三十三
鈴蘭こと、みねの迎えに行く前日になった。もう準備はおおよそ整っていた。足りない部分は、おいおい揃えていけばいい。
朝から風車は落ち着かなった。
「明日ですよ、明日」と僕が言っても、耳に入らないようだった。
今日は夕方に着物を呉服店に取りに行けばよかった。その時、きくに女物の浴衣も買ってきて欲しいと頼まれた。みねの分だった。
昼餉を食べた。
風車が落ち着かないので、僕も落ち着かなかった。買い残した物はないか、風車に訊いた。風車は首を振った。
今日は着物を取りに両国まで行くのだから、買い残した物があれば、買ってくるのだが、と思ったまでのことだった。その首を振っている風車を見ていて、あっと、思った。床屋に行くんだ、と思いついた。風車の髪や髭は何ともむさ苦しい。明日は、どういう手順になるかは分からないから、今日行っておく方が良かった。僕も床屋に行きたかった。
きくに床屋に行く話をした。
「床屋って何ですか。髪結床のことですか」ときくが言うので、「そうそう」と僕が言うときくも得心したようだった。
「これからその髪結床に行って、その帰りに着物ももらってくるよ」と言った。
「浴衣を忘れないでくださいね」ときくが言った。
「分かっている」と僕は言った。
床屋は何故か混んでいて、結構待たされた。
僕は月代を剃られるのが嫌なので、それは注文を付けた。髪結人は「月代を剃った方が似合うと思うんですけれどね」とは言った。だが、そこは譲れなかった。
風車もいろいろと注文を付けていた。
髪結人はいろいろと話しかけてくる。風車は、吉原の女を身請けするんだという話をしていた。僕にも話しかけてくるから、その介添え人のようなものだと言った。
「どんなふうなんですか」と訊くから、「私も初めてだから、よく分からない」と言った。
「そうですか」とまだ訊きたそうだった。
風車の方は、話ははずんでいた。他の客が「わしも吉原には良く行くんだよ」と言ったりした。
髪結いが終わったのは、おやつ時間をかなり過ぎていた。風車も僕も綺麗に整っていた。
呉服店には夕刻に行くことになっていたが、これならいいだろうと思って、呉服店に行った。
店の者が出て来て、「できております」と言った。
「お召しになりますか」と訊いたので、僕は頷いた。着物の着方はさすがに慣れてきていたが、紋付羽織袴の正式な着方は知らなかった。恥をかきたくないので、試着するという名目で着方を覚えようと思った。
店の奥に入った。襖を閉めて、他の客の視線を避けてから、着物を脱ぎ、着替えた。着物は自分でも着られた。袴もなんとかなった。羽織は、ただ、紐を結べばよかったのだが、上手く結べない。
「こんな具合です」と結んでくれた。
鏡の前に立った。いい感じだった。
風車も着終わったので、鏡の前に立った。
「どうですか」と風車が訊くので、「いいですよ」と答えた。
これなら、明日も何とかなると思った。
着てきた着物に着替えて、紋付羽織袴は風呂敷に包んでもらった。代金を支払おうとしたところで、みねの浴衣を買ってくることを思い出した。
「女物の浴衣もください」と言った。
「身長はどれくらいですか」と訊くので、僕が手の位置で僕の肩ぐらいを示した。
「それなら、これで合いますね」と言って、浴衣を出してきた。
「柄は選べますか」と訊くと、何種類かを出してきた。風車を呼んで、どれがいいか、訊いた。風車はアサガオをあしらった柄の物を選んだ。
「じゃあ、それをもらう」と僕が言い、紋付羽織袴と一緒に風呂敷に包み直してもらった。そして、代金を払った。
家に着いた頃には、少し陰ってきていた。
寝室にきくを連れて行って、紋付の着物を着せてみた。似合っていた。櫛もいつか買った漆塗りの物をした(「僕が、剣道ですか? 1」参照)。
「これならいい。ききょうは明日着るんだぞ」と言った。
風呂は僕が焚き、風車を先に入らせようとした。しかし、風車は「鏡殿と一緒に入ります」と言った。
「そうですか」と僕が言うと、「今日が一緒に入る最後じゃあ、ありませんか」と言った。
「あっ、そうか」と僕はつい口に出してしまった。
気がつかなかったのだ、これが風車と一緒に入る最後の風呂だということを。明日からは、みねが来る。そうすれば、風車は当然、みねと一緒に入ることになる。
僕は風呂に入る用意をして、風車と湯屋に向かった。こうして、湯屋に一緒に向かうのも、今日が最後かと思うと少し感慨もあった。
脱衣所で着物を脱いだ風車の躰には、怪我の様子はなかった。すべて治っていた。古傷だけが残っていた。
風呂場では、躰を洗っていると、風車が背中を流してくれた。
「この度はお世話になりました」と風車が言った。
「そんなことは……」と僕が言いかけると、「いいえ、このご恩は決して忘れません。それに仲人までして頂き」と言った。
「そんな……」と言いかけて、僕は止めた。風車が言った仲人という言葉が強く響いたのだった。そんな感覚はなかったが、風車とみねを夫婦にさせる役割を演じたのは確かだった。仲人と言われれば、そうかも知れなかった。ただ、この時代の仲人の意味合いを僕は軽んじていた。というより、分かっていなかった。
風呂を出ると、蚊帳吊りをした。
離れにも行った。風車が踏み台を使って、蚊帳吊りをするのを見ていた。明日からは、風車が自分で蚊帳吊りをするんだ。だから、彼がするのを見ていた。
蚊帳は十分大きかったから、二人の布団を敷いても余裕があるように見えた。明日は、二つの布団が並ぶのだ、と思った。
夕餉はいつもと変わらなかった。
ただ、明日からは、風車の隣にみねが座るんだなと思った。
「もう、明日ですね」ときくが言った。
「はい」と風車が応えた。
「五日後と聞いた時は、まだ時があるように思っていましたが、経ってみればすぐでしたね」ときくは言った。
「そうですね」と風車は応えた。
「今は、どんなお気持ちですか」ときくが訊いた。きくがこんなことを訊くのは珍しかった。
「何て言っていいのか、よくわかりません。ただ、明日が来るのが待ち遠しいです」と答えた。
「そうでしょうね」ときくが言った。
風車はお代わりをせずに、「ごちそうさまでした」と言って、席を立った。
心は明日に向かっているのだろう。
僕はきくに明日のことを話した。
「明日は、おそらく、使いの者が来て迎えに行く時間を知らせてくると思う。向こうでどういうことをするのか分からないが、きくの着物は時間を見て、着るなりしていてくれ」
「わかりました。わたしたちは仲人をするっていうことになるのでしょうか」ときくが訊いた。
これには、僕も不意を突かれた思いがした。風車も同じことを言っていたからだ。
「風車殿もそのようなことを言っていた」
「そうですわよね」ときくは言った。
「でも、わたしたちは夫婦ではありませんけれどね」と続けた。
「そんなことはどうでもいいんじゃないか、風車殿とおみねさんをしっかり結びつけることができれば」と僕は言った。
「そうですね」ときくも言った。
そして「わたしたち、やはり仲人ですよね」と言った。
「それでいいんじゃないか」と言うと、きくは嬉しそうに「はい」と言った。
「わたし、嬉しかったんですよ。京介様と同じ家紋の入った着物を作っていただいて」と続けた。
「当然だろう」と言うと、きくは「はい」と応えた。
夜半に、時を止めて、奥座敷に行った。
「明日、一人増えますね」とあやめが言った。
「よろしく頼むよ」
「大丈夫ですよ。わたしは何もしませんから」とあやめが言った。
「でも、おみねさんが羨ましいです。夫婦になれるのですから」
「そうだな」
僕はあやめを抱いて、叶わぬ夢もあるんだよ、と囁きたくなった。それを囁いてどうにかなるものでもないが。
あやめと深く交わると、寝室に戻り、時を動かした。