小説「僕が、剣道ですか? 5」

十九

 次の宿場に来ていた。ここは通過するか、甘味処でも見付ければ入るつもりだった。

「鏡殿」と風車が言った。

 風車は道場の前を黙って通過するつもりはなかったようだ。

「入りましょうよ」と風車が言った。

 僕はそんなつもりはなかったが、風車の勢いに押された。

 きくも驚いているようだった。

「入るんですか」と僕に訊いた。

「風車殿に訊いてくれ」と僕は答えた。

 風車は道場の玄関を開けて、中に入ると「頼もう」と言っていた。

 すぐに門弟が集まってきて、その中の一人が「何の用ですか」と訊いた。

 風車は「一手、お手合わせを願いたい」と言った。

「道場破りですか」と門弟の一人が言った。

「いやいや、そんなんではござらん。ただ、通り過ぎるのもできかねて、御指南を受けたいと思っただけでござる」と言った。

 その時、長身の者が出て来た。

「拙者は荒木重左衛門と申す。今、道場主は所用で不在でござる」と言った。

「なら、貴殿でも構わぬ。お相手、願いたい」と風車は言った。

「道場主に無断でお相手はできぬ」と荒木重左衛門は言った。

 荒木重左衛門の言うことが道理だった。

 その時、玄関から「今、戻ったぞ」と声がした。

 荒木重左衛門が「先生」と言った。僕らが振り返ると、年老いた者がそこにいた。

「話は聞いていた。せっかく長旅をしているのだ。これっきりの機会と思って訪ねて来たのだろう。荒木重左衛門、相手をしてあげなさい」と言った。

 その老人は堂々としていた。道場主だけのことはあった。居留守を使っていたわけではなかったのだ。

 僕らが老人を見ていると、「拙者は竹内源五郎と申します。ここは竹内道場です。見ての通り、田舎の道場です」と言った。

「そんなことは」と風車が言った。

 竹内源五郎は「どうぞ、道場にお上がりください」と言った。

 僕は台車から荷物を取ると、草履を脱いで、道場の隅に座った。きくもききょうを連れて、僕の隣に座った。

「ところで、相手をしたいと言うのはどなたじゃな」と竹内源五郎が訊いたので、風車が「拙者です。風車大五郎と申します」と言った。

「そうか。風車殿でござるか。わたしは見ての通り、年をとりすぎておるので、そこにいる荒木重左衛門がお相手をするがよろしいか」と訊いた。

「結構でござる」と風車は言った。

「では、準備をなさるといい。誰か風車殿の体格に合う道着を持って参れ」と竹内源五郎が言った。

 門弟の一人が、風車の前に道着を置いた。

 風車が僕らの方で着物を脱ぎ、道着に着替えた。

 着替えると、道場の壁に掛かっている木刀を一つ取った。

 そして、道場の中央に立った。

 向こう側には、荒木重左衛門が立った。

 両者一礼をして、一端蹲踞をし、立ち上がると、前に進んだ。木刀をかわすと、竹内源五郎の「始めい」の声がかかった。

 二人は少し離れた。

 そして、間合いを詰めにいった。

 風車は相手の胴や頭を見ていた。荒木重左衛門は風車の手元を見ていた。明らかに小手を狙っていた。こんな試合では、小手の方が狙いやすい。風車は実戦には慣れているが、道場での稽古には慣れていないのだろう。小手が狙われていることに気付いてはいなかった。

 小手だから、間合いもすぐに詰められる。風車が相手の胴や頭を狙うために間合いを詰めにいった瞬間に小手を打たれた。

 風車は木刀を落とした。

「勝負あり。荒木の勝ち」と竹内源五郎が宣言した。

 僕は風車の元に走って行った。風車は手首を押さえながら「抜かったわ」と言った。そして「もう一手」と言ったが、僕が首を振った。

「これでもう良いでしょう」

 僕が風車を立たせると、竹内源五郎が「そちらの方は名前を聞いておらなかったが何と申すのですか」と訊いてきた。

「私ですか」と訊き返すと「ええ」と言うので「鏡京介と言います」と答えた。

「鏡京介殿……。もしや、あの鏡殿か」と言うので、あのが何を意味しているのか分からなかったが、「はい、鏡京介と言います」と繰り返した。

「そうですか、鏡殿でしたか」と竹内源五郎は呟くように言って、少し考えていた。そして顔を上げると、「荒木重左衛門。鏡殿に一手、御指南を受けろ」と命じた。

 僕は驚いた。そして、荒木重左衛門の方を見ると、僕に向かって頭を下げた。

 何だ。やる気満々じゃないか。これじゃあ、逃げ出すわけにもいかないではないか。

「では、道着をお借りしましょう」と僕はやむなく言った。

 道着を持って、きくのところに行くと「こんなことになってしまった」と言った。

 きくは笑って「いいじゃあ、ありませんか」と言った。きくは気楽で良いよな、と思った。今日は午前中にひと戦いしていることをきくは忘れているのじゃないかと思ったぐらいだ。

 僕は道着に着替えて、道場の中央に立った。

 竹内源五郎が門弟に「よく見ておくんだぞ」と言った。

 僕らは相対すると、一礼をして、木刀の先を重ねた。その時、竹内源五郎の「始めぃ」の声がかかったが、次の瞬間、僕の木刀は荒木重左衛門ののど元に突きつけられていた。

 門弟たちが見る隙も与えなかった。

 竹内源五郎は「勝負あり。鏡殿の勝ち」と言った。

 荒木重左衛門は僕のところにやってきて、「全く歯が立ちませんでした。踏み込んできたのにすら気付きませんでした。ありがとうございました」と言った。

 僕は竹内源五郎に向かって、「ご門弟たちに稽古をつけても良いですか」と訊いた。

「鏡殿が、門弟に稽古をして頂けるのですか」と訊き返してきた。

「ええ、軽くですけれど」と言った。

「それはありがたい。ぜひ、お願いします」と言い、門弟たちに「これから鏡殿が稽古をつけてくれるそうだ。言われるようにしろ」と言った。

 門弟たちは「はい」と答えた。

 僕は門弟たちの数を数えた。四十人だった。五人ずつ八班に組ませた。組み合わせは、門弟たちに任せた。

「五人ずつ、相手にする。それぞれ木刀を持ち、私を囲むようにするんだ。そして打ち掛かってこい。一人の木刀が私にかすりでもしたら、お前たちの勝ちだ」と言った。

「かすっただけでも良いんですか」と一人が訊いたので、「いいとも」と答えた。

「その代わり、私はお前たちの木刀を叩き落とす。手が痺れると思うが、我慢してくれ。一班全員の木刀がうち落とされたら、次の班に交代する。いいな」と言った。

 皆「はい」と答えた。

 僕は家老屋敷の道場にいる気分になった。

 最初の班の五人が僕を取り囲んだ。門弟たちは、木刀をかすらせることぐらいならできると思ったのだろうが、「では始め」と僕が声をかけた次の瞬間、瞬く間に全員の木刀がうち落とされていた。ほんの数秒だった。

「次の班、用意」と言った。次の班の用意ができると、僕は「始め」と言った。これも数秒でけりが付いた。誰もが信じられない顔をしていた。

「次」と僕は言っていた。そして「始め」と言うと、僅かな間に全員の木刀が叩き落とされていた。

 結局、四十人全員の木刀を落とすのに、何分も要さなかった。そして、僕は神棚に向かって一礼した。

 僕は竹内源五郎の元に行くと、「いい機会を作って頂きありがとうございました」と言った。

 竹内源五郎は「いやいや、お礼はこちらが言う方ですよ。それにしても凄かったですね」と言った。

「あれでは稽古になりませんでしたね」と言うと「何の。実戦を知らぬ者たちばかりだから、剣豪の強さを知るいい機会だったのですよ。手抜きをされてお茶を濁されるより、彼らにとってはいい稽古になったでしょう」と言った。

 僕が道着から着物に着替えると、竹内源五郎は「奥の座敷でお茶でもどうですか」と言った。喉は渇いていたが、僕は断った。急の訪問だったからだ。話をするのも面倒に思えた。

「今日はこの辺りに宿を取ろうと思っているのですが、どこかいい所はご存じですか」と訊いた。

 すると「松葉屋さんが良いんじゃありませんか。評判良いですよ」と竹内源五郎が言った。

「では、そこに泊まることにしましょう」

 僕はきくとききょうのところに行くと、荷物を持って玄関に向かった。

「今日は松葉屋というところに泊まることにした」と言った。

「そうですか」ときくが言った。

 竹内源五郎に頭を下げて道場を出ると、まだ風車は手を気にしていた。

「まだ、痺れるんですか」と訊くと、風車は「心の奥がズキズキと痺れているんです」と洒落た言葉を返してきた。

「あれは道場の戦法ですよ、小手狙いは」と僕は言った。

「そうなんですか」

「そうですよ。小手が一番間合いを詰めやすい。風車殿のように胴や頭を狙いに行くよりもずっとね。だから、道場では、まず小手を教えます。それを狙われたのです」と僕は言った。

「そうだったのか」

「相手は最初から小手狙いで来ていましたよ。小手なら、相手は何百回、何千回と練習していることでしょう、その差が出ただけです」と僕は言った。

 きくはちらっと僕の方を見た。

 僕は台車を押しながら、「あそこに焼き芋屋がいる」と言った。

「本当だ」と風車は言うと、もうそっちの方に歩き出していた。

 風車が離れていくと、きくは「京介様はお優しいんですね」と言った。

 それには答えず、僕は「きくも買ってこなくて良いのか」と言った。

「きくも買いに行きます」と言った。

 風車は三本買い、きくも三本買った。

「宿に着いたら食べよう」と僕は言った。

 ええ、という顔を風車がしたので、「あそこが宿だよ」と僕は指さした。その先には松葉屋の看板が出ていた。

 

 宿で部屋を取り、部屋に入ると早速女中にお茶を頼んだ。

 風車はお茶が来る前に、焼き芋を皮ごと食べていた。

 きくは皮を剥き、柔らかいところを冷ましながら、ききょうに食べさせた。ききょうは美味しそうに食べた。

 お茶が運ばれてくると、僕は一口飲んで、それから焼き芋に齧り付いた。