次回は、9月3日木曜日にアップの予定です
小説『友よ! ――相澤謙吉物語――』10
十
二、三日をかけてまとめた、これからの一ヶ月ほどで行う用件と残された案件を、もう一人の秘書官である小山三五郎のところに持って行った。小山は相澤と同じ秘書官ではあるが、官位は相澤より上であり秘書官としても上席だった。今度のベルリン行きには同行せずに、大臣官房室に残り留守番の役目を果たすことになっていた。小山の決裁を受けて、相澤は天方伯のところに向かった。
ベルリンでの滞在については、向こうの日本公使館の指示を仰ぐ旨を電信で送っていたが、まだ返信はなかった。また、こちらの随行員の人数も確定してはいなかった。天方伯の意を汲み、十名ほどのところを挙げてはおいたが、全ては天方伯が決めることだったからだ。
部屋に入り、視察旅行に関する書類と先程小山の決裁を受けた文書を、天方伯に差し出した。伯は、小山の決裁を受けた方の文書はちらりと見ただけで、視察旅行の資料に目を通した。
視察団の人員の箇所で目を留めた。「こちらから向こうに行く者については、これでいいのだが……」と、少し考えているようだった。そして、「もう一人、ドイツ語ができる者がいればなぁ」と言った。
「私では駄目ですか」
「お前には他にやってもらいたいことがある」
この時の相澤には、それが何かは知るよしもなかった。
「でも、他にこの中の何人かはドイツ語ができるはずですが……」
「いや、こちらから連れて行くのでなく、現地にいる者の方が良い」
「それでは公使館の者を使えば……」
そう相澤が言い終わる前に、伯は首を横に振った。そういうことではないんだ……、と言わんばかりだった。天方伯は他の官吏を使いたくはなかったのだ。ドイツ語に堪能で、自分の手の内で動かせる駒となる者が欲しかったのだ。どのような文書に目を通し、何を考えていたのかを他に漏れることを避けたかったのだ。
その事に相澤が気付くのには、少しく時間を必要とした。その間に、相澤には自ずと一人の顔が浮かんできた。
「私に心当たりがあります」
相澤は、太田豊太郎の名前を口にしていた。
小説『友よ! ――相澤謙吉物語――』9
九
明治二十一年、夏。
その日、家で朝食をとる前に新聞を見ていると、ある新聞の外国欄に、ドイツの最近の政治状況を知らせる記事が載っていた。その内容は他のどの新聞よりも広く深かった。そのことがその記事の書き手が豊太郎であることを如実に物語っていた。相次ぐ皇帝の死*(十七)と、そしてドイツの宰相のビスマルク*(十八)の動向についての洞察は、おそらくドイツの新聞に載っている社説に勝るとも劣らずであるに違いなかった。
一年ほど前のあの日、豊太郎が免官・免職になった事を知って、某新聞紙の編集長を説いて豊太郎をベルリンの通信員とした数日後、所用で外出していた相澤が戻ると、机に電報が置かれていた。某新聞紙の編集長からの電報がありそれを受諾したこと、それが相澤の心遣いであることを知り感謝する旨が記されていた。相澤はそれを畳んでポケットにしまった。それから二ヶ月後ぐらいであったろうか、その新聞にぽつぽつとではあったが、ドイツの文化や文芸の記事が載るようになったのは。その内容はどこよりも速く正確で深いものだった。
登庁するとすぐに天方伯に呼ばれた。「この秋に欧州に出立する」と天方伯は、相澤に告げた。
「どこでしょうか」
「ベルリンに行く」
「ベルリン……」
最近の新聞記事の事もあり、相澤にはすぐに豊太郎が思い起こされた。豊太郎に会えると思うと嬉しくもあった。
「スケジュールを組んでくれ」
「わかりました」
自分の執務室に戻った相澤は、天方伯のベルリン行きは、立て続けに亡くなったドイツ皇帝の事と無縁ではないような気がしてきた。すぐに取り置いていた新聞を取り出し、豊太郎の書いた記事をすべて読み直してみた。
そこには、皇帝が亡くなったことは単なる現象ではなく、国の方向性に関わる事態だということが、その視点で読めばわかるように明確に書かれていた。ドイツの宰相であるビスマルク侯の動向に注視しているのはある意味当然ではあったが、それは皇帝と宰相という人間関係が、個人レベルならともかく、国家という観点からすれば、決して軽視できるものでないことを端的に示していた。
それだけではない。日本は来年早々にも、大日本帝国憲法を公布する。名実ともに立憲君主国家となるのだ。これはドイツの国体をモデルにしている。そうしてみれば、ドイツで生じている皇帝の崩御もまた、日本にとって学ぶべき先例ではないか。
大日本帝国憲法が誕生しようとしている時、そのめでたさを祝い、それに包まれるであろう国をわざわざ離れて、いわば喪に服している国の首都ベルリンに向かう。それが立憲君主体制において、その根幹となる天皇が崩御される場合を想定してのことだとしたら、天方伯の先見性は常人を超えたところにある、相澤はつくづくとそう思った。
天方伯が秋に出立すると言っている以上、それまでに重要な案件は処理しておかなければならない。すぐさま、その洗い出しから始めた。だが、そうやって作業に取りかかると、どれもこれも重要でないものはない。ベルリンまで行くのであれば、往復の旅程だけで少なくとも三ヶ月以上はかかる。それだけの時間をかけて行くのであれば、滞在期間もそれと同じか少し増えることだろう。だから、少なく見積もっても半年以上、天方伯が日本を離れることになる。その間の内務省の仕事が円滑に回っていくには、やはりそれなりの準備が必要になる。
一時間もしないうちに数枚の用紙に書き出された案件は百を優に超えていた。これを、この秋に……、といっても、今は夏だから一、二ヶ月ほどの猶予しかない。その間に、重要案件の全部をこなさなければならないのかと思うと、相澤はベルリン行きは嬉しくもあるが、少し気の重いことでもあった。
*十七 『舞姫』では「引續きて維廉(ヰルヘルム)一世と佛得力(フレデリック)三世との崩殂(ほうそ)ありて」と記されている事柄である。当時、初代ドイツ皇帝でもあったヴィルヘルム一世(Wilhelm Ⅰ 一七九七年三月二十二日- 一八八八年三月九日)が一八八八年三月九日に崩御し、その跡をフレデリック三世(Friedrich Ⅲ 一八三一年十月十八日- 一八八八年六月十五日)が継いだものの、即位してから僅か三ヶ月ほど経った同年六月十五日に崩御した。フレデリック三世、崩御後に即位したヴィルヘルム二世(Wilhelm Ⅱ 一八五九年一月二十七日- 一九四一年六月四日)は、当時の宰相ビスマルクと度々対立している。皇帝に大権が与えられているということは、その皇帝が代わることで国家に変化が起こり得るということでもある。天皇制を敷く日本においても、皇帝の崩御は他人事ではなかったはずである。
*十八 オットー・フォン・ビスマルク(Otto Eduard Leopold Furst von Bismarck-Schonhausen 一八一五年四月一日- 一八九八年七月三十日)。プロイセン及びドイツの政治家。ドイツ統一の立役者であり、「ドイツ問題は鉄と血によって解決される」という演説により鉄血宰相の異名を持つ。明治政府において、ビスマルクを敬愛していた者は多く、山縣有朋もその一人であると言われている。
小説『友よ! ――相澤謙吉物語――』8‐3
編集長の部屋は、ひどく散らかっていた。相澤の名刺を見た編集長は、おそらく、悪あがきとはわかっていても、少しは片付けたのだろう。ソファの右半分と同じくその前のテーブルの右半分にあったであろう原稿や資料などは、すべて残りの左半分に寄せられていた。
編集長は、そのやっと空けた隙間に「どうぞ」と相澤を座らせた。
さっき名刺を渡した若者が、お茶を入れた盆を運んできて、慣れない手つきで、湯呑みを相澤の前に置いていった。
彼がドアを開けたまま出て行こうとすると、「ドアを閉めていけ、ドアを」と編集長は怒鳴った。それで、いつもはドアを閉めていないことが相澤にもわかった。
編集長は自分の机に座って、相澤が渡した名刺と相澤とを改めて見比べている。「相澤秘書官ですか」と呟いた後、「お若いですな」とまた言った。それほどまでに意外だったのだ。編集長は平の記者の時より、内務官僚をそれこそ数多く見てきた。大抵、直に話ができたのは下っ端の者に過ぎなかったが、今、目の前にしている相澤という男は、年齢的にすれば、彼が会ってきた、その下っ端の官吏ぐらいに見えて仕方がなかった。だが、肩書きは大臣官房秘書官である。
編集長は探るように相澤を見たが、相澤は出されたお茶をすすっていた。いかにも普通にしている相澤が、編集長にはかえって不気味であった。そのため、記事そのものか、記者の取材について何かクレームをつけに来たのかとさえ疑っていた。
しかし、相澤は相澤でどう切り出したものかと考えていたのである。何しろ、後先考えずにここに来てしまったのだから。
そこで、まず、太田豊太郎の名を出し、以前、とある新聞に盛んに紀行文を投稿していたことを話した。編集長は、自分のところの新聞ではなかったが、評判になっていたその紀行文のことは知っていた。ライバル紙がどのようなことを取り上げているのか、編集長ゆえによく把握しておく必要があったのだ。
「ああ、あの紀行文を書いた……」
そう答えながら、編集長は読んでおいて良かったと、心のどこかで思っていた。
「ええ」
「それで」
相澤は息を吸った。ここからが肝心なところだった。
「どうでしょう。その太田の事なのですが、彼をベルリンから記事を書き送る通信員として、こちらで雇ってもらうというのは……」
そう言うと、しばらく編集長は黙っていた。やがて、目で机の上の何かを捜しているようだった。
内務大臣の秘書官が、直接自分を訪ねてきて、ベルリンにいる太田を通信員にしろと言うのだから、彼に何かが起きているのだ、編集長はそう直感した。官吏の処遇に関わることなら官報に載っているのに違いない。相澤の様子からすれば、それが掲載されたのは、今日の官報だと編集長は確信した。だから、今朝、机の上に置いたはずの官報を目で頻りに捜していた。
「捜し物はこれでしょうか」
相澤は上着の内ポケットから折りたたんだ官報を取り出した。そして、豊太郎の名前の載っている箇所を開いた。
さすがに秘書官だけのことはあると思いながら、相澤から官報を受け取った編集長は、それを見た。
太田豊太郎が、免官・免職になったということは、たった一行で記されていた。
官報の記載を確認した編集長は、それを相澤に返しながら「何か子細があっての事なのですね」と言った。
相澤は頷いた。
相澤が黙ってしまったので、豊太郎の免官の理由を教える気がないことは編集長にもわかった。それなりのわけがあるのに違いない、と思った編集長は、それでも太田豊太郎の紀行文を読んでいたので、彼に文才があり、今ベルリンにいるというのであれば、欧州に通信員を置くほどの余力がない新聞社としては、悪い話ではなかった。しかも、その話を持ってきたのは、今をときめく天方伯の懐刀といっても過言ではない立場にいる、内務省の大臣官房秘書官である。ここは、相澤と懇意にしておくにしくはない。
編集長は椅子から立ち上がりながら、明るく大きな声で「いいでしょう。ちょうど、うちもドイツはもとよりヨーロッパの状況を伝えてくる通信員を置こうか、という話が持ち上がっていましたから、その太田という人をベルリン通信員として雇いましょう」と言って、相澤の座るソファの前に来て、顔を相澤に近づけて、少し恐縮そうに「しかし、うちで出せる給料は……」と、官費留学生が支給されている月俸の六割ほどでしかない額を囁いた。
確かに少ない金額だった。交渉次第では上げることもできたかもしれないが、編集長が囁いた額は、彼が即断で決められる範囲の額だったのだろう。私費留学生の中には、それぐらいの金額でもなんとかやっていることを、相澤は知っていた。仕事がら留学帰りの者たちとも多く会う機会があったからだ。読書家の豊太郎が買う本の数は格段に減るとしても、それほどの贅沢をしなければ何とか暮らしていけるだろう、とは思えた。何より、今は一刻を争うのだ。
「それでもいいですか」と言う編集長に、相澤は「構いません。よろしくお願いします」と頭を下げた。編集長は、すぐに「頭を上げてください」と言った。
顔を上げた相澤は、「このことをなるべく早く、ベルリンにいる太田に伝えてください」と頼んだ。相澤はベルリンの豊太郎の住所をメモすると、手帳を破って編集長に渡した。
「それは大丈夫です。すぐ電信を打ちますから」
事が決まれば、すぐにこのことを豊太郎に伝えなくてはならなかった。相澤は、ソファから立ち上がると「では」と言って、編集長室から出た。
ドアを開けると、驚いて何人か飛び退いたが、天方伯の秘書官が訪ねてきたことに、何事かと思った記者たちが聞き耳を立てていたのだろう。相澤は、彼らをかき分けるように廊下に出て階段を下りた。
相澤は、急ぎ足で外務省に戻り、総務局の電信課に立ち寄った。今しがた、編集長と約束してきたベルリン通信員の件を電信文として書き、窓口の係に渡した。
遅くとも明後日には、ベルリンにいる豊太郎にこの通信文が届くことだろう。そして、そのころには新聞社の編集長からの電信も届いているだろう。
これでベルリンに留まることができる。
豊太郎が官吏から離れることで、その見聞も広がるに違いない。今はただ突き進めばいい。
今の豊太郎には、先は見えていないだろう。しかし、見えなくても、先に進むしかない。
豊太郎が迷っているのなら、間違った決断だけはさせてはならない。
電報が早く届いてほしいと願う。とにかく決断だけは電報が届いた後でして欲しかった。
しかし、それはもはや手を尽くした後のことだから、天運に委ねるほかはなかった。
ともあれ、相澤は、今自分にできることをした。いや、自分にしかできないことをした。そう信じるほかはなかった。
小説『友よ! ――相澤謙吉物語――』8‐2
外務省を出た相澤は、そのまま内務省に戻ろうとした。
相澤は通りを歩きながら、先の松山の話を考えていた。豊太郎をベルリンに洋行させたのは、豊太郎のいる省の官長である。そして、洋行してからすでに三年が過ぎている。呼び戻すのには、十分いい頃に来ている。そこにどこからかは知らないが、ある女性の縁談話が官長のもとに持ち込まれる。おそらく、十七、八か、少なくとも二十歳そこそこの身元のしっかりした女性だろう。その時、官長が豊太郎のことを思い浮かべていたとしたら、おそらくは、心当たりがあるとでも相手に言ってしまっている感じはする。豊太郎がそこに入省してから六年ほどが経つ。今、豊太郎は二十五歳になっている。妻を娶るのには、相応しい年頃になっているではないか。
あの豊太郎が、どんな理由があろうとも、官業を疎かにするとはとても思えないが、仮に官長の言いなりになって独楽鼠の如くに働くことはなかったにしても、それなりに仕事をこなしてきたはずだ。相澤から見て、豊太郎が普通に働いているときは、他の者であったのなら、凄く働いていることと同義であり、豊太郎が本来の働きをすれば、もはや誰も彼を追い抜くことはできないだろう。そんなことは大学時代の彼をよく知っている相澤には自明だった。だからこそ、松山の言っていた「へんな女との噂が立てば」という言葉が鍵になってくるのだ。
相澤は松山と別れた後、外務省の記録局に立ち寄った。そこでベルリンにいる駐独公使との通信記録簿を見せてもらった。それは越権行為であるが故に、局員は始めは困っていたが、相澤は有無を言わせず記録簿を見た。二週間ほどの間に駐独公使からの当該官長宛の通信があることがわかった。今度はその通信記録を見せるように、相澤は迫った。通信記録の綴りは、奥の部屋に日付順に棚に整理されていた。その部屋にまで相澤を連れて行った局員は、さすがに機密事項も扱っているために部外者に許可無く、綴りの中身を見せることは渋っていたが、彼が手にしていたのは、極秘文書を綴じてあるものではなかったので、そのことを話し、「君にはそこにその綴りを置いてもらえばいい。そして、一分でいい。煙草を吸いに外に出て行ってくれ」と言った。
「君は私が出て行った後に、煙草を吸いに部屋を出た。その間、この部屋には誰もいなかった。そういうことだ」
若い局員が、それ以上、天方伯の秘書官の言葉に抗えるはずもなかった。彼は、文書を置くと、部屋を出て行った。
相澤は、さっき見つけておいた日付の通信文を、綴りの中から探し出し、読んだ。
官長からは、留学生のある者から、我が省の太田豊太郎の悪い噂を報ずる手紙が届いたが、事が事であるだけにその真偽を確かめてほしい、といった内容の電報が送られていた。それに対して駐独公使からは「太田豊太郎なるもの、劇場に日ごとに通ひしに、その相手なりしは、ヴィクトリア座、場中第二の地位なるエリスといふ踊り子なり」という返信文があった。
この後には、二、三度のやり取りがあったが、それは豊太郎が免官されるにあたり、その手順を相互に伝え合うものだった。
その文書を閉じると、部屋の外で待っていた局員の肩を、ぽんと叩いた相澤は「ありがとう」と言って、外務省を後にしたのだった。
歩きながら、ことの真相が見えてきた気がした。官長は豊太郎をどこかのお嬢さんと結婚させようとしたが、その豊太郎は現地で踊り子と頻繁に会っている。あの通信文のやり取りでは、ベルリンにいる留学生がわざわざ官長のところに、そのことを知らせてきたということになっている。これは重要であって、今のところはベルリン内での噂話で済むかもしれないが、駐独公使の通信文ではその相手が特定されている。そうなると、いずれ豊太郎が帰国したとしても、この噂は消えない。相手のお嬢さんが、そんな素行の悪い男を結婚相手に選ぶはずがない。そうなれば、もし官長が豊太郎を推挙していたとすれば、その顔に泥を塗ったことになる。官長の怒りは、相澤にもよくわかった。本当に推挙していたのなら、なんとかしなければならない。普通なら、豊太郎に帰国命令を出し、彼から直に聞き質すのが筋だが、ベルリンと東京では遠すぎる。そんなことをしていればすぐに二、三ヶ月は経ってしまう。官長にはそんな余裕はなかったのだ。
官長と駐独公使の最後のやり取りは、官長からは、直ちに太田豊太郎の免官・免職の手続きをとり、それが完了して官報に載ったら、そちらに報ずるので、太田豊太郎に対して、免官・免職の件を駐独公使から伝えてほしい、というものだった。これは外国にいる官吏の免任官に関しては、正式には、たとえ形式的であるにしても、天皇が裁可したことになる詔書そのものが必要だが、外国においてはその文書の直接の受け渡しには船便を使う他はなく、日本からベルリンまでは船便で送るとしても四十日以上の日数を要するからである。外国における公使の権限は大きく、日本において免任官された場合、それは公使が直接当人に伝えることで、免任官の効力が発生するものと見做されるのである。駐独公使は短く「了解」と返してきていた。
相澤は、今朝の官報に豊太郎の免官・免職が載ったので、八時間の時差を考えたら、もうすぐ、豊太郎はこの件について駐独公使から言い渡されることだろう。
あの豊太郎が踊り子にうつつを抜かして、仕事を疎かにしているなどということは、相澤には信じがたいことだった。しかし、駐独公使の返信に踊り子とのことが触れらている以上、何らかの関係にあることは間違いないのだろう。そうだとしても、何の弁明の機会を与えられずに、こんなにも簡単に免官になっていいものなのか。きっと、豊太郎には、何か事情があったのに違いないのだ。
相澤はそう確信していた。そして、官長のあまりの性急さに対して、怒りにも似たものを覚えていた。そして、駐独公使から、突然、このようなことを告げられたら豊太郎は、どうするだろうか、と考えた。
普通なら帰国命令が出てから免官になるものだから、免官・免職後については、政府から何の助けもないのが普通だが、いきなり免官・免職になっているのだから、さすがに日本に帰国するまでの旅費ぐらいは支給されることだろう。だが、それだけだ。こんなふうに免官・免職になってしまうと、直ちに別の省に任官されるはずはなく、民間で働くことになるしかないが、豊太郎のようなタイプが肉体労働や単純作業に向いているはずもない。大きなところで雇ってもらうにしても、免官・免職になった者を雇うのは、大きな会社のようなところであればあるほど難しいように思える。第一、豊太郎がそんなふうに働くことを承知するはずがないし、決して似合ってもいない。
今、日本に戻ってきても、結局のところ、豊太郎の居場所はない。それが相澤の結論だった。だったら、ベルリンに残る道を探したほうがいい。
その時、ふと思い出したのは、三年ほど前に、某新聞に載った豊太郎の紀行文だった。読んでみたが、それは豊太郎らしい機知に富んだもので、見聞録として卓越していた。だからこそ、その当時の読者の評判も良く、新聞に掲載される度に、その紀行文はもて囃されたのだ。
そう思った相澤は内務省に向かうのをやめて、近くにある新聞社の方に足を向けた。
新聞社の表玄関を入ると、相澤の脇をすり抜けるように何人かの記者が飛び出していき、また数人の者たちが戻ってきた。相澤の職場とは違って、見える形の活気があった。
受付をやっと見つけて、そこの若い青年に、相澤は名刺を渡して、「編集長に会いたい」と言ったら、彼は「今も編集長はもの凄く忙しいですよ」と言った。
「それはわかっている。でも、その名刺を見せて、『この名刺の人が会いたいと言っている』と言ってくれるだけでいい」
若者は「そうですか」と言いながら、階段を上がっていった。「断られますよ」と言わんばかりだった。
しばらく待たされた。
すると階段をドタドタと大きな音をさせて、少々お腹の出た中年から老年の入り口にさしかかったような男が駆け下りてきた。
相澤のところに来ると、少し息を整えてから「あなたが相澤さん……ですか」と訊いた。
「ええ、相澤です」
「お若いですな。名刺を見て、もっと歳をとった方かと……」
相澤はどう反応して良いのか、わからなかった。もっとも、秘書官になってから、このようなことも珍しくはなくなっていたが。
「で、うちに何の用でしょうか」
編集長は相澤の訪問の真意がわからず途惑っていた。内務大臣の秘書官が何の事前連絡もしないで、直接訪ねてくるということは、何かよほどの事情があるに違いないと編集長は思っていたのだ。それは、たぶん内務省にとって都合の良くない記事を、そうとは知らずに書いてしまったのかもしれない、そして、その抗議だけならいいが、厳重注意に来たのではないか、そんな悪いことばかりが、編集長の頭にはちらついていたのである。
相澤が言い淀んでいると、「あっ、失礼しました。こんなところで、立ち話もなんですから、上に行きましょう」と編集長は自分の部屋に案内した。
小説『友よ! ――相澤謙吉物語――』8‐1
八
相澤は、その日もいつものように新聞に目を通した後、官報を見た。
その人事面に、太田豊太郎の免官・免職の記事が出ていた。たった一行のものだったが、思わず目をこらした。見間違いではなかった。
相澤は官報を閉じ、窓の外を見た。夏が去り、秋を迎えていた。前庭のポプラの向こうに見える銀杏並木はまだ青々としていた。
何があったんだ。三年前に読んだ、あの生き生きとした紀行文が思い出された。
あれほど勇んで行った西欧じゃないか!
相澤はじっとしていられず、椅子から立ち上がり、背広を掴んだ。外務省に友人がいた。彼に会いに行こうと思った。前に座っていた事務官が顔を上げた。「外に出てくる」と言って横をすり抜けた。
内務省のある大手町から外務省のある霞ヶ関へ、相澤は歩きながら考えた。
すでに辞令は下されている。官報に載っているのだから、ベルリンにおいても、時差はあるものの、今日中に駐独公使(駐ドイツ日本公使)よりこの命は直接、豊太郎に伝えられるのに違いない。とすれば、すぐに帰国するように言い渡されるはずだ。官費留学生が無為に現地に残留することは許されるはずがない。仮に残ったとしても、官費留学生に生活する糧を得る術はない。留まれば、国からの助けがなくなるのは当然だとしても、ベルリンの日本公使館からの便宜も一切受けられなくなる。それは現実的には、彼(か)の地で何もできないということを意味していた。
外務省通商局に行き、求める友人、松山小次郎を見つけた。ドアを開け、一番奥に座る彼が顔を上げた時に、遠くから片手を挙げ、そのままドアの外に出て戸口で待った。
しばらくして「何だ」と言いながら、相澤の肩に右手をぽんと置き、すぐにその手の人差し指を上に向けた。上階の隅の会議などで使っている部屋に行こうというのだった。相澤は頷いて、彼と一緒に歩き出した。階段を上がる時、松山はポケットに手を入れ、銀製のケースから外国製の煙草であるシガレットを取り出した。つやのある手すりにそのシガレットの先を軽く叩きながら、上っていった。上がりきると右に曲がり、廊下の左右に並んでいる部屋の一番奥の左側の部屋の前で、彼は止まり、後から来る相澤を見、目でここだ、と合図すると、その観音開きの扉の右側を開いて中に入った。大きな会議用の部屋だった。中央にシャンデリアが吊された下に、広く大きな四角いテーブルがあり、二十人分ほどの椅子が並んでいた。
「時々、会議で使うが、今日の予定はない」
二人だけで話すにはちょうどいいというのか、と相澤は思った。
テーブルには、所々に灰皿が置いてある。松山は前庭に面した窓を大きく開け、近くのテーブルの上の灰皿を引き寄せた。マッチを取り出し、シガレットに火をつけると火を消したマッチ棒を灰皿に放った。口に煙草を挟んで、窓辺に寄り、その窓枠に手をかけた。そして、ひとしきり煙草を吸い、煙を大きく外に吐き出すと、向き直って、その窓枠に片肘をついて、少し投げ出した足を交差させた。何でも訊いてくれ、と言わんばかりだった。
相澤が、彼に近寄り、太田豊太郎の名を出すと、あぁ、とでも言うように頷いた。相澤の訊きたいことがすでにわかっていたかのようだった。
松山は、数日前に知ったと言う。相澤が豊太郎との関係を簡単に話すと、「そうか、やはり大学の同期だったか」と改めて納得したようだった。
松山は大学出の相澤とは異なり、慶應義塾の出で、商社に入った後、外務省に入省した。彼が入省した早々の、ある宴席で同席したのが相澤との縁だった。出身地が近く、年齢が同じだったこともあり、松山と相澤はすぐに親しくなった。その時も、松山は背広の内ポケットからシガレットを取り出し、マッチで火をつけた。「お前はやらないのか」と松山が言うと、相澤は首を横に振った。
「外国人と話す時は、便利だぞ。向こうは葉巻を吸うのも多いが、話していて議論になったとき、考える時間が稼げる。何も言い返さなければ、それは承諾を意味するから、何か言わなくちゃならんことも多いが、返事に窮することもあるじゃないか。煙草を吸っているっていうことは、まだ、こっちは答えを考慮中だという合図にもなる」
「そういうもんなのか」
「俺は、そう思っている」
…………
今、松山が煙草を吸っているのは、相澤からの質問を待っているということだ。それも急に直に会いに来たのだから、それなりの理由があってのことと踏んでいるのに違いなかった。
相澤が「太田が、何故、免官になったのかわかるか」とそう切り出すと、松山は、再び煙草を吸い煙をゆっくりと吐き出した。そして、相澤を見て「知らないのか」と言った。
相澤が首を横に振ると、本当に……、とでも言いたそうだった。
「今朝、官報を見て知ったんだ」と相澤が答えると、少し驚きを含んだ声で「そうなのか」と言った。松山は自分とは違い、相澤と太田が同じ大学の同期であるから、その繋がりですでに知っているものと思っていたのだ。
「ああ」
相澤は豊太郎のベルリンに洋行して以降の消息を全く知らなかったのを恥じた。
少しの間があった。
「女だ」
松山の声は大きくはなかったが、きっぱりとしていた。
相澤は、言葉が出なかった。意外だった。あの豊太郎が女で免官になるなどということが、俄には信じられなかった。「まことか」と言いそうになったくらいだった。
相澤が何も言わないうちに、松山は続けた。
「よくは知らないが、ある踊り子と深い仲になり、官業を怠ったというのが表向きの理由だ」
「表向きとは……」
松山の言には、豊太郎の免官には、今少し深い事情がありそうだった。
「その太田某というのは、若いのか」
「ああ、俺より四つ年下だ」
そう相澤が言うと、松山は「そうか」と言った後、少し考えてから、「たぶん、官長のお気に入りだったんだろうな」と続けた。「一課を任せての取り調べで洋行させたんだから、帰ってくれば、将来は約束されていたようなもんじゃないか。とすれば……。ここからは単なる憶測でしかないが、だとしたら誰かとくっつけようとしていたのかもわからんな」
「えっ……」
「そんな折に、へんな女との噂が立てば、そりゃあ、官長の顔は潰れるよな」
「…………」
「誰と結びつけようとしていたかは、この際、問題ではないが、官長がけじめをどうつけようとしたのか、それが誰かは知らんが、その人に明確にわかることが重要だったんじゃないのかな」
免官になれば、官報に載る。誰にもそれは明々白々な事実として公表される。仮に、たった一人に知らせるためであったとしても。
「なんてこと……」
「単なる憶測だ。そう言ったろ」
彼はシガレットを消すと灰皿に捨てた。
「じゃあな」
松山は、呆然としている相澤を置いたまま、背を向け、戸口に向かった。片手を挙げて、西洋式にバイバイの仕草を残していった。
小説『友よ! ――相澤謙吉物語――』7
七
鹿鳴館は、かつての薩摩藩上屋敷跡に、外務卿井上馨の提唱により、明治十六(一八八三)年に建てられた西洋式建物で、欧米諸国の風俗習慣を取り入れ、これを広めることで条約改正に役立てるのがその役割の一つであった*(十五)。
鹿鳴館には、内閣総理大臣をはじめとして各大臣、高級官吏、貴族らが訪れ、外国人を招いての宴会、舞踏会が頻繁に催された。だが、こうしたいわゆる鹿鳴館外交は、最初は国粋主義者の攻撃の格好の口実となったが、新聞などでそうした意見や贅沢な宴会などの様子が巷(ちまた)に伝わると、次第に世論の非難を浴びるようになった。
「今日も舞踏会(パーティ)とかいうものですの」
瑠璃子の目が、夜会服に身を包んだ相澤を射るように見た。外国暮らしが長かった瑠璃子が舞踏会を知らないはずがなかった。いや、知っていればこその言い回しだった。
洋風の料亭のラウンジでコーヒーを飲んでいた。
「仕方がないじゃないか。これも外交の一つなんだから」
「でも……」
瑠璃子は、外国の貴婦人と手に手を取り合って踊るダンスなるものが、今は何か不浄のように思われた。
「日本が今や脇差を持ち歩くような蛮民ではなく、西洋の社交なるものを解する者であることを示さなければならない。これとても好きでしているわけではない」
「でも世の人は、茶番だとか媚態外交などと申しておりますわ」
相澤は、豪快に笑いながら、ぐっと身を瑠璃子に寄せて、「言いたい奴には、言わせておけば良い。今、この国がどのような状況にあるのか、どこに向かっていけば良いのか、よくも知りはしないくせに、その上辺だけを取り上げて、嘲り貶めているだけなのだ」と言った。
今宵もいずくかの貴婦人と踊ることになるだろう。しかし、それが彼(か)の国の礼儀なり仕来(しきた)りなりを我が国の民も理解していることを、端的に示す早道であることを、目の前の新妻に言っても詮無きことだが、それが今の日本の実状なのだと……。相澤は笑顔を瑠璃子に向けながら、目の奥は冷めていた。
相澤には二つ上の姉がいた。結婚式の際に相澤側親族として夫婦で招かれた、その姉である。彼女の嫁ぎ先は、嫁いだ当時はさほど大きくはなかったが大阪にある、堺からの荷物を扱う問屋だった。だが、その後の十年余りの内に大きく商いを伸ばしていた。大阪は江戸時代から年貢米の集積地であり、十八世紀初頭には、世界初の米の先物取引が行われていたほどであった*(十六)。いわば、日本の経済の中心地であったのだ。
相澤の目は今や、日本中を見据えていた。