小説「僕が、剣道ですか? 5」

三十一

 夕餉が終わると、風車はまた碁を打つ真似をした。

 僕は部屋の隅の碁盤の前に行くと、座った。

 風車が早速、三子置いた。そして、自分の第一子を打った。

 僕はその石にかかるように石を打った。風車に自由に石を囲ませては、勝てないと思ったからだった。

 風車は僕の打った石を無視して、右上の星の位置に付けるように白石を打ってきた。僕はその白石の下に打った。僕の黒石に断点ができた。その部分に風車は打ってきた。僕の石は風車によって切られたのだ。僕は一方を伸びた。その判断は正しかったが、その先が難しくなった。碁が難しくなると、風車の力が冴えてくる。風車が切った僕の石は取られてしまった。そこで僕は投了した。

「やはり、三子ではまだ風車殿には勝てません」と言った。

「そんなことはありません」と風車が言ったが、「では四子に戻しますか」と言ってきた。もう一局しようと言うのだ。だが、僕は「今日はこの辺で」と断った。

「残念ですな」と言って、風車は隣の部屋に引き上げていった。

 

 僕が布団に入ると、きくがききょうを抱いて隣に入ってきた。

「疲れは取れましたか」

「ああ、大体は」と言った。

「それは、ようございました」

「心配をかけたね」

「それはいつものことでしょう」ときくは言った。

「それもそうだ」と僕は言った。

「休みましょうね」

「ああ」

 僕は目を閉じた。すぐに眠りはやってきた。

 

 次の日は晴れていた。

「朝餉を食べたら、出立だな」ときくに言ったら、「はい」と応えた。

 風車が顔を出し、揃って朝餉を食べた。

 ききょうは味噌汁を掛けたご飯を食べていた。

 きくが盛った少なめの茶碗一杯分をききょうは食べた。

「ずいぶんと食べるようになったな」と言うと、「そうなんです」ときくも言った。

「ミルクの代わりに白湯にしたら、食事の時に食べるようになりました」と言った。

 それを聞いていた風車が「ミルクとは何ですか」と訊いてきた。僕は困って、「乳のことです」と答えた。

「そうですか」と言ったきり、風車は黙った。僕はホッとした。

 

 朝餉を食べ終わると、宿賃を精算して宿をたった。

「ぬかるみに注意してくださいね」と風車が言った。昨日の雨のせいで道はぬかるんでいた。台車はなるべくぬかるみでないところを押して歩いた。

 周りを見回したが、不審な者がいる気配はなかった。定国も唸らなかった。

 

 少し、歩いて行くと易者がいた。定国が唸った。隠密なのだろう。しかし、易者に扮しているとはどういうことなのだろう。あれでは、僕らを付けてくることはできないだろうに。

 風車が興味を示して、易者の元に走って行った。

「気をつけなさい」と言おうとしたが、間に合わなかった。

 風車はすぐに帰ってきた。

「お代は一両と言うものだから、高過ぎると言って観てもらわなかったのです」と言った。

「一両はないですよね」と僕も言った。

 易者の前を通り過ぎようとすると、「おぬし」と呼び止められた。

「何ですか」と僕が言うと、「観て進ぜよう」と言った。

「一両でしょう。そんなお金は払えませんよ」と僕は言った。

 易者は「ただで観て進ぜよう」と言った。

 易者は僕に何か話したいようだった。

「だったら観てもらいましょう」と僕は言った。

 易者の前に座ると、きくと風車が横に来た。

「気が散るので、他の者は少し離れていてもらえませんか」と易者は言った。

 僕はきくと風車の方を向いて、「済まないが、この易者の言うとおりにして欲しい」と言った。

 風車は「大丈夫ですか」と訊くので「大丈夫です」と答えた。きくも同じことを訊きたかったのだろう。僕の答えに頷いていた。

 風車はなおも「ただで観ると言ったのですから、一両を渡しては駄目ですよ」と言った。

「分かっています」と僕は少し笑いたくなった。

 きくと風車が離れていくと、「右手を出してください」と言った。

「手相を観ているように見えるように」と続けた。

「彼らは離れた。何か言いたいことがあるんだろう」

「ええ」

「公儀隠密だな」

「そうです」

「それがどうして私に話を」

「公儀隠密と言っても一枚岩ではないのです。わたしは最初から鏡殿の成敗には反対でした」

「それは何故」

大義名分がありません」

「そうだな。私は一方的に攻められている。これには怒りも感じている」

「そうでしょうな」

「で、話とは何だ」

「根来兄弟のことです」

「根来兄弟?」

「ええ、一昨日、鏡殿が倒したのは、根来兄弟の長兄の根来信一郎でした」と言った。

「そうなのか」

「はい。彼らは三兄弟で、その下に信二郎と信三郎がいます」

「ほう。あと二人か」

「そうです。しかし、侮れません」

「分かっている」

「彼らは不思議な力を持っています。それはおそらく鏡殿もそうでしょう。でなければ、根来信一郎を倒すことなど出来はしません」と易者は言った。

「私の力が分かっていると言うのか」

「いいえ、はっきりとは。しかし、根来三兄弟の力は知っています。公儀隠密の中でも別格なのです。はっきり言って、公儀隠密の中に彼らに勝てる者はいません。あの柳生一族ですら恐れているのですから」と易者は言った。

「はっきりと言うな。それでは、公儀隠密は私を倒すことができないと言っているのと一緒ではないか」と言った。

「そうです。だから、わたしは鏡殿に手出しをすることは止めた方が良いと言ったのです。しかし、わたしの意見は取り上げられませんでした」

「私の討伐を公儀隠密に命じたのは、幕閣にいるな」

「はい」

「誰だ」

「わたしの口からは」

「ここまで言ったのだ。同じことだ。おぬしが言わなければ、江戸城に乗り込んで、片っ端から斬っていくことになるぞ」と言った。

大目付の二宮権左衛門でござる」

「そうか。手間が省けた」

「でも、あなたは江戸には足を踏み込めませんよ。公儀隠密が阻止するでしょう」

「しかし、おぬしは公儀隠密では私を倒せぬと言ったではないか」

「根来兄弟がいます」

「彼らも兄の元に送ってやるだけだ」

「関所がありますよ」

「関所など、何のことはない」と僕は言った。

「やはり、時を止められるのですね」と易者は言った。

 僕は「どうしてそれを」と言いそうになったが、ぐっと口を閉じた。

「やはりそうなんですね」と易者は言った。そして、「目は物事をよく伝えると言いますよ」と続けた。

「これで易は終わりです」

 僕は立ち上がった。

 そして、きくと風車のいるところに向かった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

三十

 風呂を出ると、昼餉が用意されるまで布団で眠っていた。

 この宿には、昼に用意する御膳が決まっていて、上中下の差があるだけだった。きくと風車が相談して上にした。

 昼餉が用意されると、僕は起き上がり凄い勢いで食べた。

 起きてみると、お腹が空いて空いてたまらなかったのだ。

 おひつはすぐに空になった。お代わりのおひつが届けられると、僕はお代わりをした。

 何杯食べたのか分からなくなるほど沢山食べた。

 大食漢の風車も驚いているほどだった。

 食べ終わって、膳が片付けられると、僕は布団を敷いて横になった。

 横になると、すぐに眠気が襲ってきた。そのまま眠った。

 

「京介様」ときくの声がした。

「おやつはどうしますか、と女将さんが訊きに来ました」と言った。

「近くにお菓子屋さんがあるので、そこで買って来てくれるそうです」

「何があるの」

「羊羹でも饅頭でも、団子でもぼた餅でもあるそうですよ」

「だったら、饅頭二個にあんこの団子を一串頼もうかな」

「わかりました。きくは羊羹とぼた餅を頼みます」

「そうか」

 そう言うと僕はまた眠った。

 ほどなく、お菓子の用意ができた。僕は起こされ、膳の上に載っている饅頭から食べ始めた。

 風車は団子を五本も頼んでいた。あんことタレが二本にきなこが一本だった。

「よく眠っていられましたな」と風車が言った。

「私にとっては、厳しい戦いでしたからね」と言った。

「そうでしょう。倒れて眠っているところを見付けた時には、すっかり死んでいるものと思ったほどですから。しかし、おきくさんは、しっかりしている。鏡殿が死ぬはずはないと信じていましたからね。でも、最初に見付けた時は泣いてましたけれどね」と言った。

 僕は饅頭を食べると、お茶を飲んだ。

 次は串団子を食べた。

 そして、もう一つ残っていた饅頭を口に入れた。

 きくは、ききょうに羊羹を食べさせていた。

 それにしても恐ろしい相手だった。同じく時を止められるということが、これほど力を使うことなのかということもしみじみと感じさせてくれた。

「躰はもう大丈夫なんでしょう」と風車は訊いてきた。

「ええ」と答えると、「どうです、おやつの後はこれで」と碁を打つ真似をした。

 僕は笑った。

 本当はまだ休んでいたかったが、風車には恩義があった。無下に断るわけにもいかなかった。

「では四子で」と僕は言った。

「四子で、いいですよ。やりましょう」

 そう言うと、風車は残りの串団子を素早く食べ終えると、お茶を飲んだ。

 そして、部屋の隅にあった碁盤を取りに行った。

「私が食べ終わるまでは、待っていてくださいね」と言った。

「それはもう」と風車は言った。

「もう、碁ですか」ときくが言うので、僕はきくの方を向いて「仕方ないさ」と言った。

 きくはぼた餅を口に入れたままで、笑っていた。

 

 碁は風呂に入るまでに、三局やった。一勝二敗だった。

 一勝は風車の見落としが原因だった。

 最初に僕が二敗して、最後に勝ったので、風車は「もう一局」と言った。

 その気持ちは分かったが、風呂にはゆっくり入ったという感じがしなかったので、「後でしましょう」と言ってしまった。

 これでは、風呂に入って出て来たら、風車はすぐ碁盤を持ってきそうだった。

 僕はなるべくゆっくりと風呂に入ることにした。

 

 風呂に浸かりながら、あの技を使う一族を全滅させなければと思ったが、その一族が僕の祖先だったらどうしようと思い至った。

 その可能性はあった。

 とすれば、全滅させては僕は生まれてこないことになる。タイムパラドックスという奴だ。

 次に同じような敵に当たったときに考えなくてはならなかった。

 しかし、当面の危機は避けなければならなかった。

 やっつけた相手が鏡姓でないことを願うばかりだった。

 髭を剃った。大して伸びていなかった。記憶はなかったが、朝剃ったからだろう。

 躰をゆっくりと洗った。節々が痛んだ。疲れは至るところに潜んでいた。

 湯船に浸かった。

 風車が近付いてきた。

「またやってくるでしょうか」と訊いた。

「何度でも来るでしょう」と僕は答えた。

「これだけ鏡殿にやられているのに、懲りないのですかね」

「上からの命令なので、しょうがないのでしょう」

「そうなんですか」

「でも、相手も数が足りなくなってきたのは確かです」

「そうなんですか」

「ええ、手練れの者が少なくなってきました」と言った。

「それなら、もうやらなければ良いのに」と風車は言った。

「私もそう思いますよ」と言った。

 

 風呂を出ると、風車は早速、碁盤を持ってきた。

 僕は洗ったトランクスとバスタオルと手ぬぐいを掛け竿に掛けると、碁盤の前に座った。

 すでに四子が置かれていた。そして、風車の第一子も打たれていた。

 僕は黒石を取ると、その石を挟むように打った。取りに行くのではない。白石を圧迫して逃げさせながら、囲んでいく戦術をとったのだ。

 囲碁をしながら考えた。

 相手ももう余分な駒はない。これまでのように無闇に襲ってくることはしないだろう。とすれば、どこかで最終決戦を挑んでくるだろう。やっかいなのは、この間の時を止められる相手だった。その者と同じ力を持った者がそこにいたら、戦いは激しいだけでなく、大変難しいものになる。しかし、僕ならそうする。

 僕が考えるくらいなのだから、敵も考えていると思った方がいい。

 次の戦いが、最後の山になるかも知れなかった。

 

 碁は大きく囲った僕があっさりと勝ってしまった。こんなに大勝したのは初めてだった。

「もう一局」と風車が言った。

 次の局も僕が勝った。

 無理に石を取りに行かずに、最初に置かれた四子を軸に囲えば、自然に勝てるのだ。それに僕は気付いてしまった。

「もう一局」と言った風車が「今度は三子で行きましょう」と言った。

 僕は「いいですよ」と言った。

 三子になると、今までと、まるで違った。一隅は必ず相手が囲うことになる。三箇所囲えたとしても、一隅を大きく囲われると、三箇所の囲いでも数で足りなくなる。

 こっちは守っているだけでは勝てなくなっていた。

 三子では大敗した。

 

 その頃夕餉の膳が運ばれて来た。

 僕らは碁を止めて、夕餉を食べることにした。

 昨夜はただ食べるだけだったが、今日は味わうことができた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十九

 頬を叩く者がいた。

 きくだった。隣に風車もいた。

 足元には、斬り裂いた男が倒れていた。

「あまりに帰りが遅いので、林を上がってきたのです」と風車が言った。

 風車は千両箱を担いでいた。僕がそれに目をやると、「鏡殿を捜している間に盗まれてはいけないと思いましてな」と言った。

「ありがとう」と僕は言った。

「凄まじい戦いだったようですな」と風車が言った。

「ああ」

「上がってくる時、何人も倒されているのが見えました」と風車が言った。

 きくは抱きついてきて、「あなたが無事で良かった」と言った。

「あの商人風の男は」と僕が訊くと「あいつですか。鏡殿が林に向かったら、案の定、襲ってきましたよ。しかし、拙者の敵ではなかった」と風車は言った。

 きくも「風車殿は頼もしかったですよ」と言った。

 僕は立ち上がろうとした。しかし、躰が思うように動かなかった。疲れ切っていたのだ。

 木につかまりながら立ち上がった。

「きく、気をつけろよ」と僕は言った。こんな林の中をききょうをおぶって僕を捜しに来るなんて、無謀にもほどがあった。

「大丈夫です」

 僕は定国を杖代わりに、歩き出した。林の中だったので、足を取られることには注意をした。

 林を抜けるのが、ひどく長く感じた。

 僕は下りながら、きくに「こういうときには風車殿に任せておけば良かったのだ」と言った。でもきくは、「きくは、待ってはいられませんでした。鏡京介様に何かがあったのだと思いました。そう思うと、いても立ってもいられなくなったのです」と言った。

「あまり、おきくさんを責めないでください」と風車も助け船を出した。

「おきくさんの様子は見てはいられませんでしたよ。拙者もおきくさんの躰のこともあるので、待っているように言ったのですが、こればかりはどうにもなりませんでした」と言った。

 下まで下りると、僕はショルダーバッグの中を探した。チョコレートが出て来た。それを一枚頬張った。

「それは何ですか」と風車が言った。

「チョコレートという物です。このように疲れたときには、いい食べ物です」と言った。

 僕はあまり歩けそうになかったので、先の宿に行くより、昼餉を食べた宿場に戻ることにした。

 僕は台車に乗り、風車に押してもらった。

 

 宿場に着いた時は、すっかり日が暮れていた。

 僕は近い宿に泊まることにした。

 台車の荷物を風車に運んでもらって個室に置くと、きくが見張っている間に、僕は風車の肩を借りて、階段を上がっていった。部屋に入ると僕は転がった。そのまま眠ってしまいそうになったが、きくが血に染まっている着物を脱がして、浴衣を着せてくれた。

 浴衣を着ると、僕は畳の上で眠ってしまった。

 

 起きたのは、夕餉の時だった。

 何とか夕餉を食べると、お茶を何杯かお代わりをして、食べ終わると、すぐに眠ってしまったようだ。

 布団には、風車ときくに運ばれて横になったようだった。

 次の日まで、僕は死んだように眠っていた。

 朝起きると、雨だった。

「雨か」と僕が言うと、きくも「雨ですね」と言った。

 これを恵みの雨というのだ、と僕は思った。実際のところ、今日も歩くのはしんどかったからだ。

 僕は布団に戻ると眠った。

 

 朝餉が用意されることになり、僕は布団から起きた。

 しかし、部屋の隅で寝転がっていた。風車が隣に座って、「それほどまでに疲れるとは、相手も手強かったのですね」と言った。僕は頷くのがやっとだった。

「それにしても、あれだけの数を倒すとは信じ難いことです」と風車が言った。

「鏡殿だから、できたことですね」と続けた。

 僕は応えることができなかった。

 それにしても、自分と同じように時を止めることができる者に出会ったことが衝撃だった。打ち破ることができたから良かったものの、そういう者がいるということは他にもいる可能性はあった。

 同じ能力を持つ者に不意を突かれたら、今度はこちらがやられることだろう。それだけは避けなければならなかった。

 同じ能力を持つ者が敵にいるのなら、早めに見つけ出して倒さなければならない。

 この能力を持っている者であるのなら、名のある者に違いない。いずれ、倒した者のことが知れよう。そうすれば、その縁者を根絶やしにしなければならない。

 僕には新たな目的ができた。

 

 朝餉を食べると、風車が「風呂に入りに行きませんか」と言った。

 昨日は、風呂にも入らず眠ってしまった。まだ、躰がだるいので断ろうとしたが、頭にも血を浴びていることを思い出し、「いいですね」と言った。

 だるいが、何とか躰は動く。風呂に入って、躰の筋肉をほぐすことも良いのではないかと思った。

 血で汚れた着物は、昨夜、きくが洗って干しておいてくれた。僕は、新しいトランクスと折たたみナイフとバスタオルと手ぬぐいを持つと廊下に出た。

 風車が待っていた。

 階段を下りて風呂場に向かった。

 

 頭を洗うと血が固まったものが落ちてきた。それらがなくなるまで頭を洗った。そして、髭を剃り、躰を洗った。

 湯に浸かると風車が寄ってきて、「昨日は大変な戦いだったのですね」と言った。

「ええ」

「いつまでも戻ってこないので、最初は拙者だけで見に行こうとしたのです」と風車が言った。

「おきくさんはお腹があんなでしょう。だから、止めたんです。でも、胸騒ぎがすると言って聞かなくて」と続けた。

「そうでしたか」

「おきくさんが行くのでは、台車を見ている者がいなくなる。何しろ千両ですからね。拙者も仕方ないと思い、千両箱を担いで、鏡殿を捜しに行きました」

「苦労をかけましたね」

「それは良いのです。でも、倒れられているのを見て、おきくさんは最初は泣いていたんですよ」

「そうなんですか」

「斬られたと思ったんでしょうね。拙者にもそう見えましたから。しかし、眠っていたなんて」と言うと風車は笑った。

「私はひどく疲れると眠ってしまうんです。だから、捜しに来てくれなければ、夜まで眠っていたでしょう。いや、朝までかも知れない」

「あの様子では朝まで眠っていたでしょうね」

「とにかく、捜しに来てくれて助かりました。ありがとうございました」

「いえいえ。風呂を上がったら、一局、という訳にはいきませんよね」

「ええ。寝させてもらいます」

「それが良いでしょう」

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十八

 次の宿場に着いたので、昼餉をとることにした。

 僕は焼き鮭定食にした。

「拙者もそれにするかな」と風車が言った。

 きくは鴨南蛮にご飯を頼んだ。

 時間を止めての戦いは疲労感を伴う。こればかりはどうしようもない。今は相手は小出しに戦いを仕掛けてきているが、一気に来られたときにこちらの体力が持つかどうか心配だった。

 だが、その時はその時だと腹をくくるしかなかった。

 商人らしき男が店に入ってきた。定国が唸った。

 僕は風車の耳元に口を寄せて、「今の男、隠密ですよ」と言った。

「わかるのですか」と訊くので、僕は頷いた。

 そして、また風車の耳元で「この先にも公儀隠密が待ち構えているということです」と言った。

「そうですか。ではここでしっかり腹ごしらえをしておかないといけないですな」と風車は言った。

 僕は苦笑した。戦うのは、風車ではなく僕なのだがな、と思った。

 商人風の男は斜向かいの席に座った。

 掛け蕎麦を頼んでいた。

 僕らの昼餉が運ばれて来たので食べた。食べ終わると、風車の言うように、しっかり腹ごしらえをしておいた方がいいと思えてきたので、掛け蕎麦を追加注文した。風車も同じく掛け蕎麦を注文した。

 ききょうは美味しそうに汁のかかったご飯を匙で食べていた。

 これからが大変なんだぞ、とききょうの笑顔に向かって、僕は心の中で呟いた。ききょうの笑顔が救いだった。次の戦いがいくら激しくなりそうだとしても、ききょうを思い出せば僕は戦える。僕には、失ってはならないものがあるのだ、と思った。

 ききょうに匙でご飯を与えているきくも見た。きくも失ってはならないものになっていた。

 斜向かいの男は、掛け蕎麦を食べ終わったのに、なかなか出て行かない。その代わりにお茶を飲み、おかわりをしている。

 僕らが出るのを待っているのだろう。

 斜向かいの男の様子には、風車も気付いていた。

「おかしいですよね」と小さな声で僕に言った。僕は黙って頷いた。

 僕らは食べ終わると、きくが哺乳瓶に白湯を貰いに行き、勘定を済ませると店を出た。

 商人風の男も出て来た。

 僕らがゆっくり歩いている後ろを付いてきた。

 

 街道を通っていくと林が見えてきた。定国が唸り出した。あの林の中に敵は潜んでいるのだ。

 僕は風車を見た。

 風車は「あの林ですね」と言った。

「ええ」と応えた。

「おきくさんたちは任せてください」と風車が言った。

「後ろの商人には、くれぐれも気をつけてください」と言った。

「承知しています」と風車は言った。

「では、頼みます」と言うと、僕は林の方に向かって走り出していった。林に入る前に、矢が襲ってきた。定国で叩き落とすと、林の中に突っ込んでいった。

 次の矢をつがえようとしている者たちを、時を止めて、その腹を次々と切っていった。そして少し離れると時を動かした。様子を探った。

 定国は上の方を指して唸っている。僕は林を駆け上がって行った。安全靴に履き替えておけば良かったと思ったが遅かった。

 もう敵と遭遇していた。

 相手は槍で突いてきた。その槍は定国で簡単に切り落とすことができた。

 相手の槍部隊は十人だった。二十人槍を経験している僕には、子どもを相手にしているようだった。時を止める必要はなかったが、返り血を浴びることが嫌で、時を止めて十人の腹を切り裂いた。そして、離れると時を動かした。

 まだ上に敵はいた。

 山道に出た。そこに五人ばかり、剣士がいた。どれも手練れの者たちだった。常時だったら、普通に立ち会いたかったが、今は戦場だった。勝つことが第一義だった。

 僕は時を止めて、彼らの腹を切り裂いた。

 時を動かすと、信じられぬという顔をして彼らは倒れていった。

「なるほど、そういうことか」と言う声が後ろからした。

 振り返ると、僕と同じ丈ぐらいの男が着流しで立っていた。刀は抜かれていた。

「時を止められるのか」と男は言った。

「そうでもなければ、この一瞬にそこにいる者たちを斬ることなど不可能だからな」と続けた。

 男は刀を鞘に収めると、「ここは引くに限るな」と言った。

 僕はそいつに秘密を知られた以上、逃がすわけにはいかなかった。時を止めた。そして、そいつの前に回り込んだ。腹を切り裂こうとしたら、その刀を止められた。

 僕は驚いた。

「残念だったな。わたしも時を止められるんだよ」と男は言った。

 なら、なおさら逃がすわけにはいかなかった。

 僕は腹を裂くのを諦めて、正眼に構えた。

 相手は動いてこなかった。こちらから行くしかなかった。僕は定国を突き出した。素早くその刀を弾かれた。そして、すぐに突いて来た。僕はその突きを外すと、相手の小手を狙った。しかし、それも外された。止まっている時間の中でも、相手は自由に動けた。

 そして、強かった。

 相手は次々と刀を繰り出してきた。それを弾くのが精一杯だった。時間を止めていられなくなった。時を動かすしかなかった。

「そこが限界か」と相手は言った。

「わたしはまだ止められるぞ」と言って、相手は時を止めた。

 僕は止められた時間の中を動かなければならなくなった。それは時を止めているのと、代わりはなかった。限界を超えて、時の止まっている中を動いた。

 激しい剣が襲ってきた。定国はそれらの剣をことごとく弾き返してくれた。

「これが最後だ」と言って、相手は上段に構えた。そのまま打ち下ろしてくるのだろう。

 僕も上段に構えた。相手の力量が勝っていることは紛れもないことだった。この勝負は僕の負けだろう。ここまでだと思った。

 相手の刀が振り下ろされた。僕も定国を振り下ろした。すると、不思議なことが起こった。相手の刀が切り裂かれていったのだ。定国の方が硬かったのだ。そのまま、相手の胴体を斬り裂いた。

 恐ろしい戦いだった。時が動き出した。しかし、僕はその場に倒れてしまった。倒れたら、起き上がることもできなかった。そしてそのまま眠ってしまった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十七

 朝餉が済むと、きくはききょうの白湯を貰いに行き、宿を後にした。

 今日もいい天気だった。いつもより街道を歩く人の数が多かった。

 しばらく、台車を押して歩いていた。すると、定国が唸る音がした。

 僕は周りを見廻した。怪しい人たちは見当たらなかった。

 それでも歩いていると、定国が唸る。敵が近くにいるのだ。しかし、普通の通行人以外は見当たらなかった。侍も見なかった。

 僕は「少し休みます」と風車に言って、路傍の石に座った。

 商人が通り過ぎていった。定国は唸らなかった。次に若い夫婦者が通り過ぎていった。定国が唸った。彼らが公儀隠密だったのか、と思った。立ち上がろうとすると、また定国が唸った。今度は老人夫婦だった。彼らが通り過ぎていくまで定国は唸り続けた。そして、若者が通っていった。これにも定国は反応した。これで五人、公儀隠密がついて来ていることが分かった。最後に若者が通り過ぎた後は、定国は唸らなかった。

 僕はゆっくり歩いて彼らとの距離を空けていった。

 彼らは襲ってくるつもりはなかったようだ。いわば心理戦を挑んできているのだろう。こちらが、彼らの存在に気付いて、気を遣えば、それだけ気力を消耗させられると思ったのだろう。

 しばらく行くと、老夫婦が休んでいた。そしてその先には、若い夫婦も休んでいた。

 最後は若者だった。

 人通りは絶えずあった。ここで斬り合いをするわけにもいかなかった。僕は仕方なく、時を止めた。そして、老夫婦と若い夫婦と若者のところに行き、定国を抜き、峰打ちで、右足を折った。これでついては来られなくなった。

 時を動かすと、僕はさっさと歩き出した。呻く老夫婦を振り返り見て、風車は「彼らを助けなくては」と言った。

 僕は即座に「彼らは公儀隠密です。放っておけば良いです」と言った。

「そうなんですか」と風車は言った。

「そうです」と僕は答えた。

「でも」と風車は言うから、僕はきくに「台車を見ていてくれ」と言い残すと風車を連れて取って返した。そして、倒れている老人の前に立つと、その杖を引ったくった。

 風車に見えるように杖を差し出すと、左右に引いた。すると、中から刀が現れた。仕込み杖だったのだ。

「何と」と風車は言った。

 僕は引き抜いた仕込み杖を老人に突きつけて、「命だけはとられなかったことを感謝するんだな」と言い放った。

「他に呻いている者たちもそうなんですか」と風車が言った。

「そうです。彼らは誰にでも変装することができるんです。だから、気が抜けません」と僕は言った。

「驚いたな」と風車は頭をかいた。

 きくのところまで行くと「どうでしたの」と訊くので、「公儀隠密だったよ」と答えた。

「まぁ」

「人通りがあるから、斬ることはしなかったが、足の骨は折った」と僕が言うと、「いつの間にですか」と風車が言った。

 僕が笑いながら「風車殿が気付かない時にですよ」と言った。

「でも、拙者は鏡殿と一緒でしたがな。気付かないはずがないんだけれどな」と首を捻っていた。

「相手は、変装して私に近付いて、倒す機会を狙っていたのです。これからは、旅の者にも気をつけなければなりません」

「そうですね」と風車は言った。

 

 先に進んでいくと林が見えてきた。定国が唸り出した。

「この先の林に公儀隠密が潜んでいます。風車殿は、ここできくとききょうをお守りください」と言った。

「わかりました。任せておいてください」と風車は言った。

 その言葉を聞くと、僕は林に向かって走り出していた。そして、林に飛び込んでいった。

 手裏剣が無比の正確さで向かってきた。それを定国で叩き落とすと、手裏剣の飛んできた場所に向かった。しかし、そこにはすでに誰もいなかった。

 そして、次の手裏剣が飛んできた。かわすのがやっとだった。

 時を止めるしかなかった。手裏剣の飛んできた方に向かった。そこにいた者は、もう別の木に飛び移ろうとしていた。その者の下に来ると、その者の腹を定国で切り裂いた。そして、離れると、時を動かした。

 ざわつきを感じた。この手裏剣使いがもっとも達人だったのだろう。

 ざわつく方向に向かって走ると、五人がいた。それらの者も時間を止めて腹を切った。

 そして離れて時間を動かした。林にはまだ敵がいた。

 定国がその方向を教えてくれるので、そこに向かって走り、時を止めて、腹を切り裂いていった。そして時を動かした。これを十二回繰り返した。敵は百十六人いた。

 手裏剣使いはこれで全滅したのだろう、と僕は勝手に思った。

 十数人は手強かったが、後の者たちは慣れない者たちだった。もう手裏剣を投げ慣れていない者でも狩り出さなければならないところまで、相手は追い詰められているということだ。そして、もっとも手強い手裏剣の達人は倒した。

 手裏剣については、もう怖いことはないと思った。

 

 僕は林を出ると、着物の裾を直して、風車やきくとききょうのところに行った。

「相手は何人でした」と風車が訊くので、「百十六人です」と答えた。

「そんなにも大勢を相手にしたのですか」と風車は驚いていた。

「ええ」

 でも僕の戦い方を身近で見てきているだけに、僕の言ったことが本当だと風車はすぐに理解した。

「この先も襲ってきますかね」

「襲ってくるでしょう。もっと激しくなると思いますよ」と言った。

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十六

 草道はでこぼこしていて、台車に乗った妊婦には快適とは言い難かっただろう。しかし、それよりも陣痛の方に気持ちが行っていたかも知れない。

 僕も心が急いた。まさか、台車の上での出産は勘弁してくれと願った。

 一キロが遠かった。いくら台車を押しても、農家は近付いてくるようには思えなかった。

 風車が先に農家の方に走っていった。そこの者に事情を話して、出産の準備をさせようとしているのだろう。

 亭主は妊婦の手を握っていた。揺れる台車では、妊婦の不安も大きいだろう。僕は、台車がもってくれることを願うだけだった。

 きくは妊婦の側にいて、励ましていた。出産の経験があるだけに、まだ十五歳でしかないのに頼もしかった。

 僕はいざとなったら、時を止めるつもりだった。

 しかし、今のこの状況ではなるべくそれは避けたかった。

 今は、この重い台車を押すしかなかった。

 農家から人が出て来た。荷車を出してきてくれた。

 僕の押している台車よりよほど大きかった。

 台車と荷車が近付いた。僕は台車を止め、妊婦を抱え上げ、荷車に乗せた。

 荷車を押してきた者は、今度は荷車を引いて歩き出した。

 僕は台車に戻り、その後を追った。

 こうして、農家に着いた。

 荷車に乗っていた妊婦は農民と一緒にすぐに農家の中に入っていった。

 亭主と風車も一緒に入っていった。

 きくは僕を待っていた。

 僕はきくのところまで行くと、台車を庭の隅に置かせてもらった。そして、農家に入っていった。

 妊婦は奥の座敷にいて、亭主はその妊婦についているようだった。座敷の襖が閉められていた。

 風車は土間の廊下に座っていた。

 僕も風車の隣に座った。きくも僕の隣に座り、ききょうを降ろしていた。

「隣の家に取り上げ婆を呼びに行っているところです」と風車は言った。

「お隣と言っても結構遠いのかな」と言うと、風車は頷いた。

「今、お湯を沸かしているところだそうです」

「そうですか」

 きくがききょうに哺乳瓶から白湯を飲ませていた。

 時がのろのろと動いているように感じた。僕らにすることはなかった。

 白髪の老婆がお茶を載せたお盆を差し出してきた。

「喉が渇いておるじゃろ」と言った。

「ありがとうございます」と僕も風車もきくも言った。そして、お茶を飲んだ。

 なかなか、取り上げ婆は来なかった。

 僕らが襖の閉められた奥の座敷に視線を向けると、老婆は「そう簡単には生まれやせんよ」と言った。

 それもそうだと思ったが、落ち着かなかった。

「蒸かし芋しか作れんが、食べるけ」と老婆が言うので、「ええ、ありがたくいただきます」と僕も風車も言った。

 老婆は竈に向かった。

 考えてみれば、僕らが農家に留まる理由はなかったが、赤ちゃんが無事に生まれてくるところに立ち会いたいという気持ちは捨て難かった。

 蒸かし芋ができた頃に、取り上げ婆が来た。

 僕らが蒸かし芋を食べている頃に、突然慌ただしくなった。

 いよいよ出産が始まったのだ。

 盥が用意され、その中にお湯が入れられた。

 どれくらい時間が流れただろう。そのうち、産声が聞こえてきた。

「男の子だそうです」と様子を窺っていた風車が言った。襖が開けられ、赤ちゃんが連れてこられて、うぶ湯に浸かった。そして、抱き上げられると白い布で拭かれ包まれた。そして母親の元に戻っていった。

「お母さんは今日はうちに泊まっていくしかないが、あんた方はどうするのけ」と老婆が言った。

「いや、私たちはこれで失礼します」と僕が言った。

「そうけ」と言うと、老婆は奥の座敷に行った。

 すると、奥の座敷から亭主が走ってきて、「ありがとうございました」と言った。

「いやいや、困ったときに、助け合うのはお互い様ですから」と風車が言った。

「私たちはこれで失礼します」と僕が言うと「あなた方がいてくださったおかげで助かりました。ありがとうございました」と亭主は言った。

 僕らは頭を下げて、土間を出た。庭の隅に止めてあった台車を取ると、草の生い茂る道を戻っていった。

 

 宿場に着いたのは、少し遅くなった頃だった。

 個室がなかなか取れなかった。それでも、何件か探して、個室が取れるところを見付けると、そこに泊まることにした。

 湯に浸かりながら、風車が「今日は大変でしたね」と言った。

「まったく」

「鏡殿もおきくさんのお腹に赤ちゃんがいるんだから、他人事じゃなかったでしょう」と言った。

 なるほど、そう思うものなのかと僕は思った。

 でも月数からして、きくが赤ちゃんを産むのは、江戸に着いてからだと思った。江戸にはいい産婆もいるだろう。僕は心配はしていなかった。ただ、きくの躰には注意が必要だった。こんなときに、公儀隠密に狙われているのは、困りものだったが、相手がいることだから、仕方なかった。今は向こうが狙ってきているが、そのうち、それもできなくなるだろうと僕は思った。公儀隠密が活動できなくなるほど、壊滅的な打撃をそのうち与えるつもりだった。そうでなければ、江戸に向かう意味がない。このまま現代に逃げてしまえば、追手は来れないのだから。でもそうはしたくなかった。こうまで執拗に狙う相手をこのままにしておくものかという気持ちが僕には強かった。

 

 夕餉の席でも、風車は今日の出産の話で盛り上げてくれた。あの妊婦が苦しんでいたのに、僕が通り過ぎていたのを、風車が声をかけたのだ。現代人は他人を無視するが、江戸時代の人である風車は、放ってはおけなかったのだ。風車のおかげで、あの夫婦はどんなに助かったことだろう。

 僕は風車を見直していた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十五

 次の宿場に着くと、早速泊まるところを探した。

 個室に泊まれるところが見つかったのでそこにした。この辺り一帯は温泉が出るそうだ。僕は久しぶりにゆったりと湯に浸かれることに期待した。

 風車は早速、碁の手つきをしていた。

 風車には分からないことだが、今日も激しい戦いをしたのだ。時を止めるというのは、思っていた以上に疲れるものだ。その疲れは徐々に現れる。

 

 折たたみナイフで髭を剃り、頭と躰を洗うと湯に浸かった。目を閉じていると、眠ってしまいそうだった。

「境内にはどれほどの敵がいたのですか」と風車が訊くので、「五十人」と答えた。

「五十人もですか。でも、すぐにやってきましたよね。五十人相手に、よくそれほど時間をかけずに倒せましたね」

「相手が弱かったからです」と僕は嘘を言った。風車に話しかけられるのが面倒だった。

 頭を石につけて、目には手ぬぐいを載せた。その格好で湯に浸かっていると、眠ってしまった。

「鏡殿」

 風車の声がした。

「あまりの長湯は、かえって躰に毒ですよ」と言った。

 僕は起き上がった。

「眠っていましたか」

「ええ」と風車が言った。

「疲れているんですね」

「そうですね」

「今日は、碁は止めておきましょう」と風車が言った。

「そうしましょうか」と僕は言ったが、ほっとした。

 

 夕餉は意外に豪勢だった。鰺の塩焼きに鯉のあらいに鯉濃だった。後、煮物が二品ついて来た。

 酢味噌で鯉のあらいを食べた。初めてだったが美味しかった。

 風車は美味そうに食べた。きくも食べるのは初めてだと言ったが「美味しい」と言っていた。

 鯉のあらいは、生ものだったので、ききょうに食べさせるのは止めた。その代わり、鯉濃の身をほぐして食べさせた。

 

 夕餉が終わると膳が片付けられ、布団が敷かれた。

 僕がすぐに布団に潜り込むと、「おやすみなさい」と言って風車は隣の相部屋に行った。

 きくがききょうを抱いて、隣に潜り込んでくると、「今日は大変でしたね」と言った。

 僕は目を閉じたまま「ああ」と言った。

「風車様がいましたが、忍びの者に囲まれた時は、生きた心地がしませんでした」と言った。

「そうだろうね」

「京介様が、時を止めて相手を倒されたことを風車様に知られはしませんでしたか」

「さすがにおかしいとは思っただろうが、時を止めているとは思ってもいないだろう」と言った。

「そうですよね。わたしも何度も経験しなければ、信じられませんでしたから」

「もう寝かせてくれ」と僕が言うと、「済みませんでした。きくの心遣いが足りませんでした」と言った。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 

 次の日も良い日だった。

 朝餉を済ませると、早速宿を後にした。

 宿を出ると、田んぼが続いていた。見渡す限り、青い稲の海原だった。遠くに農家が見えた。

 辺りに公儀隠密の姿はなかった。

 僕らはゆっくり歩いていたから、何人もの人に追い抜かれていった。

 江戸時代の人は健脚だったのだ。大仙道を歩くことなど日常的な人も多かった。

 少し歩いて行くと、若い夫婦が道ばたにしゃがんでいた。

 通り過ぎようとしたところ、風車が声をかけていた。

「どうしたんです」

「女房に陣痛が来たようなんです」と若い亭主の方が言った。

「えっ」と風車は驚いたが、それを聞いた僕も驚いた。

 きくが駆け寄っていった。

「京介様」と僕を呼んだ。

「この方は今にも、お子が生まれそうです」と言った。

「だが、ここは街道の途中だぞ」と僕は言った。前の宿場にも、次の宿場に行くにも一里はありそうだった。悪いことに、ちょうど宿場と宿場の間だったのだ。

「でも、子は待ってはくれません」ときくが言った。

 風車が辺りを見廻して、「あそこに農家が見えますな。あそこに行くしかありませんね」と言った。

 その農家を見て、農家まで一キロぐらいかなと思った。

「そうだな」と僕は言うと、妊婦をどう運ぶか考えた。

 今、押している台車が目に入った。ここに乗せて行くしかなかった。

 荷物を整理して、婦人に台車に乗るように言った。

 婦人は不安げな目をした。しかし、亭主が「そうさせてもうらしかない」と言うと台車に乗った。

「ではあの農家に向かいましょうか」と僕は言った。

「お頼みします」と亭主が言った。

 僕は台車を押してみた。

 重かった。しかし、これで行くしかなかった。