小説「僕が、剣道ですか? 3」

十一

 問題の日曜日が来た。

 僕は午前八時に起きた。朝シャワーして、朝食を軽く食べた。歯を磨き、長袖シャツとセーターを着て、ジーパンを穿いた。髪を整えたら、九時を少し過ぎていた。まだ、時間は早かった。

 財布に現代美術展のチケットを入れて、オーバーコートを着た。新宿まで地下鉄で行くのが普通だが、今日は歩いて行った。三十分ほどかかった。

 でも、約束の時間より大分、早かった。

 壁に寄りかかっていると「待ったぁ」と言う声がした。

 沙由理だった。

 白いワンピースに、襟が毛皮になっているハーフコートを身につけていた。イヤリングが妖しく輝いていた。

「いつも、こんなに早く来るんですか」と沙由理が訊くから「ううん、ちょっと時間があったから新宿まで歩いてきた」と答えた。

「家から」

「うん」

新宿駅に歩ける所に家があるんですね」と沙由理は言った。

「結構かかるけれどね。一応は」

「そう」

「ここからどう行くの」

「渋谷に行くの」

 僕たちは山手線で渋谷に行った。

 そこから歩いて十分程度の所に、現代美術展の展示会場があった。

 チケットを渡して、パンフレットをもらった。

 なんだか訳の分からない絵や造形物だらけで、見ていると眠くなりそうだった。

「これなんか良くないですか」

 イルカをモチーフにした絵だった。それは、クリスチャン・ラッセン(Christian Riese Lassen、クリスチャン・リース・ラッセン、一九五六年三月十一日 - )の絵の一つだった。彼の絵は数枚飾られていた。

 沙由理が示した絵は、ラッセンの他の絵より一番美しかった。

 展示場内の売店で、イルカを象ったシルバーのネックレスがあった。三千八百円だった。沙由理が余りにも見ているから、「それください」と言って買った。

 買ったら、包装をしてもらわず、値札を取ってもらって、その場で沙由理はネックレスをつけた。

「どうです」

「似合っている」

「嬉しい。ありがとう」

「安いもんだよ」

 沙由理は僕の腕に腕を絡ませて来た。

 僕らはそのまま、その会場を出て、何か食べる所を探した。

 すぐ近くのイタリアンレストランに入った。

 僕と沙由理は一番人気のズワイガニとサーモンのクリームパスタを注文し、食後のデザートに僕はティラミスとコーヒーを、沙由理はショートケーキとホットティーを頼んだ。

 パスタは予想してた通り美味しかった。食後のデザートにも、僕らは充分時間を使って味わった。

「そろそろ、出ようか」

「そうですね」

 僕らは店を出て歩いた。やはり、沙由理は僕の腕に腕を絡ませて来た。

 渋谷の街を歩くのは、楽しかった。

 沙由理は人目を引くから、通り過ぎていく男の視線が彼女を追っているのが分かった。

 ぼぅっと歩いていたら、誰かと肩をぶつけたんで「済みません」と言ったら「こっちも」と言って彼は通り過ぎていった。誰も彼も肩をぶつけたぐらいで、金を脅し取ろうなんてしないよな、と思っていたら、腰あたりに鋭い感触を覚えた。見えないようにナイフでも突き立てているのだろう。

「このまま歩け」とそいつは言った。

「言っとくが彼女も同じ状態だ」

 沙由理の方を見ると、顔が強ばっていた。

 僕は仕方なく歩き出した。沙由理とは自然に腕が離れた。両手が自由になった。

 僕はオーバーコートのポケットの中に手を入れて、皮手袋を取ってナックルダスターを嵌めた。それから皮手袋を半分ほど上げた。

 しばらく歩いて行くと、渋谷を抜けていた。

「ほら、もっと速く歩け」とナイフを突き立てている男が言った。

 僕は黙って少し歩くスピードを上げた。

 彼女の方も同じペースで歩いていた。ハイヒールだったから、足が痛いのに違いなかった。

 黒金町に入っていることは分かった。

 僕は適当な路地を探した。少し先に路地が見えた。そこまでの辛抱だと、彼女に伝えてやりたかった。

「あの路地を曲がれ」とナイフを突き立てている男が言った。

 似たようなことを考えているのに、違いなかった。

 路地を曲がった。

 彼女の手を引いて、彼女にナイフを突き立てている男から引き離した。

 と同時に背中にナイフを突き立てている男の顔面をナックルダスターのついている拳で殴った。皮手袋をきちんと嵌めると、その路地にはお客さんが待っていた。ナックルダスターで顔を殴られた男が、「この野郎」と殴りかかろうとしていたので、足で膝を蹴って転ばせた。

 僕は沙由理を抱き締めて、彼らを見た。路地には十人ほどの若い男たちが待機していた。最初から、この路地に引っ張り込もうとしていたわけだ。

「おうおう、昼間から見せつけてくれるな」と比較的背の低い男が言った。

 路地から出ようとしたら、五人ほどが出口に回り込んだ。

 僕らは十人のチンピラに取り囲まれていた。

 さっき膝を蹴った男と沙由理の背中にナイフを突き立てていた男も加えると十二人だった。僕は携帯で録音を始めた。

「まずは女を寄こしな」

 この中のヘッド格の男が言った。

「それはできないな」

「できないだと。するんだよ」

「だから、できないと言ってるんだよ」

「こいつにわかるように説明してやってくれ」とヘッド格の男が言った。

 すると、側にいた男が殴りかかってきた。そいつのパンチをかわすと、顔面にナックルダスターを嵌めている拳で思い切り殴った。鼻の骨と、顎が砕ける感触がした。

「嘗めんなよ」ともう一人も殴りかかってきた。そいつも、ナックルダスターの餌食になった。沙由理を取り押さえようとしている奴がいたので、そいつの背中を踏みつけると、足を掬って、膝を捻じ曲げた。足は変な方向に捻れていた。

「きゃー」と言う声がするので、見ると沙由理に抱きつこうとしている奴がいた。そいつが空中に飛び上がり、沙由理に飛びつく瞬間がスローになって、僕はそいつのボディーに渾身の一発を撃ち込んだ。そいつは腹を抱えて悶絶していた。

「やるな、お前」とヘッド格の男が言った。

「もしかして、このところ俺たちの持ち場を荒らしてくれていたのは、お前か」

「だったら、どうするんだ」

「おい、お前たち。得物を用意しろ。こいつと素手で戦うのは危険だぞ」と言った。

 残った八人がそれぞれ、ナイフやらチェーンやら、金属棒を持ち出してきたところを携帯のカメラで撮った。もちろん、奴らはカメラに撮られたことに気付くことはなかった。

 沙由理は震えていた。

「大丈夫だから。あいつらは全員、やっつけるから」

「ほんとですか」

「ああ」

 僕は金属棒を持っている男に目をつけた。沙由理とあいつら、金属棒の男と僕との距離を確認して、奪えると確信したタイミングで襲いかかっていった。

 金属棒の男は、金属棒を振り回すだけで使い方を知らなかった。金属棒を掴んで、くるっと捻ると、そいつは簡単に金属棒を手放した。

 こうなれば勝ったも同然だった。僕は金属棒を剣のように構えて、相手を待った。しかし、なかなか仕掛けてこない。一人が携帯を取り出しているのが見えた。仲間を呼ぶつもりだったのだろう。この状態で仲間を呼ばれてはたまらないから、僕はそいつが携帯を耳元に当てる前に手と携帯と耳を金属棒で叩いた。

 携帯は壊れた。そいつの手の骨も砕けているだろう。

 もう一人、携帯を取り出した奴がいたので、そいつも同じ目にあわせた。

 チェーンを持っている男が振り上げてきた。同時に鉄パイプを持った男も襲ってきた。

 チェーンを持っている男は腹を金属棒でしたたかに殴り、鉄パイプを持った男は、その鉄パイプを持っている手の腕を金属棒で叩き折った。

 ナイフを持っている男は、後ずさりをしていた。スキンヘッドの男がナックルダスターをつけて殴りかかってきた。その拳をよけて、顔面にナックルダスターをぶち込んだ。

 後三人を路地の奥に追い詰めた。後ろは線路で金網が張られているだけだ。

 僕は録音を止めた。

「さぁ、追い詰めているのはどっちかな」

「ふざけるな」とナイフを持っている男が、そのナイフを突きつけてきた。それを金属棒で叩き落とすと、その腕を金属棒でへし折った。

 ヘッド格の男の隣には、大男が立っていた。喧嘩には自信があるようだ。僕は金属棒を正眼に構えて、その手首に狙いをつけた。正面から金属棒を打ち下ろすと見せかけて、まず右手首を打ち砕き、その勢いで左手首も砕いた。

 後はヘッド格の男だけだった。

「ここまでやるとはな」とその男が言い終わらぬうちに、顎を突いた。顎の骨が砕けたに違いなかった。

 僕は金属棒を投げ捨てると、「早く行きましょう」と言う沙由理に、「もうちょっと待ってて」と言って、彼らの持ち物をさらっていた。やはり生徒手帳が出てきた。黒金高校のだった。それらを携帯に写してから、僕らはその路地から出た。

 携帯に録音していた音声データや写真は、クラウドストレージにアップロードした。

 僕らは歩いて新宿駅まで来た。

「ごめんね、怖い思いをさせちゃって」

「ううん、いいの。でも、京介さんって強いんですね」

「そんなんでもないさ」

「いいえ、あれだけの人数、普通、相手にできませんわ」

「そうか」

「そうですよ」

「まぐれだってば」

「いえ、なんて言うか、場慣れしていた感じがしました」

「必死だっただけさ」

「でも、今日は楽しかったです。あんな怖いことがなければもっと良かったんですけれど」

「そうか、そうだね」

 そう言いながら、僕は、目の前に黒金高校が聳え立つような錯覚に囚われていた。

「あっそうそう、携帯の電話番号、登録し合いましょう」と沙由理が言った。

 僕と沙由理は携帯を出して、電話番号を登録し合った。

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 この週末から冬休みに入る。

 授業も身には入らなかった。

 ほとんどの奴らが、スキー旅行に行くようだった。当然、富樫も行く。

 僕だけが取り残されたような気分になった。

 食堂でひとりまったりしていると、「今度の日曜日、空いてる」と絵理が訊いてきた。

 僕は起き上がると、「空いてる。当然、空いてる」と言った。

「現代美術展って興味ある」

「ある。もちろん、ある」

「そう。じゃあ、行く」

「行くよ、当然だろ」

「わかったわ、沙由理にそう言っておく」

「えっ。君が行くんじゃないの」

「そんなこと、わたし言った。一言も言ってないわよ」

 絵理はそう言うと、「新宿西口改札、午前十時だからね。遅れないようにね」とチケットを僕に渡した。

 離れていく絵理を見ると、柱の陰にいる沙由理に向かって指でOKサインを出した。

 僕はしてやられた。

 絵理と沙由理を比べると、人によっては沙由理の方が美人だと思う人もいるだろう。あるいはそう思う人が多いかも知れない。沙由理の方が華やかさがあった。そして、人当たりもいい。沙由理を悪く言う人を僕は知らない。

 だから、僕は幸運に思うべきなのかも知れない。しかし、人の好みはそれぞれだからしょうが無い。

 

 週末になり、学校は冬休みに入った。

 僕の二学期の成績は、カンニングのおかげでそんなには悪くはなかった。だから、金曜日に通知表を見せる時も、胸は張れないにしても、そっと出すほどではなかった。

 土曜日は、富樫が来て一騒動があった。

「それにしても、ききょうちゃんはわかるが、きくちゃんはもう冬休みに入ったのか」と訊いた。

「そうだよ」

「早いな」

「信州は夏休みが短いんだが、その分冬休みが長いんだ」と説明した。

「えっ、きくちゃん、長野県人なの」

「そうだよ」

「そうか」

 という話をした後で、きくがいた時に、富樫が突然、「きくちゃんはどこから来たの」と訊いた。

 きくは「白鶴藩ですけれど」と答えると、富樫は「白鶴藩ってどこ」と訊いた。

「白鶴藩は白鶴藩です」と答えた。

 それで僕に「白鶴藩って長野にあったか」と訊いた。

「そうなんじゃないのか」

 富樫は携帯を出して「検索してみる」と言い始めた。

「あれ、長野に白鶴藩なんてないぞ」と言った。

「昔の藩名だからないんじゃないの」と僕は答えた。

「おかしいよな」と、まだ富樫は言っていた。

「そんなこと言ってるんだったら、帰れよ」と言うと「俺、きくちゃんにお茶を入れてもらいたいんだけれどな」と言った。

「いいですよ。リビングのテーブルにお座りになってください」ときくが言った。

 僕と富樫は、僕の部屋にいたのだ。

「わかりました」と富樫が言った。

 それにしても、きくはいつの間にリビングとかテーブルとか覚えたのだろう。母にいろいろ言われている間に覚えたのかも知れない。

 僕と富樫がリビングのテーブルに着くと、電子ポットから急須に湯を入れていた。それから湯呑みにお茶を注ぎ、富樫に先に出し、後から僕に湯呑みを出した。

「どうぞ」ときくは言った。

「頂きます」と富樫が言った。

「今日はお菓子は何ですか」と富樫は図々しく言った。

「今日はですね、おせんべいしかありません」

「あっ、それでいいです」

「じゃあ、お出ししますね」と言って、きくは漆塗りの皿にせんべいの袋詰めの物を一つ載せて、富樫と僕に一つずつ出した。

「頂きます」と富樫が言うと、きくは「どうぞ、お召し上がりませ」と言った。

「この感じいいよな。秋葉に来たみたいだ」

「秋葉って何ですか」

秋葉原のことだよ。地名」と僕は説明した。

「今度、きくちゃんをメイド喫茶に連れて行こうぜ。そうすれば、もっとそれらしくなるかも」

「お前なあ、図々しいにもほどがあるぞ」

「わかった、わかったって。冗談だから」

「ふぅ」と一息ついたところで、急に富樫が「お前、明日、あの沙由理ちゃんとデートするんだって」と言い出した。

「沙由理ちゃんって誰ですか」ときくが訊いた。

「俺たちの学年で一番、美人の人」と富樫は大袈裟に答えた。いや、富樫なら本気でそう思っているかも知れなかった。

「デートって何ですか」

「そりゃ、二人で一緒に買い物したり、食べたり、歩いたりすることです」と富樫が答えた。

「二人っきりになるんですか」ときくは訊いた。

「そう」

「きくはいやです」と言い出した。

「きくちゃんはお前の従妹だよな」と富樫が言った。

「従妹って何ですか」ときくが訊いた。

「従妹って知らないの」

「はい」

「そこまで、そこまで」と僕は話を中断させた。これ以上、きくに話をさせるとややこしくなると思ったからだ。

 しかし、沙由理と現代美術展に行くことをデートという言葉で、きくは聞いてしまった。

 それが問題だった。

「京介様は沙由理さんとデートするんですか」ときくは訊いた。

「デートじゃないんだ。現代美術展に行くだけだから」と僕が言うと、富樫が「それがデートって言うんです」と余計なことを言った。

「京介様がデートするなら、わたしも行きます」

 ほらね、こういうことになるんだよ。

「いや、きくちゃんがデートについていくのは、まずいなあ」と富樫は言った。

「どうしてですか」

「さっきも言ったようにデートは二人でするものだから」と富樫は言った。

「だったら、京介様がデートするのは、きくは反対します」と言った。

 僕は富樫を見て、余計なことを言って、と言うような顔をした。富樫は、済まんと言う顔をした。

「きくちゃんは、京介が好きなんだね」

 そこをほじくってどうする、って言いたくなった。

「はい、好きです」

「はっきり言うなぁ。でも、従妹同士じゃあ、好きでもそれだけだよなぁ。今、京介の家にいるからそう思っているんだよ。妹が兄と結婚したいと思うのと一緒だ。そのうち大きくなれば、考えも変わってくるよ。そうだよな、京介」

 富樫は何とか、この場を収めたと思ったらしい。

「まぁな」と僕ははぐらかした。富樫はてっきり、僕が「うん」と言うものと思っていたようだ。

「京介様はきくをどう思っているんですか」

「可愛いと思っているよ」

「そうじゃなく、好きですか、嫌いですか」

「好きかな」

「じゃあ、沙由理さんはどうですか」

「好きでも嫌いでもないよ」

「好きでも嫌いでもない人とデートするんですか」

「断れない事情があるんだよ」

「そんなの、おかしいです」

「まあな、京介は絵理ちゃんに頼まれたから、断れないんだよな」

 おいおい、話をややこしくするなよ、と言いたくなった。

「絵理ちゃんって誰ですか」

「京介が好きな女の子」と富樫はついに言ってしまった。

「京介様には好きな人がおられたのですね」

 突然、きくは泣き出した。

「きくは京介様が好きです。だから、ききょうを……」と言い出そうとしたところで、僕はきくの口を手で塞いだ。

「お前のせいだぞ、富樫」と僕は怒鳴った。

「済まん、つい弾みで」

「弾みで言っていいことと悪いことがあるだろう」

 富樫は帰る仕草をした。

「ああ、そうしてくれ」

「じゃあ、またな」と言って、富樫はリビングを降りていった。

 僕はきくの口から手を離した。

 玄関の戸が開き、閉まる音がした。富樫は帰ったが、台風の目を置いて行きやがった。

 きくはしばらく泣いていた。

 僕は自分の部屋に入った。

 クラウドストレージにアップロードしていたデータをパソコンにダウンロードして整理をし、ジーンズにチェーンでつけているUSBメモリにコピーした。それと同時に携帯のデータを整理して容量を増やした。

 きくが部屋に入ってきた。

「京介様はきくが好きですか」

「好きだよ」

「それなのに他にも好きな人がいるんですね」

「そういうこともあるよ」

「きくはつらいです。どうすればいいですか」

「そんなこと、僕には分からないよ」

「きくはつらいけれど、我慢します」

 僕はこういうのが、一番弱いんだ。

「明日はデートなんですね」

「現代美術展に行くだけだ」

「それをデートって言うんですね」

「もう、いい加減にしてくれないか。富樫の言ったことは、半分はでたらめだからな」

「そうなんですか」

「そうだよ」

「わかりました」

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 月曜日が来た。

 今日は月一回の朝礼がある日だった。

 それに僕にとっては最悪の日でもあった。何と、赤ちゃんを助けたことで表彰される日だった。表彰みたいなことは、して欲しくはなかったが、断る勇気もなかった。

 結局、ずるずると朝礼を迎えてしまった。

 体育館に全学年生が整列した。

 講壇には、校長がいた。

 朝礼が始まった。校長の面白くない話を聞かされた後、僕の名が呼ばれた。

 僕は予め、壇上の下の階段の所で待たされていた。名前が呼ばれたので「はい」と言って壇上に上がっていった。

 富樫が「かっこいいぞ」とかけ声を出した。

「静かに」と教師に叱られていた。

「鏡京介殿 右の者は……」と乳母車を抱いたまま、トラックに衝突したことで、赤ちゃんを助けたことを述べた後、「よって西新宿署署長より感謝の意を表する。平成**年**月**日」と読み上げられ、感謝状を授与された。

 僕はそれを神妙に受け取り、壇上から降りた。その時、絵理の方を見たが、僕の方を向いてはくれなかった。

 その後は、冬休みが近いので、各自健康管理はきっちりするようにという話があって、朝礼は終わった。

 教室に戻る途中、富樫が僕の肩に手を回して、「なあ、冬休みにスキーにでも行かない」と言った。きくとききょうがいなければ「いいねえ、行こうよ」と言っていたところだったが、今回ばかりはそうは行かなかった。

「僕はちょっと……」と言うしかなかった。

「そうか、じゃあ、またな」と富樫は他の奴、何人かに誘いをかけていた。

 教室に戻ると、現代文の授業が始まった。冬休みの宿題が出された。森鷗外舞姫』におけるエリスの側からの立場で、物語を構成し直してみろ、というものだった。『舞姫』なんて難しくて、やってられないでしょ、と思った。

 

 放課後、富樫が来て「これからお前んち行ってもいい」と言ってきた。

「何で」

「きくちゃん、まだいるだろう」

「いるよ」

「会いたいんだよ」

「何それ」

「一目惚れって奴かな」

「あーあ」と僕は思った。

「どうせ、来るなって言っても来るんだろ」

「うん」

「好きにしろよ」

 僕はそう言ったが、本当は富樫には来て欲しくはなかった。富樫の口には戸が立てられないからだ。

 親友だが、本当のことが話せない。これほど面倒くさい親友はいない。

 

「ただいま」

「お帰りなさいませ」

 玄関の廊下にきくが正座して、両手を突いて頭を下げた。

 富樫も一緒だったから、驚いていた。

「ちょっと、古風なんだ」と僕は富樫の耳元で囁いた。

 富樫は「お邪魔しまーす」と言って玄関を上がった。

 二階のリビングに行くと、「お茶を入れますね」と言って、きくが電気ポットから急須にお湯を入れている。

 僕が小声で「覚えたのか」と訊くと「はい、お母上に教わっています」と答えた。

 そして湯呑みに急須からお茶を注いで、富樫と僕の前に出した。

 僕は湯呑みからお茶を飲みながら、電子ロボットがお茶を入れてくれたような錯覚に陥った。

 富樫は嬉しそうに飲んでいた。

 きくは昨日買ったパンツを穿いていた。白地に大小の色の違った水玉模様の柄だったが、きくには似合っていた。

「お菓子は何になさいますか」ときくが訊いた。

「何があるんだい」

「おせんべいと洋菓子というものです」

「じゃあ、洋菓子」

「わかりました」

 きくはバームクーヘンを皿に載せて持ってきた。

 富樫と僕の前に置いた。ちゃんと小ぶりのフォークも添えていた。

 こういうことは、よく覚えるんだな、と僕は感心していた。

 白鶴藩の家老屋敷で女中をしていたのだから、こうした所作には慣れてはいるのだろうが、短時間で覚えたことに僕は驚いていた。

 富樫は「おいおい、メイド喫茶に来たみたいで凄いな」とはしゃいでいた。それも分からなくはなかった。きくはまだ十五歳だ。それが女中奉公をしていたとはいえ、こうして仕えてくれるのだ。富樫でなくても、悪い気分のものではなかった。

 富樫のお茶がなくなったので「おかわりしますか」ときくは訊いた。

「はい、おかわりします」と富樫は答えた。

 富樫の前に、おかわりのお茶が来た。

 富樫は僕の肩のシャツを引っ張って「お前、天国だな」と言った。

「まぁな」と答えた。

 

 小一時間ほど家にいた富樫は、満足して帰って行った。

 あの様子だと明日も家に寄りかねなかった。いつまで、きくとききょうが従妹と別の従妹の赤ちゃんだという説明が持つのか、分からなくなってきた。だが、それで行くしかなかった。

 

 夜、親父が帰ってきて「あの小判、一千二百八十万円で売れた」と言った。詳しい明細を見せてくれた。全くの未使用は二枚で一つ三百万円。未使用に近い物は二百八十万。使用されている物は二枚で一つ二百万円。合計で一千二百八十万円だそうだ。

「そっくり預金してきた」

「これでお祖母ちゃんの施設へ入るためのお金ができたね」と僕が言った。

「そうだな」

「わたしも一安心だわ。京介ありがとう」

「別にいいさ。それより、きくは随分、慣れてきたね。今日はお茶を入れて出してくれたのには、ビックリした」

「あの子はいい子ね。教えたことは、ほとんど一度で覚えるわ」

「ききょうはどう」

「よくミルクを飲むわ。哺乳瓶を与えるとすぐ吸い付いてくるの。京介の赤ん坊の時のことを思い出すわ」

「そう」

 

 親父もお母さんも、僕ときくが一緒に風呂に入ることには、慣れたようだった。

「いっそのこと、おきくちゃんと京介を結婚させるということもあり得るね」と親父は気楽に言う。

 するときくは「結婚って、夫婦になるっていうことですか」と訊くから、父は「そうだが」と言うと、「きくは京介様と夫婦になりたいです」と言った。

「でも、法律じゃあ、京介はまだ結婚できないしな」と父が言ったが、きくだって本当は十五歳だから結婚できないし、第一、過去の人なんだから、結婚なんてあり得ないよ、と僕は言いたくなった。

「京介様と結婚、京介様と結婚」ときくははしゃいでいる。この後、それができないことをきくに説明するのにどれだけ時間がかかるか分かって言っているの、と親父を怒鳴りたくなった。

 

 次の日の朝、いつもは門の所に待っている富樫が玄関にまで入って来た。

 僕が出かけるので、玄関の廊下にきくが正座して両手を突いて頭を下げ、「京介様、いってらっしゃいませ」と言った。すると、富樫がすかさず「俺にも言ってくれない」と言った。きくは「富樫様、いってらっしゃいませ」と言った。

「くぅー、たまんない」と富樫が言った。

「下の名前でも言ってくれない。俺、元太って言うんだ」と富樫は言った。

 すると、きくは「元太様、いってらっしゃいませ」と言った。

「あーあ、いい。一日、元気が出る。ありがとな、きくちゃん」

「どういたしまして」

 全く、富樫は調子のいい奴だった。

「ねぇねぇ、あの子、どこで寝てんの。リビングで寝てんの。お前んち、2LDK+納戸だったよな。納戸に寝ているの」

「そんなのどうだっていいだろ」

「良くないよ。教えろよ」

「納戸だよ」

「そうか、納戸か、って。あのガラクタだらけの納戸を整理したわけ」

「そうだよ」

「そっか、そうだよな」

「分かってくれりゃいいよ」

「今度、納戸見に行くわ」

「お前な、どこまで調子に乗っているんだよ」

「すまん、すまん。冗談だよ」

「冗談にしてはきついな」

「さあ、すっきりして今日も一日行こうぜ」

「お前、よく西日比谷高校に受かったな」と僕が言うと、「お前に、言われたくはないな」と富樫も言った。

「それもそうだな」

「だな」

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

「止めろ」

 僕はきくとききょうを路地の奥に押しやった。

 周りから、何人かがきくとききょうを捕まえようとしていた。

 その写真も携帯で撮った。写真を撮られたことは、奴らには分からなかったはずだ。

 きくに最初に手を出そうとした奴の顔面を思い切りナックルダスターを嵌めた拳で殴った。鼻と顎の骨が折れたことだろう。

「この野郎」

 次に襲いかかって来た奴とは、拳と拳がぶつかった。相手の拳が砕けるのが分かった。

 もう一人は、腕をとって投げながら地面に叩き付けた。そいつは脱臼で済んだはずだ。

 最後にきくに手をかけようとした奴は、肘で右腕をへし折った。

 それは一瞬のことだった。

 きくとききょうを捕まえようとした四人が地面に転がっていた。

 僕は録音を止め、録音データをクラウドストレージにアップロードした。

「あっ、こいつ、武が言っていた奴じゃないか」

「馬鹿、名前を出すな」

「この間、古物商の後をつけてやられたっていう奴」

「そうかもな」

「だったら、油断はできないぞ」

「待て、今から仲間を呼ぶから」

 僕は仲間を呼ばれてはたまらないから、携帯を出した奴に向かっていった。

 相手は不意を突かれて、驚いていた。その隙に携帯を取り出した奴のところまで走り寄っていた。そして、その持っていた手の平ごと携帯を潰した。

 他の奴が携帯を出していないことを確かめると、今度はこちらから攻めた。

 きくの近くにいる奴から、狙いをつけた。そいつはチェーンを握っていた。それをアスファルトの地面に叩き付けるように威嚇してきた。僕は少しずつ回り込んで、僕の後ろにきくが来るようにした。

「きく、僕の後ろから少し離れていろ」と言った。

「わかりました」

 チェーンを持った男が、それを振りかざして殴りかかってきた。チェーンは誰もいない地面をしたたかに打った。僕は上に飛び上がっていた。そして、打ち下ろしたチェーンの腕を膝でへし折った。

 六人やられたが、まだ相手は九人いる。その数の優位さが彼らの怯えを抑えていた。

「女を捕まえろ。そうすれば手出しできなくなる」

「はぁ」と言っていた奴が、そう言った。こいつがヘッドのようだった。

 九人はきくを捕まえようとしていた。

「テツ、ゲン、アキ。こいつを止めていろ」と奴が叫んだ。おそらく、その隙にきくを捕まえようとするのだろう。

 テツとゲンとアキが僕の方に向かってきた。しかし、僕は彼らを相手にする気はなかった。きくを捕まえようとしていた奴を捕まえると、そいつの顔面を殴った。すぐに鉄パイプが振り下ろされた。それを避けると、鉄パイプを握り締め、奪い取ると、逆に鉄パイプでそいつの足を打ち付けた。

 鉄パイプを剣のように持つと、右から襲いかかってきた奴の腹を鉄パイプで突いた。左からナイフを突き立てようとした奴は、そのナイフを鉄パイプで払った。そして、鉄パイプで胸を突いた。

 僕は鉄パイプを投げ捨てると、テツ、ゲン、アキの三人に向かっていった。彼らの繰り出すパンチを避けて、顔面にナックルダスターをお見舞いしていった。

 逃げだそうとしていた二人に先回りをすると、「はぁ」のお兄さんを残して、もう一人の右腕をへし折った。

 僕は「はぁ」のお兄さんの髪を掴んで、アスファルトの地面にこすりつけた。

「さて、これからが問題です。謝るって何ですか」

「はぁ」のお兄さんは「済みませんでした」と言った。

「それ謝ってんのかなあ」と僕は彼の顔面をアスファルトの地面に叩き付けた。

 そして、右腕を足でへし折った。

 路地の奥にいたきくを呼んで、「怖がらせて済まなかったな」と言った。

「いいえ、京介様なら何とかしてくれると思っていました」

「そうか。じゃあ、帰るか」と言ったが、「おっと、その前に」と彼らのポケットを探った。生徒手帳が出てきた。皆、黒金高校だった。それらを携帯で写真に撮り、クラウドストレージにアップロードした。

 

 家に帰ると、買ってきたパンツをきくは穿いた。

「どうだ」

「スカートより、こっちの方が動きやすいです」と言った。

「そうか。それではばかりは大丈夫か」

「これを降ろせばいいんでしょう」

「そうだ」

ショーツとかストッキングと同じですよね」

「うん」

「じゃあ、大丈夫です」

「そうか」

 親父が書斎から出てきた。

「帰ってたのか」

「ああ」

「それ買ってきたのか」

「うん。どう」

「いいんじゃないか」

 

 そのうちに母も帰ってきた。

「何の用だったの」

「おばあちゃんのことよ」

「どうかしたの」

認知症が進んでいるのよ。それで兄嫁が手に負えなくなっているから施設に預けようと思っているんだけれど、どうするかって話になったのよ」

「それで、どうなったの」

「預けることになったんだけれど、施設の入居費が高いのよ。それで一部をうちでも負担してくれないかって言われてきたの」

「いくらぐらいなんだ」と父が訊いた。

「二千万円のうち、一千万負担して欲しいって言われたの」

「一千万円か。厳しいな」

「ちょっと待ってて」

 僕は二階に上がっていって、巾着の中から小判を五枚取り出した。

 それを持って、下に降りてきた。

「はい、これ」

「はい、これって」

「小判だよ。この前、二百万円でなら引き取るって、親父が言っていたところあったよね。黒金古物商は駄目だけれど、そこなら安心じゃないかな。足りなければもう少しあるけれど」

 そう僕が言うと、母は「ありがとう。助かるわ」と言った。

 これで親孝行ができれば安いものだと、僕は思った。

 

小説「僕が、剣道ですか? 3」

 次の日は日曜日だった。母は用があるとかで、朝早くから出かけていた。

 晴れたいい日だった。きくは昨日買ってもらった服を何度も着替えて鏡に映していた。

「出かけたいなぁ」ときくは言った。

 昨日の新宿での買物が楽しかったのだろう。

「そうだな、こんな天気のいい日に、一日家に籠もっているの馬鹿らしいよな。出かける前にききょうにおっぱいいっぱい飲ませておけよ」

「わかりました」

「親父、出かけるけど、留守番頼むよ」

「わかった」

 僕は昨日新宿に行ったから、今日は渋谷に行こうと思った。きくがパンツ類に興味を持っていたようだったから、それらを見て回ろうと思った。

 財布には少し余裕があるだけのお金は入れた。

 きくがききょうに授乳するのを待って出かけた。

 きくは白いコートも買っていた。それを着て、僕はいつものオーバーだった。

 ききょうは抱っこ紐できくが抱いていた。きくは小さいから、小学生が赤ちゃんを抱いているような感じに見えた。

 電車に乗って、渋谷に出た。

 渋谷は久しぶりだった。こんなにも変わったのかというくらい、分からなくなっていた。

 とにかく歩いて女性もののパンツを売っている店を探した。

 それらしい店を見つけたので入った。店員にきくを見せて「この子に似合うのを選んでください」と言った。きくがパンツを選んでいる間は、僕が抱っこ紐でききょうを抱っこした。

 きくはパンツの穿き方から店員に教わっていた。

「これとこれがいい」と言うので二つ買った。

「急ぎで裾上げをしますか」と訊かれたので「はい」と答えると、一時間ほどかかると言うのでそれで構わないと言って代金を払い、「一時間後に来ます」と言って店を出た。

 昼頃になっていたので、何か食べようと思った。

 きくにはわからない食べ物であふれていた。僕は自分の好みでハンバーガー店に入っていた。きくにはオーソドックスなハンバーガーを注文し、僕はキングサイズを頼んだ。代金を払って、受け取り口で待った。トレーに載せて運ぶ時、普通サイズのハンバーガーとその三倍ほどの大きさのキングサイズのハンバーガーにきくは驚いていた。

 飲み物は僕はコーラにしたが、きくはカルピスにした。きくにはソーダ水はまだ無理かなと思ったからだ。カルピスなら、子どもでも喜ぶだろうと思って……。案の定、カルピスを一口飲んだだけで「美味しい、こんなに美味しい飲み物があるなんて知りませんでした」と言った。

 きくはハンバーガーを食べるのには、苦労していた。口よりでかいパンをどうやって食べられるのか、不思議に思ったらしかった。僕はパンを潰して口に入れるんだよ、と教えた。でも、きくは上手くはできなかった。口の回り中をケチャップだらけにした。

 ゆっくりと時間を過ごして、一時間ほどが過ぎた。ハンバーガー店を出て、さっきの店に寄った。裾上げができていると言うので、試着してみた。OKだったので、袋に入れてもらい店を出た。

 抱っこ紐でききょうを抱いているきくは、通り過ぎる女の子たちには「可愛い」と何人にも言われた。きくはそれが嬉しそうだった。

 もう、そろそろ帰ろうと思ったが、歩いているうちに駅の方向が分からなくなった。

 そのうち、誰かと肩がぶつかった。僕は「済みません」と謝った。そして、先に行こうとした。するといきなりオーバーの襟を掴まれた。

 そいつは「ぶつかっといて謝らないで行く気かよ」と言った。

「さっき、謝ったじゃないですか」

「はぁ」

「聞こえなかったんですね。済みません」と僕は言った。

「はぁ」

「離してくださいよ」

 そいつは手を離した。僕はもう一度「済みませんでした」と言って、歩いて行こうとした。すると、きくが前を塞がれていた。仕方なく、別の方向に歩き出した。

「きく、私にもっと近付いていろ」と言った。

 次第に渋谷から遠ざかっていった。

 とにかく、前に歩いた。

 後ろからは、がらの悪そうな連中がついてきていた。

 いつの間にか、黒金町に入っていた。

 あの黒金古物商が遠くに見えていた。

「京介様、わたし、こわいです」ときくが言った。

「そうだな。少し早く歩くか」

 黒金町を抜ければ、新宿に入る。そこまでは遠かったが、引き返すよりはましに思えた。

 歩みを早めた。しかし、後ろの連中も速く歩き出した。

 先には路地が見えた。

 いつの間にか、向かい側からも、がらの悪い連中がやってきた。

 路地で挟まれた。僕はきくを連れて、先に行こうとした。しかし、またしてもオーバーの襟を掴まれた。

「なぁ、俺は謝ってくれって言ってんだ。何も難しいことを言っているわけじゃないだろう」

 僕ときくとききょうは、路地に押し込められていった。

「謝ったじゃないですか」

「はぁ」

「その、はぁ、が分からないんですけれど」と僕は言った。そう言いながら携帯を出して、彼らの写真を撮った。彼らには素早すぎて写真を撮られたことも分からなかっただろう。

 写真はすぐにクラウドストレージにアップロードした。と同時に録音を始めた。

「はぁ」と言った奴が、周りを見回して、「こいつ、謝り方も知らねえぞ」と言った。

「済みませんじゃ、いけませんか」と僕は言った。きくは僕にしがみついていた。

 僕はオーバーのポケットの中を探って、皮手袋を脱ぎ、前にごろつきから奪ったナックルダスターを右手に嵌めた。そして皮手袋をその上からした。さすがに上まで引き上げられなかったので、右手を出して、左手で引き上げた。

 その時、一瞬彼らは身構えたが、皮手袋をしただけだとわかると、また元に戻った。

「済みませんで通れば、警察はいらねぇんだよ」

「じゃあ、警察に行きますか」

「なんだと、こりゃ」

「嘗めてますぜ、こいつ」

「おい、お前。お前が今、どういう状況になっているのかわかっているのか」

「分かってますよ。新宿にも渋谷にも行けない、道が塞がれていてね」

「わかってるじゃないか」

「で、どうしろと」

「だから、謝れって言ってるんだよ」と「はぁ」と言った男が言った。

「どう謝ればいいんですか」

「馬鹿か、お前」

「馬鹿呼ばわりされる覚えはないんですけれどね」

 僕ときくとききょうは、次第に路地の奥に追い詰められていった。

 路地の向こう側は、線路で、金網が張ってあった。また、路地の両側は居酒屋風の店で、まだ昼間の今頃はどこも扉が閉じられていた。

 僕らは袋地に入り込んでいた。

 相手は右側に八人、左側に七人いた。合計十五人だった。

「おい、口の利き方に注意するんだな」

「分かりましたよ」

「わかりゃいいんだよ。で、謝ってもらおうか」

「済みませんでした」

「おいおい、お前は何を聞いていたんだ。それで謝っているつもりか」

「謝っているつもりですが、違うんですか」

「やっぱり、こいつは馬鹿だぜ」

 周りの連中が笑った。

「そうだな。謝り方も知らねえ馬鹿だぜ」

「だから、どうすれば謝ったことになるんですか」

「言わなきゃ、わかんねぇのか」

「分かりません」

 僕がそう言うと、相手は呆れたような顔をした。

「本当に馬鹿だな、お前は」

「馬鹿で、済みません」

「金だよ、金」

 とうとう相手は、お金の話を持ち出してきた。

「お金が、謝ることとどう結びつくんですか」

「はぁ」

 また、そいつは「はぁ」と言った。

「とにかく、金を出せばいいんだよ」

「分からないなぁ。お金を出すことと謝ることとどういう関係性があるんですか」

「金を出すっていうことが、謝るっていうことになるんだよ」

「ああ、そういう意味だったんですね。で、いくら出せばいいんですか」

「さっきなら、数万で済んだが、今はこれだけ集まったんだぜ」

「何人ぐらいいます」

「馬鹿か、お前は。数えられないのか」

「怖くて、よく分からないんです」

「十五人だよ」

「十五人ですか。それで、いくら払えばいいんですか」

「少なくとも一人あたり、これくらいだな」とそいつは人差し指を一本立てた。

「千円ですか」

「馬鹿野郎。さっきなら、数万で済んだが、って言っただろう。一人一万に決まってるだろう」

 きくは僕のオーバーの腰あたりに手を置いていた。

 僕は財布を取り出した。そして中を見て、「五、六千円しかありません」と言った。

 すぐ近くの者が、財布を取ろうとしたので、僕はすぐにしまった。

「ふざけるなよ、この野郎」とそいつは言った。

 そいつは「キャッシュカードが見えました。キャッシュカードで引き下ろさせればいいんですよ」と言った。

「そうだな。五、六千円じゃ、しょうがないからな」

「そこの女の子を捕まえろ」