小説「真理の微笑」

五十七

 家に帰ると、郵便受けにチラシがいっぱい入っていた。私は車椅子を押す真理子に代わり、それらを手にした。年末らしく、ハウスクリーニングの広告が多かった。

 これを見ている内に、私はこの家をハウスクリーニングしてもらいたくなった。

 富岡の痕跡は徹底的に消したくなった。

 リビングに上がると、「ねぇ、真理子。今年はこれしてもらおうよ」とチラシを見せた。

「ハウスクリーニングなら毎年してもらってるじゃない」

「そうなのか」

「いやねぇ、そんな事も忘れているの」

「全部の部屋をやってもらっているの?」

「ううん、トイレとバスルームに洗面台、それとキッチンかな」

「だったら全部の部屋をやってもらおうよ」

「全部」

「うん」

「あなた、書斎、いじられるの嫌がってたじゃない」

「そんな事、今は構わない」

「寝室も」

「ああ」

「何だか、恥ずかしいわ」

「エアコンとか窓とか、床掃除してもらうだけなんだから、恥ずかしい事なんかないじゃないか」

「だって……」

「ベッドが乱れるのは、夜だけだよ」

「意地悪ね」

「そんな事ないさ」

「わかったわ。明日、会社にあなたを送りに行ったら電話してみる」

「そうだね、いくつか電話して見積もり出させて、良さそうなところに頼めばいいよ」

「いつものところじゃ駄目」

「いつものところってどこ」

 真理子はチラシの一つを出して見せた。

「いつもここに頼んでいるの」

「だったら、そこに頼めば良いさ」

「そうするわ」

「今日の夕食は何」

「舌平目のムニエル」

「凄いね」

料理本とにらめっこしながら作るから、味はどうかな」

「真理子が作ってくれるものなら、何でも美味しいよ」

「嬉しい事、言ってくれるのね」

「だってほんとの事だからさ」

 真理子が少し改まって、「わたしね、今度、料理教室に通おうかと思っているの」と言った。

「そうなの」

「ええ」

「どうして」

「だんだんレパートリーがなくなってきたんだもの」

「そうなんだ」

「あなた、退院してきてから毎日、家で食事しているでしょ」

「ああ」

「前のあなたはそうじゃなかったのよ。どこかのクラブやバーに行っていて、帰って来るのも午前様が多かったんだから」

「ふ~ん」

「だから、わたし、毎日料理作る必要がなかったの」

 そうか、富岡の手帳には午後五時以降に幾つものイニシャルがついていた。という事は、家で夕食をとるなんて事はしていなかったのだ。

「たまに早く帰ってきても、お茶漬けがあればいいって感じだったわね。いくら、わたしが作って待っていても関係なかったわね」

 私は過去の自分を責められているような気分になった。

「でも、あなたは変わった。わたしの料理を食べてくれる」

「そりゃ、そうだろう。こんな躰だからクラブやバーになんか行けやしないし、第一、酒が禁じられている。家で、真理子の美味しい手料理を食べるのが一番だ」

 真理子が立ち上がって、抱きついてきた。

「嬉しい事を言ってくれるのね。わたし、あなたにもっと美味しいものを食べさせたい」

 そう言うとキスをしてきた。私は真理子を抱き留め、その潤った唇を十分堪能したのだった。

 

 夜のベッドは激しかった。終わった後、真理子は再びシャワーを浴びに行った。

 戻ってきて一息ついたところで、尋ねてみた。

「入院中、真理子のご両親もうちの両親も面会に来なかったけれど、どうしてだろう」

「知らなかったの」

「何も覚えていないんだ」

「あなたのお母様は認知症で千葉にある施設に預けられているわ。お父様は五年前にお亡くなりになった」

「そうだったのか」

「わたしの両親はもう亡くなっているわ。母は十年前に、父はその三年後にね。去年、父の七回忌をやったの、覚えていないの」

「うん、全然。うちの父は何をやっていたんだろう」

「普通の会社員よ。何て言ったかな、確か大手の証券会社の子会社に勤めていたと思ったけれど」

「真理子のお父さんは」

「うちは自動車修理工場をやっていたわ。わたし、小さい頃、自動車の下に入って、よく遊んだもの」

「へぇ~」

「車のタイヤ交換や、簡単なエンジントラブルならすぐ直せるわ。父から教わったもの。父はわたしが男だったらなぁ、と良く言っていたわ。工場を継いで欲しかったのね」

「父親ってのは、大抵そんなもんだよ。子どもに跡を継がせたくなる」

 そう言うと、真理子は黙った。それから「そうよね、そういうもんよね」と言った。

 真理子は一瞬、沈黙した。私が「子どもに跡を継がせたくなる」と言った後にだった。それは偶然なのか。それとも由香里の事を知っているのか。

 いや、そんな事はない。由香里の事は知らないはずだ。私の思い過ごしに過ぎない。真理子は自分に子どもがいない事を気にしたのだ。トミーソフト株式会社がいくら大きくなっていっても後継者がいない。真理子は自分に子どもができにくい体質なのを気にしたのだ。そして、私が子どもを欲しがっていると思ったのだ。

 私は真理子を抱き寄せた。真理子がいればいい、そう口には出さなかったが、抱き締める事でその思いを伝えたかった。

小説「真理の微笑」

五十六

 ボーナスが出ると社員は全員喜んだ。

「社長、こんなにいいんですか」

「はずみましたね」

 あちこちから声が上がった。手を上げてそれに応えながら、真理子に車椅子を押されて、社長室に入った。ドアを閉めると静かになった。

 福祉車両が来てからは、毎日、真理子が送り迎えをしてくれた。

「みんな喜んでいたわね」

「そりゃそうだろう。通常のボーナスに加えて百万円もの特別ボーナスを支給したんだから」

「トミーワープロのおかげね」

「そうだね」

 そのトミーワープロは、富岡が北村を使って私から奪っていったものだとは言えなかった。トミーワープロを(株)TKシステムズから出す事ができていれば、(株)TKシステムズを倒産させる事も、夏美や祐一たちと別れる事もなかった。

 真理子がキスを求めてきた。もちろん、私は真理子の唇を、舌を受け止めた。私は失ったものも多かったが、真理子を得た。そして、トミーソフト株式会社と多くの社員も……。

 私の心は複雑だった。失ったものと得たものとが、果たして釣り合いが取れているのだろうか。釣り合っているはずがなかった。釣り合っていいはずがなかった。私は富岡を殺しているのだ。これに釣り合うものなどなかった。

 

 私は真理子が帰っていた隙に、介護タクシーを呼んで、少し遠くの郵便局まで連れて行ってもらった。郵便局には、タクシーの運転手に支えられて入った。

 書類の間に現金三百万円を入れた封筒を挟んだ硬く少し大きめの封筒を、書留で夏美の実家宛に送った。この現金は金庫にあったものだった。現金を現金書留以外の普通の封筒で送る事は違法だったが、この際仕方がなかった。現金書留では三百万円もの大金を一度に送る事ができなかったからだ。

 送り主の住所も名前もでたらめだったが、予めメールで知らせておいたのと、封筒の端に「Ryu」と書いた。だから、夏美には私からだと分かるはずだ。中を開ければ私からの手紙も添えてある。私は多くを書く事はできなかった。

『夏美様 もっと仕送りができたら良いのだが、今はこれしか送れない。また、送る。それと、これだけは守ってくれ。この手紙と、この仕送りをした封筒は焼き捨ててくれ。必ずそうしてくれ、頼んだよ。 隆一』

 再び、タクシーの運転手に支えられて、介護タクシーに乗った。

「大変ですね、郵便を出すくらいなら、どなたかに頼めば良いのに」

「いいや、自分で出したかったんだ」

「そうですか」

「ああ」

 私は会社に着くと、タクシーの運転手に社員を呼んでもらい、車椅子に座った。

 タクシーの運転手には、一万円を渡した。

「おつりを取ってきます」と言うので「いいから取っておけ」と言った。

「こんなにいいんですか」

 私は「良いお年を」と言った。タクシーの運転手も上機嫌で「よいお年をお迎えください」と言って車に戻っていった。

 私は車椅子を女子社員に押してもらい、社長室に入った。

 

 それから高木を呼んだ。由香里の事を相談した。来月には子どもが生まれる。出産費用などに二百万円ほど用意して、彼女の銀行口座に振り込んで欲しいと頼んだ。

「わかりました」と言った後、「忘年会はどうしますか」と訊いた。

「去年までは前の会社の近くの居酒屋を貸し切って行っていましたが」と言った。

「だったら、今年もこの近くの居酒屋を貸し切ればいい」と答えた。

「わかりました。田中に話をしておきます。この辺りだと完全貸し切りは無理でしょうが、何とかなるでしょう」

「任せるよ。で、忘年会はいつやるんだ」

「会社は二十九日から正月休みに入りますから、二十八日です」

「そうか。私は酒が飲めないし、こんな躰だから最初に挨拶をしたら、早々に失敬するよ」

「承知しました」

「忘年会の費用は当然会社持ちなんだろうな」

「ええ、そうです」

「二次会はどうなんだ」

「二次会は、各自の責任ですから」

「そうか。分かった。で、新年会の客はどうなっている」

「今回は一千人を少し超えると思いますよ」

「そんなに」

「ただで飲み食いができる上に、ビンゴ大会の景品が結構いいものですから。今回は、一等はなんと二人分の沖縄旅行のチケットです」

「昔は熱海ぐらいだったけれどね」

「いつの時代の事ですか。来年は沖縄旅行だと言ったのは社長ですよ」

「今年はどこだったんだ」

「北海道でした」

「で、二等は」

「二等も大型ブラウン管テレビです。三等以下もそれなりの景品が付きますから」

 私はトミーソフト株式会社の気前の良さに驚いた。

「まずは注目してもらわなければ駄目なんだと言ったのは社長ですよ。こうして人を集めて、口コミで宣伝してもらう。特に大型量販店のソフトの担当者も多く呼んでますからね。今度の新年会は盛り上げないと。トミーソフト株式会社、ここにありと知らしめるんです」

 私は苦笑いをして「勇ましくていいね」と言った。

 

 高木が出て行くと、考えなければならない事がいっぱいあるな、と思った。会社は今月二十九日から来月四日まで正月休みに入る。そして、それが明けるとすぐに新年会だ。

 新年会には、何か出し物をやるようで、各部でそれぞれ張り切っている。私は今回が初めてだから分からないが、寸劇をするところがあるらしい。多分、秘書室&広報室か、販売宣伝部あたりだろう。あるいは両方かも知れない。

 とにかく来年早々の仕事は新年会になりそうだった。

 そして、それが済めば由香里の出産が待っている。予定日は十三日だった。出産に立ち会うのは難しいかも知れないが、生まれたらすぐに駆けつけなければならないだろう。

 だが、真理子がいる。真理子に分からないように由香里と生まれてきた子に会いに行かなければならない。これも考え始めるとそんなに容易い事ではないように思える。

 それに生まれてくるのは、あの富岡の子だ。それをさも喜んでいるように演じなければならなかった。私はいつからそんな器用な人間になったのだ。実際のところ、上手く演じられるか分からなかった。

 

小説「真理の微笑」

五十五

 朝、出社すると、高木からボーナスの件で相談を受けた。トミーワープロは三万ロットを超え、四万ロットを超えるのも時間の問題であるという報告があった。社員は八十名余りである。分かりやすいように通常ボーナスに加えて、百万円の特別ボーナスを全員に支給するように指示した。それから、新年会の費用も、特別豪華にする必要はないが、それなりに支出してくれと伝えた。

 新年会は****ホテルの菊の間で一月八日に行う事になった、と言った。

「そうか」

「一千人ぐらいの招待客だとそこぐらいしか予約が取れませんでした」

「それはいい。任せた事だから。それから年賀状の事なんだが、会社から出していたのか」と私が訊いた。

「はい。こちらで宛名も印刷して、いつもなら十二月早々には出していましたが」

「そうか、じゃあ、早速文面を考えて、誰かが君のところに持って行くようにするから、印刷して出しておいてくれ」

 高木は「わかりました」と言って出て行った。

 社長室のデスクの上にはディスプレイがある。デスクの天板の下に引き出せるもう一つのキーボードとマウス用のテーブルが付いていた。その下に引出しがあった。

 パソコン本体はデスクの右サイドの下に置かれていた。

 私は電源を入れてパソコンを起動させた。

 するとパスワードがかけられていて、初期画面から先に進まない。私は西野を呼んだ。

「パスワードを忘れてしまった。解除してくれ」

「わかりました」と言った西野は、社長室を出て行って裸のハードディスクとフロッピーディスクを持ってきた。

 私がデスクからどくとデスクの下に潜り込み、電源をいったん切ってから、パソコンのケースのカバーを外して、そこにハードディスクを取り付け、カバーを戻してから、フロッピーディスクを入れて電源スイッチを入れた。

 パスワード解析用のソフトが起動し、そのスタートボタンを押した。

「解析には、一時間から長ければ数時間かかります。終わったら、画面にパスワードが表示されますから、メモしておいてください」

「じゃあ、それまでは病院で使っていたラップトップパソコンを使う事にしよう。すまないがセッティングしてくれ」

「はい」

 西野は部屋の隅に運び込んでおいたラップトップパソコンの箱から、パソコンを取り出し、電話回線にモデムを繋ぎ、電源ケーブルをデスクの下にあるコンセントに差し込み、デスクの上にラップトップパソコンを置いた。

 私は彼が作業をしている間に、来客用のテーブルで、年賀状の挨拶文を書いていた。

 私は作業を終えた西野に礼を言い、出て行こうとする彼に年賀状の文面を渡して、これを高木のところに持って行って欲しいと頼んだ。

「わかりました」と答えた西野は社長室から出て行った。

 彼がいなくなると、ラップトップパソコンを起動させ、早速、パソコン通信ソフトを呼び出し、メールボックスを開いた。夏美から沢山のメールが届いていた。退院してからのこの数日、私は夏美にメールを返していなかったので、凄く心配していた。

 そのメールの中に読み捨てにできないメールがあった。

『隆一様

 先程、祐一と夕食を済ませました。あなたが美味しいと言ってくれたミートソースのスパゲティです。いつもの分量で作っていたら、あなたの分まで作ってしまいました。残ってしまったので、明日はナポリタンにして食べます。

 夜が来るのがこわい。ベッドに横たわっても、伸ばした手の先があなたに触れるわけではありません。あなたがいない事を痛いほど思い知るのです。

 長い夜はあなたの事を思っています。あなたの事を思い出し、あなたと一緒によく行った場所を思い出すのです。その光景を思い出すたび、涙が溢れてきて止まりません。毎晩、枕を涙で濡らしています。

 どうして会えないのですか。どうしても会えないというのなら、わたしがあなたを捜すしかありません。

 明後日、警察にもう一度行ってきます。そして、あなたから電話があった事、パソコン通信のメールが届いている事を話すつもりです。そして、あなたの居所を捜してもらうつもりです。

 ただ会えないと書いてきたら、わたしはきっとそうします。この決心はかたいものです。

 明日一日、あなたに時間を差し上げます。よく考えてください。

 もし、お返事がなかったり、前と同じように、理由もわからないまま、ただ会えないというのであれば、わたしは警察に行きます。       夏美』

 

 このメールを後から読み返した時、私には夏美の苦しみが理解できた。しかし、このメールを読んだ直後は全身が怒りで震えたのを覚えている。メールが届いた日時を確認した。『明日一日、あなたに時間を差し上げます』と書いてあったからだ。昨日書いたメールだという事が分かった。ホッと胸をなで下ろした。それと同時に夏美に対して、何を考えているんだという気持ちしか湧き起こらなかった。

 私はその怒りにまかせて返信した。もし夏美が警察に行く事があれば、もはやお前は妻ではない。祐一は俺の子ではない。お前たちとは絶縁する。そして、一切の連絡を絶つ、絶対にそうすると書き送った。

 夏美からすぐにメールが来た。

『隆一様

 あなたはむごい人です。わたしが警察に行けば、絶縁するとメールに書いて寄こしました。もう、電話をしないし、メールも手紙も一切送らないと書いてありました。そして、永久にわたしと祐一の前から姿を消すとも。

 あなたはわたしに、俺がお前たちの記憶まで消し去らなければならない事をするのか、とまで書いてきました。わたしが警察に行けば、必ずそうすると書いてありました。

 そんな事をされたら、わたしが生きてはいけない事をあなたは承知して書いてきたのです。そう書いてきたのには、それなりの訳があるのでしょう。

 それはきっと良くない訳に違いありません。あなたは、きっと許されない罪を犯したのですね。それで出てこられないのですね。会えないのは、そういう事なのですね。

 もし、間違っていたらごめんなさい。でも、そう考えるより他に考えようがありません。

 わたしはあなたに見捨てられたくはありません。だから、警察には行きません。もう、警察の人ともあまり関わらないようにします。ですから、電話をかけないなんて言わないでください。メールをしないなんて言わないでください。

 わたしが悪かったのです。許してください。

 でも、あなたに会いたい。この気持ちだけは止める事ができません。わたしを、このわたしを不憫に思ってください。お願いします。    夏美』

 私には言葉がなかった、夏美にかけてやる言葉が何一つも。

 

 今日は、真理子は福祉車両を選びにディーラーのところに行っているはずだった。

 私は、助手席が回転して乗り降りでき、車椅子も後ろに積めるものを希望した。

 真理子も同じ考えだったので、今頃はいろいろな車を見せられて、迷っている頃だろう。

 来週からは新車で出社したいと思っているので、その分、迷いも深いだろう。

 

 昼は親子丼をとって食べた。

 午後、あけみから電話があった。退院してからは会っていなかった。会えるはずもなかった。こんな躰だから「楓」には行けないと伝えた。

「寂しい」とあけみは言ったが、さすがに会社にまで押しかけてくる事はなかった。

 由香里には電話をした。

 来月が産み月だから、躰には注意していると言っていた。私はくれぐれも風邪をひかないようにと言った。

「人の多い所には、なるべく出かけないようにしているわ。それに必ずマスクもしているし。安心して、ちゃんとあなたの子を無事に産むから」

 由香里は念を押すように言った。そう、由香里はちゃんと富岡の子を産むのだ。そして、富岡を殺した私がその子の面倒を見る。何とも皮肉な話だった。

 

 退社時刻が迫ってきた頃に、ディスプレイ画面に「終了しました」という文字が現れた。そしてその下にパスワードが表示されていた。私は手帳にそのパスワードを書き込んだ。

 西野を呼んだ。西野はフロッピーディスクを取り出し、電源を切ると、パソコンを再起動させた。そして、初期画面になると、パスワードを打ち込み「これで使えます」と言う。

「ハードディスクはあのままでいいのか」と訊いたら、「新しいのにプログラムをインストールして持ってきたので、そのまま使って大丈夫です。気になるなら外しましょうか」と言った。

「いやいい。バックアップ用に使うよ」

「それがいいですね」

 西野が退出すると、私は早速パソコンの中身を見た。いくつかのデータファイルがあった。ドキュメントファイルやメールボックスにもパスワードがつけられていたが、さっき使ったフロッピーディスクのパスワード解析ソフトを使って、いずれも解除した。こちらはそれほど手間もいらなかった。それらのパスワードを手帳にメモすると、今日のところはこれくらいにしてパソコンの電源を落とした。

 

 介護タクシーで家に戻ると、門の所まで真理子は車椅子を持ってきて待っていた。

 車椅子に乗り、玄関の中に入ると室内用の車椅子には乗らず、真理子に支えられて、椅子式昇降機に座った。二階のリビングに入ると、テーブルにいっぱいカタログが広げられていたが、シルバーの助手席回転スライドシート車のパンフレットを目の前に出してきて、「これに決めたわ」と言った。

「明後日、納車するって。試乗して良かったら、そのまま買う事にするわ」

「分かった」

 明後日は土曜日だった。

 

 私は毎晩のように真理子を抱いた。いや、毎晩抱いた。

 抱けば抱くほど躰に馴染んでくる。そんな感じだった。こんなに美しい妻を放っておいて、他の女にうつつを抜かしている富岡が信じられなかった。

 真理子も私の欲求に応じてくれた。真理子の躰は私の指が記憶した。

 会社にいても、時々デスクの上を、指を滑らせる事がある。そんな時は、真理子を思っていた。

 会社が終わり、家に帰る事が楽しかった。真理子と過ごせる日々が嬉しかったのだ。

 

小説「真理の微笑」

五十四

 会社に行く日になった。会社移転してすっかり真新しくなった会社にだった。朝から落ち着かなかった。それは当然だった。未知の領域に足を踏み込むのだから。

「大丈夫よ、わたしがついているから」

 真理子は頼もしかった。

「そうだな」

 介護タクシーを呼んで出社した。

「介護用の車を買わなくちゃね」

「そうだな」

 

 会社に入ると、女子社員から花束を渡され、社長室まで色紙で作った花吹雪が舞った。

「退院、おめでとうございます」

 私は床を指さして「後で掃除しとけよ」と冗談を言った。社員はどっと笑った。

 私は会社の中央あたりに設けられたマイクの前に連れられていった。

 マイクが私に渡された。車椅子に座っている私の隣には、真理子がいた。

「今日はありがとう。こんなに歓迎され、そしてみんなの元気な顔が見られてとても嬉しかった」

「よっ、社長」

「ありがとう。私が事故に遭って、不在の間も、みんなで会社を盛り立ててくれた事を心から感謝する。ところで、今の私は正直言ってみんなの顔を忘れている。これは事故による記憶障害だ。だから、もし、私が誰かに対して覚えていなくても許してもらいたい。今度の事故で私は九死に一生を得た。この五ヶ月間病院で暮らし、長い時間、考える機会を持った。私の声に象徴されるように、私の人生観も変わった。みんなが私から受ける印象がこれまでと違っていたとしたら、それは私の人生観が変わった事によるものだと思ってもらいたい。私は変わった。いや変わらなければならなかったのかも知れない、たとえ、それが事故によるものだとしても。どうせ変わるのなら、良い方向に変わりたいものだと思っている。さて、社長がいないにもかかわらず、トミーワープロをトップシェアまで引き上げてくれ、そして会社移転までしてくれて、本当に感謝している。みんなが苦労した事は分かっているつもりだ。今度のボーナスを楽しみにしていてほしい」

 拍手と歓声が上がった。

「でも、過剰な期待はなしでお願いする。ほんの心づもり程度だから」

 ブーイングと笑いが起こった。

「私も無事に退院でき、こうして現場に復帰する事ができた。これからは一層、このトミーソフト株式会社を強く大きな会社に育てていきたいと思う。みんなの力を借りて、きっと実現しよう。私の退院の挨拶はこれで終わりにする。最後に、もう一度みんなに感謝する。ありがとう」

 私は歓声の中、マイクから離れた。真理子が耳元で「いい挨拶だったわよ」と言った。

 近寄ってきた高木以下の部下にも、それぞれ握手を交わしながら「君たちにも苦労をかけたね」と労いの言葉をかけた。高木には、後で来てくれ、と言った。

 

 社長室に入りドアを閉めたら、ようやく落ち着いた気分になった。車椅子を移動させながら、皮の手触りを確かめるかのように、ソファの背もたれの上に手を滑らせていた。

 社長室を見て回れるようにぐるりと遠回りに車椅子を押しながら「どお、新しい会社は」と真理子が言った。

「いいじゃないか」と言っても、私は前の会社は知らなかった。

 その時、ノックがして高木が入ってきた。

「早速で済まないが、十一時に会議を開く。各部の部長を会議室に集めてくれ。これまでの報告と今後の方針を伝えたい」

「わかりました。早速、皆に伝えます」

 高木が出て行くと、「もう仕事」と真理子が言った。

「会社に来たんだ。仕事する以外に何をするって言うんだ」

「それもそうね」

 

 午前十一時になった。

 会議室には、経理部の高木、営業部の田中、開発部の内山、総務部の長谷川、販売宣伝部の松嶋、秘書室&広報室の中山が集まった。

「私が出社できない間、会社を切り盛りしてきてくれた皆さんには感謝する。ありがとう」

「そんな……」

「とんでもない」

「当然の事をしたまでですから」

「ありがとう。早速で悪いが、会社の状況を把握しておきたい。経理から順番に現状を報告してもらいたい」

 経理部からは会社の業績についての報告があった。前年比三倍の売上になっているという事だった。それだけトミーワープロが売れたという事だった。

 営業部からもトミーワープロの注文がまだまだ来ていて、発注が追いつけていないという報告があった。最終的には五万ロットを超えるんじゃないかという見通しを言った時には、全員から「ほお」と言う声が上がった。

 開発部は、現在カード型データベースソフトのβ版を改良している最中であり、発売は来年五月中旬を目指していると言った。また、ユーティリティソフトの文書変換ソフトについては、なるべく多くの機種に対応したいので発売までにはもう少し時間がかかるというので了承した。

 総務部は会社移転に伴う細かな事柄を報告した。

 販売宣伝部はパンフレットと試用品のフロッピーディスクの増産が間に合っていないという悲鳴のような声が出た。それほどトミーワープロが売れているという事だった。

 秘書室&広報室からは、新年会を、会社移転を祝う会と社長の快気祝いを一緒にしてはどうかという提案があった。

「どこかホテルの広間を借りて盛大にしましょう」と中山が言った。もともとトミーソフト株式会社の新年会は取引先や関係各者を集めて行っていたようなので、私は「任せる」とだけ答えた。

 今後の方針については、まずトミーワープロをもっと売り、カード型データベースソフトの発売を成功させる事、そして、次バージョンのトミーワープロのアイデアを年内中に提出する事を伝えた。

 会議は午後一時に終わった。

 

小説「真理の微笑」

五十三

 朝になっていた。眠剤を飲まないでも昨夜は眠れた。

 あれからどれほど真理子を抱いただろう。

 真理子は化粧台にいて、髪をとかしていた。私が起きた事に気付くと「おはよう」と言った。私も「おはよう」と返した。

「昨日のあなたは凄かったわね」

 私はちょっと嬉しかった。いや、凄く嬉しかった。

「あんなの、何年ぶりかしら」

「…………」

「ううん、初めてだったかも知れない」

 その言葉を聞いた時、嬉しかったが、同時に少しひやりとした。富岡はあんなふうには真理子を抱かないんだ、と思ったからだ。しかし、富岡がどんな抱き方をしたかなんて分からない以上、自分のやり方を貫くしかなかった。いや、貫くべきなのだ。これからは、私の抱き方が富岡の抱き方だったと思わせればいいのだ、と思った。

 昨夜の種火が、私の躰の中に残っていた。真理子はバスローブしか着ていない。

「ねぇ」

 私は声をかけた。

「なあに」

 真理子が振り向いた。

「真理子の裸が見たい」

 思いきって言った。真理子は驚いたようだ。

「恥ずかしいわ」

「見たいんだ」

「こんなに明るいのに」

「お願いだ」

 真理子はしばらく逡巡していたが、やがて立ち上がると着ていた物を足元に落とした。

 美しい裸体だった。

「こっちに来て」

 真理子は裸のまま、ベッドサイドに来た。

 私は真理子の躰に手を触れた。最初は腰のあたりだった。

「もっと寄って」

 真理子は片膝をついてベッドに上がろうとした。その時、割れ目がはっきりと見えた。明るい中でそこを見たのは初めてだった。

「そのまま」

 私はそう言うと、真理子の割れ目に指を這わせた。

「恥ずかしい」

 真理子は俯いてそう言った。真理子の割れ目は綺麗なピンク色をしていた。

 触っているうちに濡れてきたのが分かった。

「ベッドに上がって」

 真理子は言われるままにベッドに上がった。

 ベッドに上げると右手でクリトリスを触りながら、左手で胸を揉んだ。

 真理子の肌は、微妙な光沢を放っていた。

 私は真理子の足を広げ、上になってペニスを真理子の割れ目に入れた。

 真理子の顔が赤く染まっていくのが分かった。

 なるべく腰を使わないようにして、躰を動かした。

 私は真理子の顔を見ていた。上気して感じていく真理子の顔が見たかったのだ。

 そのうち真理子は足を私の腰に巻き付けてきた。私と真理子は密着した。

 私はそのままにして、まるで腕立て伏せをするかのように躰を動かした。

 真理子が激しく顔を左右に振ったかと思うと、口を突き出してきた。私はその唇を吸って舌を絡めた。私の額からは汗が噴き出していた。

 そのうち、躰の奥の方が熱くなってきてペニスが一段と膨らんだ。

 私が精液を吐き出している時に、真理子も「いく」と叫んでいた。

 

 会社に出るのは二日後だった。だからこの二日間は真理子と二人きりになれるのだった。

 昼間はピザを頼んで配達してもらった。

 真理子はラフな格好で玄関に出て受け取ると、二人でダイニングで食べた。

「夕食はどうする」

 ピザを食べながら真理子がそう訊くので、「出かけるのも面倒くさいし、また何か頼もう」と答えた。

「何がいい」

 私はしばらく考えて「鰻」と答えた。鰻も病院では食べられなかったものの一つだった。

「じゃあ、そうしましょう」

 

 午後も、私たちは性行為を覚えたばかりの若者と何ら変わらなかった。

 さすがに、何度も射精はできなかったが、私は真理子の躰の隅々まで指を這わせた。

 まるで子どもが新しいおもちゃを与えられたのと同じだった。

 飽きる事なくそうしている私を、真理子は黙って許してくれていた。『しょうがないわね』とでも思ったかも知れない。

 実際、真理子の裸身は何度見ても見飽きる事がなかった。

 真理子を四つん這いにして後ろから見た光景は、忘れられないものの一つだった。

 真理子はとても恥ずかしがったが、そうすればそうするほど私は欲情した。

「もう、駄目」

 時間を忘れてそうしているうちに、さすがに真理子は疲れたようでベッドに倒れた。

 そして私の方を向いて「このやんちゃさん」とペニスを上から押した。

 

小説「真理の微笑」

五十二

 夕食は出前で寿司を頼んだ。病院では食べられなかったからだ。

 大トロも美味しかったが、ウニやいくらもうまかった。これでお酒でも飲めたら最高だったが、肝臓の数値が悪いので、医者からはきつく禁酒を言い渡されていた。

 夕食の後は、風呂に入った。

 脱衣所で私は裸になると、真理子に支えられて、風呂場に入った。真理子は濡れてもいい服装で、私をシャワーで全身洗った。それから低くした浴槽に片足ずつ入れて、躰を浴槽に運ぶと、私は半分ほどはった湯に浸かった。

 今まではシャワーだけだったので、風呂に浸かるのが気持ちよかった。真理子はしゃがんで「どぉ」と訊いた。私は上を向いて「ああ、いい気持ち」と答えた。

 

 風呂から上がるのは、少し苦労した。私は湯船に付けられている手すりを掴んで、躰を持ち上げ、真理子が洗い場に引き上げてくれた。それから真理子に支えられて、脱衣所のタオルが敷いてある椅子に腰掛けた。頭や上半身は自分でも拭けたが、足は真理子が拭いてくれた。それからトランクスを穿き、パジャマを着た。椅子から車椅子に躰を移して、寝室まで移動した。

 車椅子から真理子に支えられて立ち上がると、そのままベッドに倒れ込んだ。大きなダブルベッドだった。

 私はベッドの中に入ると、真理子を待った。真理子は私を入浴させた後で、風呂に浸かっているのだろう。その時間が結構長く感じた。

 そう感じながら、私は何を期待しているのだろう、と思った。これから真理子と眠るだけじゃないか、と思おうとした。だが、真理子を抱きたいという欲望は、そんな事をすれば富岡ではないと分かってしまうかも知れないではないかという理性を裏切っていく。

 真理子の入浴時間は長かった。その間中、私は欲望と理性との戦いをし続けなければならなかった。

 ようやく真理子が寝室に入ってきた。髪をタオルで巻いて包んでいた。

「ごめんね、遅くなって」

「そんな事ないよ」

 真理子は浴衣のような素材のバスローブを身につけていた。鏡台で顔に化粧水を付けてからベッドに来た。私の奥に躰を横たえた。そして寝室の灯りを消した。

 まだ午後九時を少し過ぎた頃だった。

 私は真理子に手を伸ばした。腕に触った。その手を下ろしていき、真理子の手を握った。そして、力強く引いた。

 真理子は躰をずらした。握っていた手を離して、真理子のバスローブをはだけた。

 真理子は下着を着けていなかった。より引き寄せて腰に手を回した。そして抱き寄せた。

 その時、パジャマが邪魔をした。私は、パジャマのボタンを外してそのあたりに放り投げた。そしてトランクスと一緒にパジャマのズボンも脱ぎ捨てた。

 真理子の裸の胸に胸を密着させて、唇を合わせた。唇を合わせながら、真理子の胸を揉んだ。その胸はふくよかで驚くほど柔らかかった。指が沈み込んでいった。

 真理子の「あ~」と言う小さな声が耳朶を過っていった。

 それほど大きくはない乳首をつまんでいた。次第に真理子の乳首は立ってきた。

 のけぞる真理子の喉を唇でなぞった。そして、また真理子の唇を吸った。

 舌を絡めた。真理子も巻き付けるように舌を絡めてきた。

 乳首から指を離すと、すうっと躰の線をなぞるように下ろしていった。そして真理子の割れ目に指を這わせた。

 そこはもうすっかり濡れていた。人差し指と中指を割れ目の中に入れた。そして、しばらく出し入れをした。真理子は泣くような声を上げた。

 それから真理子のクリトリスを擦りあげた。真理子の声は一層、大きくなった。

 私は我慢ができなくなっていた。

 真理子の股を大きく広げるとその上にのし掛かっていった。

 ペニスは硬くなっていた。そのペニスを真理子の中に押し込んだ。

 そして腰を動かそうとしたが、痛くなって上手く動かせなかった。

 仕方がないので、躰を反転させて真理子を上にした。真理子は何も言わず、腰を動かした。そのうちに真理子が上半身を被せてきて、唇を求めた。私は真理子の口を受け止めた。真理子の舌が激しく蠢いていた。私は今にも爆発しそうになっていた。やがて、真理子は口を離して「ああ」と叫んだ。その声に導かれるように私も射精していた。

 私の胸に顔を落とした真理子は「良かったわ」と言った。私も頷いた。

「まだ硬いわね」

 私は射精した後でも、まだ立ったままだった。

 真理子は、また腰を動かし始めた。私は真理子の背中の真ん中を中指でなぞるように腰まで、ゆっくりと下ろしていった。真理子が感じているのが分かった。私も痛くならない程度に腰を動かした。そして真理子の胸を揉んだり、脇の下を触ったりした。

 どれほど時間が経っただろうか。今度はさっきよりも時間がかかった。しかし、真理子が深く感じ始めて、唇を求めてくると、自然に私も気持ちが高揚していった。

 今度は「いく」とはっきりと言った。真理子の躰がピクンと動いたのが分かった。私もその時、再び真理子の躰の奥深くに射精していた。

 真理子は私の躰の上から降りて、横に転がった。私は左手で真理子のクリトリスをいじっていた。次第にそれが硬くなってくるのが分かった。

「また」と真理子は囁いた。

「真理子となら、何度でもしたい」

 そう言うと、真理子は鼻から息を吐き出すように薄く笑った。

「いいわ、好きなだけしてあげる」

 そう言うと、真理子はまた覆い被さってきた。