小説「真理の微笑」

十五

 次の日、体温と脈拍を測りに来た看護師に起こされた。午前七時を少し過ぎた頃だった。

 昨夜は何時に眠ったのだろうか。窓の外が明るくなり出した頃だった記憶がある。

 夢の中で、私は夏美や祐一と食卓で歓談していた。たわいもない話だった。たわいもなかったが、それが可笑しかった。私も夏美も祐一も笑っていた。だが、どんな話だったか、どうしても思い出す事はできなかった。

 八時に朝食が運ばれてきた。

 スプーンには慣れたが、食器の蓋を取るのは難しかった。看護師が全部の蓋を外してくれた。普通なら、一口食べたら別のおかずを食べるのだろうが、食器をずらしながら食べるのでは、それは面倒だった。一つの食器を口の下に持ってくると、スプーンで掬ってそれを全部食べた。そして、食器をずらしながら次のを持ってきた。その様子を看護師はずっと見ていた。

「もう少しゆっくりと食べるといいですね」と言った。私は一つのおかずを飲み込むように食べていたのだ。食材がすべて砕いてあった事も影響していたが、もともと私は早食いだったのだ。だから、数分で食べ終わった。その後、何種類かの薬を飲んだ。

 私はベッドを倒し、毛布にくるまった。食事をとるようになってから、点滴はなくなった。左腕にしていたから、それだけでも少しは拘束感が取れた。水をこまめに良く飲むようにと言われた。

 私は少し眠ったようだ。午前十時半を少し過ぎた頃、真理子が来た。祐一が大きな口を開けて笑っているところで目が覚めた。何がそんなに可笑しかったのだろう。

「起こしてしまったわね」と真理子は私の頬を撫でて言った。

「いや、いいんだ」

 私は電動ベッドを起こした。もう、そうするのが習慣になったかのように、真理子は顔を寄せてきた。私は真理子に口づけした。

「あなたの指摘通りだったようよ。昨日、泊まり込んだ人もいたくらい。すぐに修正プログラムを作るって張り切っていたわ」

「そう」

「でも、やっぱり不思議よね。プログラムの事は覚えていたのね」

 記憶の話になると、ドキッとした。

「他の事は忘れてしまったようなのに……」

 真理子が私の目を覗き込むようにして、そう言った。

「でも、それでいいと思っているのよ」

 言葉にこそしなかったが、「何故」と訊きたかった。

「新鮮だもの」

 真理子は私の腰近くのベッドに座って「まるで新婚時代に戻ったようだもの」と続けた。

 

 真理子が「また夕方来るね」と言って出て行くのと、引き換えるように看護師が入ってきて、「包帯を取り替えましょうね」と言った。

 二日に一度、包帯を取り替えた。その度に熱いタオルをいくつか用意していて、それで躰を拭いた。腕を見たが、ケロイドのようになっていた。顔や指のように綺麗にはなっていなかった。胸の方はよくは見えなかったが、やはりケロイド状になっているのだろう。

「明日は頭を洗いますからね。シャンプーすると気持ちいいですよ」と言った。

 頭髪は二、三センチほど伸びていた。髭は、少し伸びていたので、看護師が電動髭剃りで剃ってくれた。その後で、熱いタオルを顔に被せられ、拭われた。

 包帯を取り替えたら、昼食になった。

 看護師が私の食べるところを見ていた。変な食べ方をして、気管に食べ物が入らないか注意して見ていたのかも知れない。味噌汁にもほうじ茶にもやはりとろみがついていた。

 食べ終わると薬を飲んだ。

 腕の上げ下げをしてみた。以前よりはスムーズにできた。ただ、肘にはプラスチックの器具が付けられていて、少しは動かせるが、まだ自由に曲げる事はできなかった。

 

 真理子がいつもより早い時間に来た。午後三時を少し過ぎた頃だった。

「どうしたの」と言ったつもりだった。他の人なら、喉がゴロゴロ鳴っているようにしか聞こえないだろうが、真理子にはこれで通じた。

「修正プログラムは今週中には出来るそうなのよ。で、それをどうしたらいいのか、迷っているようなの」

 そうなのか、と思った。

「もちろん、ユーザー登録してくれている人には、修正プログラムを送付すればいいんだけれど、皆が皆、ユーザー登録しているわけじゃないし、すでに出荷した分についてはどうするんだっていう事になっているの。回収して配布し直すには、かなり刷り増ししているから大変だって」

 真理子が早く病室を訪れた理由が分かった。そして、社内の混乱ぶりも。

 私は笑った。仕込んでおいたトラップに見事に引っかかり、その収拾に大慌てしている様が思い浮かぶようだ。ざまあ見ろっていうんだ。可笑しくてしょうがなかった。

 真理子は私が笑っているのを見て意外に思ったようだった。それはそうだろう。こんな時に笑うなんて、普通ではあり得ないからだ。

 真理子は早く何とかしなければならないと思って、病室を訪ねたのだろう。しかし、私が慌てていない事を意外に思うと同時に安心もしたようだった。

「何か考えがあるのね」

 私は頷いた。

「プログラムを担当している者と営業の責任者を呼んでくれ」

「わかったわ。電話してくる」と真理子は病室を出て行った。病院では電話できる場所が限られていた。しばらくして、真理子は戻ってきた。

「すぐに来るって」

 三十分ほど待っただろうか。三人が病室に駆けつけた。

 二人はこの間来ていたプログラマーだった。名前は何とか言っていたが、覚えていなかった。もう一人は営業部長の田中であると真理子が説明した。

 真理子にメモ用紙を取ってもらうと、箇条書きにした。

『一、ユーザー登録しているお客様には、修正プログラムを送る。

二、今出荷している分は、修正プログラムを添付する。これは外箱に貼り付ける。

三、フロッピーディスクを付録にしているパソコン雑誌に修正プログラムを載せてもらうように頼む。

四、そうでない雑誌には、修正プログラムの入手方法を掲載してもらう。

 三と四は、広告費をはずめば何とかしてくれるだろう。』

 上手くしゃべれない私は真理子を介して、メモした事も含めて事細かに二時間ほど説明した。営業部長の田中には、出版関係の方をくれぐれも頼むと指示をした。方針さえ決まれば、彼らは上手くやってくれるだろう。プロという者はそういうものだ。

 そうこうするうちに、六時になり、夕食が運ばれてきた。そこで、彼らは帰っていった。真理子だけが残った。

「この前もそう思ったけれど、今まであなたの仕事ぶりを見て来なかっただけに、今度もやっぱり目の当たりにすると凄いわね。事故に遭ったなんて思えないぐらい」

「そんな事はないさ。田中の顔も覚えていないんだから」

「そんなの気にする事ないわ。そのうち思い出すわよ。いいえ、思い出さなくても覚えていけばいいのよ」

 真理子の「いいえ」の後の言葉が、私にはずっしりと来た。そうだ、これからは一つ一つ覚えていくしかないのだ。

 夕食は真理子に手伝ってもらって食べた。どれも薄味で、実際のところ、美味しくはなかった。それで、つい「真理子の手料理、食べてみたいな」と言ってしまった。言ってしまってから、真理子と呼んだ事にドキドキした。他の者が聞けば、彼女の手料理を食べた事のない者が言っているようにも聞こえたはずだが、真理子はそうはとらなかった。そんな風にとれるはずもなかった。

「嬉しい事を言ってくれるのね」

 あまりに病院食がまずかったので、私は余計な事を言ってしまった、と思っていた。

「そんな言葉、久しぶりよ。初めてわたしの作ったものを食べてみたいと言った時以来かもしれない」

「そうだったかな」

「ええ、そうよ。女はそういう事は、はっきり覚えているものなの」

 そうなんだと聞きつつ、言葉には注意しなければいけない、そう思った。過去や思い出につながる事はできるだけ控える事、そう肝に銘じた。

 

 消灯時間になると、私は富岡という仮面の下からでも高瀬に戻っていた、或いは戻ろうとしていた。

 夏美と祐一の事が気がかりでならなかった。どうしているのだろう。連絡を取りたいと思ってもそれができなかった。

 まず、第一に私は今はベッドから自由には出られない。仮に出られたとしても、どうやって連絡を取ればいいのだろう。

 電話か。今の私の話し方では、誰が電話を取っても言っている事を正確に聞き取る事はできないだろう。それに声からしても私だとは分からないに違いない。いたずら電話だと思われるのが関の山だ。

 問題はそれだけではなかった。話す事ができたとしても、何て言えばいいのか。

 私が生きている事を知れば、会いたいと言うに決まっている。だが、今の私は夏美にも祐一にも会う事はできない。会ったとしても、私だとは分からないだろう。

 それに何て言えばいいのだ。私は人を殺したとでも言うのか。そんな事できるはずもなかった。だったら、人殺しの夫や父を持つよりも、失踪していた方がましだろう。

 …………

 浅い眠りに落ちた。

 霧の中、森にいた。埋めたはずの穴の土を手で掻き出していた。

 そのうちに、泥だらけでひどく傷ついた人の顔が地中から現れた。そして、その顔はみるみるうちに傷が治り、突然、目を開いた。

 そこで目が覚めた。ひどく寝汗をかいていた。

 確かに、その泥だらけではあったが傷の治った顔を見た。しかし、それが一体誰だったのか、起きた途端に分からなくなっていた。常識的に考えれば、富岡のはずなのだが、何故か高瀬である自分の顔のような気がしてならなかったのだ。