小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十

 焼き芋を食べ終えると、早々に風呂に入った。今日は朝から忍びの者と一戦を交えただけでなく、竹内道場で稽古までしてきたのだ。躰は疲れていた。着物を洗ったとはいえ、沢の水で注いだだけだったので、風呂場で足踏み洗いをしたいとも思った。

 風車も久しぶりに道着を着て、汗をかいただろうから、僕の提案に異論はなかった。

 着物とトランクスを洗い、髭を剃って風呂に入ると、風車が「鏡殿の剣はさすがですね。朝方は忍びの者を倒されたが何人ぐらいだったのでござるか」と訊いてきたので、素直に「三十人ほどでしたかね」と答えた。

「三十人もですか」

「ええ」

「それにしては、時間がかかっていませんでしたね」

「時間をかけると疲れるので」と答えた。

「そういうもんですか」

「そうです」

「そういえば、竹内道場での稽古も凄まじかったですね。四十人いた門弟を、木刀をかすらせもせず一瞬のうちに、木刀を叩き落としてしまった。あれには感服です」と言った。

「ちょっと、昔、道場をやっていたものですから、つい、そのくせが出てしまいました」と僕は言った。

 家老家の道場が今では懐かしかった。もう、あそこに戻ることはできないのだ。

 うっかり涙を落としそうになった。

 今日、竹内道場で稽古をしている時も、脳裏には家老家の道場のことが頭に浮かんできて離れなかった。門弟たちは純真だから、無心に向かってくる。それを叩いて叩いて鍛えていくのだ。

「何か思い出があるのですね」と風車が言った。

「ええ。いい思い出です」と応えた。

 

 風呂から出ると着物とトランクスを掛け竿に干した。きくとききょうが風呂に入りに行った。

 まだ夕餉までには時間があった。風車が部屋の隅に碁盤を見付けると、「一局どうですか」と訊いてきた。

「いいですよ。やりましょう」と答えた。

 

 碁は僕の完敗だった。風車は竹内道場での負けを晴らしたかのように喜んだ。

「もう一局」と言っているところに、きくとききょうが戻ってきた。

 きくはききょうがおむつ代わりにしているタオルを掛け竿に干し、そのタオルとタオルの間にそっと自分のショーツも掛けた。

 

 僕と風車の碁は二局目に入った。風車は碁が好きというだけであって、そう強いというわけでもなさそうだった。ただ、定石や手筋を知っているので、それに引っかかり僕が負け続けていたのだ。だったら、その定石や手筋にない手を打てばいい。とはいえ、定石や手筋にない手はそう見当たらなかった。僕はやはり地道に何手か先を考えて読むしかないと思った。

 また五目中手の手ができた。相手が誘っているのは、目に見えていた。今度は囲っているどの石が弱いのだろうと思った。しかし、そう簡単に分かるものではなかった。

 分かっていても誘いに乗るしかなかった。

 僕は五目中手にした石を囲っていった。風車はどこか弱い囲いを破るはずだった。しかし、目算が外れたのだろう。攻め取りにできるはずの石を一手負けで攻めきれなかった。そのため、外側に置いた石も無駄になった。五目中手にした大石は死んだ。

 その後も風車は必死で打ち続けたが、目算が外れた代償は大きかった。僕が僅かな差で逃げ切った。

 風車のがっくりした姿は、おかしなほどだった。

「もう一局」と風車が言った時に、夕餉の膳が運ばれて来た。

「食べ終わったら、もう一局ですからね」と風車は言った。

「いいですよ」と僕は言った。

 風車は早く碁が打ちたいがために、早食いしていた。僕はゆっくりと食べた。

 

 夕餉が済み、膳が片づけられると、部屋の隅に碁盤を置いた。

 布団が敷かれるのを邪魔したくなかったのだ。

 僕は天元に黒石を打った。

 すると風車がニヤリと笑った。

「真似碁ですか」と言った。

 風車が見破ったとおりだったのだ。最初に黒石を天元に打てば、次の白石はどこかに打たなければならなくなる。その打たれた白石に天元と対称になる位置に黒石を打っていけば、天元に先着した分だけ有利になるはずだった。

 しかし、風車は天元の下に白石をつけて打った。僕は反対側に打つしかなかった。すると第二着の横に並ぶように四着目を打ってきた。そして、打ち続けていくうちに、いつの間にか、最初に天元に打った石が取られる形になった。十八手目を打たれた時に、僕は投了した。

「それは昔からある手なんですよ。だから、破り方も知られている」と風車は得意そうに言った。

 僕は溜息をついた。こんな方法、誰でも思いつくよな、と改めて思った。

 もう一局打った。

 今度も僕の完敗だった。風車は竹内道場での敗北をすっかり忘れたようだった。

 

 いい時間になったので、風車は隣の相部屋に戻っていった。

 僕は布団に潜り込んだ。風車に碁で負けたことが尾を引いていた。

 隣にきくが潜り込んできた。

「竹内様が、鏡様のことをとても褒めていらっしゃいましたよ」と言った。

「そうか」

「ええ。荒木重左衛門様の時も、凄いと言われていましたが、門弟たちに稽古をつける姿を見て、余計に凄いと言っていましたね」と言った。

「荒木殿との立ち合いは、きくには見えていたのか」

「ええ、喉元に木刀を突きつけるまですべて見えていました」

「それは凄いな。あれだけの速さを目で追うのは大変なことだぞ」

「でも、わたしには見えましたわ。荒木様の木刀よりも速く動いているのがわかりましたもの」

「そうか」

「そして門弟たちの稽古です。これも凄い速さで動いていましたね」

「それも見えていたんだな」

「ええ、木刀を打ち落とすときに手加減されていたのもわかりました」

 僕は笑った。そこまで見えているのか、と呆れるほどだった。見えていれば、動くこともできるはずだった。妊娠していなければ、懐剣の使い方ももっと教えられたのにと思うと少し残念だった。