小説「僕が、剣道ですか? 1」

九

 討伐隊の面々を道場に集めた。

「不満かもしれないが、この討伐に当たっては私が指揮を執る」

 佐竹から聞いていたらしく、一同は頷いた。

「では、これから明日の作戦会議を開く」

 僕は懐から寺の見取り図を出して広げた。

「見取り図が見られるように、もっと近くに寄れ」

 僕は遠巻きにしていた者たちに言った。言ったらすぐに寄ってきた。

「明日、早朝、準備が出来次第、討伐に向かう。いいか」

 そう言うと、皆が「おぅ」と叫んだ。

「この中で弓が得意な者は手を挙げてくれ」

 七人ほどが手を挙げた。

 僕は後ろに置いておいた碁石の中から、黒石を七つ取って、それを寺の背後に置いた。

「こことこことここ」と言うように、三箇所に二、二、三と黒石を置いた。

「腕のいい者が、二人ずつ組を組め。腕の劣る者は三人組に回れ。私は誰が腕がいいのか分からないから、今、ここで決める。まず、弓の腕がいいと思う者、手を挙げろ」

 僕がそう言うと即座に三人が手を挙げた。

「もう一人必要だ」

 そう言うと、顔を見合わせていた四人の内の一人が手を挙げた。

「では、今手を挙げた四人が二人ずつで組を組め」と言った。

「わしは新五郎がいい」と誰かが言うと、自然に二組ができた。

 その二組には、寺の背後の塀が崩れた箇所の左右に陣取ってもらうことにした。もう一組は、寺の背後の中央付近にいて、寺に向けて弓を放ち続ける、それが役目だと言い聞かせた。

「戦いは長期戦になる。くれぐれも矢がなくなることがないように」と言うと、皆が笑った。

「残りの者は楯を引き詰めて、正面から少しずつ寺に向かって前進して欲しい。相手は、矢だけでなくつぶても投げてくるだろうから、それを楯で防いでもらいたい」

「それからどうするんですか」

「それだけでいい。できるだけ相手に矢を使わせろ。そして疲れさせるんだ。決して無理に門に向かうことはするな。矢が楯に届くか届かない位置で、陣を張っていろ」

「それじゃあ、膠着状態のままじゃあないですか」

「そうだ。本隊はそれでいい」

「本隊? と言うと別働隊があるんですか」

「あるとも」

「ええ、でも今の話の中には別働隊なんて出てきませんでしたよね」

「してたつもりだったんだがな」と僕が呟くと、「してませんよ」と誰かが言った。

「みんなは忘れてはいないか」

 一同は互いに顔を見合わせて、首をひねっていた。

「私がいるではないか」

 そう言うと、みんなが、ええ、という驚いた顔をした。

「一人でどうするんですか」と誰かが言った。

「ここから」と私は見取り図の、寺の塀が崩れている箇所を指さした。

「中に入る」

 誰もが黙ってしまった。しばらく沈黙が続いた後に、「一人でですか」と誰かが言った。

「そうだ」

 そう言うと響めきが起こると同時に「私も」「俺も」と何人もの声が上がった。

「それじゃあ、奇襲にならないじゃないか」と僕は言った。

「相手には、数を頼りに攻め込んで来ると思わせるんだ。だが、実際はその逆をやる。攻め込むのは私一人だ」

「先生、それは無茶だ」

「そうだ。先生は確かに強いけれど、一人で乗り込むなんて無謀すぎる」

 道場に通っていた者は、みんな口々にそう言った。

「だから、効果的なんじゃないか」

 僕がそう言うと静まった。

「相手は、絶対にたった一人で攻め込んで来るとは思ってはいない。そこが付け目なんだよ」

「どういうことですか」

「思わぬことに出くわせば、誰でも驚くだろう。どうすればいいのか、すぐには判断できない。その隙を突く」

「そんなこと、無理ですよ」と誰かが言うと、「そうですよ」、「俺たちも行きますよ」と言う声が続いた。

 僕は言った。

「ここに死にたい奴はいるのか」

 みんなが首を左右に振った。しかし、その後で「でも死ぬ覚悟はあります」と声を揃えた。

「死ぬ覚悟はある、か」

 僕は第二次世界大戦のことを思った。特攻隊に選ばれた者たちもきっとこんな感じだったのだろうな、と少しは想像できた。

「私は、君たちを一人も死なせたくはない」と言った。

 しーんと静まりかえった。

 それを破って、道場の年長の者が「それじゃあ、先生が……」と言いかけたところで、「私も死ぬ気はない」と僕は遮るように言った。

「こんな作戦を、死ぬつもりで立てたと思うのか。そうじゃない。生き延びるために考えたのだ」と言った。

「私一人で、盗賊たち全員をやっつけることなんて到底できない。だから、中に入ったら、数人を倒して、寺の門を開ける。そうしたら、そこからみんなが突入してきてくれ。残りの盗賊たちは、みんなに任せる」

 そう言うと一同は、ようやく納得したような表情を見せた。僕はただ門を開くために中に侵入する、盗賊たちの大半は自分たちで成敗する、そう彼らは思ったのに違いなかった。

「わかりました」と全員が言った。

「そうか、それなら良かった。明日は早い。日が昇らないうちに出発する。相手の寝込みを襲いたい。それから長期戦になるかもしれない。それも踏まえて、準備をしておくように」

「はい」

「では、今日はこれで解散する。ところで人を集めるときはどうするんだ」

「ホラ貝を吹くか銅鑼を打ち鳴らすよな」と誰かが言った。

「だったら、銅鑼にしよう。銅鑼を鳴らしたら、中庭に集合する。それでいいな」

「はい」

 みんな元気に返事をした。

「では、解散」

 

 僕は部屋に戻ると寝転んだ。

 一人で敵の根城に乗り込むのは、正直言って怖かった。しかし、仲間が入り込んできてしまえば、間違えて切りつけてしまうかもしれない、それを恐れたのだった。自分一人なら、相手はみんな敵ということになる。存分に戦える……、だが、そんなに上手くいくのだろうか。

 考えても仕方がないことだった。

 そこに若い女が入ってきた。

「ご主人様がお戻りになったと言うので、慌てて庖厨から参りました」

「そうか」

「そんな風に寝転んでいないで、わたしの膝を枕にしてください」

「膝枕か」

「そうです」

「それもいいな」

 僕は女の膝に頭を乗せた。

「そう言えば、君の名を聞いてはいなかったな」

「きく、と言います」

「きく……、か。あの花の菊か」

「由来はそうです。きくはひらがなで書きます」と言った。

「そうか、おきくさんか」

「おきくさんなんて、嫌です。きく、って呼んでください」

「分かった」

「明日は、盗賊の討伐に出かけるんですね」

「そうだよ」

「討伐隊の隊長さんなんですってね」

「そういうことになっているね」

「凄いですね」

「そうでもないさ」

「お若いですけれど、お歳を訊いてもいいですか」

「いいよ。十六歳」と言った途端に、「わたしと一歳違うだけなんですね」と言って、僕を抱き締めるようにした。この時代では数え年で数えるから十七歳って答えなければならなかったんだと思ったが、十七歳も十六歳も大して違わないだろうと思った。

 きくはまたたたずまいを正して、僕の頭を膝に乗せたままで言った。

「わたし、あなた様のお世話を仰せつかって嬉しかったんですよ」

「普通は嫌なんじゃないの」

「そんなことありません」

「そう」

「みんな、羨ましがっていたんですもの」

「どうして」

「だって、あなた様は若いし、背が高いし、役者のようなお顔をしていますもの」

 僕は最後の一言には、がっくりきた。きくは褒めているのだろうけれど、江戸時代の役者の絵を見ると、どれも不細工な奴ばかりに見えてしまうからだった。この時代において、役者のように見えるということは、現代では、いけてない奴ってことになってしまうのではないか。僕はそんなことを思った。

「だから、若い女はみんながお世話係をやりたがったんですよ。でも、一番、歳が近そうなわたしが選ばれたんです。その時、わたし嬉しかったなぁ」

「そうなんだ」と言いながら、僕はまったく別のことを考えていた。もし、現代に戻れたら、絵理に告ろうと思っていた。しかし、今の時代の役者のようだと言われて、絵理に断られそうな気がしてきた。幼なじみだから、無碍なことは言わないだろうけれど「いいお友達でいましょうね」ぐらいは言われそうだった。

「どうしたんですか。お顔の色が冴えませんよ」

「えっ」

「明日のことを悩んでいたんではありませんか」

 きくに見透かされるほど落ち込んでいたのか、と思った。

「明日のことなんか、悩んではいないさ」

 

小説「僕が、剣道ですか? 1」

八

 朝が来た。

 目が覚めると、枕元に彼女がいた。よく見ると、可愛かった。だが、まだ十四歳だった。十四歳の女の子を抱いてしまったのだ。

「お目覚めですか」

「ああ、おはよう」と言うと「おはようございます」と返してきた。

「今日も、いい天気ですね」と言って、障子を少し開けた。

「そうだね」

「昨日はよく眠れましたか」

「ああ」

「わたしもぐっすり眠りました。あなた様のおかげです」

「役目を果たせたからと言うのか」

「いいえ、そういうことではありません」

「では……」と訊こうとしたら、「そんなこと言えません」と言われた。

 

 朝餉は一人で食べた。ここに来てからずうっと同じだった。島田源太郎と一緒に食べたのは夕餉の時だけだった。

 

 座敷に戻り、一息ついてから庭に出て木刀の素振りでもしようかと思っていたところに、座敷に入ってきた者がいた。

 僕の前に座ると、「侍頭の佐竹重左衛門です」と名乗った。

「鏡京介です」と言った。

「明後日、盗賊を成敗することに決まりました」

「そうですか」

「そこでお願いがあるのですが。すでに主の嫡男の島田源太郎様があなたの承諾を得ていると言っているのですが、念のために確認します」

 そう来るよね。大抵、こういう展開になるんだよね。予定調和っていう奴ですか。

「どうか、ご助成をお願いします」

 やっぱりね。で、断れないんだよね。断ったら、この先、話が進まないものね。それに島田源太郎には「分かりました」って言ってしまっているしね。同じ言葉を言うしかないよね。

「分かりました」

 そう言ってから、そう簡単に言うかなぁ。もう少し粘っても良かったんじゃないの、とも思った。

「ありがとうございます」と佐竹が言った。

「一つ、お願いがあります」と僕は言った。

「何ですか」

「助成を請われましたが、助成するのではなく、私が討伐隊を率いたい。それをご承知願えますか」

「あなたが指揮を執ると言われるのですか」と佐竹が驚いたように訊いた。

「そうです。そうでなければ、ご助成はできません」と僕は答えた。

 佐竹は考えているようだった。やがて、「わかりました。討伐隊の者たちには、そのように伝えておきましょう」

「そうしてもらえると、戦いやすいです。ところで、相手が何処にいるのかは、分かっているんですか」

「ええ、北側にある荒れ寺を根城にしているようです」

「その寺の見取り図のような物はありますか」と僕は訊いた。

「すぐに用意させます」と佐竹は答えた。

「誰が討伐に向かうのか、選抜していますか」

「心づもりはありますが、あなた様が討伐隊に加わってくれることが決まったら、ご相談するつもりでした」

「そうですか。で、誰が討伐隊に加わっているのですか」と僕は訊いた。

「後で氏名一覧をお持ちします」と佐竹は答えた。

「では、寺の見取り図と一緒に持ってきてください」

「では、後でまた参ります」

 僕は軽く頭を下げた。彼が出て行くと、背伸びをした。

 

 庭に出ると、若い藩士が「稽古を付けてくれませんか」と訊きに来た。

 そして「皆が待っているんです」と続けた。

 道場に行くと六十人ほどが待っていた。

 そして僕が座ると、「明後日の討伐はどうしたらいいのか教えてくれませんか」と誰かが言った。

「明後日の討伐のことを知っているのか」

 全員が「はい」、「知っています」と答えた。僕は、何だ、秘密じゃないんだと思うと少し気が抜けた気分がした。

「討伐に加わる者はこの中にいるのか」と訊くと、半数ほどの者が手を挙げた。

「そうか、三十人ほどで行くのか」

 この前、何人か倒しているから、残っているのは、十五人余りといったところだろうか。人数的には倍だが、相手は百戦錬磨の上に寺を楯にしている。これを討伐するのは、もしここにいる六十人余り全員で行っても難しいだろう。といっても、いい知恵が思い浮かばなかった。

「盗賊討伐の作戦は、私が考える。今夜一晩くれ」と言った。

 藩士たちは、昨日、僕に勝った五人が羨ましいらしく、同じ方法で戦いたいと言ってきた。

「駄目だ。討伐を前にして、あの稽古は付けられない。あれはお前たちに有利な戦い方だからだ。もし、私が本気になったら、一撃で骨をも砕いてしまうだろう。そうすれば、私に組み付くことはできなくなる。戦いはそんなに易しいものではない」

 

 僕は五人一組を相手にする稽古を全員に付けて、引き上げてきた。

 井戸で躰を拭いて、座敷に上がると、間もなく侍頭の佐竹がやってきた。

 寺の見取り図と討伐隊の名前が記された巻物を持ってきた。

 僕は早速、寺の見取り図を見た。寺は山の中腹にあった。

 背後は崖になっていた。そこを下っていけば、途中で相手の矢の餌食になるだろう。

 表は荒れ寺とは言っても立派な門があり、これを突破していくのも大変だと思われた。塀も高く、越えようとしても槍に阻まれるだろう。盗賊は盗賊らしくねぐらも考えているものだと感心した。

 これまで藩が放置しておいた訳が分かった気がした。だとしたら、何故、今、討伐の話になったのだろうか。島田源太郎の奥方が襲われたからか。それとも僕が来たからか。

 見取り図を子細に見ていくと背後の塀に崩れた箇所があるのが分かった。侵入するとすればそこからしかなかったが、そこは相手も固めているだろう。

 それから討伐隊の名簿を見た。道場に通っている年の若い者がほとんどだった。中には、道場には通っていない年をとった者もいたが数人だった。

「作戦はこうしましょう」と僕は言って、その内容を説明した。

 佐竹はそれを聞くと、「それでは」と言葉を詰まらせた。

「これが最良の策です」と僕は言った。

 

 風呂に入り、夕餉の席で、島田源太郎から明日の討伐のことをくれぐれも頼むと言われた。そして、本差と脇差の二本の刀を渡された。

「これを使ってくれ」と言われた。

「分かりました」と僕は言った。

 

 座敷に戻ると、すでに彼女がいた。

 僕が布団に入ると、行灯の火を消して、着物を脱ぎ、布団の中に入ってきた。

 そしてすぐに抱きついてきた。それだけではなかった。口づけをしてきたのだった。キスの味を覚えてしまったのだ。

 僕は彼女にキスをすると、その躰を抱き締めた。

 彼女は僕の耳元で「嬉しい」と言った。

 僕は絵理の顔が浮かんだが、今は忘れることにした。どうせ、夢なんだから。

 

小説「僕が、剣道ですか? 1」

七

 朝餉の後、庭で木刀を振るっていると、迎えの若い者が来て、道場に連れられていった。僕はすっかり道場主の待遇だった。昨日は三十人ばかりだったのが、今日は増えて、倍の人数に膨れ上がっていた。当然、道場には全員入って座ることができなかった。十人ばかりの若い者たちが道場外に押し出されて、年長の者が道場に座り込んでいた。

「昨日、稽古に来なかった者たちは、これからやろうとしているのが分からないだろうから、まず昨日と同じことをしよう」

 僕はそう言うと、五人一組にさせて木刀を持って打ってくるように言った。

 僕も木刀を持った。

 最初の五人は昨日の若者たちとは違って、少しは剣の心得があるようで、それぞれ構えに腰が据わっていた。初めから円になり、僕を取り囲むようにした。僕は、誰が最初に打ち込んでくるのかに集中した。さすがにすぐには打ち込んでこなかった。昨日の話が伝わっているからだろう。誰にも警戒の色が浮かんでいた。輪の幅は一向に縮まらなかった。そこで僕はフェイントをかけた。前に踏み出すと見せて、後ろに回った二人の小手を打った。そして、横の二人を突きで倒して、前の一人は胴を払った。軽く打ったつもりだったが、昨日よりは少し力が入ってしまっていたのだろう。打たれた方は苦しそうに痛がった。

 今の光景を見ていた次の五人は、明らかに腰が引けていた。この五人を打ち倒すのは容易だった。

 こうして新たに加わった三十人ほどを加えた全員打ち倒して、外にいた者も道場内に入れて立たせて、僕は言った。

「戦うということはこういうことだ。いくら道場で腕を磨いても、実戦では役に立たない。剣さばきは華麗である必要はない。泥臭くてもいいから、確実に相手に食らいつくことだ」

 そう言った後、僕は道場の中央に座った。

「碁盤はあるか」と訊いた。

「屋敷の方に」と誰かが言った。

 そして、そう言った者が取りに行った。戻ってくると、僕は自分の前に碁盤を置き、白石を天元に置き、その周りに五個の黒石を置いた。

「実戦においては、一対一の戦いは、果たし合いのような場合のみだ。このように一人を数人で囲んで戦うのが基本だ」

 僕は新撰組が倒幕の志士たちを一人一人暗殺していった手法を思い出していた。彼らは、相手より必ず多い人数で、集団で敵を囲んで確実に仕留めていったのだった。

「だが、君たちは私に対して、このような陣形で戦ったのに、私を討ち果たすことはできなかった。何故だと思う」

 皆が首を傾げた。その後で、誰かが「先生が強すぎるんですよ」と言った。それには「そうだ」「そうだ」と言って、頷く者が多かった。

「確かに力の差はあるが、五対一で楽に勝てるほどの差ではなかった」

「そんなことを言っても、実際に先生は全員を倒したじゃないですか」

「そうだ」

「だったら、五対一以上の力の差があったということですよね」

「そう思うか」

「思いますよ。実際に、昨日は七対一でも勝てませんでした」

「それは戦う人数が問題じゃないからだということを教えたかったからだ」

「どういうことですか」

 僕は中央の白石を持って、「この者を打ち倒そうと全員が思っていなければ、五人いても同じことだと言いたいんだ」

「でも、昨日も今日も、みんなで先生を打ち倒したいと思っていましたよ」と誰かが言った。

「それはそうだろう。一人一人はね」

「どういう意味ですか」

 今度は僕は五つの黒い石を集めて、「この五人の意志が一つにならなければ勝てない」と言った。

「五人の意志が一つになるということは、本気で五人で相手を倒そうと思うことなんだ。一人一人ではなくて」

「やっぱり意味がわかりません」

「そうだろうな。今度、試してみればその意味が分かる。私が稽古を付ける時に、打たれた者は下がるように言ったよね。それはこれだけの人数を相手にするのだから、それだけのハンディ、いや実力差を埋めるための調整をする必要があったというわけだ」

「先生、実力差を埋めるためなら、五対一や七対一で戦ったじゃないですか」

「あんなものは実力差を埋めるための調整にはならないよ」

「そんな、馬鹿な話がありますか」

「実際に五対一や七対一で戦っても、私を打ち負かすことはできなかったよね。それが実力差を埋めるための調整にはなっていなかったことを示している」

 道場内は響めいた。

「では、どうすれば実力差を埋めることができるんですか」

 一番の年長の者が訊いた。

「世に、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という諺があるのを知っているか」

 最初は誰も声を上げなかった。ここには知っている者はいないのか、それとも言葉が使われた時代を間違えたのかと思った時に、誰かが「自分の身を捨てる覚悟で、物事に当たることで、窮地を脱して物事を成就することができるという意味ですよね」と言った。

「そうだ」

 僕はホッとした。

「自分の身を捨てる覚悟というのは、この稽古の場合、自分が切られた時のことを言う。私はそうしたら下がるように言ったが、実戦ではそれでは意味がない。切られたからと言って逃げ出したのではどうにもならない。切られたということは、相手の間合いの中に入ったことを意味する。もし、そこで、息絶えていなければ、どこでもいい、相手を掴むことだ。それで相手の動きは制限される。相手はもう一度、掴んだ者の息の根を止めに来るかもしれない。それが身を捨てるということだ。相手が息の根を止めに来たら、必ずそこに相手の隙ができる。その時に、相手に切りつけるのだ。相手は息の根を止めようとしている者に動きを止められているから、次に向かう者はより一層、間合いを詰められる。もし、その者が切られても、必ず相手を押さえるんだ。そうしていけば、必ず相手を仕留める機会が来る」

 皆は「なるほど」と言った。

「では実戦でそれを試してみよう」

 僕は腕の立ちそうな五人を選んだ。

「私は君たちを軽く叩く。今まではそれで負けだったが、今回は叩かれても向かってきていい。私の動きを封じるのだ。そして、誰かが私を打ったら私の負けだ」

 五人は「おぅ」と言って、僕の周りを取り囲んだ。

 すでに気合いがさっきとは違っていた。五人は息を揃えたように間合いを詰めてきた。そして、木刀の切っ先が当たるぐらいになるまで来ると、正面にいた者が真っ先に切りつけてきた。同時に背後の者も木刀を突きつけてきた。正面にいた者の小手を叩いたが、その者はそのまま突進してきた。背後の者の木刀を避けようとして左に跳んだ時に、今度はその左から木刀が突き出されてきた。胸の前をかすっていた。それを避けている間に正面の小手を打った男に右足を掴まれた。左の男の肩を木刀で叩いたが、彼はそのまま抱きついてきた。これはかわせなかった。一人に右足を掴まれ、もう一人に左から腰のあたりを抱きかかえられては、動きが取れなくなった。躰をひねって、もう一人の正面からの男の頭を叩いたが、彼もそのまま倒れ込んできた。右から来た者の肩に木刀を浴びせるのが精一杯だった。僕は四人に捕まってしまった。最後に残っていた一人に頭を軽く叩かれた。

 彼らは「やったぁー」と言って飛び上がって喜んだ。

「百聞は一見にしかずだろ」と言ったが、この言葉の意味が分かった者がどれほどいただろうか。まだ、学問が浸透していた頃ではなかったのだ。仮に言葉の意味が分からなかったにしても、言わんとしたことは伝わったのに違いない。そう思いたかった。

 

 風呂に入って、夕餉の場に臨んだ。

「今日も稽古を付けてくれたそうだね」と島田源太郎が言った。

「大したことはしていません」

「もう謙遜はいい。藩士の評判はすこぶるいい。明日も頼んだよ。近く、盗賊の討伐に向かうので、少しでも強くしてもらうと心強い」

「そうですか」

 僕はお茶漬けを食べ終わると、もう少し食べようとしたが、昨日のてんこ盛りがちらついたので茶碗を膳に置いた。

 

 夜になった。

 いつものように僕が布団に入ると若い女が入ってきて、行灯の火を消した。そして着物を脱いで僕の隣に寝た。そして僕に抱きついてきた。

 今日は何故か眠くはならなかった。昼間の稽古が楽だったせいだろう。

 僕はどうせ夢なのだから、と思い、彼女にキスをした。すると彼女は一瞬、驚いたようだった。キスをしたことがなかったのかもしれなかった。彼女の股間を触ると濡れていたので、僕は自分のものを押し込んだ。彼女は「うっ」と小さく言うと眉間に皺を寄せた。僕は、童貞を夢で失うとは思わなかった。いや、まだ失ってはいない。これは夢なのだから、と思い直した。しばらく動いている内に射精した。躰を離した時に、彼女の内ももを血が流れているのが夜目でも見えた。彼女は自分の着物と一緒に持ってきた手ぬぐいでその血を拭った。僕の太腿も拭うと、座敷から出て行った。しばらくして戻ってくると、濡れた手ぬぐいで、もう一度僕の太腿と一物を拭いた。そして手ぬぐいを着物の側に置くと、再び布団の中に入ってきた。彼女は僕を抱き締めて、嬉しそうにしていた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 1」

六

「どうなんです」

 僕の母が医師に訊いた。

「脳のMRIを取りましたが、どこにも異常が見られません。自発的に呼吸もしています。どうして意識が回復しないのか、わかりません」

 医師はそう答えた。

 

 僕は家老屋敷では、客人扱いを受けていた。することがないので、庭に出て木刀で剣道のまねごとをしていた。空中に向けて木刀を何度も打ち下ろしていた。

 昨日の盗賊を追い払ったことでも誰かから聞いたのか、それを見ていた若い侍が「拙者にもお教え願えまいか」と訊いてきた。僕は「私の剣は教えられるものではありません」と断った。

「そこを何とか」

 そう言っているうちに、次第に若手の侍が集まってきて「私も」「拙者も」と言い出した。

 中庭がそれらの侍でいっぱいになった。

「何の騒ぎだ」と島田源太郎が現れた。

 若い侍たちは口々に、僕の指南を受けたいと言った。

「お前たちの言っていることはわかった」と島田源太郎は言った。そして、僕の方を向いて「これらの者たちの願いを聞いてもらえまいか」と頭を下げた。

 こういう状態が最悪なんだよな、と思いながら「分かりました」と言うしかなかった。

「そうか、ありがたい。後のことはこの者たちに任せておけばよい」

 そう言うと、彼は部屋に戻った。

 僕は仕方なく、「この屋敷には道場があるのか」と訊いた。その質問を待っていたように「あります」と多くの声が飛んだ。

 僕は屋敷の東側にある道場に連れて行かれた。

 板張りの十五メートル四方ばかりの道場だった。道場内には四本の太い丸柱が屋根を支えていた。思ったように防具は無かった。この時代、防具は直心影流剣術などの一部の流派では現在の原型のようなものは存在していたが、それ以外では無かったのである。そして稽古といえば、木刀による形稽古が中心だったのである。防具と竹刀が開発されて、より実践的な打ち込み稽古が始まったのはずっと後のことである。

 僕はどうしようかと考えた。小野派一刀流の形稽古など、もう覚えていない。それに、形稽古などで、どうにかできるものではない。この者たちの何人かは、盗賊討伐に向かうことになるかもしれない。相手は実戦で力を付けている。道場の稽古とでは、迫力がまるで違う。相手に気圧された瞬間に勝負は決まる。

 彼らに実際の戦いとは何かを教えるしかなかった。しかし、この道場でどう教えていいのか分からなかった。第一、人に剣道を教えた経験なんて僕にはなかった。

 だが、若い武士たちは何が始まるのか、興味津々の目を僕に向けてくる。そんなに見ないでくれ、と思った。僕はできれば、この場から逃げ出したかった。しかし、周りをぐるりと囲まれている状態ではそれも叶わなかった。

 木刀掛けには、埃にまみれた百本の木刀が掛けられていた。

 僕は全員に木刀を取るように言った。

「では、順番に稽古をすることにしよう」

 僕はそう言うしかなかった。

「これからする稽古は、今までしてきた稽古とはまるで違う。本気で立ち向かってくるんだ。実際に刀を持って戦うとは、どういうことなのかを覚えるのだ。分かったか」

「はい」

 一斉に声がした。

「では戦う順番を決めてくれ。それは任せる」

 彼らはそれぞれ順番が予め決められていたようで、最初に戦う者は僕の前に一列に並び、そうでない者は木刀を持って道場の壁際に座った。

「戦い方を言う。私が木刀で軽く手や胴や頭を打つから、そうしたら切られたものとして壁際に退くこと。それから、これからが肝心なところだから注意して聞いて欲しい。君たちは遠慮なく打ち込んで来てくれ。それも五人一組になって、一度に打ち込んで来て欲しい」

 そう言ったら、一同は響めいた。

「そんなことしたら……」と誰かが言った。

「私には君たちの木刀は当たらないよ」と僕は言った。

「五人を相手にしてですか」

「そうだ。何なら七人でもいい。何人いても同じだ」

「そんな無茶な」

「無茶かどうか、やってみれば分かる」

 この言葉が若い侍の自尊心に火をつけた。

「どうなっても知りませんよ」

「かかってきなさい」

 僕は自分の言葉に酔っていた。

 最初の五人が半円の輪になって、それぞれ木刀を振りかざしたり、中段に構えたり、突きの構えを見せたりしながら、広がった。

 そして、やぁーと言うと一斉に僕に向かってきた。僕は右に跳んで、最初に突きを入れてきた者の手を軽く木刀で叩いた。そして、次の者の胴を払い、上段に構えていた男の額を軽く突いた。左側にいた者たちは、最初の太刀が外れたので体勢を立て直そうとしている間に、僕に小手を打たれた。

 それは一瞬の出来事だった。五人の誰もが自分が打たれた瞬間には気付かなかったほどだった。

 僕は素早く「次」と言った。今度の五人は円を描くように周りを囲み、全員、突きの姿勢を示した。相談してそうしたのだろう。僕は、前に踏み出して前の者の突きを外すと胴を叩き、左右の者の小手を叩いた。そして、振り向き、突きを入れてくる後ろの者たちには、その突きを外して両者の頭を軽く叩いた。

 これも何が起こったのか分からなかったろう。

 こうして全員が僕に立ち向かってきたが、誰一人僕に木刀を打ち据えることはできなかった。

 これで準備ができた。彼らは木刀で打ちかかってきたに過ぎない。そして、打ち負かされた。これでは実戦を経験したとは言えない。

「もう一度だ。今度はさっきより強く打つ。痛いだろうが、それが実戦だ。本気でかかってこい。殺気というものの前に立ったときにいかに剣が出ないものか、教えてやる」

 僕は完全に自分の力に酔っていた。自制できない何かに突き動かされていた。

「今度は七人ずつだ」

 僕は一種の狂気の中にいた。昨日感じた恐怖の体験が忘れられなかったのだ。

 一度、僕に倒されているから、彼らは警戒してなかなか間合いを縮めて来なかった。今度はこちらから間合いを詰めにいった。いくら間合いを詰めようと時間がスローに感じるから、相手の間合いに入ったとしても、僕には届かなかった。七人は瞬く間に倒された。さっきよりも少しだけ強く打ったつもりだったが、彼らにはこたえたようだった。

 次の七人は明らかに怖じ気づいていた。これでは盗賊たちには勝てない。僕は木刀を投げ捨て、「かかってこい」と言った。彼らは一斉に木刀を振り下ろした。僕は、手刀で手首を叩いたり、拳で腹を打ったりした。数分後には、七人とも板の床に倒れ込んでいた。

「次」

 次の者たちが、かかってきたが、僕には、木刀をかすらせることもできなかった。これも数分でみんな板の床に倒れ込んだ。

「次」と言った数分後に、僕はまた「次」と言っていた。

 そして三十分も経った頃には「次」と言っても誰もかかってこなかった。もう全員と戦っていたのだ。

「みんな、立て」と僕は言った。

 全員が立つと「礼」と僕が言って、彼らに向かって頭を下げ、それから振り向いて神棚の方を向いて、一礼をした。これは道場に通っていた時の習慣だった。

 年長の者が「先生」と呼びかけた。

「何だ」

「これでは練習になりません」

「いや、これが練習だ。今日は戦うときの恐怖を教えた。それで十分だ」

「戦うときの恐怖ですか」

「そうだ。今日、私が真剣を持っていたら、全員切られた。それを知ってもらいたかった。何人で、かかっていっても、勝つことができなかった。そのことを知ってもらいたかった。人数が多いとそれだけで、どこか安心してしまう。しかし、実際に戦うときはそんなのは関係がない。一人一人が命がけで相手に向かっていかなければ、相手を倒すことはできない」

「先生の言っていることはわかりますが、私たちと先生とでは力量の差があまりにありすぎます。これでは私たちはどうすればいいのかわかりません」

「今日は、どうすればいいのか分からないほどの力の差を見せることに、私は集中した。それが君たちに必要だったからだ。力の差がある者に勝つにはどうすればいいのかについては、明日から教える。今日はこれで終わりにする」

 若者たちは一斉に「ありがとうございました」と頭を下げた。

 

 私は井戸のある場所を教えてもらい、女中から手ぬぐいを借り、彼女の前で裸になると、井戸から水を汲み、頭から水をかぶった。それを何度かして、手ぬぐいで躰を拭いて、着物を着た。

「濡らしてしまって済まない」と言って、濡れた手ぬぐいを女中に渡すと、一部始終を見ていた彼女は、腰を抜かしたように座り込んで、手ぬぐいを受け取ると「とんでもございません」と言った。

 

 風呂は昨日と同じだった。風呂の後は、夕餉になった。

 夕餉は昨日と同じだった。主である嫡男が上席に座り、対面になるように僕が座った。今日はカボチャの煮付けた物が出た。現代のカボチャの煮物とは全然違っていて、ほとんど甘くはなかった。砂糖を使っていなかったからだ。

「今日は、若い衆に稽古を付けてくれたそうですな」

「ええ。ぜひにと頼まれたので断れなくなって」と答えた。

「そなたは凄腕だと言うではないか」

「私なんかはそれほどでもありません」

「そんな謙遜を。話は若い者から聞いているから、知っている。最後は、何と七人がかりを素手で倒したそうだな」

「たまたまです」

「いやいや。三十人余りの者を相手に全員、素手で倒したと聞いている。一人じゃなく、聞いた者全員が興奮してそう言っているんだから、大したものだ」

 僕は答えようがなかった。

 お茶漬けの椀を空にすると、付き添っていた女中がすぐに「おかわりを」と言って手を出した。今日は久しぶりに稽古らしい稽古をしたのでお腹が空いていた。僕にしては珍しくおかわりをした。

 彼女は嬉しそうに茶碗に山盛りにして返してきた。それを見た瞬間に、一杯で止めにしておけば良かったと後悔した。

 

 夜になった。

 布団に入ると昨日と同じように、若い女が入ってきて、行灯の火を消して着物を脱いだ。そして、僕の隣に躰を横たえた。彼女が抱きついてきたのは覚えているが、その時には僕は非常に強い睡魔に襲われていて、すぐに眠ってしまった。

 

 次の日、起きると着物を着た若い女が布団から少し離れた所に座っていた。

「おはよう」と言うと、彼女は「おはようございます」と返してきた後、涙を流した。

「どうした」と訊くと、「あなた様はわたしがお嫌いでございますか」と訊いた。

「いいや、そんなことはないが」と答えると、「だったら何故でございますか」と訊いた。

 何のことか分からない僕は「何のことだか分からないんだけれど」と答えた。

 女は恥ずかしそうに「あのことです」と言った。

「あのこと?」

 あのことが何を意味しているのか、僕には分からなかった。

「そうです。あのことです」

「済まないんだが、あのことって何を言っているのか分からないんだけれど」

「あなたは嫌な人ですね。男と女がすることです」

「ああ、そのこと……」と言ってから「ええ」と僕は驚いた。確かに、夜に裸になった若い女性が僕の布団の中に入り込んでくるのは、尋常なことではなかったが、男と女がすることのためだったとは思わなかったのだ。いや、そう思う前に眠ってしまっていた。

 平安時代でもあるまいし、江戸時代にもそんな風習が残っていたとは、ついぞ知らなかった。いや、そんな風習は残ってはいないはずだ。とすれば、あの島田源太郎の配慮なのだろう。とんでもない配慮だと思った。

 女は若く見えたが、僕よりは年上だろうと思ったので「君は何歳なの」と訊いてみた。

「十五歳です」と答えた時、淫行じゃないか、と思った。この時代は年齢は数え年で呼んでいるはずだから、若く見える女の満年齢は十四歳だった。現代に戻ったとすれば中学二年生だ。無理無理、と僕は思った。

 俯いている女を見れば可愛い。何も言わないでいると、彼女に気の毒だと思ったので「疲れていたんだ。昨日は、大勢と久しぶりに稽古をしたもんだからね」と言うと、「その前の晩もすぐに眠ってしまいました」と抗議をした。

「前の晩は盗賊たちを退治したからだ。その話は聞いているだろう」と言うと、女は頷いた。

「そういうわけだ。君のせいじゃない」

「わかりました」

 女は両手を畳に突いて、深々と頭を下げた。

 

小説「僕が、剣道ですか? 1」

五

 僕は全身、血しぶきを浴びていた。盗賊たちがいなくなると持っていた刀を放り捨てた。

 籠の戸が開き、「重ね重ね、ありがとうございました」と中の女性が礼を言った。

 戸が閉まると、籠は持ち上げられ、動き出した。

 僕は「あそこに倒れている仲間はどうするんですか」と言うと、お付きの侍の一人が「後で人を寄こして屋敷まで運びます」と答えた。

 

 僕は白鶴藩の家老の屋敷に招かれると、まず、風呂に入りたいと言った。何しろ、全身血だらけだったのだから当然の要求だった。

 風呂が焚けたと言うので、風呂に行ってみると、そこは言ってみればサウナ風呂のような所だった。水を温めたものが浅い風呂桶に入っていたので、手桶を探したがない。仕方なく、かけ湯もしないで、浅い風呂桶に漬かっていると、風呂の戸が開いて若い裸の女が入ってきた。

 風呂桶から立ち上がった僕は、慌てて手で股間を隠そうとしていると、「お背中をお流しします」と言って、風呂桶から出た僕の背中を女は手ぬぐいで擦った。しばらく、そうしていると手桶を棚から出してきて、桶から湯を汲んで背中を流した。僕が「それを渡してくれ」と頼むと女は手桶を寄こした。僕はそれに湯を汲んで、頭を洗った。頭からは血が滴った。湯が透明になるまで、頭を洗った。

 風呂から出ようとすると、女が「躰を拭きます」と言ったので「それは自分でする」と応えると、「それでは困ります」と女は言った。僕はどうせ夢の話なのだと思うことにして、女のしたいようにさせた。

「着替えは」と訊くと、「こちらに用意してあります」と棚の中の籠を指して言った。

 見ると思った通り、浴衣に近い着物だった。下着はふんどしだった。

 パンツじゃないのかよ、と思った。お尻にねじるようにして締めることは知っていたが、そんな穿き方はしたくなかった。ふんどしを後ろから広げたままで前に持ってきて、そこで紐を結んで余った布は前に落とした。なるべくブリーフパンツに近い形になるように穿いた。着物は女に着せてもらった。帯の締め方が分からなかったからだ。

 

 夕餉は客扱いを受けた。家老は今、城中に行っているとかで、嫡男が上席に座って接待をした。名前を訊かれたので「鏡京介です」と応えた。その嫡男の隣に、今日、籠に乗っていたと思われる婦人が座っていた。

「妻のあきだ」

 襲われたのは、この人の嫁だったのか、と思った。

「あきです。この度は大変危ないところを助けていただき、ありがとうございます」と言った。そして、立ち上がって、奥に行った。

「一緒に食事をするのではないのですか」と僕が訊くと、嫡男が「当家では女性は別室で食事をとることになっている」と答えた。

「そういうもんですか」と僕は言った。

 夕餉は、彼らからすれば豪勢なものだったかもしれないが、それでも現代から見れば粗末なものだった。ご飯は茶漬けだった。漬物が添えられていたが、僕は漬物が苦手だった。そして、主菜は魚の日干しの焼いた物だけだった。魚は身の部分だけを食べた。

 酒を勧められたが、僕は飲めないと言って断った。

 接待をしてくれた家老の嫡男は、島田源太郎と名乗った。僕も鏡京介と名乗った。

 島田源太郎は、二十歳半ばだそうだが、そうには見えなかった。もっと老けて見えた。彼には僕は子どもに見えたかもしれない。

 彼は近く家督を継ぐという話をした。彼の嫁は菩提寺に墓参りに行っての帰りだったそうだ。

「この辺りを根城にしている盗賊の話は聞いていたが、まさか家老職の家の者を襲うとは思わなかった」と言った。

「奥方の警護をするのであれば、もっと腕の立つ者を付けるべきではなかったのですか」

 そう僕が言うと、彼は自嘲するように笑い、「あれでも城中で腕の立つ者だったんだがな」と答えた。僕は何も言えなかった。あの盗賊を前にして、まるで実戦経験が無い者かのように為す術も無かった四人を思った。

 実戦経験が無い。そうだったかもしれない。あの四人は道場では強かったかもしれないが、実戦経験が無かったんだ。それに比べて盗賊たちは、日々実戦を繰り返している。その差が技術を上回ったんだ。

 それだったら自分も同じではないか。実戦経験といえば、夏季剣道大会兼関東大会の団体予選をしたといえばいえるかもしれないが、あれは命を賭けた戦いではなかった。本物の実戦経験とは、ほど遠いものだった。ならば、何故、奴らを追い散らすことができたのだ。何故、何人も殺したり、怪我を負わせることができたのだ。

 答えは簡単だった。時だった。戦いが進めば進むほどに、時がゆっくりになっていくのが分かった。相手の刀の動きがスローモーションのように感じられた。この経験は前にもあった。夏季剣道大会兼関東大会の団体予選の初戦の大将戦でだった。相手の動きが凄くスローに見えた。今日もそうだった。だから、相手の刀をかわすのも容易かった。あの大男にしてもそうだった。

「だが、そなたが連中の中でも手に負えなかった一番強い奴を倒してくれたので、こちらも征伐隊を送れる」

「あいつらがどこを根城にしているか、分かっているのですか」

「大体のところは……」

「そうですか」

「近く征伐隊を編成しようと思っている」

「…………」

「鏡殿も加わっていただけますかな」

「僕、いや、私もですか」

「そうだ。そうしてくれると百人力だ」

 僕はどうやら引くに引けない状況に追い込まれているようだった。もう一度、断ってもおそらく、また頼まれるだろう。次の家老になろうとしている人に対して、そうそう断り切れるものではないし、相手も一度言い出したら引きはしないだろう。

「分かりました」と僕は、諦めるように言った。

「そうか。頼んだぞ」と言いながら、また酒を勧めようとしたので、飲めないとそれだけは断った。

 

 夜、座敷に布団が敷かれ、僕はその部屋に案内された。部屋の隅に行灯が置かれていたが、その光は薄暗かった。

 厚手の着物のような形状の掛け布団に包まった。行灯の火を消しに行こうかどうか、迷っている時に襖が開いて、若い女が入ってきた。湯屋に来た女性だった。

 行灯の火を吹き消して、僕の寝ている布団の横に立った。そして着物を脱いだ。そのまま、僕の布団の中に入ってきた。

「ちょっ、ちょっと」と僕は彼女を押しのけようとすると、「夜とぎをするように仰せつかってまいりました」と言った。

「そんなのいらないよ」と僕は言ったが、女は「それではわたしが叱られます」と応えた。

「でも、それじゃあ、眠れない」と言おうとしたが、急に躰がだるくなった。腕を動かすこともできないほど躰が疲れ切っていた。今まで気を張っていたから気付かなかったのだ。

 女は僕の前に回り、躰を押しつけてきた。女の躰を抱き取るのが、精一杯だった。僕は深い眠りに落ちていった。

小説「僕が、剣道ですか? 1」

四

 籠に近寄ると、「私の屋敷まで来ていただけませんか」と中の女性が言った。

 僕は考えた。この身なりだ。江戸時代のどこかなのだろうが、まるで分からない。

 このままでは、どうにもならない。

「お言葉に甘えさせていただきます」と答えた。武士の言葉とは異なっていたのだろう。

 女中が微かに笑った。

 笑っている女中に「可愛いよ」と言ったが、意味が通じたのかはよく分からない。

 僕は平伏し、籠中の女性に尋ねた。

「今の将軍様はどなたでしょうか」

 供回りの者からの失笑は承知の上だった。

「家宣(いえのぶ)様です」

「そうですか、甲府の……」と言いかけて僕はやめた。

 確か、将軍職になられ甲府徳川家は絶家となったはずだった。

 すると今は一七一〇年ぐらいなのだろう。

 随分、過去に来てしまった、と思いながら、「この格好ではまずいですよね」と誰に尋ねるでもなく、口にした。

 誰かが羽織を掛けてくれた。寒くはなかったが、立ち上がると、当てもなく、道に沿ってそのまま歩き始めた。

 僕に添うように籠も動き出した。

 その時、第二陣が襲ってきた。

 さっき逃げていったのは仲間を呼びに行くためだったのだ。

 今度は十数人いる。勝てるはずがない。

 足元の棒を靴で拾い、最初に向かってきた相手に小手を打ち、落とした刀を拾って、次の相手の足を払った。そのまま、隣にいた者には腹を突き、次の相手には面の要領で顔面を切った。

 時が止まっている感じがした。だから簡単に小手や足を払うことができた。だが、相手はまだ十人以上いる。士気は少しも衰えてはいなかった。

 僕に向かってきたのは、小者だったのに違いない。本隊は籠を襲っていた。

 籠を守っていた四人のうち二人はすでに斬られて倒れていた。

 今にも籠の引き戸が開けられそうになっていた。僕は叫びながら、籠に向かって走った。槍で突いてきた者の槍先を跳び越して、中段に突きを入れてきた者の刀を払いながら、逆に彼の腹を切った。そのまま走り、横から刀で斬りかかってきた者を避けて、正面に立っていた盗賊に面を打った。相手の頭が弾けるように真っ二つに割れた。

 刀が刃こぼれしたので、その男の刀を拾い、斬りつけてきた者の足を払った。そして、籠の前に辿り着こうとした時、大きな男が立ちはだかった。彼は大きな刀を持っていた。正面から斬りつけて来たので払おうとしたが、凄い力で、刀で払うことができなかった。仕方なく、横に跳んでよけた。しかし、すぐに次の太刀が向かってきた。これも避けるだけで精一杯だった。大きな男は尋常じゃない馬鹿力を持っていた。そして、素早かった。

 僕はその男だけに立ち向かっていたわけではなかった。彼の仲間二人が僕の後ろに回り、同時に斬りかかってきた。これが強い相手と戦う時の相手の戦法なのだろう。普通の相手なら、これで確実に仕留められたはずだろう。しかし、僕は違っていた。すぐに振り向くと、最初に刃を突き出した者の小手を払った。相手の手首が飛び散っていくのが見えた。そして、次の相手には、刀を振りかざしたところで腹を切り開いた。

 後ろが開けたので、走って籠の所まで行った。籠を守っていた二人も多数の傷を負っていたが、傷は浅かった。

 籠を背に、大男が来るのを待った。

 相手が今度は刀を振り下ろしてきたら、刀で避けることはしないつもりだった。刀で払おうとしても、それができないくらい相手の男は力強かった。だから、相手が刀を振り下ろしたら、それを避けて横に跳び、相手の腹を切り裂く。夏季剣道大会兼関東大会の団体予選の初戦で、強豪相手に使った手だった。大男は力が強いだけでなく素早い。しかし、一度振り下ろした刀の切っ先をすぐに別の方向に変えられるはずはない。それは力が強いことの反面の弱点だった。だが、相手が太刀を真正面から振り下ろしてくるまで、待たなければならない。その前に動けば、相手もそれに合わせて刀の振り下ろし所を変えてくるだろう。相手が振り下ろしてくる刀を、一時でも避けないで待たなければならない。一瞬でも時間がずれれば、相手の刀に身が切り裂かれてしまうだろう。

 相手の目を見た。鬼の形相をしていた。躰がすくみそうになった。手にしている刀の先が恐怖で小刻みに震えていた。

 相手が一歩踏み込んできた。間合いを詰めているのだ。目を閉じたくなった。だが、ここで目を閉じたら、死ぬことになる。

 必死で相手を見返していた。

 ぐるりと周りは盗賊で囲まれていた。僕が斬られれば、一斉に彼らは籠を襲うだろう。

 取り囲んでいる盗賊たちは、僕と大男の勝負を見ていた。

 大男がまた一歩、近づいてきた。

 次だった。次に踏み込んできた時に、刀は振り下ろされるだろう。僕はそれまで心が震えていたのに、何故か落ち着いてくるのが分かった。相手に集中していたのだ。

 草鞋のズリという音とともに相手は、半歩踏み込み、同時に刀は振り下ろされた。僕は最初は避けずにその刀が振り下ろされるのを見ていた。その次の瞬間、相手に向かって横っ跳びになりながら、刀を振り抜いた。相手の胴を真っ二つに切り裂いたのが見えた。

 僕が立ち上がると、周りを取り囲んでいた者たちが後ずさりするのが分かった。

「引けぃ! 」と言う誰かの声が響いた。多分、盗賊の頭なのだろう。これ以上、襲っても自分たちの被害が大きくなるだけだと思ったのに違いない。

 僕が胴を切り裂いた者を盗賊たちの二人が両方の腕を肩にかけて、引き上げていった。

 

小説「僕が、剣道ですか? 1」

三

 僕が落ちたのは、白樺の林の中で、すぐ下の方から怒声が聞こえていた。

 誰かの籠を盗賊が囲んでいる感じだった。

 付き添いの者は女中二人、侍四人いたのだが、腰が引けていて全く役に立ちそうになかった。籠の中にいるのは女性だろう。

 盗賊は八人。勝ち目は無い。

 僕には関係ないと思った。

 そのとたんに心拍数が上がるのを感じた。

 下を見ると、護衛をしている家臣の一人の首を斬ろうとしているのが見えた。

 えっ、と思うまもなく、僕は坂を転がっていた。

 転がっているのだから音には気付くだろう。刃の切っ先が僕に向かっていた。

 腹をえぐられるものと思っていた。しかし転がりながら、チェーンとカッターナイフを腹の方に移して、胸にはペットボトルを抱えた。

 すごい音がした。僕はどこか切られたのかと思った。

 でも、そうではなかった。相手は気絶していた。切っ先はチェーンに絡まっていた。

 僕は相手の刀を取ると、次にすぐに襲ってきた者の小手を切った。その次に上段に振り上げた者には腹に突きを入れた。

 殺す感覚は無かった。

 相手はまだ五人いたがちりぢりに逃げた。

 付き人の侍が三人の命を奪うのをぼんやりと見ていた。

 しばらくして、籠の戸が開いた。

 最初に「どこの家中の者ですか」と訊かれた。

「いえ、どこにも」と答えるのがやっとだった。

「浪人ですか」と続けて訊かれたので、「いいえ。西日比谷に……」と言いながら、この時代に分かるわけもないか、と思った。

 供の者から「その風体はどうしたのか」と尋ねられた。

「南蛮渡来の物です。この辺りでは目にしようも無いでしょうが」と答えた。

「剣の心得があるようだが」

「ええ、北辰一刀流と二天一流を少しばかり」

 好きな剣士になぞらえて大きくでまかせで答えてみた。本当は小野派一刀流なのだが……。

「さもありなん。見事な腕じゃった」

 一番の長老の者が言った。二天一流はともかく北辰一刀流は、まだこの時にはなかったはずだが、と僕は思った。

「ではこれにて」

 僕は段々会話に疲れていた。どこかの方言をずっとしゃべっている気がしていた。

「そうはいかん」

「ちょっと待ってください。私にも用事はあるのです」

 あるわけもないが、今どこにいるのか、知るのが先決だと思った。

 籠の中の女性が「それはそうかもしれませんが、このままお帰ししたら殿にどのように言われるかわかりません。ご一緒していただけませんか」と言う。

 供の者に囲まれてしまえば、嫌とも言えなくなる。僕の悪いくせだ。

「分かりました」と小さな声で言った。そして、手にしていた相手の刀を放り捨てた。

 若い女中の一人が近くに寄り、「こちらへ」と囁いた。籠の側に寄るように言ったのだ。椿油のいい香りが漂った。

 

 稲妻に打たれた僕はそのまま路上に倒れた。誰が一一九に掛けたのだろう。

 救急車で運ばれた先は御茶の水近くの病院だった。

 僕は意識がなかった。

 意識は違う次元に飛んでいたのだから。