小説「僕が、剣道ですか? 4」

十六-2

 僕は、庭の廊下に腰を下ろした。
 その脇を通り、若年寄、佐野五郎が、上がり石で草履を脱ぎ、広間に上がっていった。
 やがて、指南役の坂岡十兵衛がやってきた。すらりとした長身だった。それでも、僕より五センチほど背が低かった。
 坂岡十兵衛は鷹岡彦次郎の前に出ると、一段低くなった広間に座り、平伏した。
「そちを呼んだのは、他でも無い。この鏡京介と真剣白刃取りをしてもらいたいからじゃ」と鷹岡彦次郎は言った。
 坂岡十兵衛は「鏡京介という名は、剣術をしておる者なら知らぬ者がいないほど有名でございます」と言った。
 鷹岡彦次郎は「どのように有名なのじゃ」と訊いた。
 坂岡十兵衛は「白鶴藩では飛田村の山賊を退治したとのこと、また黒亀藩では、その藩の名物の二十人槍とその藩の指南役氷室隆太郎を破ったという話(「僕が、剣道ですか? 2」を参照)が伝わっています」と答えた。
「それは凄いことなのか」
「はい。わたしはそう思います」と坂岡十兵衛は言った。
「では、その有名な鏡京介の真剣白刃取りの相手をしてもらいたい」と鷹岡彦次郎は言った。
「わかりました。して、その鏡殿はどちらにおられますかな」と鷹岡彦次郎に訊いた。
 鷹岡彦次郎は「庭におる。そこの廊下で腰をかけているのが、鏡京介だ」と言った。
 坂岡十兵衛は廊下に腰掛けている鏡京介を見て、「あの者が鏡京介殿でしょうか」と鷹岡彦次郎に訊いた。
 坂岡十兵衛は「わたしが聞いている鏡京介殿は、五年前、十七歳か十八歳と聞き及んでいます。しかし、今見ると、わたしが聞き及んでいる五年前の十七歳か十八歳の鏡京介殿にしか見えません」と答えた。
 鷹岡彦次郎は「それは面妖な話じゃな。それは、真剣白刃取りが済んだ後で、訊くことにしよう。とにかく、鏡京介の相手をしてくれ。刀は持ってきておるか」と訊くと「持参して参りました」と答えた。
 鷹岡彦次郎は「では、庭に下りて、鏡京介の相手をしてやってくれ」と言った。
「はは」と坂岡十兵衛は平伏した後、刀を持って立ち上がり、庭へと向かった。
 庭に下りる所に置かれた平たい大きな石の上に草履が置かれていた。
 坂岡十兵衛は、その草履を履くと、庭に敷かれた石の上に足を乗せた。
 庭は白く丸い石が敷き詰められていた。
 一歩踏み出す度に、ジャリという石同士のぶつかり合う音がした。
 僕は庭の廊下から立ち、庭に下りていた。
 坂岡十兵衛と相対してみると、その腕の良さが分かった。
 僕が「鏡京介と申す」と言うと、彼も「坂岡十兵衛でござる」と言った。
 僕は「坂岡十兵衛殿、お願いがござる」と言うと「何でござろうか」と訊いてきた。
「私には、坂岡十兵衛殿の剣の速さが分かりません。そこで、私が真剣白刃取りを行う前に、坂岡十兵衛殿に真剣で素振りをして頂きたいのですが、お願いできますか」と言った。
「それなら、お安い御用でござる。今から、素振りをして見せましょう」と言った。
「よろしく、お願いします」と僕は言って、一歩、後ろに下がった。
 坂岡十兵衛は、剣の柄に手をかけると、それは素早い動作で剣を抜き、上段に構えた。そして、一歩踏み込み、空を切った。なんとも鮮やかな腕前だった。そして、剣を鞘に収めた。
「これでいいですか」と訊くので「よく、見させて頂きました」と僕は答えた。
「では、始めましょう」と僕は言い、一歩前に進んだ。
「本気で打ち下ろすが、構わないのですね」と訊くので「ええ、本当に本気で全力で打ち下ろしてください」と僕は答えた。
 坂岡十兵衛は剣を抜くと、上段に構えた。そして、じりじりと踏み込んできた。
 僕は坂岡十兵衛の剣先を見ていた。
 坂岡十兵衛は大きく一歩踏み込むと同時に、剣を僕の頭めがけて振り下ろしてきた。それは凄まじい速さだった。
 僕は少ししゃがみ頭上で、坂岡十兵衛の剣の腹を両手の平で押さえ、峰を両手の指を組み合わせて、剣を掴むと、左に捻って、剣をもぎ取り、すぐにその剣を右手に持って、相手の喉元に突きつけた。
 一瞬、静まり返った。
 その後、鷹岡彦次郎が「お見事じゃった」と言って拍手をすると、他の侍方からも拍手が沸き起こった。
 坂岡十兵衛は庭石の上に片膝をつけ、「拙者の負けでござる」と言った。
 僕は、坂岡十兵衛に刀の柄を向けて、「鞘に収められよ」と言った。
 坂岡十兵衛は刀を受け取ると、着物の前をはだけて、その刀で腹を切ろうとした。
 僕は素早く動き、手刀で刀を打ち落とすと、その刀を拾い、僕の背の方に隠した。
「鏡京介殿、武士の情けでござる。刀を持たぬ相手に刀を取られて、喉元に自分の刀を突きつけられたのです。剣士として恥でござる。どうか、切腹させて頂きたい」と言った。
「いや、それはできません。これは、鷹岡彦次郎様のご命令により、私の相手をさせられたのに過ぎません。決闘や果たし合いではないのです。その場には、勝ち負けはございません」と言った。
 それを聞いていた鷹岡彦次郎は「鏡京介の言うとおりだ。おぬしが切腹するいわれはない。切腹は許さぬ」と言った。
 僕は坂岡十兵衛の様子を見て、再び、「鞘に収められよ」と言い、刀の柄を差し出した。
 坂岡十兵衛は刀を受け取ると、それを鞘に収めた。そして、草履を脱いで、廊下に上がり、広間の端に座った。
 この切腹騒ぎの件で、僕の年齢に対する疑義を、坂岡十兵衛は忘れてくれたので、良かったと僕は思った。
 僕は侍従に雑巾を持ってきてもらい、足袋の裏を拭くと、廊下に上がった。そして、腰を低くして、広間の中央に進むと、鷹岡彦次郎に向き合うように座り、平伏した。
「頭を上げよ。鏡京介」と鷹岡彦次郎は言った。
 顔を上げると、鷹岡彦次郎は「感服した。見事な技じゃった。この地でかような技を見られるとは思わなかった。褒美の定国じゃ。使いこなすが良かろう」と言うと、侍従の者が、三方に載せられた本差と脇差の二本の刀を、僕の前に持ってきた。
 僕は、またしても頭を下げた。