十六
朝餉が済むと、肌着を着て、昨夜、干した着物を着た。床の間から刀を取ると、帯に差した。その格好で玄関に向かうと、「袴を穿かれた方が良さそうですな」と木村彪吾に言われた。
「私には、これしか着る物がなくて」と言うと「今、持ってこさせます」と言った。
僕は女中が持ってきた袴を穿いた。
「では、出かけましょうか」と言った。
木村彪吾は籠に乗り、僕はその脇を付いていった。
城下に入ると、広々とした堀があり、橋を渡って、門の所に来た。一旦、籠が降ろされ、木村彪吾が顔を出すと、門番は頭を下げた。そのまま、籠は城内に入っていった。
僕は下足番に案内されて、玄関に入り、草履を渡した。そして、若い侍に本差を渡すと、座敷に案内され、「ここで待つように」と言われた。
半時ほど待つと、先程の若い侍が来て、「こちらへ」と言われた。彼に従って、廊下を進むと、広い中庭が見えてきた。そこを半周ばかりすると、前室らしき所に通された。そこの部屋の中央に座るように言われたので、その通りに座ると、襖が開けられた。
広い部屋だった。奥に一段高い座敷があり、そこに鷹岡彦次郎が座っていた。
一段下の広い座敷には、左右に大勢の侍が座っていた。
一番端の侍が「中程まで出ませい」と言うので、僕は大広間の中央に進み、そこに座ると、手を畳について頭を下げた。
「顔を上げい」と近くの侍が言った。
僕が顔を上げると、「その方が鏡京介か」と鷹岡彦次郎が訊いた。
「はい。私が鏡京介です」と答えた。
「そちは真剣白刃取りができると、木村彪吾から聞いたが、まことか」
「はい。まことでございます」
鷹岡彦次郎が「見せては貰えぬか」と言うので、「もちろん、お見せします。そのために参りました」と言った。
「では、早速、見せて貰おう」と鷹岡彦次郎が言った。
「その前に準備をさせて頂けますか」
「構わぬ」
「袖が邪魔にならぬように、たすき掛けをしたいと思います。たすきのご用意をお願いします」と僕が言うと「誰か、たすきを持って参れ」と鷹岡彦次郎が言った。
まもなく、若い侍がたすきを持ってきた。
僕はそれでたすき掛けをして、袖をしまった。
「準備ができました」と言った。
「では、始めよ」と鷹岡彦次郎が言った。
「ちょっと、お待ちください。真剣白刃取りには、切り付けてくる相手がいります」
「そうなのか」
「はい」
「では、誰かに相手をさせよう」と鷹岡彦次郎が言うと、僕はすかさず「若年寄の佐野五郎様にお願いしたいと思います」と言った。
鷹岡彦次郎は「佐野五郎、お前はどうじゃ」と訊くと、「わたしに異存はありません」と答えた。佐野五郎は、眼光の鋭い、かんしゃく持ちの顔立ちをしていた。
僕は「万一のことがあってはなりませんので、お庭で真剣白刃取りをしたいと思いますが、いかがですか」と訊くと、鷹岡彦次郎は「構わぬ。庭で致せ」と答えた。
「では、庭に移らせて頂きます」と僕は庭に下りる廊下に出た。
「足袋のまま、庭に下りさせてもらいます」と言って、用意されていた草履を履かずに、足袋のまま、白い石が敷き詰められた庭に下りた。
若年寄の佐野五郎は草履を履いて、庭に出た。背丈は百六十五センチメートルほどであろうか。僕より、十三センチメートルほど低かった。
「どなたか、佐野に本差をお貸しください」と僕が言うと、鷹岡彦次郎が「余の物を使え」と佐野に渡すように侍従に言った。侍従は鷹岡彦次郎の本差を持つと、佐野に渡した。佐野はそれを帯に差した。
「佐野殿、本差をお抜きになられよ」と僕が言った。
佐野は頷いて本差を抜いた。
「そのまま上段にお構えになり、合図をしたら、私を頭から切り落とすつもりで刀を振り下ろしてください」と僕は言った。
佐野は「本気で打ち下ろすがいいのか」と訊いた。
「大丈夫です。そのまま振り下ろしてください」と答えた。
僕は素手で、佐野は本差を上段に構えた。
「いざ、来られよ」と僕が言った。
佐野は思いきり、刀を振り下ろした。その刀の腹を両手の平で押さえ、峰の部分を両方の指で組み合わせて、打ち下ろされた刀を頭上で受け止めた。そして、両手を捻って、佐野から本差を取り落とさせた。
それを見ていた鷹岡彦次郎が真っ先に拍手をした。そして、次々と拍手は起こった。
「凄い、凄い。聞きしに勝る凄さだ」と言った。
僕は佐野に一礼し、鷹岡彦次郎に向かって深々と頭を下げた。
すると「鏡京介」と鷹岡彦次郎から声をかけられた。
「わしはそちの真剣白刃取りに感服した。そこで頼みなのだが、もう一度、見せてはくれまいか」と言われた。
「佐野様相手でございましょうか」と僕が訊くと、「いや、もっと腕の立つ者の刀を受けて欲しい」と答えた。
「真剣白刃取りは、そう容易い技ではございませんが」と言うと「わかっておる。今、見て、それがわかった。そうなると、当藩きっての使い手相手に、真剣白刃取りをして見せてもらいたいものじゃ。どうであろう」と言った。
「そう、おっしゃられても」と僕が言葉を濁すと「定国を持って参れ」と侍従の者に言った。
しばらくして、鷹岡彦次郎の元にいかにも高そうな本差と脇差二本が置かれた。
「これは定国という刀工が作った名刀である。もし、わしの指名する相手と真剣白刃取りをしてくれるのであれば、これをそちにやろう」
「それは分かりましたが、失敗をしたら、目付の木村様の屋敷に残してきたきくという女子と我が子ききょうが途方にくれます」と僕は言った。
「もし、失敗をしても三百両を遣わす。木村彪吾、もし鏡京介が失敗した後のことは任せられるな」と訊いた。
木村彪吾は「もちろん、お任せいただきます」と答えた。
「どうだ、鏡京介。やってくれぬか」と鷹岡彦次郎は訊いた。
「分かりました。そこまで、おっしゃって頂けるなら、お受けいたします」と答えた。
「では、相手の者だが、誰かおらぬか」と鷹岡彦次郎は言った。
「ここにはおりませぬが、御指南役の坂岡十兵衛殿をお呼びになられればどうでしょう」と誰かが言った。すると、周りの者が「そうだな」「それがいい」と言った。
「それでは、坂岡十兵衛を呼んで参れ」と鷹岡彦次郎は言った。
「それまで、鏡京介は休んでおれ」と言った。
僕は、庭の廊下に腰を下ろした。
その脇を通り、若年寄、佐野五郎が、上がり石で草履を脱ぎ、広間に上がっていった。
やがて、指南役の坂岡十兵衛がやってきた。すらりとした長身だった。それでも、僕より五センチほど背が低かった。
坂岡十兵衛は鷹岡彦次郎の前に出ると、一段低くなった広間に座り、平伏した。
「そちを呼んだのは、他でも無い。この鏡京介と真剣白刃取りをしてもらいたいからじゃ」と鷹岡彦次郎は言った。
坂岡十兵衛は「鏡京介という名は、剣術をしておる者なら知らぬ者がいないほど有名でございます」と言った。
鷹岡彦次郎は「どのように有名なのじゃ」と訊いた。
坂岡十兵衛は「白鶴藩では飛田村の山賊を退治したとのこと、また黒亀藩では、その藩の名物の二十人槍とその藩の指南役氷室隆太郎を破ったという話(「僕が、剣道ですか? 2」を参照)が伝わっています」と答えた。
「それは凄いことなのか」
「はい。わたしはそう思います」と坂岡十兵衛は言った。
「では、その有名な鏡京介の真剣白刃取りの相手をしてもらいたい」と鷹岡彦次郎は言った。
「わかりました。して、その鏡殿はどちらにおられますかな」と鷹岡彦次郎に訊いた。
鷹岡彦次郎は「庭におる。そこの廊下で腰をかけているのが、鏡京介だ」と言った。
坂岡十兵衛は廊下に腰掛けている鏡京介を見て、「あの者が鏡京介殿でしょうか」と鷹岡彦次郎に訊いた。
坂岡十兵衛は「わたしが聞いている鏡京介殿は、五年前、十七歳か十八歳と聞き及んでいます。しかし、今見ると、わたしが聞き及んでいる五年前の十七歳か十八歳の鏡京介殿にしか見えません」と答えた。
鷹岡彦次郎は「それは面妖な話じゃな。それは、真剣白刃取りが済んだ後で、訊くことにしよう。とにかく、鏡京介の相手をしてくれ。刀は持ってきておるか」と訊くと「持参して参りました」と答えた。
鷹岡彦次郎は「では、庭に下りて、鏡京介の相手をしてやってくれ」と言った。
「はは」と坂岡十兵衛は平伏した後、刀を持って立ち上がり、庭へと向かった。
庭に下りる所に置かれた平たい大きな石の上に草履が置かれていた。
坂岡十兵衛は、その草履を履くと、庭に敷かれた石の上に足を乗せた。
庭は白く丸い石が敷き詰められていた。
一歩踏み出す度に、ジャリという石同士のぶつかり合う音がした。
僕は庭の廊下から立ち、庭に下りていた。
坂岡十兵衛と相対してみると、その腕の良さが分かった。
僕が「鏡京介と申す」と言うと、彼も「坂岡十兵衛でござる」と言った。
僕は「坂岡十兵衛殿、お願いがござる」と言うと「何でござろうか」と訊いてきた。
「私には、坂岡十兵衛殿の剣の速さが分かりません。そこで、私が真剣白刃取りを行う前に、坂岡十兵衛殿に真剣で素振りをして頂きたいのですが、お願いできますか」と言った。
「それなら、お安い御用でござる。今から、素振りをして見せましょう」と言った。
「よろしく、お願いします」と僕は言って、一歩、後ろに下がった。
坂岡十兵衛は、剣の柄に手をかけると、それは素早い動作で剣を抜き、上段に構えた。そして、一歩踏み込み、空を切った。なんとも鮮やかな腕前だった。そして、剣を鞘に収めた。
「これでいいですか」と訊くので「よく、見させて頂きました」と僕は答えた。
「では、始めましょう」と僕は言い、一歩前に進んだ。
「本気で打ち下ろすが、構わないのですね」と訊くので「ええ、本当に本気で全力で打ち下ろしてください」と僕は答えた。
坂岡十兵衛は剣を抜くと、上段に構えた。そして、じりじりと踏み込んできた。
僕は坂岡十兵衛の剣先を見ていた。
坂岡十兵衛は大きく一歩踏み込むと同時に、剣を僕の頭めがけて振り下ろしてきた。それは凄まじい速さだった。
僕は少ししゃがみ頭上で、坂岡十兵衛の剣の腹を両手の平で押さえ、峰を両手の指を組み合わせて、剣を掴むと、左に捻って、剣をもぎ取り、すぐにその剣を右手に持って、相手の喉元に突きつけた。
一瞬、静まり返った。
その後、鷹岡彦次郎が「お見事じゃった」と言って拍手をすると、他の侍方からも拍手が沸き起こった。
坂岡十兵衛は庭石の上に片膝をつけ、「拙者の負けでござる」と言った。
僕は、坂岡十兵衛に刀の柄を向けて、「鞘に収められよ」と言った。
坂岡十兵衛は刀を受け取ると、着物の前をはだけて、その刀で腹を切ろうとした。
僕は素早く動き、手刀で刀を打ち落とすと、その刀を拾い、僕の背の方に隠した。
「鏡京介殿、武士の情けでござる。刀を持たぬ相手に刀を取られて、喉元に自分の刀を突きつけられたのです。剣士として恥でござる。どうか、切腹させて頂きたい」と言った。
「いや、それはできません。これは、鷹岡彦次郎様のご命令により、私の相手をさせられたのに過ぎません。決闘や果たし合いではないのです。その場には、勝ち負けはございません」と言った。
それを聞いていた鷹岡彦次郎は「鏡京介の言うとおりだ。おぬしが切腹するいわれはない。切腹は許さぬ」と言った。
僕は坂岡十兵衛の様子を見て、再び、「鞘に収められよ」と言い、刀の柄を差し出した。
坂岡十兵衛は刀を受け取ると、それを鞘に収めた。そして、草履を脱いで、廊下に上がり、広間の端に座った。
この切腹騒ぎの件で、僕の年齢に対する疑義を、坂岡十兵衛は忘れてくれたので、良かったと僕は思った。
僕は侍従に雑巾を持ってきてもらい、足袋の裏を拭くと、廊下に上がった。そして、腰を低くして、広間の中央に進むと、鷹岡彦次郎に向き合うように座り、平伏した。
「頭を上げよ。鏡京介」と鷹岡彦次郎は言った。
顔を上げると、鷹岡彦次郎は「感服した。見事な技じゃった。この地でかような技を見られるとは思わなかった。褒美の定国じゃ。使いこなすが良かろう」と言うと、侍従の者が、三方に載せられた本差と脇差の二本の刀を、僕の前に持ってきた。
僕は、またしても頭を下げた。