四十六
火曜日の午前十一時頃に由香里がやってきた。産婦人科で診察を受けた後だと言った。
「順調よ」
「そうか」
そう言うと、由香里は内緒話でもするかのように耳元に口を寄せて「男の子だって」と言った。
「男か」
「あれが見えたんですって」
エコーに性器が写ったのだろう。
「そうか」
私がそう言っている間に、由香里は母子手帳を取り出した。
表紙に保護者の欄が二つあった。上の欄に「斉藤由香里」と書いてあったが、もう一人のところは空欄だった。
そして、表紙を開いた。
第一ページに「子の保護者」という欄があり、一番上は「母(妊婦)」と書いてあり、「斉藤由香里」「196*年5月7日生」(二十八歳)「無職」と記入されていた。その下の欄に「父」と書かれた欄があった。空欄だった。
由香里はそこを示して「ここに書いていい」と言った。私は頷くしかなかった。どうせ、富岡の子なんだ、という、半ば投げやりな気持ちがあった。
由香里は嬉しそうにボールペンを取り出して、私に渡そうとしたが「上手く書けないから書いてくれ」と言った。
「わかったわ」
由香里は嬉しそうに「富岡修」「194*年10月14日生」(四十二歳)「会社社長」と書いた。それから表紙の保護者の欄にも「富岡修」と書いた。
「これで父なし子ではなくなったわ」
「最初から、そうするつもりはなかった」
「そうよね。修さん、子どもを欲しがっていたもの」
「そうだったのか」
「そうよ。忘れちゃったの」
「前の事は覚えていないんだ」
「そうだったわね。奥さんとも何度もクリニックに通ったって言っていたわよ」
「子どものため?」
「そうでしょう」
「…………」
「でも奥さん、妊娠しにくい体質なんでしょ」
「そんな事言ったかな」
「酔っていたから覚えていないんじゃない。あっ、記憶喪失だから覚えていないのか」
「…………」
「とにかく、こぼしていたんだから」
「そうか」
「でも、皮肉よね、わたしとの間にできるなんて」
「…………」
「この事奥さん知ったら、どう思うかしら」
「おいおい、何、考えているんだ」
「何も……。でも、赤ちゃんの事は守るからね」
私は頷いた。
由香里は昼食が運ばれてきたところで帰って行った。
私は、ベッドサイドのテーブルから手帳を取り出して、由香里が書いた富岡の生年月日を書き込んだ。ちょうど由香里の誕生日の倍の月と日になっていた。きっと二人はその偶然を何度も話題にした事だろう。
昼食を食べ終わった頃に真理子が現れた。
「今日はどうだった」
「好調よ」
「トミーワープロの事か」
「そう。また増産するって言ってきたわ」
「そうね」
「どうしたんだ。浮かない顔をして」
「だって、みんな忙しそうにしているのに、わたしだけあなたの部屋になるはずの社長室にいて、する事がないんだもの」
「それももうちょっとの辛抱だ」
「何」
「おいで」
私は真理子がかわいそうになった。子どもが欲しくてクリニック通いまでしたのに赤ちゃんはできずに、由香里にはそれができた。それを真理子は知らない。
私は真理子を抱き締めてキスをした。
「もう少ししたら会社なんかにいなくていい。俺だけの真理子になればいい」
「あなた……」
私は口を離した真理子をまた抱き締めてキスをした。
本当に可哀想に思ったのだった。世の中は不条理にできていると思った。
私は真理子にキスをしながら、いつしか真理子の中に夏美を追い求めていた。夏美の「あなたの唇を忘れる事ができません」というメールの言葉が心を締め付けていた。