメモ帳に『明日、デバッグをやっている誰かを連れてきてくれ』と書いて真理子に渡した。

「デバッグって」と真理子が言うと、富岡は『ソフトのバグを発見し修正すること』とメモ帳に書いた後に『今、デバッグをやっている人を連れてきて欲しい』と続けた。

「わかったわ」

 そう真理子は言うと、富岡にキスをして病室を出た。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

三十

 TS-Wordの販売は依然好調が続いていた。社内は活気に満ちていた。

 木曜日になると、販売宣伝部の松嶋が社長室にやってきて、「このまま行くと、販売数が足りそうにないんですが……」と言ってきた。

「一万ロットを超えるっていうこと」と真理子が訊くと、「それは確実だと思います」という返事が返ってきた。

「それなら、増産しましょう」と言うと、「どのくらいにしましょう」と言うので、「あなたの判断に任せるわ」と答えた。

「わかりました」と言って、松嶋は出ていった。

 

 富岡を見舞いに行くと、ベッドを半分ほど起こしていた。

「気分はどう」と訊くと、何か答えようとしているようだったが、くぐもった声しか出なかった。

 血圧を測りに来た看護師が病室を出て行こうとした時、「そうそう。富岡が嵌めていた指輪のことなんですが、次に包帯を取り替える時に富岡の指に嵌めておいてくださらないかしら」と言った。真理子はどうしてそう言ったのかわからなかった。ただ、この人が富岡だとしたら指輪を嵌めていないことに気付くだろうと思ったからだった。どうであれ、確かめてみたかった。

看護師は「いいですよ」と言って出ていった。

しばらく富岡の様子を見ていた真理子は「また、明日ね」と言って病室を出た。

 

 週が明けて月曜日になった。

 病院に寄って、会社に来ると、騒然としていた。

 社長室に入って、お茶を持ってきた滝川に「どうしたの」と訊くと、「今、各販売店からの報告が続々と入ってきているところなんです」と言った。

「そうなの」

「どうやら、凄くいい結果みたいですよ」と言って、滝川は出ていった。

 午後三時頃になって、高木が社長室に入ってきた。

「各販売店の集計が出ました。初期出荷の六千ロットは売り切れました」と言った。

「ほんとに」

「ええ。四千ロット追加しておいて良かったですね。この分だと、一万ロットもすぐに売り切れるんじゃないですかね」

「そんなに凄い勢いで売れているの」

「ええ。私も驚いているくらいです」

「増産の方だけれど、どうなっているの」

「販売宣伝部の指示で、増産中ですが、注文に追いつかないほどですね」

「そう。増産については任せたわね」

「ええ、それはもう。いけいけどんどんですよ」

「頼もしいわ」

「それとオペレーターの数も増やさなければならないかもしれません」

「そう。それはどこが担当してるの」

「総務部です」

「総務部部長は誰だったかしら」

「長谷川です」

 真理子は内線で長谷川を呼んだ。

「今、高木専務から聞いたんだけれど、オペレーターの数が足りないんですって」

「今は何とかなっていますが、これ以上売れると足りなくなりますね」

「じゃあ、増やしてちょうだい」

「それは無理ですよ」

「どうして」

「オペレーターを置く場所がありません。今は会議室を臨時のオペレーター室にしてますが、そこでいっぱいの状態です」

「そうなの。じゃあ、今の状態でなんとかするしかないわけね」

「そうなります」

「わかったわ、ありがとう」

 長谷川が出ていくと、真理子は高木に「というわけなんだけれど、どうすればいいの」と訊いた。

「どうすると言われても……」と高木も困った顔をした。

「まぁ、いいわ。売れて困るなんて、これこそ、嬉しい悲鳴よね」

「そうですね」

「ありがとう。下がってもいいわ」

 高木が出ていくと、真理子はどうすればいいのだろう、と考えたが、いいアイデアは思いつかなかった。

 そのうち、六千ロットものTS-Wordが売り切れたことを思うと、嬉しくなった。高木の話ではまだまだ売れると言っていた。自分が言い出した一万ロットの完売も夢ではなくなってきていた。それどころか、これから増産しなければ、販売に追いつかないかもしれないのだ。トミーソフト株式会社は、大変な金脈を掘り当てたのかもしれなかった。

 

 病院に行くと、富岡はベッドを起こして、半身起こしていた。

 真理子はその富岡の頭の近くに座ると、「凄いことになっているわよ。もう初期出荷の六千本も売れたんですって。発売一週間でよ。でもまだまだ売れるって言ってるわ」と言った。

 真理子がそう言うと、富岡の目が見開かれた。そして、真理子の方を見た。ゴロゴロする声で何か言った。それが「ほんとか」と言っているように、真理子には聞こえた。

「ほんとよ」

 富岡はもう一度、何かを言った。本当なのか、確認したかったようだった。

「ほんとだってば」と真理子は言いながら、次第に興奮していく自分に気付いた。五万八千円のソフトが六千本売れるということがどういうことなのか、本当のところ、真理子には実感がなかった。しかし、会社ではその熱気に包まれていた。そして、今、富岡もその事実に驚いている。こんな富岡を見ていると、十年程前の富岡を真理子は思い出していた。ソフトが売れると、嬉しそうに家に帰ってきて、「今日はどこかに食べに行こう」と言ったものだった。

 そう思っているうちに、真理子は自然に富岡の顔を起こすと、その唇に自分の唇を軽く触れた。

「やっぱり、あなたは天才だわ」と真理子は言った。

 そして、富岡が何か言おうとしているのを遮るように、「嬉しいのね。わかっているわ」と耳元で囁くと、もう一度キスをした。

小説「真理の微笑 真理子編」

二十九

 月曜日になった。午前十時少し前に真理子は病院に向かった。病室に入ると、真理子は横たわっている富岡を見た。包帯に巻かれた顔を見るのは、これが最後だった。手術が成功して元通りの顔になっていればいいと思う自分がいることに気付くと、真理子は不思議な気持ちになった。心のどこかでは、人に会わせられないような顔になっている富岡を想像して不安になっていたのだ。

 やがて、秋月医師と湯川医師が看護師を連れて、病室に入ってきた。

 真理子が挨拶をすると、秋月医師も挨拶をして「早速ですけれど、顔の包帯を取りますね」と言って、看護師に指示して顔に巻かれていた包帯を外させた。

 富岡はベッドに横たわったまま、少し頭部を持ち上げられて、包帯は取られた。

 頭髪はまだらに少し伸びている程度だったが、包帯を外された富岡の顔は、セルロイド人形のような、少し光沢のあるつやつや顔だったが、十年ほど前の富岡がそこにいるようだった。

 秋月医師は、手をかざして、富岡がその手を目で見ているかを診た。それを確認すると、隣にいた看護師に何か言った。看護師は丸い手鏡を取り出すと、富岡の顔の前にかざした。

 秋月医師は「さぁ、ご覧なさい。どうです。ご自分の顔ですよ」と言った。

 富岡は、明らかにその手鏡の中の自分の顔を見ていた。側に立っている真理子にもわかった。富岡は何か言おうとしていたようだったが、声にはならなかった。

「どうですか。全く元のままだと言えないにしても、傷跡はほとんどわからないでしょう」

 そう秋月医師は、真理子に言った。真理子は、驚きで声にならず、ハンカチを口に当てて頷いた。

 湯川医師が富岡に近づくと、顎の骨の調子を確かめるように、富岡の顔に触り、顎を掴んで上を向かせた。そして一言、「よし」と言った。彼はそう言うと病室を出て行った。

 真理子は富岡の頭の近くに近寄ると、「あなた、わたしよ」と声をかけ、そして包帯に巻かれた手を握った。

 富岡は、記憶が戻っていないのか、状況がわからないのか、ただ目を見開いているだけだった。

「ねぇ、わかる。わたしが」と真理子は、さらに声をかけた。

 わたしの名前が思い出せないのではないかと思った真理子は、「ねぇ、真理子よ。真理子」と自分自身の名を口にしてみた。しかし、富岡からは何の反応もなかった。

 真理子はくるっと振り向き、「先生!」と助けを求めるように叫んだ。

 秋月医師は、まだ病室にいた。彼は「ご主人はまだ話せませんし、あれだけの事故に遭われたんだから記憶が一時的に混乱しているという場合だってありますからね」と言った。

「そんな……」と真理子は呟いた。

 秋月医師と看護師が出て行くと、病室の空気が重くなった。

 富岡がじっと自分の方に視線を向けているのを、真理子は気付いた。しかし、真理子は何も言わず、そんな富岡を見ていた。

 

 病院を出たのは、午前十一時半頃だった。

 少し早かったが、通りがかりのレストランに入った。

 富岡の顔の形成は、驚くほど上手くいっていた。傷跡も見られなかった。顔がつやつやしているだけで、渡した写真のせいもあるが、本当に若返ったように見えた。

 富岡は、真理子のことを忘れているようだった。初めて見る人のような視線で、真理子を見ていた。

 真理子は富岡に訊いてみたいことはいっぱいあったが、今の富岡が話せる状態でないこともわかった。

 しばらくは、様子を見るしかないと真理子は思った。

 

 会社に行くと、明後日のTS-Wordの発売に向けて、大忙しのようだった。

 社長室に入ると、真理子はその喧噪から解放された。

 しかし、することがなかった。仕方なく、高木専務を呼んだ。

「わたし、ソフトの発売を経験するの、初めてなの」

「そうですよね」

「今は、どんな状態なの」

「臨時に雇ったオペレーターを会議室に集めて、TS-Wordの機能説明をしているところです」

「その臨時オペレーターはどこで仕事をするの」

「すでに会議室が臨時のオペレーター室になっていて、ビジネスフォンをレンタルで借り入れていますので、臨時のオペレーターがそこで顧客からの問合せに応対することになります」

「そう。ありがとう」

 高木が出て行くと、自分が知らない間に、事が着々と動いていることをまざまざと知った。

 

 水曜日になった。いよいよ、TS-Wordの発売日だった。

 病院に寄った後、会社に入っていくと、何となく社内の熱気が伝わってくる。

 社長室にいても落ち着かなかった。

 窓辺に寄ってみる。向かいのビルの社員が背を丸くして働いているのが見えた。

 自分だけが何もしていない気分だった。

 

 土曜日になると、TS-Wordの販売が好調だという状況がはっきりしてきた。販売宣伝部の松嶋の報告では、売切れの店が続出していて、今、その対応に追われているとのことだった。それに伴い、オペレーターにかかってくる電話の数も増えた。

 

 真理子は出勤前と退社後に病院に寄った。

 富岡と顔を合わせても、何も話すことがなかった。富岡は喉を痛めているので話せなくても、真理子が富岡に話しかけても何も反応がなかったので、ただ見ているだけだった。

 つやつやとした富岡の顔は、まるで若い頃の顔の仮面を被っているように見えた。それだけに、真理子の中には、果たして自分が今見ている富岡は本当の富岡なのだろうか、という疑念が湧いてきた。