十四
真理子が帰っていった後は、不思議な気持ちでいっぱいだった。
自分は真理子を好きになっている。いくら否定してもこれはもう確実な事だった。あのキスがそれを決定的にした。しかし、相手は自分が殺した男の〈妻〉だった。
一方、(株)TKシステムズは窮地に陥っているに違いなかった。新作ソフトにつぎ込んだ開発資金は、そのまま借金になっているだろう。
夏美と祐一はどうしているだろう。突然、失踪した夫、父を捜している事だろう。
会社はどうなったのだろう。社長も専務もいなくなってしまったのだ。どうする事もできないに違いない。もう破産手続きに入っているのだろうか。社員はどうしたのだろうか……。果てなく、疑問は続く。
点滴は続いていたが、流動食は食べられるようになっていた。二ヶ月近くの間に随分と痩せてしまっていた。両腕と足のギプスは取れた。まだ歩くまでには至っていなかったが、理学療法士がやってきて、躰の各部分をもみほぐし、軽く腕の上げ下げや足の屈伸をした。
その間に長野から刑事が二人やってきた。事故の事を訊きに来たのだった。二度目だと真理子から聞いた。前回は面会謝絶だったので、その時は、真理子が知っている事を語っただけで引き取って貰ったそうだ。
だが、今回も私は話せなかったし、記憶がない事を何とか伝えた。手続き上の事だからという事で、それで済んだ。
刑事が来ていた時には、終始、真理子がついていて、私の動作で何とか会話を成り立たせた。
刑事が帰ると、真理子は「全くいやね。手続き上の事なら、何もここまで来る事なんてないのに……」と言った。
全くだ、と私も思った。ただ、真理子と違って、私には警察を恐れる気持ちがあった。本当に手続き上の事なのだろうかという疑いを持っていたのだ。単なる手続きに刑事が来るだろうか、とも思った。しかし、それ以上考えても仕方がなかった。
『会社の方はどうなんだ』
私はまだ上手く話せないので、下手な文字で筆談した。
「売上は順調よ。もう凄いの。もうすぐ一万本売り上げるそうよ」
『いい事じゃないか』
「そうでもないの……。バグが見つかったそうなの」
コピー&ペーストを一度に何度か続けると、フリーズするんだろう、と思った。いったんプログラムを終了させて起動し直せば、直るのだけれど、コピー&ペーストした部分は当然残らない。私がβ版にわざと仕掛けたバグだった。それを修正するのは簡単だった。ある一行を削ればいいだけだった。
『そのバグがどこか、分かれば修正できると思う』と書いて、メモを渡した。
「そうなの」
私は頷いた。
「やっぱり、あなたは凄い」
自分が携わったプログラムだ。分からないわけがない。修正するプログラムを配布しなければならないが、一万本も売れたとなればその費用なんて高が知れている。
『明日、デバッグをやっている誰かを連れてきてくれ』
「デバッグって」
『ソフトのバグを発見し修正する事。今、デバッグをやっている人を連れてきて欲しい』
社員の名前を知らない私には、真理子にそう伝えるしかなかった。
「わかったわ」
そう言った後、ほどなくして真理子は帰っていった。私はその後ろ姿を目で追った。
すでに分かっていた事だが、バグが見つかった事で(株)TKシステムズが作ったソフトをトミーソフト株式会社が盗用した事が、完全にはっきりした。しかし、いまだに何故、北村が自分たちが作ったソフトを富岡に渡していたのか、その理由が分からなかった。私に不満でもあったのだろうか。考えてみたが、思い当たる事はなかった。記憶をいくら辿っても答えは見つからなかった。
次の日、朝食を終えた頃に、主治医の回診があった。何人かの医者を従えていた。いつも説明に来る医者もその中に交じっていた。
「気分はどうです」
看護師にカルテを渡されながら訊いた。
私は「いいです」と言おうとした。ガラガラな声でも「いい」という言葉をなんとか発する事ができた。
「あなたがここに運ばれてきた時は、重度の上半身火傷で、普通はそれだけでも助からない場合があるのですよ。でも、最初に搬送された病院の処置が良かった。そして全身が打撲状態でした。手足の骨はもちろんの事、関節もほとんど砕けていました。何より、深刻だったのが内臓です。腎臓は一時は透析も考えたくらいでしたが、何とか助かりました。でも肝臓の損傷がひどく、一時は危篤状態にまで陥ったのですよ。でも、あなたは生命力の強い方だった。意識はなかったかも知れませんが、ちゃんと怪我に立ち向かったのです。そして、闘って勝った。顔は、ほとんど原形を留めていないくらい複雑に骨折していて、あなたの写真をもとに何とか前の顔に戻しましたが、顔の細かな神経を全部治す事はできませんでした。だから、思ったようには表情を作れないでしょうが、それが今の医学の限界です。それから、手は上手く皮膚移植できたので、手首から先はケロイド状にはなっていません。顔と手以外はケロイドが残るでしょう」
私は、いかに自分が死の淵から脱して、今の状態にまで回復する事ができたのかという説明を黙って聞くしかなかった。
「言葉の方は、時間はかかりますが、そのうち話せるようになります。もうしばらくしたらその訓練が始まります。声帯は随分と損傷していましたが、なんとか声帯を取らずに済みました。しかし、おそらく全く元の声に戻るというわけにはいかないでしょう」
私は、声についてはどういう事なのか分からなかったが、反射的に頷いた。
「まずは、体力をつけましょう。今日から流動食ではなく、ちゃんと食べられる食事が出ます。お昼から食べる練習をする事になります。来週には車椅子にも乗れますよ」
そうなれば、看護師付きだが、トイレにも行けると告げた。慣れたら廊下を押してもらって散歩もできると話した。
「とにかく順調です。血圧も安定している。リハビリには時間がかかるでしょうが、少しなら松葉杖を使って歩けるようにもなりますよ」
彼は周りの医者に何か言って、「では、これで」と言って去って行った。
それと入れ替わるように、真理子が入ってきた。
「連れてきたわよ」
見知らぬプログラマーが二人、真理子の後ろに立っていた。大きな鞄を提げていた。その中に、数千頁からひょっとしたら一万頁にも及ぶプログラムデータが打ち出されて入っているのだ。
彼らはキョロキョロするように病室に入ってきた。真理子が椅子を勧めて、彼らは座った。真理子も私の隣に座った。
私は半身を四十五度ぐらいに起こしていたから、座った真理子の顔が近かった。二人のプログラマーがいなければ、口づけするかも知れなかったほどにだった。
「あ、あの~」
近くに座った方が口を開いた。そして、不器用な言い方で、どうバグっているのかを説明した。やはりコピー&ペーストを一度に何度も繰り返すとフリーズするようだった。
「どうしてそうなるのか、さっぱり分からないんですよ」
もう一人が言った。
「続けて、コピー&ペーストをしなければ大丈夫なんですけれどね。それでバッファに問題があるかと思ったんですが……」
年長らしい、近くに座っている方がその後を引き取って続けた。バッファとは、メモリ上にデータを一時的に蓄えておく場所の事を意味する。コピー&ペーストするには、コピーしたデータをメモリ上に置いておかなければならない。そこをクリップボードという。そうしてから別の場所にペーストする。通常のコピー&ペーストでは、次にコピーするとき、前のデータを消去して書き換えていたが、今はクリップボードに拡張機能を使って前のデータを残したままでもコピー&ペーストをする事ができる。これが便利なのは、一度、コピーしたデータをもう一度使いたいとき、コピーしたデータの履歴の中からペーストしたいデータを選択する事ができる事だった。コピーを残すデータについては回数かデータ量を決めておけばいい。
フリーズするのは、一度に連続してコピー&ペーストする事が原因なのだから、彼らはバッファのあたりに問題があると思ったのに違いなかった。当然、普通はそう思う。
開いたプログラミング言語のデータファイルではそのあたりが一番手垢がついていた。
だが、そこじゃないんだな、と私は思った。
トミーソフト株式会社の製品のプログラムを知らないから、問題の箇所を探すのに苦労した。一時間ほどプログラム言語の渦の中にいた。そんな時でも(株)TKシステムズで慣れ親しんだ文字列に出会うとホッとした。やがて、何冊かに分冊されたファイルの中から、ついに該当箇所を見つけ出した。一人に赤のポールペンを出させて、ある一行を○で囲った。
『これを削除してみろ』と、その○で囲った隣の余白にそう書いた。
二人は「えっ」と驚いた声を出した。それはソフトがメインメモリに読み込まれるその場所にあったからだ。
「試してみろ」と、私がゴロゴロする声で言ったのを、真理子が通訳した。
「分かりました」
二人はファイルをしまうと帰っていった。
その様子を見ていた真理子は、顔を近づけると「凄いわね。なんだか、前より鋭くなった感じ」と言って、今度も真理子の方から唇を重ねた。
私はその柔らかい唇の感触を楽しんだ。そして、私は舌を真理子の口に入れた。その瞬間、真理子はちょっと驚いたようだったが、すぐに応じた。真理子が何に驚いたのかについては、深く考えなかった。とにかく、永遠にでも続けていたかった。
だが、ドアがノックされて、「昼食です」と看護師が入ってきた。
慌てて離れた真理子は、私のベッドの上に移動式のテーブルを持ってきた。運ばれてきたお膳はその上に載った。六種類の器があった。
私はベッドの角度をさらに起こして、背中をベッドから離した。
蓋を開けようとしたが、指が上手く動かなかった。文字は書けるのに……と思った。
「わたしがやるわ」
真理子がそう言った。看護師は、お願いしますね、と言って出て行った。
スプーンは何とか掴めた。それで「何にする」と、真理子が訊くので「煮物がいい」と答えたつもりだった。上手く話せなかったが、真理子には私の言いたい事が伝わった。
真理子がおかずの入った皿を顔のすぐ下まで持ってきた。おかずは細かく砕いたものを成形したような感じだった。成形された煮物のようなものはスプーンで掬えた。口に入れるとすぐに崩れた。そして喉を滑り台のように通っていく。
味噌汁は、とろみが付けられていた。意外な事にそれが番茶にもだった。
お粥を半分食べたところで食欲がなくなった。
「もう少し食べなくちゃ」
「いや、もういい」と、しゃべりにくいところをなんとか言い、私はスプーンを置いた。
「わかったわ。でも、なるべく食べて力をつけてね」
私は頷いた。
真理子が帰っていくと急に寂しくなる。どうしてだろう。分かっていながらそう思った。
夕方に来ると言っていた。数時間の辛抱だった。
今日、ファイルを見ていて改めて思った事だが、トミーソフト株式会社用にカスタマイズされてはいるが、あれは紛れもなく(株)TKシステムズのワープロソフトだった。今までのワープロソフトと違って画期的なのは、文書の中に罫線を引いて表を作れば、その表はまるで表計算ソフトのように扱える事だった。トミーソフトが手を加えていたのは、もう一つの機能の方だった。それはファックスをプリンター代わりに使えるようにする事だった。これで文書をプリントアウトしなくても直接相手のファックスに送信する事ができる。ただ、問題はこちらのパソコンが電話回線に繋がっていなければならないという事だった。パソコン通信がようやく流行り出していた頃だった。電話回線に繋がっているパソコンはそう多いとは言えなかったが、使える機能である事に違いはなかった。
次のワープロソフトについては、アイデアはいっぱいあった。表計算もどきのような機能を付けられたのだから、次のバージョンでは住所録を付けて、差し込み印刷機能を使って、年賀状なども作れるようにしたらどうだろうかと思っていた。今は年賀状ソフトは別に売られている。結構、いい値段がしていた。これらを合体したら売れるに決まっている……と思った。だが、その製品は(株)TKシステムズではなく、トミーソフト株式会社から出る事になるのだ。アイデアを思いついても、釈然としない思いが抜けなかった。
それにしても、今日の事で分かった事だが、車を運転してから目覚めるまでの記憶は曖昧だったが、それ以外の記憶、例えばプログラムもすぐに理解できた。と、そこまで考えてきて、今日はやり過ぎたのかも知れないと思った。私は富岡を知らない。富岡がこのソフトの開発に携わっていたとは限らないではないか。いや、むしろアイデアだけ出して、後はプログラマーに任せていたのではないか。プログラミングなんて自分ではできないに違いない。その方が私のイメージする富岡に合っていた。
そうだとしたら、あの社員たちは、私が膨大な資料の中から、どうやってバグの在処を見つけたのか、不思議に思わなかっただろうか。いや、そう思ったに決まっている。彼らが見せた驚きの表情は、それを物語っていたのではなかったのか。
迂闊だった。
資料をただ置いていかせれば良かったのだ。そして、後日、このあたりは試したのか、ぐらいにしておけば良かった。何故、ああも易々とバグの在処を教えてしまったのだろう。
…………
答えは分かっていた。真理子がいたからだ。真理子の前でいいところを見せたかったのだ。不用意にも、そのために愚かな危険を冒してしまった。
夕方、真理子がやってきた。自分の気持ちが明るくなっていくのが分かった。
「ちょっと、会社に寄ってきたけれど、あなたの指摘、どうやらいけそうよ。何となく活気づいていたもの。でも、不思議よね。ソフトの事だけ、どうして覚えていたのかしら。まして、あなたがプログラムをわかるとは思ってもいなかったわ」
その言葉で明るくなった気持ちは萎んでいった。痛いところを突かれて言葉もなかった。
「それにね」と言い始めて、彼女は少し顔を赤らめた。
「キスしたの、どれくらい前になるのかしら。この前はついそうしてしまったけれど……」
血の気が引いていくのが分かった。しまった、と思った。結婚してすぐならともかく、しばらく経っていたとしたら、それほどキスをするだろうか。それにキスには個性が出る。
夏美を思い浮かべた。祐一ができてから、キスらしいキスをしただろうか。少なくとも結婚前のようなキスはしていなかった。
だが、真理子とは婚約したばかりの恋人同士のようなキスをしていた。唇を重ねる事にどれほど心が弾んだ事だろう。その時、キスに内在する個性について考えていたのか。
「あなた、そんな顔をしないで」
真理子は私の腕をとって言った。
「この前も今日も嬉しかったの。ほんとよ」
「…………」
「出会った頃のあなたを思い出していた」
真理子は私を抱き締めるようにし、頭を胸に押し当てた。
私は心の誘惑に負け、そんな真理子を抱き締めた。そしてたどたどしく言った。
「記憶を失った事で、初めて出会った頃のような気がしている」
下手な言い訳のような気分だったが、「そうね。そうよね」と、胸のあたりから聞こえて来る真理子の言葉が心地良かった。その心地よさに浸っていたかった。
真理子のような女性から、心を寄せられている事が分かっていて平気でいられる男がいるだろうか。私にはできなかった。富岡の仮面を被っている事を忘れ、真理子とキスをした。とろけるような時間だった。富岡とは違うキスをしていても構うものかと思った。
だが、それも永遠には続かなかった。ドアがノックされ、今度は夕食が運ばれてきた。
真理子はベッドに移動式のテーブルを持ってきて、看護師がそこに夕食の膳を置いた。
真理子がウィンクして笑った。昼食の時と同じだったからだ。
やはり真理子が帰っていくと寂しくなった。私は真理子に恋をしていた。だが、私は彼女の夫を殺した男だった。その事が消えて無くなるわけでもなかった。いつまでもこの状態が続くとは思えなかった。どこかで破綻する。それまでの儚い夢なのだ、と思った。
心が落ち着いてくると、夏美と祐一の事が思い出された。真理子と違って、美人ではなかったが、愛嬌のある顔をしている夏美の困惑している顔が浮かんだ。もう二ヶ月ほども私は失踪している事になっている。(株)TKシステムズはどうなっているのだろう。次のソフトの発売に向かって動き出していただけに、混乱しているに違いなかった。
会社がどうなっているのか、知りたかった。だが、ベッドにいる自分にはどうする事もできなかった。思いだけが広がっていった。
中島や岡崎はどうしているのだろう。まだ、会社に残っていてくれているのだろうか。それとも……。疑問だけが次々に湧き起こり、眠れなかった。