小説「僕が、剣道ですか? 4」

三十三

 次の日、朝餉をとると、しばらくして出かけた。堤道場に行くためだった。

 門の前をたえが掃いていた。

「今日は、堤先生はいらっしゃるかな」と訊いた。

「ええ、おります。昨日、鏡京介様がいらっしゃったことを話したら、残念がっていました。早くお入りください」とたえは答えた。

 玄関から上がり、座敷に通された。

 しばらくすると、堤竜之介が現れた。

「おお、鏡殿。お久しぶりでござる。昨日、来られたと聞いて、残念に思っていました。今日来ていただいて、嬉しく思います」と言った。

「こちらこそ、ご無沙汰しております。堤道場はますます発展して何よりです」と言った。

「なになに、これも鏡殿のおかげでござる」

 たえがお茶を運んできた。

「おたえさんは結婚されたんですね」と僕が言った。

「そうなんですよ。堤殿が選んでくれた師範代を婿に迎えて、今は師範となっておりますが、結婚しました」と堤は言った。

 そして声を落として「京太郎は可哀想でした。流行病にかかり、あっという間に亡くなってしまいました」と言った。

「ええ、聞きました。昨日、墓参りをしてきました」

「そうですか」

「でも、新しくややこが生まれるようで、おめでたいですね」と僕が言った。

「そうなんですよ。男の子だといいんですが」と堤が言った。

「きっと男の子でしょう」

 堤は笑った。

 

 堤邸で昼餉をとった。

 積もる話もいろいろとした。

 白鶴藩は今のところ、何事もないようだった。

 夕方になったので、堤邸を出た。

 

 家老屋敷に戻ると、きくとききょうと風呂に入った。

 僕はきくに訊いた。

「家老屋敷の雰囲気はどうだ」

「昔と変わっていません」と答えた。

「そうか」

「やっていけそうか」と訊くと「どういうことですか」と訊き返してきた。

「ここで暮らしていけるか、と訊いているんだ」と言った。

「どういう意味ですか」

「白鶴藩に戻ってきたのは、お前をここに残して行くためだ」と僕は言った。

 きくはしばらく何を言われているのか、分からなかったようだ。

「どういうことですか」

「今言ったとおりだ」

「わたしを残して行くとは、どういうことですか」

「私は元の世界に帰らなければならない」

「だったら、きくも連れて行ってください。この前は連れて行ってくれたではありませんか」

「あれは間違いだった」

「きくは鏡京介様と離れるつもりは、毛頭ありません」

「それはできないことなのだ」

「どうしてですか」

「私が、沢山の忍びの者に狙われたのは分かっているよね。それは私がこの時代の者ではないからだ。私という存在を消したい力が働いているのだ」

「それならば、鏡京介様の時代にわたしがききょうと共に行きます」

「それはできないことなのだ。自然には摂理というものがある。きくには分からないだろうが、越えられない壁があるのだ」

「わたしは鏡様と離れたら、生きてはいけません」

「そう思うのも、一時だ」

「いいえ、違います」

「生きていけるさ。そうして、生きていくしかないんだ」

「いやでございます」

「分かってくれ」

「いいえ、わかりませぬ」

「この話はまたしよう」

「わたしは嫌でございます」

 僕は仕方なく、風呂から出た。

 

 夕餉の席では、家老の島田源太郎から「今後、どうするのだ」と訊かれたので、「近いうちに現代に戻ります」と答えた。

「その時、きくとききょうも連れて行くのか」

「いいえ、きくとききょうは残して行きます」

「残して行く。それではきくとききょうはどうするのだ」

「私が来た時と同じように、女中として使ってください」

「おぬしはそれでいいのか」

「そうする他はありません。きくとききょうにお金がいる場合には、当家の蔵に残してある私のお金をお使いください」

「おぬしのお金」と家老の島田源太郎が訊き返した。

「山賊を討伐した懸賞金とお殿様からいただいたお金(「僕が、剣道ですか? 2」を参照)を千両ほど蔵に置かせてもらっているはずですが」と僕は言った。

 少し間があって、「ああ、あれか。そうだな、そうであった」と源太郎は言った。もはや、蔵には僕のお金など残っていず、賄賂などに使われてしまっていることには、この時の僕は知るよしもなかった。

「きくとききょうとのことはお任せしてもよろしいんですね」と僕は言った。

「わかった。承知した。心配しないでいい」と源太郎は明言した。その場には、元家老の島田源之助もいて頷いていた。

 僕は安心した。

 

小説「僕が、剣道ですか? 4」

三十二

 堤道場に行った。

 門の所をたえが掃いていた。五年前と変わらなかった。

「たえ、いや、おたえさん」と声を掛けた。

 たえは顔を上げると、鏡京介を見て、信じられないとでもいったような顔をした。そして、すぐに涙を流し、走り寄って来て、僕の手を取り「会いとうございました」と言った。

 堤道場は、第二道場も出来て、大きくなっていた。

 玄関から入ると、すぐ道場が見える。かつての城崎信一郎は僕を見ると、すぐに寄ってきて、「お久しぶりでございます」と言った。

 僕も「こちらこそ、お久しぶりです」と言った。

「後で座敷に伺います。先に行っててください」とかつての城崎信一郎は言った。

 僕は頭を下げると、たえに従って、座敷に行った。座布団を勧められたので、座った。

「もう、五年になりますね」とたえは言った。

「そうですね」

「あなたは少しも変わっていない」

 僕は「あなたも」と言ったが、たえには苦労の跡が刻まれていた。

「お茶をお出ししますね」とたえは奥に引き込んだ。

 その時、道着を着たままのかつての城崎信一郎が座敷にやってきた。

「わたしはすぐに道場に戻りますので、このままの格好で失礼します」と言った。

「それはお気にせずに」と僕は言った。

「いやあ、京介殿は全く変わりませんね」と言った。

「…………」

「わたしはたえと結婚をして、今は堤信一郎となりました」と言った。

「では、この道場を継がれたのですね」

「はい」

「師範になられたのですね」

「はい」

「それはよかった。堤先生も安心されたことでしょう」と僕は言った。

「それはどうでしょう」

「きっと、安心されてますよ。堤先生は御指南役として登城されているのですか」

「はい。今日は登城しています。明日は殿の稽古がないので、道場におります」

「では、明日、伺えばよかったですね」

「明日も来てください。義父も喜びます。ではわたしはこれで失礼させていただきます」

 たえは、僕と堤信一郎の話が終わるのを、待っていたかのように、座敷に入ってきて、お茶を出した。

「京太郎がいませんね。どうしたんですか」と僕が訊くと、たえはしばらく黙っていて、そして静かに泣き始めた。

「どうしたんですか」

 たえは泣きながら、「京太郎は、三年前、流行病で亡くなりました」と答えた。

 僕は呆然とした。

 しばらく言葉が出なかった。

 たえは懐から、包み紙を出して、僕に渡した。広げて見ると、短い髪の毛だった。

「京太郎のです」とたえは言った。

 僕は自分の懐紙を取り出し、「分けてもらってもいいですか」とたえに訊いた。

 たえは「それはお持ちになってください。あなたがいらした時に渡そうと思って、持っていたものですから」と言った。

 僕はそれを握りしめて、泣いた。

「これから京太郎の墓に参りますか」とたえが言うので、「ぜひに」と答えた。

 

 京太郎の墓は堤家の菩提寺にあった。

 来る途中で手折った花を添え、水を掛け、線香を立てて、手を合わせた。

「信一郎殿とはいつ結婚されたのですか」

「去年です」

「…………」

「今、ここにややこがいます」とたえはお腹をさすった。

「どうりで」と言い、少し太られたように見えた、とは言わなかった。

「男の子だったら信太郎っていう名をつけようと思っています」

「そうですか」

「京太郎は熱に浮かされて苦しみました」とたえは言い始めた。

「代われるものなら、代わってやりたかった」

「ご自分を責めるのはやめなさい。それが京太郎の天命だったのです」

 僕はそう言いながら、自分自身にそう言い聞かせていた。

 

 堤道場までたえを送り届けると、一人で蕎麦屋に入り、もり蕎麦を食べた。

 懐の包み紙を出して、京太郎の髪の毛を見た。

 細かった。

 

 家老屋敷に戻ると、きくが「どうでしたか」と訊いた。

 たえが信一郎と結婚したことや、たえが今、妊娠している話をした後で、京太郎が亡くなった話をした。

 きくは泣いてくれた。

 だが、そのきくとも別れなければならなかった。

 白鶴藩に戻ってきたのは、きくを置いていくためだったのだ。きくは現代の人ではない。現代には住めない。きくはきくが生まれ育った環境で暮らすのが一番良いのだ。それが自然の摂理だ。

 だが、このことをきくには話していなかった。

 話すことができなかった。

 

 風呂に入った。きくに背中を流してもらった。これも後何回だろうか、と思った。

 折たたみナイフで髭を剃り、顔を洗って、ききょうと頬ずりをした。これも後何回だろうか、と思った。

 ききょうを抱き締めた。お前は、流行病になんかなるなよ、と願った。

 

 夕餉の席では、堤道場に行ってきたことを話した。たえが結婚していたことや、堤道場が立派になったことを話した。堤家のことは、島田源之助も島田源太郎も知っていた。堤竜之介が御指南役であるから、知っていて当然と言えば当然だった。しかし、京太郎が亡くなったことは言わなかった。

 

 座敷に戻り、縁側に出た。

「月が大きく見えますね」ときくが言った。

「そうだな」

「もうじき、満月になるんですね」ときくが言った。

 僕は答えなかった。

 その夜、僕は激しくきくを求めた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 4」

三十一

 風呂を出ると夕餉の支度がされていた。家老家では、夕餉は男性と女性で別の部屋で食事をすることになっていた。客として招かれたとしてもそれは変わらなかった。

 大旦那様が上席に座った。その隣に今の家老である島田源太郎が座った。その反対側の上席に客である僕が座っていた。侍頭の佐竹重左衛門は家老の隣に座った。

 まず源太郎が「久しぶりでござるな、鏡殿。家老となった島田源太郎でござる。鏡殿がいなくなって、間もなく父が引退をし、わたしが跡を引き継ぎ申した」と言った。

「さようでござるか」と応えると、佐竹が「お久しゅうございます」と言った。僕は「久しぶりだね」と言った。

 佐竹が「あれから五年経ちましたぞ」と言った。僕は「五年か」と言った。

 家老の源太郎が「神隠しに遭ったと書いて寄こした時はビックリしたぞ。てっきり、もはや亡くなったものと思っていたのでな」と言った。

「そうでしょう。五年も音信不通であれば、普通はそう思います」と僕は応えた。

 源太郎が「神隠しに遭ったと書いてあったが、どこに行っておったのじゃ」と訊いた。

 僕は「現代という所です」と応えた。

「現代? はて、それはどこなのじゃ」と源太郎が訊いた。

「現代とは、未来のことです」と僕は答えた。

 源太郎は「未来ねえ。わしには鏡殿が何を言っているのか理解できぬ」と言った。

 僕は「それはそうでしょう。これを理解することは、誰にもできません」と言った。

 佐竹が「現代という所は、浦島伝説の竜宮城のような所なのでしょうか。それにしても鏡殿は歳を取られていない。驚きました」と言った。

 僕は「確かに現代という所は、竜宮城のような所でしょうね」と言った。

 会話は、現代という所がどういう所なのかについて、大旦那様や家老や佐竹に訊かれたが、僕は上手く答えることができなかった。

 夕餉が終わると、「おやすみなさい」と言って、僕は座敷に引き上げてきた。まもなく、きくもききょうを抱いて座敷に入ってきた。

 きくは「どこに神隠しに遭ったのか、散々訊かれて困りました」と言った。

「私もだよ」と僕は言った。

 布団を敷いて、ききょうを真ん中に、横になった。

「ようやく帰ってきたんだな」ときくに言うと「はい」と応えた。

「でも、もうなんだか別の所のような気がします」と続けた。

「五年経っているからな」

「そうですね」

 僕ときくはそんな会話をしているうちに眠っていた。

 

 朝餉をとる時、源太郎が「鏡殿は、今日、どうされる」と訊くので、「道場の様子を見てみます」と言った。

「そうか、相川たちもさぞ喜ぶことだろう」

「ええ」

 

 座敷に戻ると、きくに「道場に行くが、きくはどうする」と訊いた。

「女中たちと話をします」と答えた。

 

 道場に行くと、「先生」と相川や佐々木、落合、長崎、島村、沢田たちが駆け寄ってきた。

「お前たちはどうしていた」と訊くと、相川が「今もこうして道場を守っています」と答えた。

 僕が「お前たちもそれぞれに成長したが、気質は少しも変わっていないな」と言うと、佐々木が「先生は少しも変わっていませんね」と言った。

 僕は「変わるわけがない。ただ、神隠しに遭っただけだ」と言うと、相川が「その話は本当だったんですね」と言った。

「本当だ。だから、こうしてここにいる。それにしても道場の門弟はこれだけか」と訊くと、相川が「これだけです。先生がいなくなってから、選抜試験をしても入門者が集まりません」と答えた。

 道場には三十人ほどしかいなかった。

「では、久しぶりに稽古でもつけようか」と言うと門弟が沸いた。

 僕は道着に着替えて、木刀を持った。

「私に向かって打ち込んで来るように」と言った。

「はい」と言う元気な声が返ってきた。

「まず、相川から」と言うと、相川が打ち込んで来た。昔より、剣の速さが鋭くなっていた。その木刀を打ち返した。

「次」

 佐々木が打ち込んで来た。佐々木も鋭くなっていた。それぞれ五年間に成長していた。佐々木の木刀を打ち返すと、「次」と言っていた。

 三十人の打ち込みは、連続して行われた。

 一時間もしないうちに、打ち込んで来る方がバテた。

「どうした、もう終わりか」と言うと、相川が「先生は疲れないんですか」と訊いた。

「私だって、疲れるさ。でも、これくらいでは疲れない」と答えた。

「そんな」と皆が口にした。

「相川たちは、今も堤道場に通っているのか」と訊いた。

 すると、「城崎先生が師範になられてからは、通ってはいません」と答えた。

「それは何故だ」と訊くと、相川は佐々木や落合、長崎、島村、沢田と顔を見合わせた。

 相川が「堤先生とは違って、城崎先生とは何となく……」と答えた。

「そうか、堤先生ならともかく、城崎であれば、お前たちが教わることも少ないか。無理して行かなくてもいい」と僕は言った。

 相川と城崎では実力が拮抗していた。相川が教わりに行くこともないだろうと、思った。

 

 井戸場で道着の上を脱ぎ、手ぬぐいで躰を拭いてから、着物に着替えた。

 座敷に戻ると、きくがききょうに乳を与えていた。

「女中たちとは話をしてきたのか」

「はい」

「どうだった」

神隠しのことばかりを訊かれるので、退散してきました」

「そうか」

「皆、神隠しのことが知りたいのです」

「そうだろうな」

「でも、何を話していいのかわかりません」

「確かに」

「何を話してもわかってもらえないのです」

「そんなもんだろう」

「ですから、退散してきました」

「うん」

「道場の方はどうでしたか」

「昔に比べると、閑散としていた」

「そうですか」

「昼餉を食べたら堤道場に行こうかと思うが、きくも行くか」と訊くと、きくは「いいえ、ここでお待ちしております」と答えた。

「そうか」

 

小説「僕が、剣道ですか? 4」

三十

 翌朝、宿を早くに出ると、二里の道を急いだ。

 そして、口留番所に来た。

 僕は口留番所の手前の林で、ジーパンを穿き、安全靴を履き、着物で隠した。そして、通行する人の最後尾に並んだ。段々と順番が近付いてくる。僕はきくがおんぶしているききょうを自分がおんぶすると言った。きくは抱っこ紐を僕に渡した。僕はききょうをおんぶして、持てるだけの風呂敷包みを持った。

 僕たちの番が来た。通行手形を見せた時に、役人の顔が変わった。

 ここで時を止めた。僕はききょうをおんぶしたまま、門を通過した。そして、林を見付けると、そこにききょうを下ろし、風呂敷包みで周りを囲った。

 時はまだ止めたままだった。

 そのまま門を通り、今度はきくを背負った。そして、門を通って、ききょうの所に行った。ここで時を動かした。くたくただった。長い間、時を止めていたからだった。

 その時、定国が唸り出した。鞘から抜くと西を光が指した。僕は立ち上がり、走ろうとしたが、足が進まない。しかし、行かなければならなかった。定国の光が僕を包んだ。躰が軽くなった。

 定国の示す場所に向かった。林の中に広場があった。そこに二百人もの忍び者が集結していた。

 僕は最後の気力を絞って、時を止めた。そして、その二百人に向かって走った。躰が定国に支配されているのが分かった。定国は定国の意志でその二百人を斬り殺していった。

 僕は傀儡人形のようだった。定国に斬られていく二百人をただ、見ていた。

 そして、終わった。

 僕はその場を離れた。そして、時を動かした。二百人が崩れ落ちていくのを見ていた。

 きくとききょうの元に戻らなければならなかった。

 しかし、足が動かなかった。定国を鞘ごと帯から抜いて、杖のようにして歩いた。そうして、やっとの思いで、きくとききょうの元に辿り着いた。

 その場で僕は倒れた。そして眠った。

 

 きくに揺すられて僕はやっと起きた。

「もうすぐ日が沈んでしまいます。宿を見付けなければ」ときくは言った。

 僕は立ち上がり、ジーパンと安全靴を脱ぐと風呂敷包みの中に入れた。

 そして歩き、一番近い宿に泊まった。

 相部屋しかなかったが、仕方なかった。

 その日は、夕餉をとるので精一杯で、布団を敷くとすぐに眠った。

 

 次の日、朝餉の前に風呂に入り、髭を剃り顔を洗った。トランクスも替えた。

 着物を着ると、きくが髪を結ってくれた。

 そして、朝餉をとると、いよいよ城下町を目指した。

 町は賑わっていた。

 僕ときくは家老の屋敷を目指していた。

 武家屋敷が多くなり、その通りに入っていくと、家老の屋敷に出た。門の横の通り木戸を叩いた。中から門番が戸を開いた。

 僕を見ると、「鏡京介様」と言った。

「覚えていてくれたのか」

「もちろんですとも。それにおきくちゃんも」と言った。

「どうぞ、中にお入りください。奥様をお呼びしてきます。大旦那様も」と続けた。

「大旦那様?」

「はい、御家老だった源之助様は今は引退されて、御嫡男の源太郎様が家老職に就かれています」

「そうでしたか」

 広い玄関に入り、定国を帯から抜いて手に持っていると、奥から源太郎の妻のあきと隠居された島田源之助が現れた。

 源之助は「おお、まことに鏡京介殿ではないか。そしておきく。おんぶしておるのは……」と言うと、きくが「ききょうです。ご無沙汰をしておりました」と言った。

 僕も「お久しぶりでございます」と言った。

 源之助は「そんな所にいないで、早う上がれ」と言った。

 女中が来て、草履を脱いだ僕の足を桶の湯で洗い、手ぬぐいで拭いた。きくもそうしてもらっていた。

「失礼します」と僕は言って、上がり口から廊下に上がった。そして座敷に招かれた。

 座布団が出された。僕は座布団に座る前にきくと並んで、畳に座り手を突いて頭を下げ、「ご無沙汰をしておりました。ようやく、今日、ここに来ることができました。お懐かしゅうございます」と挨拶をした。

 あきは「こちらこそ」と頭を下げたが、源之助は「堅苦しい挨拶はいい。早う座布団に座れ」と言った。

 僕らはその言葉に、座布団に座った。きくはおんぶしていたききょうを抱っこ紐から下ろして、抱いた。

 源之助は僕ときくに「長旅で疲れているであろう。正座はいい、足を崩せ」と言った。

 僕はその言葉に、正座からあぐらをかいた。

 源之助は「もうあれから五年経つが、ききょうとか言ったな、その子はまだ赤ん坊なのか」と訊いた。

 僕が「ええ、私たちは神隠しに遭い、こちらでは五年ほどの年月が経ち、今ここにいます」と答えた。

神隠しに遭ったというのは、本当のことだったのか。そういえば、鏡京介殿も前のままじゃな」と源之助は言った。

「そしておきくも変わっておらんな」と続けた。

 きくは笑った。

 女中がお茶を出してくれた。

 僕が「いただきます」と言ってお茶を飲むと、きくも同じように言ってお茶を飲んだ。

 源之助が「おきくが抱いているのが、ききょうか。わしにも抱かせてくれ」と言うので、きくはききょうを源之助に抱かせた。

「ききょうか。いい名だ」

 源之助はしばらく抱いてから、ききょうをきくに返した。

「当分、ここに逗留していくのだろう」と源之助は訊いた。

「はい、そのつもりです。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」

「好きなだけ泊まっていけ」と源之助は言った。

「そのお言葉に甘えさせて頂きます」と僕は頭を下げた。

「風呂の用意はできているのか」と源之助が言うと、女中が「はい、できております」と応えた。

「旅の疲れを風呂に入って、癒やせ。話はまた夕餉の時に聞こう」と源之助は言った。

「お気遣い、ありがとうございます」と僕は言った。

「前に使っていた座敷を使うといい。手ぬぐいや浴衣も用意をさせるので持っていけよ」と言った。

「何から何までありがとうございます」と言った。

 そして、前に使っていた座敷に女中に案内された。

「風呂場はわかっとりますよね」

「はい」

「では、ごゆっくりと」と言って障子戸を閉めて出て行った。

 布団の上に、手ぬぐいと浴衣が揃えられていた。

 僕は風呂敷包みを置くと、中から洗ってあるトランクスを出して、折たたみナイフを持ち、手ぬぐいと浴衣を手に取ると、「きく、先に行っているぞ」と言った。

 きくは「はい」と応えた。

 きくに背中を流してもらいながら、「やっと帰ってきたな」と言った。

「そうですね」

「大旦那様もいいおじいさんになったな」

「はい」

「きくも懐かしいだろう」

 きくの返事は少し遅れて「はい」と言った。

 

小説「僕が、剣道ですか? 4」

二十九

 宿は川縁に建っていた。川湯もあると言う。

 一階の隅の個室を頼んだ。一人一泊二食付きで四百文だった。

 手ぬぐいと浴衣を持つと、脱衣所で着物とトランクスを脱いだ。

 ききょうを受け取ると、僕は頭を洗い、髭を剃った。ききょうに頬ずりがしたかったからだ。

 湯に浸かると、ききょうの両手を掴んで、湯の中で足をバタバタさせてみた。まだ上手くはできなかった。しかし、湯に浮くことが嬉しかったようだ。ききょうを抱き締めた。とても柔らかい肌だった。きくが川湯に入ってきて、ききょうを僕から奪った。そして、僕に背中を押しつけて、「きくも抱っこしてください」と言った。僕は後ろからきくを抱き締めた。

 昼間の殺伐とした時間から解放された。僕はきくとききょうが愛おしかった。しかし、白鶴藩に行けば家老屋敷に置いてくることになる。それが自然の摂理というものだ、と僕は思った。

 今のこの一時を心に刻んでおこうと思った。

 夕餉では、僕もききょうに味噌汁を掛けたご飯を食べさせた。ききょうがそれを美味しそうに食べるのが嬉しかった。

 膳を片付けた後は、布団を敷いた。ききょうを抱いた。そこまでは覚えていたが、僕はそのまま眠ってしまった。

 

 朝餉も味噌汁を掛けたご飯を少し潰して、ききょうに食べさせた。ききょうはよく食べた。僕はそれが嬉しくて何度も食べさせた。

「もう十分です」ときくが言うまで続けた。

 僕もご飯をいっぱい食べた。今日も戦いがあるのだと思うと、その分も沢山食べようと思った。

 

 宿を出ると、山道に入った。ジーパンを穿き安全靴を履くと、草履は風呂敷包みに入れた。

 すぐに定国が唸り出した。きくとききょうと風呂敷包みを木の陰に隠すと、定国を抜き、光の示す方向に走った。六人ほどがいた。

 時を止めるまでもなかった。定国で斬り捨てていった。

 すると、定国はまたも唸り出し、ある方向を光で指し示した。その方向に走っていくと、やはり、六人いた。そこでも時を止めずに斬り捨てた。

 そしてまた、定国が唸り出した。定国の示す方向に走ると八人がいた。時を止めずに八人を斬り殺した。

 相手は、最初から分散することにしていたのだろう。固まっていれば斬られるからだった。

 また、すぐに定国が唸った。定国に導かれ、敵を見付けては殺した。こうして、また三十人ほどを別々に殺した。これで五十人は斬ったことになる。

 僕は全身血まみれになった。下に川が流れていたので、懐紙を木の枝の間に挟んで、定国とも川に飛び込んだ。そして、躰の血を洗い流した。

 川から出ると、着物を絞り、安全靴の中の水を下にして流すと、再び着物を着、安全靴を履いた。

 定国は振って水気を取ると鞘に収めた。懐紙はまだ濡れている着物の懐に入れた。

 きくとききょうの隠れている木陰に戻ると、風呂敷包みを背負って歩き出した。

「鏡京介様、全身ずぶ濡れですね」ときくは言った。

「血を洗い流したのだ」と応えた。

「いつまで、続くのでしょうね」

「分からないな。相手にその意志がなくなるか、戦力がなくなるまでだろうな」と僕は言った。

「こんな無益な戦いを続けてもしょうがないのに、それが相手には分からない。そこがもどかしい。いずれにせよ、相手の戦力がなくなるまで戦うしかないだろう」と僕は続けた。

 相手の戦力は無限にある。でも、そう言わなければ自分が崩れ落ちそうだから、言ったのだった。

 歩いているうちに着物は乾いた。ジーパンと安全靴の中はぐちゃぐちゃだった。

 

 山道が終わったので、ジーパンと安全靴を脱ぎ、風呂敷包みの中に入れた。

 昼餉をとり、街道を歩いた。

 そのまま五里歩き、次の宿場で宿を取った。

 個室で一人一泊二食付きで四百文だった。

 早速、風呂に入り、ジーパンと安全靴をよく洗った。もちろん、着物も肌着やトランクスも洗った。頭もよく洗った。まだ血の水が流れた。髭を剃り、顔を洗うと風呂に入った。ききょうをきくから受け取った。きくも洗い物をしてから、躰を洗った。

 洗った物は窓の外の掛け竿に干した。安全靴は逆さまにして置いた。

 夕餉をとった後は、布団を敷いた。

 今日は時を止めなかったので、比較的疲れていなかった。その分、きくが疲れさせてくれた。

 

 翌朝は、朝餉を食べると、すぐに出立した。

「明日は、白鶴藩ですね」ときくは言った。

「そうだな、順調に行けば」と僕は応えた。

 今日七里ほど歩けば、明日の午前中には口留番所に着く。そこを通れば、高木藩から白鶴藩に入る。

 白鶴藩に入ったら、城下町を目指し、家老の屋敷に向かえばいい。

 もうすぐだった。

 

 山道に入ると、ジーパンを穿き安全靴を履いた。安全靴の中はまだ濡れていた。

 しばらく歩いて行くと、定国が唸り出したので、きくとききょうと風呂敷包みを木の陰に隠した。

 そして、定国を抜き、光の示す方向に走った。

 五十人ほどの忍びの者がいた。時を止めた。そして、彼らに走り寄ると、腹を裂いていった。

 少し離れると時を解き、懐紙で定国の血を拭おうとした時、定国が唸り始めた。光は東を指していた。その方向に走ると、六十人ばかりの忍びの者がいた。

 時を止めて、走り寄ると、次々に腹を裂いていった。

 少し離れると、時を動かした。

「もう、来る頃だ。準備に着け」と言い終わらぬうちにその者は崩れ落ちた。

 まだいる。

 僕は定国を鞘から出したまま、辺りをうかがった。また、定国が唸り出し、南を指した。僕はその方向に走った。

 五十人ほどの忍びの者がいた。時を止めて、彼らの腹を裂いていった。

 離れた所で、時を動かした。

「もう、来ていたのか」と言う声とともに、その主は倒れた。

 懐紙で定国の血を拭うと鞘に収めた。

 

 きくとききょうと風呂敷包みを隠した木の下に戻った。

「敵は倒した。だが、急ごう」と僕は言った。

 三里、歩いて昼餉をとり、午後は四里歩いた。

 

 宿場に入る前にジーパンと安全靴を脱いで、風呂敷包みの中に入れた。

 宿場で、四軒は相部屋しかないと言われ、五軒目でようやく、個室が見つかった。一人一泊二食付きで五百文と高かったが、仕方がなかった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 4」

二十八

 きくとききょうの所に行き、風呂敷包みを持って山道を歩いた。

 山道を抜けると宿場に出た。

 宿を探した。個室を取った。温泉が出る宿だった。

 早速、きくとききょうと入りに行った。頭を洗い髭も剃って、ききょうに頬ずりをした。ききょうを抱いて風呂に浸かった。その間、きくは洗濯をした。

 僕はききょうを抱きながら、ここには僕の居場所はないんだ、と思うと涙が出て来た。せめて、きくとききょうが白鶴藩で幸せに過ごしてくれることを願うのみだった。

 

 布団を敷くと、いつもは眠ってしまう僕だったが、何故かその夜はすぐには眠れなかった、躰は疲れ切っていたのだが。

 ききょうを少し離して置いて、手を叩くと這いずりしてやってくる。また、遠くに置いて手を叩く。ききょうはにこやかな顔をして這いずりをしてくる。僕は繰り返しそんなことをしていた。そのうち、きくも這いずりしてやってきた。

「馬鹿」と僕は言った。

「ききょうだけではずるいです」ときくは言った。

「お前は赤ちゃんか」ときくに言うと、きくは「はい」と答えた。

 僕はきくを抱こうとしたが、そのまま眠ってしまった。

 

 宿を出ると山道に入った。僕はすぐにジーパンを穿き、安全靴を履いた。

 しばらく歩いて行くと、定国が唸り出した。近くに敵がいる証拠だった。

 きくとききょうと風呂敷包みを木の陰に隠した。

 僕は定国を抜き、定国が放つ光の示す方向に走った。二十人ほどの忍びの者がいた。

 時を止めた。定国でその二十人の腹を裂いた。

 そして、少し離れると、時を動かした。血が飛び散った。二十人は何が起こったのか、分からなかっただろう。突然、自分の腹が切られたのだ。そして、腸が飛び出た。

 定国はまだ唸っていた。

 その示す方向に走った。そこにも忍びの者が二十人ほどいた。

 時を止め、その二十人の腹を裂いた。最後の者の袖で定国の血を拭うと定国を鞘に収めた。で、少し離れてから、時を動かした。立っていた二十人の者が倒れ、或いは崩れた。

 山道に戻ると、また定国が唸り出した。鞘から抜いて光の方向に走った。山道からそれた林の中に三十人ほどがいた。

 時を止めて、定国で彼らの腹を裂いた。そして、その最後の者の着物の袖で定国を拭って鞘に収めようとすると、またしても定国は唸った。

 時を動かして、僕は定国が示す方向に走った。背後では三十人が倒れていった。

 今度は数が多く、林の中に五十人ほどいて、今まさに分かれようとしていた。時を止めて、その五十人の腹を定国で裂いていった。

 最後の者の袖で定国を拭って鞘に収めると、少し離れた。時を動かすと、五十人は崩れるように倒れていった。

 山道に戻ると、また定国が唸り出した。鞘から抜いて、その示す方向に走った。ここにも三十人ほどの忍びの者がいた。

 時を止め、定国で彼らの腹を裂いていった。

 少し、離れて時を動かし、懐紙を取り出そうとすると、またしても定国が唸り出した。その示す方向に僕は走った。

 五十人ほどが、林の中にいた。時を止めて、彼らの腹を裂いていった。

 だが、まだ、定国は唸っている。その示す方向を見ると、近くにも二十人ほどがいた。彼らもその腹を切り裂いた。最後の一人の袖で定国を拭うと、走りながら離れ、時を動かした。腹を切られた七十人は倒れていった。

 山道に戻った。定国の唸りは止んだ。

 これで二百二十人もの忍びの者を斬ったことになる。彼らが総攻撃を仕掛けてきたことは、明らかだった。

 きくとききょうの隠れている木の陰に戻ると、風呂敷包みを取って、ききょうをおんぶしているきくの手を引いた。そして、歩き出した。

 しばらくは、隠密も襲ってくる気配はなかった。先手を取られてやられてしまったからだった。

 攻撃されてから戦うのと、攻撃をされる前にやっつけてしまうのとでは、エネルギーの消耗度が桁違いに差があった。だから、僕は何度も時を止めたが、それほど疲れてはいなかった。

 やがて、定国が唸り出した。きくとききょうと風呂敷包みを木の陰に隠して、定国を抜いた。その光の示す方向に走った。山道を離れた林の中に七十人もの忍びの者がいた。

 時を止めた。定国で七十人の腹を裂いた。そして最後の者の着物で定国の血を拭うと鞘に収めた。少し離れて、時を動かした。

 彼らは僕を見て驚いた瞬間、自分の腹が裂かれていることに気付いた。

「何故だ」と叫んで死んでいった。

 またしても定国が唸り出した。定国を抜いてその方向に走ると、五十人の忍びの者がいた。時を止めて、定国で彼らの腹を裂いていった。

 彼らから離れると、時を動かした。

 彼らは僕を見ると、「ここにいたぞ」と叫んだ。その瞬間に自分が斬られていることに気付くのだった。

 定国はまだ唸っていた。さっきの者が叫んだということは、近くに仲間がいるからだった。僕は時を止めたまま、定国の示す方向に走った。

 そこには五十人の忍びがいて、今、僕らがやってきた方向に向かおうとして、分かれるところだった。その五十人の腹も定国で切り裂いていった。

 少し離れると、懐紙で定国の刃の血を拭い、鞘に収めた。そして時を動かした。彼らは向かおうとして動き出したところで、次々と倒れていった。

 何人かが指笛を吹いた。

 すでに倒した七十人に知らせるためであったのだろうか。それとも、まだ敵は残っているのだろうか。

 僕にはどちらでもよかった。

 きくとききょうと風呂敷包みを隠した木の陰に戻ると、山道を歩いた。

 

 山道を抜けた所でジーパンと安全靴を脱ぎ、風呂敷に包んだ。

 もはや追ってくる者はいなかった。

 僕はとにかく腹が減っていた。食事処を見付けると、中に入って、親子丼と掛け蕎麦を注文した。きくは盛り蕎麦を頼んだ。

 きくは蕎麦を少しずつ切っては、ききょうに食べさせた。庖厨を借りてミルクを作った。

 代金を払って外に出ると、しばらくは街道を歩いた。

 人とすれ違う時は注意した。短剣で刺されるかも知れなかったからだ。

 

 そして再び、山道に入った。ジーパンを穿き、安全靴を履いた。

 すぐに定国が唸り出した。

 近くの木陰に、きくとききょうと風呂敷包みを隠して、定国を抜いた。定国の示す方向に走った。山道から外れた広場に百人ほどの忍びの者が集まっていた。

 僕は時を止めて、定国でその百人の腹を裂いていった。

 そして、少し離れると時を動かした。

「これから、鏡京介をどう追うかだ」と言った途端に、その者が崩れるとともに他の者も倒れた。

 懐紙で定国の血を拭うと鞘に収めた。

 とうとう、相手の底が見えてきた。

 僕はきくとききょうと風呂敷包みを隠した木の陰に戻ると、風呂敷包みを持ち、ききょうをおんぶしたきくの手を引いて、山道を歩いた。

 すると、すぐに定国が唸り出した。近くの木の陰に、きくとききょうと風呂敷包みを隠すと、僕は定国を抜いた。そしてその光の示す方向に走った。

 六十人ほどの忍びの者がいた。時を止めた。

 そして、その六十人の腹を裂いた。最後の者の着物で定国を拭くと鞘に収め、その場を離れた。時を動かすと六十人は倒れていった。

 木の陰から、きくとききょうを連れ出し風呂敷包みを掴むと、山道を歩いた。さすがに疲れてきた。

 遠くに宿場が見えて来た。

 山道から出た。

 ジーパンと安全靴を脱ぎ、風呂敷に包んだ。

 

小説「僕が、剣道ですか? 4」

二十七

 昼餉はヤマメにして、僕たちは山道を急いだ。

 幕府の隠密は襲ってこなかった。

 今回は定国に助けられた。定国には、怨霊が憑いているのだろう。それが僕の怒りと闘気に反応して、力を貸してくれたのに違いない。少しの間だったが、定国の霊に取り憑かれて、自分が動かされているのが分かった。このままにしておけば、やがて、定国の霊に自分は取り込まれるかも知れなかった。

 また、お祓いをしてもらうしかないのかも知れないが、今は定国の力を僕は必要としていた。

 僕は定国の霊に取り込まれないことを願うしかなかった。

 

 宿場に来たので、宿を探した。個室だと一人一泊二食付きで四百文だった。そこにした。ここは温泉が出ると言うので、早速、温泉に入りに行った。

 頭や躰を洗うと、湯船に浸かった。きくとききょうも一緒だった。

 湯船から出ると、折たたみナイフで髭を剃った。ききょうを頬ずりした時、痛がったからだ。また湯船に浸かった。ききょうを抱き取り、きくが躰を洗った。

 きくは躰を洗うと、洗い物をした。その後で、湯船に浸かった。

 僕は風呂を出ると、部屋に行き、畳に寝転がった。そして、しばらく眠った。

 夕餉はヤマメだった。きくと顔を見合わせた。

 ききょうには、味噌汁を掛けたご飯を沢山食べさせた。煮物も潰して食べさせた。そろそろミルクも少なくなってきたので、離乳食に慣れさせる必要があった。

 布団を敷くと、僕はすぐに眠った。昨日よりは疲労感は少なかった。

 

 翌朝、朝餉をとると、宿泊代を払い、宿を出た。

 山道に入ると、すぐにジーパンを穿き、安全靴を履いた。

 定国を抜くと微かに唸った。

 きくとききょうと風呂敷包みを木の陰に隠して、定国の唸る方向に向かった。

 山道から外れた林の中に五十人ほどの人影が見えた。定国は彼らに向かって唸り出した。

 僕は彼らに気付かれないように近付くと時を止めた。そして、定国でそこにいる者全員の腹を裂いていった。

 そして時を動かした。

 頭が「何故、わしらの所がわかったのだ」と訊いた。

 僕は「この時代の者ではないからだ」と嘘を言った。そして「お前たちを一思いに殺さないのは、他の者に恐怖を与えるためだ」と言った。

 頭は「わしらが、恐怖を覚えることなどない」と言うと、僕は「そうでもないだろう」と言った。

 定国の血を頭の着物で拭うと鞘に収めようとした。その時、定国が唸った。近くに敵がいる証拠だった。

 定国の示す方に向かって走った。すると二十人ほどの忍びの者が走って来るのが見えた。近くまで来るのを待って、時を止めた。そして、彼らの腹を裂いた。そして、時を動かした。二十人は倒れ込むと、のたうち回った。

 最後の者の着物で定国の血を拭うと鞘に収めた。

 時を止めていた時に斬ったので、返り血を浴びずに済んだ。

 

 きくとききょうの所に行くと、風呂敷包みを取って歩き出した。

 少し行くと定国が唸った。鞘から出して見ると、地面を指している。大きな石を放ると、地面に吸い込まれていく。木の枝で掃いてみると、薄い板に木の葉を敷き詰めた落とし穴が仕掛けられていた。その落とし穴の中には、竹槍が何十本も突き立てられていた。

 落とし穴の周りを回って、僕らは先を急いだ。

 あの遅れてきた二十人の忍びの者は、この仕掛けを作るためだったのかと納得した。またしても定国に助けられた。定国に心を乗っ取られてもいけないが、定国の助けも必要だった。奇妙なバランスの上に僕はいた。

 

 ジーパンと安全靴は脱がずに、着物を下ろして隠した。

 しばらく行くと畑に出た。

 山道からそれて、畑の脇の道を行くと農家に出た。

 声を掛けると、中から老婆が出て来た。

「この辺りには食事処はありませんか」と僕が訊いた。

「この先は街道まで、何もありはせん」と老婆が答えた。

「では、何か食べさせて貰えませんか」と言うと、「いいよ、おいで」と言った。

 老婆は茅葺きの農家の中に入って行った。僕らも後を付いていった。右手には牛舎があった。土間を抜けると、庖厨があった。その側に囲炉裏のある部屋があった。

「そこに上がんな」と老婆は言った。

「他の人たちはどこにいるんですか」と僕が訊くと、老婆は「畑に決まっているがや」と言った。それもそうだと僕は思った。

 安全靴を脱ぐと風呂敷包みの中に隠し、草履を置いた。

「ご飯と味噌汁と漬物しかないが、いいかな」と訊くので「それで結構です」と言った。

「じゃあ、待っとれ」と言って、庖厨の方に行った。

 おひつを持ってきた。味噌汁は熱かったが、ご飯は冷めていた。朝の残りなのだろう。ご飯に味噌汁を掛けて漬物で食べた。ききょうにも味噌汁を掛けたご飯を潰して食べさせた。

 きくは庖厨を借りてききょうのミルクを作った。

 食べ終わると、「ごちそうさまでした」と言って、ちゃぶ台に巾着から二十文取り出して置こうとしたが、老婆は「いらん、いらん。大したもん、食わしたわけじゃあ、ねえけ」と言った。

「では、お言葉に甘えさせていただきます」と僕は言った。

 部屋から土間に下りる時、草履をしまい、安全靴を履いた。

 

 山道に戻る途中、二人の若者とすれ違ったが、畑作業から昼餉をとりに農家に向かっているところなのだろう。彼らの分が残っているといいが、と思わずにはいられなかった。

 

 山道に戻り、しばらく歩くとまた定国が唸り出した。きくとききょうと風呂敷包みを木の陰に隠すと、定国を抜いて、その示す方向に走り出した。

 山道を外れた林の中に二十人ほどが固まっていた。定国は激しく唸り出した。僕は時を止めて、その二十人の腹を切り裂いた。そして時を動かした。

 中の一人が「何故お前がここにいる」と訊いた。

 僕は「何故、お前たちはここにいるんだ」と訊き返した。

 すると「命令だからに決まっているじゃないか」と言った。

「誰からのだ」と訊いた時、その男は息絶えた。

 定国はまだ唸っていた。他に敵がいるのだ。定国の示す方に向かった。三十人ほどがいた。そこに二人が駆け込んできた。先程、斬った二十人の報告でもしに来たのだろう。動き出そうとしたので、時を止めた。そして、三十二人の腹を裂いて、時を動かした。

「何故、お前が」と先程の男と同じことを言った。

「そっちが狙ってくるからだ」と言った。

「俺たちを殺しても、もうお前は逃げられないぞ」とその男は言った。

「何故だ」

「幕府が追っているからだ」と答えた。

「だが、表立ってではないだろう」と言うと、「どうしてそれを」と訊いた。

「表立ってなら、公儀隠密を使うはずがないからだ」と答えた。

「幕府が追っているのではなく、公儀隠密を使っている者を倒せばいいのだな」と僕は言った。

 そいつは「お前に倒せるはずがない」と言った。

「瞬間移動ができてもか」と言うと、そいつは明らかに狼狽していた。

「私に瞬間移動ができることは知っているのだな」と言うと、そいつは答えずに死んだ。

 定国の唸りは止まった。敵はすべてやっつけた。僕はそいつの袖で定国の刃の血を拭うと鞘に収めた。

 僕が戦っている相手は強大だった。一人一人はそいつの駒にしか過ぎない。

 今、戦って勝っても、それは一時しのぎでしかない。公儀隠密を動かしている者を倒さなければ、決着は付かない。だが、そいつは江戸にいる。

 僕の手の届かない所にいるのだ。