小説「真理の微笑」

四十三

 リハビリを終えて病室に戻った時だった。

 お腹が少しばかり膨らんでいるのが目立つ女性が、そのお腹を突き出すように椅子に座っていた。薄化粧の目鼻立ちのはっきりした女性だった。髪はセミロングでパーマをかけていた。淡いブルーのマタニティドレスに、藤色のカーディガンを着ていた。

 顔自体は私の好みではなかったが、富岡はどうだったろう。どうであれ、美人の部類に入る女性には違いなかった。

 私が看護師に車椅子を押してもらいながら病室内に入っていくと、すぐに「修さん」と声をかけてきた。私はベッドの手すりに手をかけて、車椅子からベッドに移ると、彼女は椅子から立ち上がってベッドに寄ってきた。

 看護師は私が車椅子からベッドに移動するのを確認すると、何も言わず病室から出て行った。彼女はもう一度、「修さん」と言った。

 私は「誰」と訊いた。私の声が聞き取れなかったのか、分からなかったのだろう。

「修さん、わたしよ、わかる」

 私は首を左右に振った。

「由香里よ」

「分からない」と私は言った。

 私の顔を見ていた女は「わたしがわからないの」と言った。

 私は頷いた。そうすると、彼女は泣き出した。私のベッドの手すりに片手を置いて、それはぎゅっと握りしめられていた。

 その時、電話がかかってきた。受話器を取ると高木だった。

「今、斉藤由香里という女の人が来ていませんか」と言う。

「今、ここにいる」

「そうですか。さっき何度もお電話したんですが、お出にならなかったものですから」

 その時は、リハビリをし、頭の体操をしていた頃だったのだろう。

「今日、由香里さんが会社に訪ねてきて、社長の居場所を尋ねるものですから……」

「この女性は誰なんだ」

「知らないんですか」

「分からないから訊いている」

「斉藤由香里さんですよ、斉藤由香里さん」

「それは聞いた。名前は分かった。私とどういう関係があるんだ」

 高木は一拍おいてから「社長、あなたのお子さんを宿している方です」と言った。

 私は由香里を見た。彼女は私のベッドの手すりに顔を押しつけるようにして泣いていた。

「どういう事だ」

「そのままですよ。社長のお子さんを宿しているんです」

「そんな……。今までそんな話聞いていなかったぞ。知っていたのか」

「いいえ、とんでもありません。今日、お会いするまで知りませんでした」

「本当か」

「ええ、ですが……」

 高木は少しの間、沈黙した。

「知っていたわけではありませんが、薄々、そうなんじゃないかとは思っていました。今日、事情を聞いて驚きました」

「これまでに、会社に来た事はあるのか」

「私が知っているのは一度だけですが、ごくたまにですがお見えになっていたようです」

「そうなのか」

「はい」

「分かった。また明日にでも連絡する」

 高木との電話は切れた。話し終えるのを待っていたように、由香里は顔を上げた。

 私は枕元に来るように手招きをした。

 由香里は泣いていた顔をほころばせて、私の枕元に来て座った。

「私は交通事故を起こして、こうして入院している。事故で喉を傷つけてしまって、声が上手く出せない。だから、こんなふうにしか、今は話せない」

 由香里は、私の顔を撫でるように手を当てた。

「そうなのね」

「それと、これが重要な事なんだが、事故を起こした以前の記憶を無くしてしまった」

「えっ」

「だから、あなたが誰なのか分からなかった」

「わたしがわからないの」

「そうなんだ」

「そんな……」

 由香里は、自分のお腹に手を当てて「ここにあなたの赤ちゃんがいるのよ」と言った。

「そうらしいな」

 そう私が言うと「あなたの赤ちゃんです」と、由香里はきっぱりと言った。

「あなたが何人かの女性と付き合っているのは知っているけれど、そういう女性とわたしとは違うの。わたしは真面目にあなたの事を愛しているのよ」

 由香里の顔は真剣だった。

「分かった。でもどうして今頃……」

 そう言うと、由香里はムッとしたような表情を見せた。

「それは堂々と会社に行けるものならそうしていたわ。会社に行く時はいつもあなたから連絡があった時だけ。そうでない時は、クラブかホテルで会っていたでしょ。というよりほとんどそうだった」

 手帳にYというイニシャルが付けられていたのは由香里の事だったのか、と私は思った。

「あなたから何の連絡も来なくなったので、この二ヶ月ほどは死ぬほど心配したのよ。何かあったんじゃないかと思って……」

「そうだったのか」

 夏美と同じだな、と思った。

「会社にも電話してみたけれど、受付はいつも『社長は今は外出中です』としか言わないし。何度電話したか、知れないわ。一体、いつまで外出しているのよ、と思ったくらい」

 受付の対応は間違ってはいない。会議中とか、取り込んでいるとか言えば、それでも由香里は取り次いでくれと言っていただろう。外出中なら取り次げないし、第一、入院しているのだから、外出中には違いなかった。

「電話じゃ、埒があかないから会社に行こうとしたわ」

「そうだろうね」

「でも、悪阻がひどくて、家から出られなかったの」

「なるほど、そういう事だったのか」

「ようやく、悪阻が治まったので、会社に行ってみたの。そしたら、引っ越していたのね。引越し先が書かれていたので、ようやく行けたの」

「そうか」

「随分と立派な会社になっちゃって……」

 私は前の会社を直に見に行ってはいないから知らないが、真理子が記念にカメラで撮った写真を見せてくれた。そして、新しい会社の写真も撮ってくれていた。両方を比較すれば、今の会社は随分と大きくなったと言えるだろう。

「どうしていいか分からないから、受付の人に一番偉い人に会わせてって言ったの。最初は断られたわ。でも、わたしは必死だった。そう簡単に引く事はできなかった。騒ぎが大きくなって、広報室の何とかという人が来たの。わたしがここで今一番偉い人に会わせて欲しいと言うと、どういう用件かと言うので、それをここで大声で言っていいのなら言うけれどと言ったら、『待ってください』と誰かに電話したわ。それがきっと高木さんだったのね」

「それで高木に会えたのか」

「ええ、そう。あの人、専務なのね」

「そうだ」

「いい人ね」

 私は頷いた。富岡にしては、いい人材を専務にしたと思っていた。

「その人に、全てを話したわ。そしたら、わかってくれた」

「そうか」

「あなたが事故に遭った事も、記憶を失っている事も。それから病院の場所も教えてくれたわ。わたしに会えば記憶を取り戻すかも知れない、とも言ってくれたわ」

「なるほどね。でも、残念だが、思い出せない」

 そう。思い出せるはずがないじゃないか、私は富岡じゃないんだから。

「こうすれば」

 由香里は私に近づき、いきなりキスをしてきた。私は、咄嗟に離そうとしたが、由香里の腕には力が入っていた。私は離すのをやめて、由香里を優しく抱き寄せ、口づけをした。

 すると由香里はすぐに唇を離すと、まじまじと私を見た。何か信じられない事が起こったような顔つきだった。

「どうした」

「修さんよね」

「そうだよ」

「変わったわ」と言った。

「えっ、変わった……」

 私はしまった、と思った。キスの仕方が富岡と違っていたのだろう。

「どう言ったらいいのかしら」と由香里は言った。

「変な話なんだけれどね、まるで全く知らない人とキスをしているみたいなの」

 そう言った後で、由香里は「ううん」、と自分の言葉を否定するかのように首を左右に振った後で、「気のせいね。でもキスがなんて言うか……」と口を濁した。

「私は前の事は覚えていないから、どんなキスをしていたかなんて分からないんだ」

 私が困ったような複雑な顔をしていたので、由香里は慌てて「良かったのよ。上手だったの」と言った。

「前のあなたはもっと雑と言うか、乱暴だったと思っただけ」

 私はどう言えばいいのか分からなかった。

「ごめんね。途中でやめちゃって」

 由香里はそう言うと、再び口づけをしてきた。髪からいい匂いが漂ってきた。私の知らない香りだった。今度は、長い口づけだった。ずっと捜し求めてきた富岡に、やっと会えたのだ。その思いをぶつけるかのような激しい口づけだった。

「でも、こうして会えて良かったわ」

 私は頷くしかなかった。

「そのうち、きっと思い出すわよ。わたしが思い出させてあげる」

 それは無理なんだって、とは言えなかった。またしても、私は頷いた。

「だって、あんなにも赤ちゃんができた事、あなた喜んでくれたんだもの」

 それはどういう事、と心の中で思った。私の心の声が聞こえたみたいに「奥さん、赤ちゃんができにくい体質だものね」と言った。

 真理子との間で、子どもの話が出ないのは変だと思っていたが、そうなのか、そういう事だったのか、と得心した。

 しばらく由香里と話をした後で、「また来るわね」と由香里が言うと、私は慌てて「妻と鉢合わせになる事だけは避けてくれよ」と言った。

「わかっているわよ。わたしだって馬鹿じゃないんだから」

 由香里はお腹を大事そうにしながら病室を出て行った。出て行く時、私に向かってしきりに手を振った。

 

 由香里が病室を出て行った後、私はサイドテーブルの引出しから富岡の手帳を取り出した。午後五時以降に付いているイニシャルのYは由香里だ。その他にKとSというイニシャルもある。だが、何故かあけみのAはなかった。それにしても、一体、何人の女と付き合っているんだ。殺した富岡に向かって、そう叫びたくなった。そう思っているうちに、KとSは人名のイニシャルじゃないのかもしれないと思った。Kはクラブ「楓」のKかもしれなかった。とすれば、もう一つのSもどこかのクラブのイニシャルかもしれない。由香里は、元はクラブで働いていたかもしれないが、今はどこかで働いている風ではなかった。だから、由香里だけYのイニシャルだったのかもしれなかった。

 

小説「真理の微笑」

四十二

 一週間が過ぎた。

 月曜日の午前中に、教授回診があって、それぞれの担当医が教授に説明をしていた。私の内臓の数値は、良くなってきてはいるが、まだ高いという事だった。特に腎臓と肝臓がまだ悪いようだった。心電図は安定しているという事だった。リハビリは順調に進んでいると理学療法士が言った。声の方も腫れは順調に治っているという事で、掠れ声はもうしばらくすればなくなるだろうと言っていた。

 あけみは水曜日に来た。化粧を薄めにした素顔に近いあけみの方が、若さが引き立って可愛く見えた。フェラチオをしたがったが、私が頑強に拒んだ。その代わり、あけみのクリトリスを思い切りいたぶった。あけみは、何度か絶頂に達した。

 あけみが帰っていくと、私はナースコールをした。トイレに行くためだった。余韻が残っている内に自分で射精した。その後、石けんでよく手を洗う事も忘れなかった。

 夏美とはパソコン通信でメールのやり取りをした。夏美は何度も会いたいと書いてきたが、私は会えないと書き送るしかなかった。そして、パソコン通信している事を警察には決して言わないように書き送った。捜索願は出したままにしておくように、とも付け加えた。

 何もしないのが一番だったのだ。

 辛かったのは、父親が失踪している事で祐一がいじめられているとメールに書かれていた事だった。会いに行けるものならそうしたかった。病院の場所を教える事ができるものならそうしたかった。しかし、富岡を殺した私には、それができなかった。

 家の改修が始まったようで、真理子が病院に来たのは、金曜の夜だった。会社も来週からは新しい場所で活動を始める。

 私は、そうした一切合財を病院から見守るしかなかった。

 

小説「真理の微笑」

四十一

 午前七時に看護師に起こされるまで眠っていた。体温と血圧を測っていった。

 午前八時に食事を済ませると、ラップトップパソコンを取り出した。昨日、真理子が持ってきたソフトをインストールし、自分が使いやすいようにカスタマイズした。

 そのうち、あけみがやってきた。

「昨日はあんな事言っていたけれど、ほんとは寂しかったんでしょ」

 あけみは私に抱きつきながら言った。

「ああ、寂しかった」

 私はあけみに合わせた。

「やっぱり」

 あけみはそう言うと、キスをしてきた。

 香水の甘い香りと柔らかい唇が、私の理性を奪っていく。長いキスだった。

「この前みたいにしてくれる」とあけみは言うと私の手を取って、スカートの中に導いた。

「しやすいように、今日は巻きスカートで来たのよ」と言った後、「それと」と続けて、うふふ、と笑った。

「Tバック穿いているの」

 あけみはすぐにTバックをずらして、私の指をそこに誘導していった。

 私の理性はすっかり痺れていた。

 私はあけみの割れ目を擦りあげ、クリトリスを刺激した。ほどなくしてあけみはいった。

 あけみはフェイスタオルを濡らしてきて、私に渡すと、前にしたようにティッシュペーパーを使って床を拭いた。そして、フェイスタオルを洗ってタオル掛けに掛けた。

 その後で私の股間を触った。

「立ってる」

 それはそうだろう。

「あたしに任せてね」

 あけみはそう言うと、私の毛布を剥がし、パジャマのズボンごとおむつも太腿まで下ろした。それから私のペニスを掴むと、口に咥えた。

「や、やめろ」

 私はできるだけ大きな声で言ったから、あけみには聞こえたはずだが、聞こえないふりをした。

 あけみの舌がペニスをなめ回した。痺れるような快感が突き上げてきた。あけみは大きく口を開くと、私のペニスを飲み込むようにした。そして、口をすぼめて何度もしごいた。

 私はひとたまりもなかった。長く射精をしていなかったので、すぐにそれは起こった。快感の渦の中に私は飲み込まれていった。私の精液をあけみは飲み込んだようだった。

 舌なめずりをしながら、あけみは顔を上げた。口元から精液の匂いがした。

「どう、良かったでしょ」

 私は何も言えなかった。

「でも、やけに早かったわね」

「…………」

「そっか。長く病院にいたんで溜まっていたのね。今日のは濃かったもの」

 私は脱がされたおむつとパジャマのズボンを引き上げていた。

「でも変ね、いつもの修ちゃんなら、喉の奥までガンガンに届くのに……」

 私は短いと言われているようで恥ずかしくなった。

「頭を押さえつけるようにしなかったからかな」

 そのように、あけみはペニスが短く感じた理由を自分で求めてみた。そうか、富岡は頭を押さえつけるようにフェラチオをさせていたのかと私は思った。だから、「きっと、そうだよ」と言ってみた。

「でも、少し太くなっている」

 今度は喜んでいいのか、分からなくなった。

 あけみは首を傾げて「でも、前の修ちゃんとは違っていたような気がするな」と言った。

そして「変だな」と首を傾げている。あけみは何度も富岡のペニスを咥えているのに違いない。それで口や喉が自ずと富岡のペニスの形状を覚えていたのだろう。

「こんな事故に遭ったんだ。ペニスだって皮がひきつったりしてるんだろう」

 私は苦しい言い訳をしていた。

「そお、じゃあ、見てあげる」

 あけみはまたズボンを下ろそうとしたので、私は慌てて「いいよ」と言った。

「ここは病院なんだよ、誰が入ってくるか分かりゃしない。勘弁してくれよ」

「わかったわ。もう、いいわ。あたし、トイレ借りるね」

「どうぞ」

 また、パンティを穿き替えるのだろう。

 その間に、私はセーフティーボックスから百万円入った封筒を取り出した。

 しばらくしてあけみは戻ってきた。私は黙ってあけみに封筒を渡した。

 あけみは、何? というような顔をして中身を見た。そして、封のしてある百万円の札束を取り出した。

「あ~あ、修ちゃん」

 あけみは、札束の入った封筒を掴んだまま抱きついてきた。そして、キスをしようとした。私は顔を反らした。自分の精液を飲み込んだ口とキスをしたくはなかったのだ。

「大丈夫よ。さっき口をすすいできたから」

 そう言うと、あけみは唇を重ねてきた。あけみはありったけの情熱を込めたであろうキスをしてきた。私はその情熱に負けて、口を吸われるままにしていた。

「だから、修ちゃん、好きよ」

 そう言った後、耳元に口を寄せて「毎日でもしてあげる」と囁いた。

「それはいい。気持ちだけ受け取っておく」

 そうは言ったが、さっきのフェラチオは気持ちよかった。できる事なら、何度でもしてもらいたかった。ただ、性器の形状が違うというあけみの指摘は、無視する事ができなかった。今日のところは、なんとかごまかせたが、繰り返せばその違いにあけみだって気付く事だろう。危険は避けなければならなかった。第一、ここは特別個室とはいえ病室だった。私はあけみに退院するまで、勝手に来ないように言った。

「そんな約束できないわ」

「頼むよ」

「大丈夫だって。あたしだって修ちゃんを困らせたくはないんだから。ちゃんと奥さんにわからないように来るから」

「そんな派手な格好で来たら、妻に知られなくても、他の人に知られるだろう。そうすればそのうち妻の耳にも入る。そんな事ぐらい、分かりそうなものじゃないか」

「わかった。だったら目立たない格好で来る」

「そういう事言ってるんじゃ……」と言いかけた時、またあけみはキスをしてきた。

「あけみの事、嫌いになったわけじゃないでしょ」

「そうだけど」

「だったら、来てもいいよね」

 私が折れるしかなかった。

「しょうがない奴だな」

「わぁ、良かった」

 あけみは抱きついてまたキスをした。

「でも来る時は、電話してくれよ」

「わかった」

 あけみは上機嫌で帰って行った。百万円を手にしたのだから、当然だったろう。

 あけみが富岡を好きなのは事実だろう。だが、金づるでもあったのに違いない。あけみにお金を渡した事で、これからも何かあったらあけみを利用できるかも知れないと思った。

 その時、ふと、あけみが拭いてくれた手の匂いを嗅いでみた。

 あけみの匂いが残っていた。今日はシャワーのある日ではなかった。ずっとこのままかと思うとナースコールを押していた。

「どうしました」

 看護師がやってきた。

「トイレに行きたいんで」と言った。

「わかりました」

 私は看護師に手伝ってもらって、トイレに入った。出てきた時に洗面所で石けんで手をよく洗った。手の匂いは石けんのそれに変わっていた。

 

小説「真理の微笑」

四十

 夕食が終わった頃、真理子が病室に来た。私はセーフティーボックスの鍵を左手首から外して、パジャマのポケットに入れていた。真理子とキスをする時に首に回した手に鍵がぶら下がっていたのではまずいと思ったからだった。

 真理子が「今日はどうだった」と訊いた。午前中に来た開発部の連中とどうだったのか、知りたかったのだろう。

「上々だった」

「そう」

「会社のホストコンピュータに接続する方法を教えてもらったよ」

「それ何」

「ここから会社のコンピュータに接続できるんだ」

「わからない」

「真理子が分からなくてもいいよ。とにかく、パソコン通信できるようにしておいて良かった、って事」

「そう」

「今日は、松葉杖を使って立つ練習をしたんだ。これが結構難しくってね。松葉杖で歩けるようになれば、自分でトイレに行けるようになる。そうすればおむつも取れる」

「今はどうしているの」

「行きたくなったら看護師を呼んで、トイレまで連れて行ってもらっている。だけど、いつもすぐ来るとは限らないからね。自分でトイレに行けるようになるまでは外せないかな」

「そうなの」

「ああ」

「明日は設計士の人が来るの」

「いつ頃」

「午前九時。だから、会社にも行けないし、病院にも来られない。家を片付けておかなくちゃいけないから。夜なら別だけれど」

「いいよ、毎日来るのは大変だろう」

「それはそうなんだけれど、家にいてもする事がないから」

「じゃあ、前はどうしていたんだよ」

「ほんとね。どうしていたのかしら」

 それからほどなく、キスをして真理子は帰っていった。

 

 午後十時少し前に、あけみから電話がかかってきた。

「富岡です」と言うと「明日は、絶対に行くからね」と言ってきた。

「いいよ」

「良かった。会いたかったの」

「分かったよ」

「いつがいい」

「午前九時頃、来られる」

「夜、遅いから、朝は苦手なんだけれど、午後はだめなの」

「リハビリとか検査なんかで、ゆっくりとした時間が取れない」

「そう。それじゃあ、仕方ないわね」

「無理に来なくてもいいんだよ」

「行くわよ。意地悪ね」

「分かった。待っている」

「待っててね」

 そう言うと電話は切れた。

 私は真理子が帰った後に、ポケットから取り出して左手首にかけた鍵を見た。

 これで約束したお金を明日渡せる。

 

小説「真理の微笑」

三十九

 次の日、真理子が来て会社に行った後、午前十時頃に西野と遠藤が来た。昨日、伝えた事を内山に言ったのだろう。

 二人を枕元に引き寄せて、まだ上手く話せない事を伝えてから「カード型データベースソフトの件なんだけれど」と切り出した。二人は私のベッドサイドに並んで座った。

 私はパソコンの画面を見せながら、「このユーザーインターフェイスをトミーワープロと同じように変えて欲しい」と言った。二人は顔を見合わせた。途惑っているようだった。

「難しいか」と訊くと、「いいえ、やってみなければわかりませんが、それほどでも……」と西野が答えた。

「でも、これ社長が作ったんですよね」と、遠藤が遠慮がちに言った。

「そうだよ」と答えると、「社長がデータベースソフト、作れるなんて思ってもみなかったものですから」と西野が言った後、「失礼しました。試作品を見た時に、あまりに見事な出来だったものですから、てっきり外注していたのかな、と思って……」と続けた。

 外注か……。そう言った方が良かったかも知れなかった。どうやら、富岡はソフトには詳しくても自分ではプログラミングすらできないのかも知れない。

 しかし、これは紛れもなく自分が作ったソフトだから、押し通すしかなかった。

 私は、昨夜書いたメモ帳を取り出して、パソコンの画面を見せながら、まだ完成していない機能やメニューの変更点などを説明していった。忽ち、二時間が過ぎた。

 昼食が運ばれてきた。それをサイドテーブルに置いてもらって、私は説明を続けた。

 午後一時近くになって説明を一応終えた。

「やれそうか」と訊くと「大体わかりました」と西野が答えた。

「それで、細かい指示はどうすればいいかな」

「このパソコン、モデムに接続されていますね」と遠藤が言った。

「ああ、パソコン通信ができるようにしたんだ」

「それなら、直接、会社のホストコンピュータに接続すればいいんですよ」

「どうすればいいんだ」

 遠藤が「私が接続できるように設定します」と言って、ラップトップパソコンを自分の方に向けた。ホストコンピュータに接続されている電話回線の番号を入力し、会社にメールを送れるように設定してくれた。もちろん、プログラムもダウンロードできるようにしてくれた。

「次のトミーワープロにパソコン通信機能をつけようという話もあるんですよ」

 西野が言った。

「ワープロで書いた文書を直接メールできたら便利でしょ。逆にメールをトミーワープロに読み込めたら、読みやすいし」

 今度は、遠藤が言った。

 なるほど、パソコン通信機能までも、トミーワープロに取り込もうとしているのか、いいところに目を付けている。

 

 看護師が昼食の膳を片付けに来たので待ってもらった。私が昼食を食べ始める前に、二人は帰って行った。私は慌てて、昼食を食べた。

 それにしても、パソコン通信機能を取り込むというのは、いいアイデアだと思った。パソコン通信ソフトには、メールの読み書きをするために、大抵エディタが付いている。FEPを用意しなければならないが、エディタは簡易ワープロだとも言える。それを合体させれば、パソコン通信ソフトを別に用意する必要がなくなる。鬼に金棒だ、と思った。

 

 午後二時前に高木から電話があった。

「言われていた百万円用意できましたが、どうしましょうか」

「今、会社を出られるか」

「はい」

「だったら、すぐに持ってきてくれ」

「わかりました」

「真理子には気付かれたくない」

「承知しています」

「だったら、よろしくお願いする」

「すぐに参ります」

 高木が病室に現れたのは、午後二時半を少し過ぎた頃だった。鞄から百万円の入った封筒を出した。私はそれを受け取ると、サイドテーブルの引出しの中に入れた。

 高木は百万円を私に渡すと、会社の事を少し話してから出て行った。

 午後三時少し前だった。午後三時になれば看護師が来て、リハビリルームに行く。私はサイドテーブルの引出しに入れた百万円の封筒を、その引出しの下に付いているセーフティーボックスの中にしまって、鍵を左手首にかけた。

 そして、三時になった。看護師が来て、リハビリルームに向かった。

 

小説「真理の微笑」

三十八

 夕食が済んで、しばらくしたら真理子がやってきた。

 大きな手提げ袋を両手に持っていた。今朝、渡したメモのソフトが入っているのだろう。

「大変だったんだから」という真理子に、「ありがとう、これで助かる」と言いながらキスをした。

「今日はどうだった」

「大変だったわ」

「そう」

「増産するのも大変だけれど、修正プログラムの方も作らなければならないから、工場ではフル回転しているようだけれど追いつかないみたい」

「結構な事じゃないか」

「それはそれで大変なのよ。それに会社の移転もするんだから」

「そうだな。それで、真理子、お前はどうしているんだ」

「あっちこっちの部署を回って、伝書鳩になっているわ」

「そうか。ちゃんとやっているんだ」

「何よ、その言い方」

「この前は、会社に居場所がないみたいな事言ってたじゃないか」

「それは変わらないわよ。わたし、ソフトの事、何にもわからないんだもの」

「別にソフトの事なんか分かる必要はないよ。決断ができればいいんだ」

「なんの事」

「トミーワープロの事だよ。俺がいなくなって、会社はどうしようか、迷っただろうね」

「…………」

「お前なんだろ、ゴーサイン出したの」

 真理子はまじまじと私を見た。

「誰かから聞いたの」

 私は高木から聞いたとは言わなかった。

「いいや、見ていれば分かるよ」

「そう」

「ああ、お前には決断力がある。こうと決めたら、きっとやるタイプだ」

 そう言うと、また真理子は私の顔をまじまじと見た。

「なんか、俺の顔に付いているのか」

「いいえ、でも何か……」と言いながら、探るような目で私を見た。私に何らかの記憶が戻ったとでも思っているのだろうか。

「別に以前の事を思い出したわけじゃないからね」

「そんな事……」と言いながら、まだ私の顔を見ている。前とは感じが違っているのだろう。

「よくやってくれているなぁ、と思っているだけさ」

「…………」

「会社移転したら、次のソフトの事考えなくちゃならないだろ」

「そうね。もう、話は出ているけれどわたしにはついていけなくて……」

「次は、カード型データベースソフトだ」

「ああ、そんな事言ってた。だけど、あなたがこんなふうだからストップしているって」

「そうだね。カード型データベースソフトは俺のアイデアだからね。俺がいなければ進められないだろうね」

「それだったら、早く治して」

「それは医者に言ってくれよ」

「まぁ」と言いながら軽く私の肩を叩いた。

「ちょっと見せてくれ」

 私は真理子が持ってきた手提げ袋を示した。真理子はそれをベッドの上に置いた。

 私は中身を見た。「TS-CDB0.53-1」「TS-CDB0.53-2」というラベルが貼られたフロッピーディスクを取り出した。

「これだ」

「何、それ」

「さっき言っていたカード型データベースソフトの試作品」

「そうなの」

「ああ」

 そう言いながら、未完成のこれをどう完成させたらいいのか考えた。開発部のデータベースに詳しい者に指示するしかないと思った。

 社員名簿を見た。開発部の部長は内山貴之だった。

「内山に言って、データベースに詳しい者を病室に寄こしてくれ。午後はリハビリがあるから午前中がいい。会社に行ったら、すぐ来るように伝えて欲しい」

「急な話ね」

「こういう事は思いついた時にするのがいい。そのうち、引越しなどで忙しくなるから、紛れてしまうのが嫌なんだ。それに俺も忘れないうちに伝えたいし……」

「わかったわ」

 真理子が帰っていくと、私は早速、ラップトップパソコンをベッドのテーブルに置き、さっきのフロッピーディスクをドライブにセットした。

 基本的なところはほとんどできていた。いくつかできていないところもあったが、慣れたプログラマーなら完成させるのは難しくはないはずだった。

 それよりもメニューが(株)TKシステムズの時のままなのが気になった。トミーソフト株式会社に慣れた者がこれを使うとしたら途惑うだろう。それも含めて、ユーザーインターフェイスもトミーソフト株式会社のものに合わせなければならない。そして、最大の問題点であるユーザー登録画面については、入念に変更すべき箇所を書き込んだ。もちろん、どうしてそうするのか分からないように、注意深く指示を書いた。

 私はメモ帳に書き込んだ変更点を点検した。漏れはないはずだ、と思った。

 

 午後十時少し前に、あけみから電話があった。

「どうしたんだ」

「行く前に電話しろって言ったのは、あなたよ」

 店からかけているのだろう。後ろの方から賑やかな声が聞こえてきた。

「忙しいんじゃないのか」

「忙しいわよ」

「だったら……」

「忙しいのに、電話してるんでしょ」

「分かった」

「ねぇ、明日行っていい。ちゃんと奥さんがいない時に行くから」

 明日は、開発部の者が来る事になっている。明日は駄目だった。

「明日は人が来る事になっている」

 そう言うと「だったら、いつがいいの。会いたいんだもの」と言った。

「明日のこの時間に電話してくれ」

「わかったわ。我が儘は言わない、明日は我慢する」

 電話は切れた。それと同時ぐらいに看護師が入ってきた。

 夜の体温と血圧を測り、眠剤を飲むのを確認していった。

 

小説「真理の微笑」

三十七

 昼食をとった後、午後二時からリハビリを行った。今日は平行棒に掴まって立つ練習をした。足腰が弱っているので、十回も繰り返すと息が上がった。

 理学療法士は決して否定的な事は言わない。

「いいですよ。今日はこれで十分です。だんだん慣れていきますからね」

 その後は、頭の体操だった。三十分ほど、様々な訓練をした。

 そして、最後は言語聴覚士の検査だった。どの程度声が出せるのかを見るのがポイントだった。私の場合、声帯を損傷しているが、それが治れば元の声とは同じとはいえないにしても声自体を普通に出す事ができると説明された。ただ、気を付けなればいけないのは、囁き声で話す事だと言われた。一見、喉に負担をかけないようにしゃべっているつもりでも、囁き声は喉に負担をかけるしゃべり方なので絶対にしないようにと言われた。

 私は、すでに囁き声に近い小声で何度もしゃべっていたので、その都度喉に負担をかけていたのかと思い知らされた。しかし、こればかりは喉に負担をかけていたとしてもやめるわけにはいかなかった。

 言語聴覚士との面談が終わると、シャワーの時間がきた。

 看護師に、クローゼットからバスタオルとフェイスタオルと肌着と新しいおむつを取り出してもらい、私は車椅子に乗ってシャワールームに向かった。

 いつものようにシャワーを浴びた。二人の看護師から躰の隅々まで洗ってもらった。いつもはそんな事はなかったのだが、性器をスポンジで洗ってもらっている時に勃起してしまった。昼間のあけみの事が頭に浮かんできたのだった。抑えようと思ったが、そうすればするほど性器は硬くなっていった。しかし、看護師はそういう事に慣れているのだろう。まるで気にしていないかのように躰を洗い続けた。

 性器が立ったままだったので、おむつをはく時に少し苦労した。尿パッドで性器を包むようにしておむつをはいた。

 着替えが終わって、車椅子で病室に戻る時、そっと指の匂いを嗅いでみた。

 もうすっかり石けんの匂いがした。