小説「真理の微笑 真理子編」

九-2

 赤いポルシェで百貨店に向かった。
 そして、銀座のとある百貨店に入った。
 婦人物のスーツの専門店を見つけたので、中に入っていった。
「何かお探しでしょうか」
 何人かいた店員の中から、真理子と同じくらいの年齢の女性が声をかけてきた。
「会社に来ていくスーツを探しているんですけれど」と真理子は言った。
「スカート系とパンツ系とがありますが」と尋ねるので「スカートの方で探してくださる」と答えた。真理子は、ジーンズ以外はほとんどスカートを着用していた。パンツだと裾が気になるのが嫌だったのだ。
「では、こちらにお越しください」
 店員に案内されて、スカート系のスーツが並んだコーナーに行った。
「お客様の体型ですとこれなんかがお似合いになると思いますよ」
 店員は、腰回りがすっきりとしたスーツを出し、上着を真理子の背中に当ててみた。
「着てご覧になりますか」
「ええ」
 真理子はそのスーツの上着を着てみた。腰回りは良かったが、胸のあたりが窮屈だった。
「もう少し胸回りが大きい方がよろしかったですね」と店員は言い、すぐに別のスーツを持ってきた。腰回りは先程と変わらなかったが、胸回りは大きくなっていた。ボタンを締めて鏡に映してみた。躰を左右にひねってみた。窮屈さは感じられなかった。背丈にも合っていた。
「これならいいわ」
 そう真理子は言った。
「ではスカートをお試しください」
 店員は、真理子の胴回りと、ヒップ周りをメジャーで測ると、試着室の方に真理子を連れて行って、二着のスカートを渡した。
 一着は胴回りは合っていたが、ヒップが少し窮屈に感じた。もう一着は胴回りもヒップもぴったりとしていた。ただ、どちらも少しスカートの丈が長めだった。
 真理子は胴回りもヒップもぴったりとしていた方を穿いたまま、試着室のカーテンを開け、スカートの丈の長さを膝が少し隠れるぐらいまでにして欲しいと言った。真理子が持っているスカートタイプのスーツはそれぐらいの丈だったのだ。店員はピンで、その位置を止めて、「これぐらいでしょうか」と訊いた。真理子は「ええ」と答えたが、試着室に椅子があるのを見ると、「座ってみてもいいですか」と訊いた。
「どうぞ」
 店員がピンで留めた位置で座ると、かなりスカートがずり上がって、鏡に映すと膝が完全に現れ、奥の方まで見えそうだった。仕事をしているときには、膝をくっつけておくのが難しい時もある。これではスカートの中が覗けそうだった。
「もう少し長くしていただけますか」
 そう言うと、店員は、スカートの位置を膝が完全に隠れてその下に指二本が横に入る程度までのところでピンで留めた。
「これでどうですか」
 真理子は座って、鏡に映してみた。膝が半分ほど現れるくらいにまではずり上がるが、先程に比べると、多少動いても中が覗けるということはなかった。そのまま立ち上がると、膝下までスカートはきた。普段、穿いているスカートの感覚からすれば少々長めに感じたが、仕事用だと割り切ればこれでいいと思った。
 一着では足りないので、ベージュ系のもの二着と紺色系のもの二着とダーククレーの五着を選んだ。
「お直しですけれどもお急ぎですか」
「ええ。できれば今日、持ち帰りたいと思っています」
「申し訳ありません。スカートのお直しは……」と言いかけて「ちょっとお待ちください」と店員が言うと、カウンターに向かい、そこにいた店員と何か話をしてカレンダーを見た。そして、戻ってくると、「誠に申し訳ありません。スカートのお直しになると、最短で今週の木曜日になります」と言った。
「そう、困ったわね、急いでスーツがいるんだけれど」
 そう真理子が言うと、「失礼ですが、パンツ系では駄目でしょうか」と店員が言った。
「パンツ系はあまり好きじゃないんだけれど、それなら早くできるの」
「パンツ系でしたら、少々お時間をいただきますが、裾上げだけで済むのでしたらすぐにお直しできますが」
「どのくらいかかりますか」
「二時間ほど、お時間をいただければできると思います」
「そう、二時間ね」
 真理子は腕時計を見た。午後二時だった。
「じゃあ、パンツ系も見せてくれる」
「こちらのお品はどうなさいますか」
「それも頂くわ。木曜日に取りに来るわ」
「ありがとうございます」
 そう言うと、真理子はパンツ系のスーツのあるコーナーに案内された。
「何色にされますか」
 真理子は少し濃いめのベージュのスーツを指した。
「裾は広めがいいですか、後はストレートと細めがございますが」と訊いた。
「ストレートでいいわ」と答えると、店員は、先程真理子が上も下も試着をしたのを見ていたので、上はあるサイズのものを取り、下は別のサイズのを持ってきた。
 まず上を渡して「こちらをお試しになってみてください」と言った。
 真理子が着ると、先程自分が選んだサイズとぴったりだった。躰を左右によじってみたが、違和感はなかった。
「これでいいわ」
「では、おズボンの方をお穿き頂けますか」
 店員は、先程と同じように試着室に真理子を案内して、「こちらをお使いください」と言って、そのズボンを渡した。
 真理子は試着室に入って穿いた。少し腰回りが緩く感じたが、ヒップはぴったりしていた。試着室のカーテンを開けた真理子は「どう」と訊いた。
 店員は「お似合いです」と答えた。
「ちょっと腰回りが緩い感じがするんだけれど」と真理子が言うと、「座ってみて頂けますか」と言った。
 真理子は試着室にあった椅子に座った。先程は緩いと感じていた腰回りがぴったりときた。
「ああ、そういうことなのね。これでいいわ。裾を合わせてくれる」
 真理子がそう言うと、店員は、ひざまずいて、右のズボンの裾を上げて「どうでしょう」と訊いた。くるぶしが隠れる程度の長さだった。その位置にピンを刺した。真理子は椅子に座ってみた。踝の上まで出た。しかし、短すぎるという感じはしなかった。
「これでいいわ」
 そう言うと店員は試着室から真理子が出て来るのを待つと、ズボンを受け取り、店内にある時計を見て「四時少し過ぎには仕上がってます。裾はストレートでいいんですよね」と確認した。折り返しを付けるのかどうか、訊いたのだ。
 真理子は「ストレートでいいわ」と答えて「では四時半に来ます」と言った。
「承りました。そのお時間にお待ちしております」
 真理子は会計を済ませて店を出た。これから二時間ほど、時間を潰さなければならなかった。夕食のおかずを買うにしても二時間は長すぎた。
 ただ、百貨店に来たのは久しぶりだったので、あちらこちらの店舗を見て回ることにした。
 ストッキング専門店では、いろいろな柄のあるものが何種類も取り揃えられていたので、あれこれ見ていくうちに、何足か買っていた。五足以上買っていたのは事実だった。毎日違うストッキングを穿いていくには、最低六足は必要だったからだ。
 次に下着店でもあれこれ知らずのうちにいくつも買い込んでいた。忽ち両手は買い物袋でいっぱいになった。
 それから夕食のおかずを買おうとしたが、すでに二時間は経っていた。それでも焼くだけでできるハンバーグステーキセットを買った。付け合わせもついていて、電子レンジでチンするだけで良かった。主食はパンにした。拳ほどの大きさのパンの詰め合わせを買って店を出た。
 スーツを買った店に戻ったのは、二時間半後だった。
 すでに仕立て直されていて、真理子はそのスーツを試着室で着て確認してから、スーツを受け取った。スーツは簡易のスーツケースに入れられていたが、荷物が増えたので持つのが大変だった。
 駐車場まで来ると、荷物を後ろの座席に置いて、車を出した。
 家には、午後六時頃着いた。
 買ってきたものを家に運ぶと、真理子はくたくたになった。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

九-1
 家に戻り、ハンドバッグから指輪を取り出して、何度も見た。そして自分がしている結婚指輪とも合わせて見た。しかし、何度見ても、どこから見ても、これは富岡がしていた結婚指輪に違いなかった。
 ということはICUにいる男は富岡修であると認めないわけにはいかなかった。
 だが、手帳や革靴や服や免許証などやアルコールのことが、謎のまま残っている。こればかりはどう考えても説明がつかなかった。
「いずれわかる時が来るわ」
 真理子はそう声に出して言ってみた。そうすると、不思議なもので本当にそうなるような気がしてきた。
 考えてみれば、ICUにいる男は、今は意識不明の状態だが、容態が急変するかも知れないし、しなければ、いずれ意識を取り戻すだろう。いや、このまま意識がない状態のままかも知れない。意識がない状態のままなら、半分死んでいるのも同然のわけだし、意識が戻ったとしたら、数々の疑問は本人が晴らしてくれるだろう。
 とにかく時が来るのを待つしかない。これが真理子が出した結論だった。
 そうであれば、もうあれこれ考えるのは、無駄なことだと思えてきた。先に進むしかないのだ。
 すでに運命は自分の手で変えて動き出しているのだ。
 そう思うと、真理子はわからないことに拘ることは止めることにした。
 運命を変えたのであれば、それに抗うのではなく、その運命にうまく乗っていくしかないのだ。
 そう思った時、心の負担が軽くなったような気がした。
 病院に出かける前に、保険会社に電話しておいたことが、さらに心の負担と、そして経済的なことの不安を軽くしてくれた。
 普段着に着替えると、急にお腹が空いてきた。時計を見ると、午前十一時を回っていた。病院から戻ってきたのは、一時間ほど前のことだったから、随分と長い時間、考えていたことになる。
「馬鹿みたい」
 真理子は自分らしくないぞ、と自分を叱った。
 冷蔵庫を開けてみた。すぐに食べられそうなものはサラダぐらいしかなかった。しかし、サラダだけで満足する感じでもなければ、何か作ろうという気はしなかった。
 これから買物に出かけるのも面倒だった。
 居間に戻って、電話の受話器を取った。そして、寿司屋にダイヤルして、特上を一人前頼んだ。

 寿司を食べ終えると、富岡の手帳を開きながら、明日のことを考えた。
 まず、病院に寄り、富岡の容態を訊き、特に変わりがなければ、そのまま会社に向かうつもりだった。
 富岡の手帳には、自分にはわからない記号や数字がいっぱい書いてあった。富岡の手帳を直接、高木に見せるつもりはなかったが、これらの記号や数字の意味は、高木ならわかるかも知れなかった。だから、メモ用紙に書き写したものを高木に見せて、その意味を教えてもらうことにした。もし、高木でもわからないことなら、それはそれで仕方ないと思った。
 それから、今後のスケジュールについても高木と相談する必要があった。
 今の富岡の状態ならすぐに退院することはできないだろう。良くなるとしても数ヶ月は入院することになると思っておいた方がいい。そうであれば、その間のことをどうするのか、決めなければならない。
 真理子は自分の手帳に、明日すべきことを箇条書きにして書き込んでいった。
 こうすると、何がすぐに必要で、何が後回しにできるかがはっきりしてくるのだった。
 先週の土曜日までは普通の主婦だったのが、今や社長代理のようなことをしている。この一週間ほどの間で、ものすごく人生が変わったことを意識しないではいられなかった。
 しかし、考えてみれば、由香里を尾行し始めた時から、人生が変わっていたのかも知れなかった。もうその時には普通の主婦ではなくなっていたのかも知れなかった。そう真理子は思った。
 時計はお昼を回っていた。
 真理子は明日から会社に出るのが日課になることを意識した。そうすれば、当然着ていくものにも気をつけなければならなかった。会社で働くとなれば、そう派手な格好をしている訳にはいかなかった。といって、仕事用のスーツ類は何着もというか、ほとんど持ってはいなかった。
 毎日、同じスーツで会社に行くのは、真理子の美意識では恥ずかしかった。スーツを買いに出かけようと思った。

小説「真理の微笑 真理子編」

八-2

 陽の光に目が覚めた。昨夜は何時に眠ったのかさえ、覚えてはいなかった。今は午前七時少し前だった。
 起きるとすぐにシャワーを浴びた。バスローブのまま、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出して飲んだ。
 そして書斎に行き、金庫を開けた。この中に自動車保険に関する書類が入っていた。それはすぐに見つかった。
 時計は午前七時を過ぎていた。大きく書かれていた電話番号に電話した。しばらくして受付が出た。
「どのような用件でしょうか」と訊かれたので、夫が事故に遭ったことを話した。すると、「担当の者にお繋ぎしますから、しばらく、お待ちください」と言われた。待っている間、
オリビア・ニュートン・ジョンOlivia Newton-John 一九四八年九月二十六日 -  )の「そよ風の誘惑」(作詞・作曲 ジョン・ファーラー、リリース一九七五年一月二十一日、MCAレコード)が流れた。五小節目に入ろうとしたところで、「お待たせしました」と相手が出た。
 真理子は息せき切って、夫が事故に遭ったことを話した。
「わかりました。それでは、ご記入頂く書類等がありますので、それを送らせてもらいます。それから事故現場は長野県茅野市でいいんですよね。自損事故ということになりますので、場合によっては現場に立ち会って頂く必要がありますが、それはできますか」
「必要があれば、現場に出向きます」
「その時、警察官に立ち会ってもらうと話がスムーズに進むと思うのですが、それもよろしいですか」
「ええ、構いません」
「それでは書類をすぐにお送りしますので、必要事項をお書きになって返送してください。その後の、警察等の段取りはこちらで致しますので、こちらからの連絡をお待ちください」
「わかりました」
「では、これで失礼します」
 電話はそれで切れた。自動車に関しては保険会社への連絡は終わった。だが、生命保険会社への連絡が残っていた。数社の生命保険に入っていたので、それぞれに電話をした。
 こちらは事故証明書と手術をしたのならその担当医師が記述した証明書及び領収書、入院しているのであれば入院証明書か領収書、通院しているのであれば通院の領収書が必要だと言われた。領収書についてはコピーしたものでかまいませんと言われた。これらの領収書は確定申告の時に必要になるからだった。全部に電話をし終わったのは、午前九時少し前だった。
 後は、病院に行って確認したいことを確かめれば済む。
 真理子は、電話しただけで疲労感が広がっていくのがわかった。できるなら、病院には行きたくなかったが、確かめたいという欲求の方が強かった。
 化粧をして家を出て、病院に着いたのは、午前九時半を少し過ぎた頃だった。すぐに三階のICUのナースステーションに向かった。
 ナースステーションには二人の看護師がいた。一人が真理子に対応した。真理子は富岡がしていた指輪のことを話した。
 そして「もし差し支えなければ、外して見せていただけませんか」と申し出た。その対応した看護師が「そういうことは担当の医師の許可が……」と言ったところで、脇で聞いていたもう一人の看護師が「富岡修さんの奥さんですか」と訊いてきた。
「ええ、そうです」と答えると、「少しお待ちいただけますか」と言った。
「かまいませんが」と答えると、その看護師は奥に引っ込み、金庫のようなところから何かを取り出した。そして、真理子の方にやってくると、「誠に申し訳ありませんでした」と謝った。真理子がきょとんとしていると、目の前に、透明なチャック付きの袋に入った指輪が置かれた。その袋の表面には、富岡修様と書かれた白いテープが貼られていた。袋から出してみると、その裏側には「OSAMU&MARIKO」と書かれた文字が刻まれていた。正に結婚指輪だった。
「これは」と真理子が問うと、その看護師が「先日、全身のレントゲンを撮ることになりまして、貴金属は全て外さなければならなくなり、その時、指輪も外させて頂きました」と言った。そして、茶封筒を出して「本来なら、貴金属のようなものを預かるときには、この封筒に入れて、中身と氏名を書いて封をして頂くことになっていましたが、つい忘れていました。申し訳ありませんでした」と謝った。
「この指輪は持ち帰ってもよろしいんでしょうか」
 真理子がそう言うと、「ちょっとお待ちください」とその看護師は言って、ノートのようなものを取り出した。それは貴重品預かり帳だった。その中に「富岡修」「指輪」という項目があった。預かり日は七月六日になっていた。この病院に転院してきた翌日だった。真理子は、午前中にはここに立ち寄ったが、茶封筒に入れた写真と記入してきた用紙を渡したら、他に用はないと言われたので、家に戻ったのだった。もしレントゲンをするので指輪を外すという話があれば、その時に受け取っていただろう。おそらくレントゲンの件は、真理子が帰った後に起きたことなのだろう。
 返却日と書かれた欄に7/9と書いて、富岡とサインをしてそれを○で囲んだ。
「これでいいですか」
「結構です」
「では、この指輪は持ち帰らせて頂きます」
 真理子がそう言うと二人の看護師は頭を下げた。

 指輪をハンドバッグにしまうと、真理子はエスカレーターに向かった。そして降りながら考えた。今、バッグの中にあるのは、富岡がしていた正真正銘の結婚指輪だった。あの指輪がこの世に二つとないことは誰よりも真理子自身が知っていた。ということは、あのICUにいる包帯だらけの男は、富岡修に違いなかったことになる。富岡以外の男がバッグの中にある結婚指輪をしているはずがなかったからだ。
 ということはどういうことになるのだろう。
 真理子は、この指輪を見るまでは、てっきり、あの男が左手の薬指にはめていた指輪は非常に似ているもので、あの男は富岡ではなく別人だと思っていたからだった。それは写真で確認したからだった。だが、今は違っていた。実物を持っているのだ。
 真理子は訳がわからなくなっていた。

小説「真理の微笑 真理子編」

八-1
 シャワーを浴びて、ベッドに横たわった。サイドテーブルのバッグを開けて、中から富岡の手帳を取り出した。
 広げてみた。七月の二週目までは、午後五時過ぎのイニシャルがついていた。由香里と会うのは、三日前だったようだが、その時は富岡はベッドの上だった。もし会っていたら、生まれてくる子どもの話をしていたことだろう。
 七月三日を見た。二重丸がしてあって、新製品Goと書かれていた。やはりワープロソフトの製作を決めていたのだ。発売日は九月一日? となっていた。これは担当者に訊かなければわからないことだった。しかし、発売日の決定もしないで、製作を始めるというのは合点がいかなかった。ともかく、担当者に訊いてみればわかることだろう。
 午後五時以降のイニシャルが女を示していることはわかったが、星印がついているところは、午後二時とか三時とかが多かった。一月から五月まではそうでもなかったが、六月以降は、週二回ほどのペースでその星印は付けられていた。
 誰かと会っていたことは予想できたが、女ではない気がした。仕事関係だと思うが、そうであれば、星印ではなく、大抵は名字が記されていたから、仕事関係にしても何か特別な気がした。
 日曜日は、大抵はゴルフで埋まっていた。
 ゴルフ場の名前と時間が「**CC、AM7:30」とかいうように記されていた。
 後はよくわからない記号と数字が書かれていた。おそらくは製品名と売上の数字と思われるが、単位が何なのかは見当がつかなかった。
 来週の予定を見た。
 七月十日は月曜日で、田村AM十時、小堺PM三時、十一日は時村AM十一時、十二日は琴崎PM二時となっていた。水曜日以降は予定は組まれていなかった。
 来週の面会予定については、木曜日に断りの電話を入れたから良かったが、再来週からは、そうもいかないだろうと思った。
 だが、それも何とかこなしていくほかはないと思った。
 手帳は閉じて、サイドテーブルに置いた。

 ベッドに仰向けになって目を閉じた。
 エアコンが丁度いい風を送っていた。
 今日のことを思い出してみた。
 別荘に入った時に感じた違和感は最後まで拭えなかった。
 まず、揃えてあったサンダルと運動靴。これが最初の違和感だった。
 富岡は運転して外出していたのだ。革靴を履いていたとすれば、玄関にサンダルと運動靴があるのは不自然だった。もし、どこかに出かけるとしても、革靴を履いたのであれば、サンダルと運動靴は靴箱にしまうのが富岡だった。しかし、靴箱を開けてみれば、革靴はそこにあった。となると、富岡は何を履いて運転していたのだろうか。まさか、裸足であるとは考えられない。これが最初の疑問だった。
 次にブランデーとコップだった。
 富岡は酒を飲んだら運転は、絶対にしない。特にあのような山道を運転することなどは考えられない。では、ブランデーとコップはただ出していただけなのか。それも考えにくかった。コップを洗った時に、コップの底に薄く琥珀色が見えたのを覚えている。これはブランデーをコップに注いだ証拠だった。つまり、富岡はブランデーを飲んでいたのだ。しかし、警察官が電話で話したことを信じるならば、体内からはアルコールは検出されなかったということだった。つまり、警察は飲酒運転による事故を疑ったが、それが否定されたということになる。ではあのブランデーとコップは一体、何だったのだろう。
 富岡がブランデーを飲んでいたとすれば、体内からアルコールが検出されなかったということはあり得ない話だ。仮に飲酒運転になるほど酩酊してはいなくても、全くアルコールが検出されないということはないだろう。もっとも警察官は、「全く」とは言っていなかった。検出できないほど、少量のアルコールを飲んでいたということなのだろうか。
 だが、これも考えにくかった。富岡は酒が好きだった。一度、飲み出したら、ある程度酔うまで飲むタイプだった。そうして、何も考えずに女と遊ぶのが好きだった……。
 別荘に女が来ていた様子はまるでなかった。だから、富岡は一人で酒を飲みながら、考え事をしていたのだろう。
 では、どうしてドライブなどしようとしたのだろう。
 …………
 こう考えてみてはどうだろう。
 あの車を運転していたのは、富岡ではなかった。
 そうだと考えれば、革靴があったことも、服が残され、運転免許証の入ったケースが残されたことも、そして体内からアルコールが検出されなかったことも説明がつく。
 そう考えていくうちに、あの車に乗っていたのが、富岡だと証言したのは、真理子自身だったことに気付いた。
 警察は、ナンバープレートから所有者を割り出し、運転していたのが男性だったから、その所有者である富岡が、事故の被害者だと推測した。しかし、その被害者を富岡修だと断定したのは、自分自身だったと真理子は気付いた。
 被害者を富岡修だと断定するに至った経緯は、警察官から被害者の左手の写真を見せられたからだった。そして、その指輪の部分を拡大した写真を見て、結婚指輪だと思ったのだった。或いは思い込んだのだった。
 それはその指輪の形が結婚指輪に非常に似ていたからだ。だが、今になってみると、写真だけで断定したのは、軽率だったような気がしてきた。非常によく似た別の指輪だった可能性がないとは言い切れなくなっていた。もし、本当に結婚指輪だったとしたら、指輪の裏にOSAMU&MARIKOの文字が刻まれているはずだった。それを確認していなかったのだ。
 指輪は富岡の手にはめられている。それを取って裏を見れば、結婚指輪かどうだったか確認できる。結婚指輪を外すことはできないのだろうか。
 そんなことはないように思える。
 明日は日曜日だが、看護師は応対してくれるだろう。一度、気になったら確認しないではいられなくなった。
 それともう一つすることがあった。保険会社に連絡することだった。この一週間は忙しすぎてすっかり忘れていた。二十四時間、年中無休の対応が売り物の保険会社のことだから、日曜日でも対応してくれるだろう。
 そこまで思うと、疲れがどっと押し寄せてきた。今日も大変な一日だった……、そう考えているうちに真理子は眠りに落ちようとしていた。手元の電気を消して、ベッドの中に潜り込んだ。すぐに真理子は眠りに落ちた。

小説「真理の微笑 真理子編」


 意気盛んに会社に出向いていった割には、自分は何をしていたのだろうという反省しか思い浮かばなかった。
 訳もわからないソフトの制作にGOサインを出したほかは、金庫を開けてみたり、これもよくわからず書類を読んではただ判を押してきただけのことだった。
 何か役に立つようなことをしてきた感じが、全くしなかった。
 そう言えば昼食もとってはいなかった。
 高木が「何かとりますか」というようなことを言っていたような気がするが、「いりません」と応えたような覚えが微かにするだけだった。
 しかし、家に戻ってみると、ただ会社にいただけなのに、随分と疲れた感じがした。慣れない所に行ったせいもあるだろう。
 昨日から、食事らしい食事をとっていなかったので、何か食べなくちゃ、とは思ったが、食欲は全く無かった。それでも野菜ジュースだけは飲んだ。

 いつ眠ったのか、記憶が無かった。時計を見ると、午前十時を過ぎている。かなり寝坊をしたことになる。
 昨夜は午後八時頃眠ったから十四時間も眠っていたことになる。
 それほど、この一週間は疲れていたのだ、と真理子は思った。
 富岡を蓼科に見送ったのが、やはり午前十時頃だったと思うと、この一週間に起きた出来事は、思えばあっという間に過ぎ去っていたような気もした。
 起きてシャワーを浴びている間に、ふと蓼科の別荘に行ってみようと思い立った。途中で、富岡が事故を起こした現場も通りかかるだろう。そこも見てみたい気がした。
 別荘に泊まるわけではないので、軽装に、少し寒くなってきた時のために簡単に羽織れるものを鞄に詰め込んで、車に乗った。もちろん、別荘の鍵も持った。
 車を飛ばして四時間ほどで別荘に着いた。途中でロープに張られた事故現場も通ってきた。降りて見てみたが、険しい崖になっていて、富岡が引っ掛かっていたと思われる木々は見つけたが、どれかはわからなかった。
 別荘に入ったのは午後三時頃だったろう。
 鍵を開けて入ると、サンダルと運動靴が見えた。富岡は別荘に来ると、午前中にランニングをするのが趣味のようになっていたので運動靴はそのためにあった。
 次に下駄箱を開いてみた。そこには富岡の革靴が入っていた。その瞬間から何か違和感を覚えた。富岡は車を運転していて事故を起こしたのだ。夜のドライブを楽しんでいたのかも知れないが、運動靴も残っているのだから、下駄箱に革靴が残っているということは、靴を履かないでドライブをしたということなのだろうか。サンダルさえも残っている。しかし、そんなことは考えにくかった。では何を履いて車を運転したのだろう。
 玄関でローヒールを脱ぎ、中に入ってみた。居間のテーブルにブランデーの瓶とコップが見えた。長ソファを回り込んで居間に入ると、テーブル近くの少し大きめの椅子に座って、ブランデーを飲んでいる富岡が見えるようだった。しかし、変だな、と真理子は思った。電話で警察官と話した時には、確か富岡の体内からはアルコールが検出されなかったと言っていたような記憶がある。
 しかし、今、この状況を見ると、富岡はブランデーを飲んでいたように思える。
 真理子は立ち上がると窓に向かった。どの窓にも鍵がかかっていた。二方向に床につくまでの広い窓があるのだが、そのいずれの窓も閉められ、鍵がかけられていた。玄関を入ってくる時も鍵を開けて入ってきたことは覚えている。
 ということは、富岡は窓の鍵も締め、玄関の鍵も締めて車で出かけたのに違いなかった。だが、靴を履いていなかった。これは一体どういうことなのだろう。
 机の上に視線が向かった。何かがあった。近づいてみると手帳だった。いつも持ち歩いている聖書サイズのバインダー型の手帳だった。これを残して東京に戻るということはあり得なかった。
 そう思っているうちに、クローゼットを開けてみた。そこには富岡の服が掛けられていた。ジャケットとズボンだった。
 ジャケットの中を探った。財布と運転免許証の入ったケースが出てきた。ズボンを探ってみた。キーホルダーが無かった。キーホルダーは普段はズボンのポケットに入れていた。
 クローゼットの下の引出しを開いてみた。運動着が畳まれたままの状態で入っていた。
 無くなっているのは、パジャマ代わりにしていたTシャツとスエットのズボンだった。
 ということはTシャツとスエットのズボンで車を運転していたというのだろうか。財布も免許証も持たずに。
 それは変だった。あの運転に関しては几帳面な富岡が、免許証も持たず、しかもブランデーを飲んで運転をするなんて考えられなかった。財布も持ってはいなかったのだ。
 何かがおかしい。しかし、家は全て鍵がかけられていた。誰かが出入りした形跡は無かった。やはり、富岡がTシャツとスエットのズボンで車を運転していたということなのだろうか。だが、何も履かずに運転していたなんてことは考えられない。
 一体、これはどういうことなのだろう。
 考えてもわからなかった。
 真理子はブランデーを棚に戻すと、コップを洗い、食器棚に入れた。
 それからクローゼットから富岡の服を取り出すと、畳んで鞄の中に入れた。それと机の上にあった手帳はハンドバッグに入れた。
 靴も袋に詰めて鞄の中にしまい、サンダルと運動靴は靴箱にしまった。
 どうしてそんなことをしたのか。理由は自分でもわからなかった。
 不自然だと思ったものを全て持ち帰ろうとしただけだった。

 午後五時になろうとしていた。真理子は別荘を出ると、鍵をかけ、鞄をぶら下げてポルシェに乗った。
 まだ暗くはなっていなかった。しかし、山の夕方はすぐ暗くなる。暗くなる前に山を下りようと思った。
 家に辿り着いたのは午後九時を過ぎていた。途中で夕食をとったので時間がかかったのだった。
 車を走らせている間も、謎だらけの別荘のことが頭から離れなかった。別荘は特に何か荒らされていたとか、人が争ったとか、そういう感じはまるでなかった。
 言ってみれば、ブランデーを飲んでくつろいでいる富岡が、突然、あの別荘からいなくなって、靴も履かずに夜の坂道をドライブをしていたということだけだった。
 しかし、そんなことは考えられなかった。
 何かがあったのだ。
 あの別荘に入って、サンダルと運動靴を見た時、何か違和感を抱いた。富岡は変なところで几帳面だった。もし、別荘を離れて東京に戻ってこようとしていたのなら、サンダルと運動靴は下駄箱にしまうはずだった。
 次に来た時、何もない玄関を見るのが好きだったからだ。そこにサンダルや運動靴が置きっぱなしになっているとは思えなかったのだ。そして、下駄箱を見たら革靴がきちんと入っているではないか。
 何も履かずに夜の山道をドライブするとは、到底考えられない。しかし、今日見てきたことはそれ以外に説明がつくものではなかった。
 それに手帳が机の上に載ったままだったのも変だ。
 都内に入ってからは、考えることをやめた。これ以上考え続けていたら、事故を起こしそうだったからだ。
 家に入って、鞄の中身を開けた。富岡の服に革靴が出てきた。本来なら、それらを着、そして履いて運転しているはずなのだ。だが、実際はそうではなかった。今、見ているものは幻ではない。確かにここにあるのだ。これは一体、どうしたことなのだろう。
 真理子の頭は、解けない謎に包まれて溺れてしまいそうになっていた。

 

小説「真理の微笑 真理子編」


 家に着くと、真理子はすぐに寝室に向かい、服を脱ぐとベッドに倒れ込んだ。
 僅か二時間ばかりのことだったが、面会の失礼を詫びることと、来週の面会予約を取り消すことで疲れ切ってしまった。
 話すことはテープレコーダーを回しているように、同じセリフの繰り返しだったが、これが意外にこたえた。
 電話機を見た。留守電を示すランプが点いていないのを知るとホッとした。
 もう午後七時近かった。
 立ち上がったが、食欲はなかった。それでも何か口にしなければと思い、冷蔵庫を開けた。野菜ジュースが目に飛び込んできた。食器棚からコップを取り出すと、野菜ジュースを注いだ。それを飲み干すとお腹がいっぱいになった。
 テレビを点けた。午後七時のニュースが流れた。
 最初のニュースは、今日各地で今年最高気温を示したということだった。最初のニュースがこれなのか、と真理子は思った。実に平和な話題だった。
 まだ早かったが、躰は疲れていた。
 浴槽にぬるめの湯を張り、裸になると浸かった。目を閉じると眠りそうになる。
 今日、何度、夫の事故のことを話しただろうか。詳しい状態を話したのは高木だけだった。土曜日から今日の午前中までのことをかいつまんで話した。それでも顔の形成のことなどは話さなかった。
 明日から、病院だけでなく、会社にも行かなければならなかった。気が重かった。

 午前七時半に目が覚めた。目覚まし時計を止めた。
 シャワーを浴びて、レタスをちぎってサラダを作り食べた。
 ドレッサーの前に座り、化粧をした。今日は病院に寄った後、すぐに会社に向かわねばならなかったからだ。
 病院に行くには派手だが、少し濃いめの化粧をした。
 午前八時になった。家を出て病院に向かった。午前八時半過ぎに病院に着いた。三階に上がり、ナースステーションに向かった。そこにいた看護師に富岡の容態を訊いた。看護師はパソコンを操作して、富岡の情報を探したのだろう。しばらくしてこちらに向かってくると「特に変わりはありません」と言った。「わかりました」と応えてその場を離れた。これだけのために病院に来たことが馬鹿馬鹿しくなったが、それもしょうがないと諦めた。
 車に戻ると会社に向かった。
 会社に着いたのは、午前九時を過ぎていた。受付で高木専務を呼んでもらった。高木はほどなくして来た。
 真理子は高木に自分は何処にいたらいいのか、訊いた。すると高木は「社長室にいてくださいよ。社長代理として働いてもらいますから」と言った。後の言葉は半分は冗談だったが、真理子には冗談に聞こえなかった。
 社長室に入って、椅子に座った。大きくゆったりと座れる椅子だった。椅子が高めだったので、レバーを操作して、自分に合う高さに調整した。
 机の上には大きめのスケジュール帳があった。開いてみると、よくわからない記号がいっぱい記入されていた。
 七月の頁をめくった。七月三日に「TS-Word」と記されていて、そこから矢印が引かれていて、その先には「GO」と書かれていた。
 しばらくして高木が入ってきた。
「早速ですが、重要な案件についてご相談したいんですが」と切り出した。
「何ですか」
「新しいワープロソフトの件です。本来ならば、もう製品の製作を始めていてもいい頃なんですが、社長が事故に遭われてそのままになっているんです」
「そのワープロソフトの製品の製作とは、何ですか」
ワープロソフトをパッケージにするということです」
「つまり、販売できる状態に製作するということですか」
「そうです」
「もういつでも製作できる状態にあるんですね」
「ええ」
「だったら、迷うことはありません。すぐに製作に取りかかってください」
「よろしいんですか」
「ええ。わたしが責任を持ちます」
「わかりました。早速、担当者に指示を出します」
「他には何かありますか」
「ええ、いくつか書類に目を通して頂いて、社長の判がいるんですが、それはまた後にします。とにかくTS-Wordの件が優先事項なので、担当者に伝えます。失礼します」
 そう言って高木は出て行った。
 スケジュール帳のTS-Wordと書かれたところを、真理子は右手の人差し指の先で叩きながら、今の話はこの件のことだったのね、と思った。今日は七日だから、本来なら四日前にGOサインを出していた案件だったのだ。だが、事故に遭って出せないでいたのだ。担当者はやきもきしていたことだろう。
 もう一度、スケジュール帳を見た。さっきのようなわかりやすい表記はもうなかった。 七月は他に大きなプロジェクトはないようだった。
 ただ、「TS-CDB0.53-1」「TS-CDB0.53-2」という表記が欄外に書かれていた。それが何を意味するのかは、真理子には全くわからなかった。
 真理子は机の引出しを開けようとした。左側の一番上の引出しには鍵がかかっていた。右側にも鍵はついていたがかかってはいなかった。そこには、筆記用具などの事務用品が入っていた。二段目の引出しには、書類が袋に入れられて入っていた。一番下の引出しには、背表紙が見えるようにファイルが並んでいた。
 社長室の右手の奥には大きな金庫が見えた。これよりも小ぶりな金庫は自宅の書斎にもあった。
 行ってみて、取っ手を握ったが、当然、金庫は開かなかった。
 デスクに戻って、内線で高木を呼んだ。
「何でしょう」と言って高木は入ってきた。
 真理子は金庫を指さして、「これを開けられるかしら」と言った。
 高木は「ああ、これですね。ちょっとお待ちください」と言って出て行って、すぐ戻ってきた。自分の手帳と合鍵を取りに行ったのだった。
 高木は手帳を見ながらダイヤルを回して、最後に合鍵で金庫の扉を開いた。
「この中には、契約書が入っているんですよ。火事などで燃えるといけないので耐火性の金庫なんですよ」と言った。
「私と社長が鍵を持っていますが、事故の時に無くされたんでしょうか」
「どうなんでしょう。わたしにはわかりません」
「ダイヤルの回し方を控えておきましょうか」
「ええ、教えてください」
 真理子は自分の手帳を取り出して、「右に……、左に……」と書き込んでいった。
「鍵はどうしますか。特殊な鍵なので金庫の製造業者に問い合わせれば、合鍵を作ってもらえると思うんですが……」
「そうしてもらえるかしら」
「わかりました。連絡しておきます」
「鍵ができるまでは、ダイヤルだけで開け閉めします」
「そうですね、それがいいですね」
 そう言うと高木は出て行こうとした。その時、「ああ、そうだ、社長に決裁してもらいたい書類があるんですが、社長の代わりに決裁してもらえますか」と振り向いて言った。
「わたしが決裁していいんですか」
「それはそうなんですが、こんな時ですから」
「それで構わないなら、判子でも何でも押しますよ。ただし、責任は持てませんからね」
「弱りましたね。しかし、他にしようが無いから形式的でいいですから判を押してください。責任は専務である私がとりますよ」
「それならいいですよ」
「後で持ってきますからよろしく頼みます」
 そう言うと高木は出て行った。

 高木が持ってきた書類に一通り目を通して、説明を聞きたいものについては保留して、不審に思わなかったものについては、判を押した。
 それらが終わった頃には退社時刻になっていた。
 判を押したものについては高木に渡して、残ったものについては、月曜日に説明を受けてから判を押すと話した。
 まだ、会社に残っている者もいたが、午後五時を過ぎたので、真理子は高木に今日はこれで帰り明日は休むことを告げてポルシェに乗った。

 

小説「真理の微笑 真理子編」

五-2

 会社に着いたのは、午後三時頃だったろうか。
 電話を終えた時は、午後一時をそれほど過ぎてはいなかった。それからソファを立って鏡の前に立った。病院に行く時には気付かなかったが、随分と窶れているように見えた。
 しかし、これから行く所は富岡が社長をしている会社なのだ。こんな窶れた顔をしているわけにはいかなかった。
 真理子はシャワーを浴びると、入念に化粧をし、服も質素だが気品のあるものを選んだ。そうこうしているうちに午後二時になった。それから赤いポルシェに乗った。普通なら四十分もかからないで着くところを、真理子は慎重に運転していた。いろいろなことが頭に浮かんできたからであった。のろのろと走るポルシェにクラクションを鳴らすのは勇気がいることだが、何度かクラクションを鳴らされて、自分が制限速度よりも少し遅く走っていることに気付くのだった。
 会社に着くと、受付で、社長室で待つように言われた。
 社長室に入って、来客用のソファに座っているとすぐに高木専務が現れた。
「いやぁ、お待ちしていました」
 高木は明るく声をかけると、真理子は軽く会釈した。高木は真理子の向かい側に座ると「一体、どうなっているのか、わからないものですから、心配していたんですよ」と言った。
 その時、秘書の滝川がお茶を運んできた。そして二人の前に、お茶を置くと会釈をして出て行った。
「ご迷惑をかけて済みませんでした」
 真理子は高木専務に向かって頭を下げた。
「いやいや、そんなことは。頭を上げてください。一体、何があったのか、お話し願えませんか」
「わかりました」
 そう言うと、真理子は土曜日から今日の午前中までのことを話した。全てを話し終えるのに小一時間ほどかかっただろうか。
 高木は話を聞いている途中から、明らかに暗い顔になっていった。
「それじゃあ……」
「ええ、まだ主人は集中治療室にいます。ですから、お見舞いは不要です。来て頂いても会えませんから」
「困りましたね」
 高木は考え込んでいた。いろいろなことが頭を巡っていたのだろう。
「一番は面会の約束をしていた人に、失礼を詫びる連絡をすることです。わたしは社長が来るものと思っていたものですから、約束をすっぽかしたことになっている人たちが何人かいるんです」
「そうですか。それはどなたでしょうか。電話で済むことなら、わたしからお電話しますが」
「そうですね、お詫びに伺う方が丁寧でしょうが、今の話を聞くとやむを得なかったことですから、電話で済ませましょう」
「では、わたしがお詫びをしなければならない人の連絡先を教えてください」
 そう真理子が言うと、高木は「ちょっと待ってください」と言って、社長室を出ていき、秘書の滝川を呼んだ。
「彼女なら社長の行動を把握していますから……」
 真理子は来客用のソファから、社長の座る椅子に移動していた。電話するのなら、そこの方が便利だったからだ。
「さっそくですが、富岡がアポを取って会うことになっていた人を教えてください。そして、電話番号も」
 滝川は、大判のスケジュール帳を取り出して、月曜日から今日の午前中までに会うことになっていた人の名を挙げた。五名いた。
「順番に電話をします。名前と電話番号を言ってください」
 滝川が読み上げる電話番号に電話をし、会うことになっていた人を呼び出してもらうことをした。
「後藤様でしょうか。わたしは富岡真理子といいます。富岡の妻です。月曜日は富岡が大変、失礼しました。お会いするお約束をしていたのにもかかわらず、こちらの都合でキャンセルしてしまい、申し訳ありませんでした。実は……」
 真理子は面会の予定が流れた経緯を説明し謝った。それを五名分、こなした。滝川はもちろんのこと、向かいには高木もいた。
「いやぁ、助かりました。これで一応、こちらの非礼は謝罪しましたので、この件は済みました」
「明日も面会予定が入っているの」と真理子は滝川に訊いた。
「いいえ、特には……」
「それでは来週以降の分はどうなっているの」
「月曜日に二名、火曜日に一名、水曜日に一名会うことになっています」
「わかったわ。今から電話を入れるから番号を教えてちょうだい」
 そう言うと真理子は来週の面会予定についても、断りの電話を次々と入れた。
「再来週以降については、また考えましょう。当面は面会予定は入れないようにお願いします」
 最後の言葉は、滝川に向けられていた。彼女には「もう、いいわ」と言って退室してもらった。
 すでに午後五時を過ぎていた。
「いやぁ、お見事です」と高木が言った。「それでこれからのことですが……」と言いかけたので、「済みませんが、明日にして頂けますか。今日はもう疲れてしまって……」と真理子は言った。
「そうでしょうね。気付きませんで、これは失礼しました」
「いいのよ。わたしには荷が重すぎたわ」
「そんなことありませんよ。ちゃんと社長の代役を果たされましたから」と高木は言った。
 高木は専務で、真理子は会社の役職上は平の取締役だったが、その立場はまるで、真理子が社長のようになっていた。それは真理子が富岡の妻だということもあったが、面会予約の不実行を見事にさばいた真理子の手際の良さも手伝っていた。そのあたりに、真理子の社長の資質が垣間見えたのだった。
「今日はこれで帰ります。疲れましたわ。明日は病院に寄ってから来るので、午前十時過ぎになると思うけれどいいかしら」
「わかりました」
 高木がそう言うと、真理子は社長の椅子から立ち上がった。