十五
執務室で書類に目を通していると、豊太郎が来たことを事務官が知らせてきた。午前八時前である。夜が明けてから落ち着かなかったのだろう。それとも、徹夜したのだろうか。昨日、別れたのが午後四時過ぎだったから、徹夜したのかもしれない。
天方伯はいつも午前八時には、部屋で朝食をとるので、すでに起きているはずではあるが、伯が事務に取りかかるのは、下の者のことも考えて、午前九時過ぎからと決めているので、伯に直接渡す前に翻訳した文書に目を通しておくのもいいだろうと、相澤は思った。
前室に入り、豊太郎に会った。
”Guten Morgen(おはようございます)”と、豊太郎はドイツ語で挨拶した。相澤は「おはよう」と日本語で返した。
豊太郎は元気そうに見えた。翻訳は一晩で仕上げたのだ。その自信が顔に表れていた。テーブルに封筒に入った書類が目に入ったが、見るまでもないようだった。だから、相澤は敢えて手にしなかった。確認しようとしていたのだが、豊太郎のすることにその必要はない。その顔を見て、そう思った。
ボーイがコーヒーを運んできた。相澤は、トーストを注文した。豊太郎のためだった。朝食もろくに食べずに来たのに違いないと思ったからだった。
豊太郎はテーブルの封筒にちらっと視線を送って、「見ないのか」と言うと、相澤は「その必要があるのか」とすぐに答えた。豊太郎は「相変わらずだな」と笑った。
「昨日は、視察について話す機会を失ったが……」と相澤は切り出した。
「詳しいことは追い追いわかることだが、こちらに来たのは、欧州諸国のこと、とりわけドイツの最近の様子を知りたいためだ。お前が新聞紙に書いていたように、こちらの皇帝が次々と代わられたので、政治の動きなどがどうなっているのか、直に見聞した方がいいと、伯はお考えになったようだ」
豊太郎は黙って頷いた。
「ここだけの話と言っても、もう国内では周知のことだが、来年の早いうちに、念願だった憲法も公布される*(三十四)。大日本帝国憲法だ。国の基本法がようやくできるのだ」
相澤は、大学時代に豊太郎と何度も議論した国作りの一環としての憲法の在り方を思い出していた。
「これは秘密だが、今、枢密院*(三十五)というところで審議されている」
「枢密院?」
「ああ、憲法草案を審議する天皇直属の諮問機関だ*(三十六)」
「天方伯はそのメンバー*(三十七)ではないのか」
「メンバーか。確かに枢密院での大日本帝国憲法の審議が終わるまでは参加されていたが、今はここに来ているからな」
「どういうことだ」
「伯にとっては、もうそれは過去の事なのだ。次の事を考えておられる」
相澤がニヤリと顔を向けると、豊太郎もつられて笑った。
「それにしても、どんな憲法なんだろう」
「そうだな」と言いつつ、相澤は考えた。豊太郎が学生の頃にさかんに論じていた事柄のいくつかは盛り込まれているようだったが、理想と現実は異なるから、実際に公布されてみなければわからない。
「今の時流に通用する憲法にはなると思うが、内容までは俺にもわからん」
「それもそうだな」
大学時代に、いくつかの私擬憲法*(三十八)を並べては長所・短所を比べていたが、卒業の頃には検討しきれないくらいの試案が出回っていた。しかし、市井に出回ったこれらのものが、政府内で検討された様子はなく、見ずにうち捨てられたと言って良かった。今からすれば、どれもこれも欠点のあるものものが多かったが、五日市憲法草案*(三十九)のように民権に配慮した堂々たるものもあった。しかし、政府はそれらを直接検討することはなかったのである。
時は恐ろしいほどに速く流れている。しかし、日本が列国に追いつくには、まだ足りない。
トーストされたパンが運ばれてきた。
「これはこっちに置こう」
相澤はテーブルにあった封筒を机の上に移した。豊太郎は「相澤」と微笑みかけた。
「なんだ」
「君は、そうやって、いつも気が利く。誰よりも先に……」
「そうか」
「そうだよ」
豊太郎は、東京に居た相澤が自分が免官になった事を知って、すぐに某新聞社のベルリン通信員になるように編集長を説いたことを思い出していたのだった。
バターナイフを手にした豊太郎は、小瓶の中の乳脂をパンに塗った。
「九時になったら天方伯のところに行こう」
「うん」
ちぎったパンの屑は、やはり皿の外に散っていた。
「また今日も、ドイツ語の書類を預かることになる」
「…………」
「こんなにあるからな」
相澤は、大げさに両手を広げて見せた。
「今は、重要なものとそうではないものとをより分けているだけでも、手一杯だよ。そして重要なものの中に急ぎのものがあれば、お手上げさ」
今度は万歳をしてみせた。豊太郎はパンを頰張っているのに、吹き出しそうになった。
相澤は豊太郎の笑顔を見て、少しは安堵した。昨日の帰り際の豊太郎の表情があまりにも暗かったからだった。それは夕暮れのせいではなかっただろう。しかし、今はとにかく、豊太郎はこの道を進み始めている。相澤にはそう思えた、そう信じた。
*三十五 枢密院は、明治二十一年四月三十日勅令第二十二号によって設置された最高諮問機関である。明治憲法の草案の立役者となったのは、伊藤博文であり、彼は明治十五年に天皇から、憲法草案の命が下された。伊藤博文は欧州諸国を巡察し、憲法草案の下調べをした。明治二十一年の四月には、伊藤博文はついに憲法の草案を整えることができた。ただ、問題だったのは、その憲法草案をどこで議定発表するかということであった。いくつかの意見が出されたが、結局、新たに枢密院を設け、そこで審議することが望ましいということに落ち着いた。枢密院の設置にあたり、伊藤博文は内閣総理大臣との兼務を避けるために、総理大臣を辞任し、枢密院議長に任命されている。伊藤博文の後任の内閣総理大臣になったのは、黒田清隆(天保十一年十月十六日〈一八四〇年十一月九日〉- 明治三十三〈一九〇〇〉年八月二十三日)である。彼は、憲法の制定には深く関与していなかったとされている。思うに、伊藤博文が内閣総理大臣の後任として黒田を推挙したのは、そのあたりの機微もあったのかもしれない。
*三十六 この相澤の枢密院に対する説明は、その設立の経緯に基づくものであり、認識としては足りていない。確かに、枢密院設置の経緯は、明治憲法の審議に関わることがその要諦を成していたが、枢密院は憲法公布に向けた暫定的な機関ではなく、国務の重要案件について広範囲にわたって諮詢するところである。枢密院の設置にあたり官報に公布されたものにもそのように記載されている。従って常設的な機関だった。
*三十七 枢密院官制第十一条には、各大臣(内閣総理大臣・国務大臣)はその職権上より枢密院において顧問官たる地位を有し、議席に列し、表決の権利を有するとある。従って、メンバーという言葉が適切であるかはともかくも、枢密院の会議に参加し、評決に加わる権利を有してはいる。ただし、枢密院官制第十一条を解釈するに、会議に参加する義務を負っているわけではないと解せられる。
ところで、明治二十一年五月八日、宮中旧主殿寮跡の議場にて、明治天皇の臨席の下、開会式が行われた。枢密院の第一回の本会議は、五月二十五日に開かれた。開場は午前十時だったが、その日は、内閣の閣議が午前中にあり、黒田清隆内閣総理大臣以下の各大臣を交えての憲法会議は、午後一時から明治天皇の臨席の下に開催された。会議は午後三時まで続けられ、午後三時半に散会したと伝えられている(『枢密院問題- 朝日政治経済叢書5- 』朝日新聞政治経済部編、朝日新聞社、昭和五年九月五日発行)。このとき、天方伯は内務大臣であったから、当然この会議には出席していたことになる。
この会議で第一に議題に課せられたのは、皇室典範である。国家の三要素とは、領域(領土、その国の範囲)、国民(国家の領域に恒久的に属する者)、主権であるが、大日本帝国憲法(以下「明治憲法」と呼ぶ)では、この主権は天皇にあると規定されていたから、その主権を存続させる法典としての、皇室典範が、明治憲法に先だって討議された。明治憲法下においては、皇室典範は憲法的規律を有するために、これに対して議会の関与を与えないようにするために皇室自律主義が採用された。枢密院での皇室典範に関する会議は、五月二十五日から六月十五日までの間七日が費やされている。続いて、明治憲法の審議に入った。これは、六月十八日から七月十三日までの間十日が費やされた。憲法に対する審議期間が短いようではあるが、すでに長い時間をかけて草案は作成されていたから、枢密院での審議は、憲法の条文とその意味するところ、或いは解釈について、枢密院に参加していたメンバーに周知させるとともに了解させることが目的だったと思われる。第三番目に審議されたのは、議院法だった。これは九月十七日から十月三十一日までの間十三日が費やされた。『舞姫』においては、「明治廿一年の冬は來にけり」と書かれた後に、天方伯がベルリンに到着したことになっているので、『舞姫』内世界では、天方伯は、この議員法以下の審議に参加していないことになる。
第四番目は衆議院議員選挙法で十一月五日から十二日までの内五日がかけられている。『舞姫』において天方伯のモデルとされる山縣有朋は、この衆議院議員選挙法の審議までは、枢密院の会議に参加していたと思われる。この後、山縣は明治二十一(一八八八)年十二月二日より欧州各国への視察に出ている。しかし、枢密院の会議は、その後も行われ、第五番目に審議されたのは、貴族院令であった。これは十二月十三日から十七日までの内三日審議されているが、この会議に山縣は出ることは不可能である。推測の域を出ないが、明治憲法の審議が終わったところで、山縣有朋にとっては、枢密院で審議すべき実質的な案件は終わったと思っていたと思われる。欧州視察に対してもその許可のお伺いは前もって出していたはずだが、そのタイミングは憲法の審議の終了時点と思われる。山縣にとって、明治憲法が公布されることが確定したのであれば、その後のことが念頭にあったものと思われる。それが明治憲法の公布を待たずの欧州視察になったと推量する。