二十
僕は中上のアパートの近くの通りで、ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。
「中上の様子を見てきてくれ」と言った。
「はーい」とあやめは言った。
中上が何をしているかは分かっていた。山田の釈放はどうでも良かったのだろう。問題はそれに対する自分の声明文が、どのように解説されているのか、知りたかったのだ。
僕は待っている間、あやめの最初の映像を再生した。
中上は昼のニュース番組を見ていた。何人ものコメンテーターが意見を言っていた。その中で、僕が気になったものがあった。元刑事の肩書きを持つコメンテーターが「これだけ声明文を出しているんですから、警察も犯人の目星がついているんじゃないですかね」と言ったことだった。これには、中上も反応していた。
『おっさん、でたらめ言ってんじゃねえよ。あれだけ海外経由しているのに、どうやって突き止められるんだよ。それに、それをやっているパソコンは俺が乗っ取ったパソコンだから、わかるわけがないじゃないか』
だが、気になったのだ。だから、朝刊を買いに行ったのだ。
ズボンのポケットのひょうたんが震えた。
「どうした」
「今はパンを食べながら、テレビを見ています」
「そうか。さっき買ってきた新聞は一通り読んだんだな」
「はい」
「だったら、その映像を送れ」と言った。
映像が送られてきた。思った通りだった。中上は新聞のコメントを丹念に読んでいた。自分に捜査の手が伸びていないか、確認せずにはいられなかったのだ。
もう、お前は僕の手中にいるよ、と言いたくなった。
一方で、中上は自分が注目されていることに、酔いしれていた。こんなことはこれまでなかったからだ。放火以来、自分が注目されるようになったことに喜びを感じていた。これは今までに味わったことのない感覚だった。恐れる一方、楽しくてしょうがなかったのだ。
映像はそれだけだった。
僕は映像を見終わると、安全防犯対策課に帰った。
安全防犯対策課では、僕が明日会議をすると言ったので、それぞれが防犯マップを取り出して、危険そうな箇所に印をつけていた。
こうして一つ仕事が終わると、次の仕事がやってくるのだ。今、安全防犯対策課のメンバーにさせていることは、明日の会議のためのものだった。僕は、明日の会議のために、放火等を防ぐことや防犯を呼びかける文書を作った。
次の日、定時に安全防犯対策課に行くとメンバーは全員揃っていた。
「全員、いるようなので会議を開く。滝岡は会議に加わらなくてもいい。自分の仕事をしていて欲しい」
僕は奥のボードの前に行き、そこに黒金町の防犯マップを磁石で貼った。
「ここに緑川、時村、岡木、鈴木、並木の順に危険と思われる箇所をオレンジのマジックペンで印をつけてくれ」と言った。
緑川が立つと、ノートを見ながら、オレンジのペンでどんどん書き込みを入れていった。その数、百四十六箇所にも上った。続いて、時村が五箇所、岡木が一箇所に印をつけた。鈴木、並木は書き込むことができなかった。
「すると、百五十二箇所か」と僕が言うと、緑川が「ここに記されているのは、ゴミ置き場が主ですね。板塀も入れると、もっと増えます」と言った。
「この放火魔は人の住んでいる家には火をつけないと思うんだ。つまり、現住建造物等放火罪になるようなことはしないということだ」と言った。
緑川が「それは変では、ありませんか。すでに犯人は二人も焼死させているんですよ」と言った。
緑川はもとより、ここにいる全員が、前の三件の連続放火事件の真犯人がすでに死亡している戸田喜八であることを知らない。つまり、これまでの四件の連続放火事件は同一犯だと思っている。現住建造物等放火罪になるようなことはしないということは、僕だけが知っていることだった。だから、緑川の疑問はもっともだった。それは他のメンバーも同じことだろう。
「この中で、特に危険度が高い所を赤いペンで丸をつけてくれ」と言った。
「では、わたしから」と言って、緑川が丸をつけた。その後、時村、岡木、鈴木、並木の順に丸をつけた。丸の数は三十六個になった。
「それでは、防犯マップにこれらの印をつけて、各地域の主だった者に注意喚起をする回覧を回してもらうように伝えてきてもらいたい。文書は作ってあるからそれを打ち出して持って行って欲しい。地区割りは緑川に任せる」と言った。
「今からですか」と鈴木が言った。
「そうだ。今からだ」と僕は答えた。
「あーあ」と言う声がメンバーから漏れた。
緑川が「じゃあ、やりますか」と言って、マップをグリーンのペンで区切っていった。 そして「地域の班長の住所と名前はここにありますから、必要な人はコピーしてください」と言った。黒金町を班分けした住所録が緑川のデスクに置かれた。
「僕がコピーします」と言って、鈴木がこの住所録を四人分コピーした。そして、それを並木が分けた。
緑川が「時村さんはここ、岡木さんはここ、鈴木君はここ、並木さんはここをお願いね」とボードのマップを指しながら言った。
「それじゃあ、行きますか」と言って、時村が立ち上がった。他の者もそれにならった。そして、安全防犯対策課から出て行った。
安全防犯対策課には、僕と滝岡が残った。
滝岡はパソコンと格闘していた。
僕はお昼まで、昨日の中上の映像を、確認のために再生していた。
お昼になったので、愛妻弁当と水筒を持って、屋上のベンチに向かった。
今日は中華チャーハンとチキンライスの二色弁当だった。ハートマークの中にチキンライスが詰められていた。
子どもたちは給食で弁当を作らなくてもいいのだから、こうして毎回ハートマークを考えるのは、大変だろうなぁと思った。そして、それを見られないように食べるのも大変だった。
弁当を食べて、安全防犯対策課に戻ったが、滝岡以外は誰もいなかった。滝岡はパンをかじりながら、パソコンと向き合っていた。熱中している時の滝岡は鬼気迫るものがあった。
そのうち、出かけていった者がパラパラと帰ってきた。僕はそれぞれの報告を聞いた。
緑川は、在宅している家では趣旨を説明して、不在の家には携帯で電話をして、簡単に話をして防犯マップを郵便受けに入れてきた、と言った。
時村は、在宅している所だけマップを渡しながら説明をして、いない所は、夕方訪ねてみると言っていた。
岡木も時村と同じだった。
鈴木と並木は、いる所では説明をして、いない家には説明をした文書と共に防犯マップを郵便受けに入れてきたと言った。
僕は「お疲れ様。これで、安全防犯対策課でできることはやったことになる」と言った。
僕はデスクの椅子に座って考えた。
これで、いずれ中上の所にも回覧が回っていく。ということは、警察も警戒を強めていることが自ずと分かるはずだ。そうなれば、当分、大人しくしていてくれるだろう。
こればかりは願うしかなかった。
退署時間になったので、緑川に声をかけて、安全防犯対策課を出た。
家に着くと、出迎えてくれたきくが「ききょうと京一郎が来週の水曜日に保護者参観日があるというプリントを持ってきました」と言った。
「今まではお袋と行っていたよね」と僕が言うと、「ええ、そうなんですけれど、お義母様は、あいにくその日、お医者様に行かなくちゃならなくて、行けないって言うんです」と言った。
「お袋はどこか悪いのか」
「いいえ、そうじゃあ、ありません。健康診断だと言ってました」
「そうか。だったら、きくだけで行けばいいじゃないか」
「そうなんですけれど、一人で行くのは初めてなので心配です」と言った。
「プリントに書いてある通りにすれば、いいじゃあないか。それに分からなければ、誰かに訊けばいい」と言った。
「それはそうですけれど」
「何事もやってみることだ。心配していても始まらないよ」
「それもそうですね」
きくにとっては、保護者参観日も一大事なのだ。僕にとって、防犯等を警告する回覧板が中上の所に回るように。