小説「真理の微笑」

六十四

 大晦日、起きたのは昼を過ぎていた。昨夜というより、朝まで私は真理子を抱いていた。

 腕が痺れていた。何度、真理子の中に気をやった事だろう。何度してもしきれないくらい、真理子は魅力的だった。

 真理子の上げる、あの切ないような声がまだ耳の底に残っていた。

 真理子は私が起きると、恥ずかしそうに寄ってきてキスをした。

 疲れていなければ、また真理子を抱き寄せたかも知れなかった。

「お昼はどうする」

 そう真理子が訊いたので、「いいよ、真理子でお腹はいっぱいだ」と言った。

「嫌な、人ね」と真理子は媚びを含んだ笑いを返してきた。

「もう少ししたら、お蕎麦を買いに行くわね」

「うん」

「大きなエビ天も買ってくるわ」

「期待している」

「他に欲しいものある」

「いいや」

「そう」

「いや、真理子が欲しい」

 そう冗談を言うと、「また後でね」と真理子は言った。

「今日は眠らせないから」

「今日もでしょ」

「そうか」

「一緒に除夜の鐘を聞きましょう」

「そうしよう」

 

 真理子が出かけると、納戸に入った。そこは書庫にもなっていて、ここから真理子は一昨日はアルバムを取り出してきたのだった。幾つもの本棚があった。そして、一昨日の何倍ものアルバムもあった。これから全部、富岡の指紋を拭き取るのは不可能だと思った。だが、自分のこれからの人生をかけてそれをしなければならないのだ、とも思った。

 納戸の隅にゴルフバッグがあった。開けてみると、何本ものクラブが入っていた。グローブを嵌めていたとしても、そのクラブには富岡の指紋が至るところについている事だろう。私はタオルを取りに寝室に戻り、ゴルフクラブを取り出しては磨いた。

 真理子が帰ってきた。私は真理子が帰ってきた事に気付かなかった。

「何してるの」

 そう訊かれて、驚いた。

「シャフトを拭いていたんだ」と答えた。

「そう、そうよね」

「…………」

「あなた、去年まで、正月になると必ずゴルフに行っていたものね」

「そうだったのか」

「そう。新年の挨拶だとか言って、業界主催のゴルフ大会や友人に誘われたら、毎日出かけていったわ」

「今年は誘われないのか」

「友人、知人はあなたの躰の事は知っているから、ゴルフに誘ったりはしないわよ。業界からの招待状は、わたしが不参加に○をして出しておいたわ」

「そうなのか」

「でも、こういう事は覚えているのね」

「別に覚えているというわけではないが……」

 私はクラブを磨くのをやめて、ゴルフバッグの中にしまった。

 

 リビングのソファに座って、真理子を横抱きにしていた。

「あなた、変わったわね」

 真理子がドキッとする事を言った。

「死にかけたんだ。人生観も変わるさ」

「人生観ね」

「…………」

「人が変わったよう」

 また、ドキッとするような事を言った。

「俺は俺だ」

「それはそうね。でも、良い方に変わったと思うわ」

「そうか」

「まず、わたしに対して優しくなった」

「前から優しかったじゃないか」

「前の優しさは、偽りのような気がする」

「そんな」

「わたし、知っているのよ。あなたがいろんな女と付き合っていた事を」

「…………」

「いいのよ、子どもができない女なんて女じゃないものね」

「そんな事言うなよ」

 私は真理子の口を閉じようとしてキスをしようとした。真理子は、それを避けて、「でも、今はあなたは他の誰よりもわたしを愛してくれている。それはわかるの」と言ってから、私のキスを受け入れた。

 私は真理子の心の傷を思った。真理子は子どもができない事を自分のせいだと思っている。不妊治療のためのクリニック通いはさぞや辛かっただろう。そして、それを誰よりも深く悲しんでいる。

 その時、由香里の顔が浮かんだ。由香里には子どもができている。それを知ったら真理子はどう思うだろう。自分の全てを否定されたと思うに違いない。私は今以上に慎重にならなければならないと思った。由香里の事は絶対に真理子に知られてはならないのだ。

 

 夜八時過ぎに、真理子が茹でて水でしめた年越し蕎麦を食べた。

 本当に大きなエビ天だった。蕎麦のつけ汁に浸して食べるのに苦労した。