十一
問題の日曜日が来た。
僕は午前八時に起きた。朝シャワーして、朝食を軽く食べた。歯を磨き、長袖シャツとセーターを着て、ジーパンを穿いた。髪を整えたら、九時を少し過ぎていた。まだ、時間は早かった。
財布に現代美術展のチケットを入れて、オーバーコートを着た。新宿まで地下鉄で行くのが普通だが、今日は歩いて行った。三十分ほどかかった。
でも、約束の時間より大分、早かった。
壁に寄りかかっていると「待ったぁ」と言う声がした。
沙由理だった。
白いワンピースに、襟が毛皮になっているハーフコートを身につけていた。イヤリングが妖しく輝いていた。
「いつも、こんなに早く来るんですか」と沙由理が訊くから「ううん、ちょっと時間があったから新宿まで歩いてきた」と答えた。
「家から」
「うん」
「新宿駅に歩ける所に家があるんですね」と沙由理は言った。
「結構かかるけれどね。一応は」
「そう」
「ここからどう行くの」
「渋谷に行くの」
僕たちは山手線で渋谷に行った。
そこから歩いて十分程度の所に、現代美術展の展示会場があった。
チケットを渡して、パンフレットをもらった。
なんだか訳の分からない絵や造形物だらけで、見ていると眠くなりそうだった。
「これなんか良くないですか」
イルカをモチーフにした絵だった。それは、クリスチャン・ラッセン(Christian Riese Lassen、クリスチャン・リース・ラッセン、一九五六年三月十一日 - )の絵の一つだった。彼の絵は数枚飾られていた。
沙由理が示した絵は、ラッセンの他の絵より一番美しかった。
展示場内の売店で、イルカを象ったシルバーのネックレスがあった。三千八百円だった。沙由理が余りにも見ているから、「それください」と言って買った。
買ったら、包装をしてもらわず、値札を取ってもらって、その場で沙由理はネックレスをつけた。
「どうです」
「似合っている」
「嬉しい。ありがとう」
「安いもんだよ」
沙由理は僕の腕に腕を絡ませて来た。
僕らはそのまま、その会場を出て、何か食べる所を探した。
すぐ近くのイタリアンレストランに入った。
僕と沙由理は一番人気のズワイガニとサーモンのクリームパスタを注文し、食後のデザートに僕はティラミスとコーヒーを、沙由理はショートケーキとホットティーを頼んだ。
パスタは予想してた通り美味しかった。食後のデザートにも、僕らは充分時間を使って味わった。
「そろそろ、出ようか」
「そうですね」
僕らは店を出て歩いた。やはり、沙由理は僕の腕に腕を絡ませて来た。
渋谷の街を歩くのは、楽しかった。
沙由理は人目を引くから、通り過ぎていく男の視線が彼女を追っているのが分かった。
ぼぅっと歩いていたら、誰かと肩をぶつけたんで「済みません」と言ったら「こっちも」と言って彼は通り過ぎていった。誰も彼も肩をぶつけたぐらいで、金を脅し取ろうなんてしないよな、と思っていたら、腰あたりに鋭い感触を覚えた。見えないようにナイフでも突き立てているのだろう。
「このまま歩け」とそいつは言った。
「言っとくが彼女も同じ状態だ」
沙由理の方を見ると、顔が強ばっていた。
僕は仕方なく歩き出した。沙由理とは自然に腕が離れた。両手が自由になった。
僕はオーバーコートのポケットの中に手を入れて、皮手袋を取ってナックルダスターを嵌めた。それから皮手袋を半分ほど上げた。
しばらく歩いて行くと、渋谷を抜けていた。
「ほら、もっと速く歩け」とナイフを突き立てている男が言った。
僕は黙って少し歩くスピードを上げた。
彼女の方も同じペースで歩いていた。ハイヒールだったから、足が痛いのに違いなかった。
黒金町に入っていることは分かった。
僕は適当な路地を探した。少し先に路地が見えた。そこまでの辛抱だと、彼女に伝えてやりたかった。
「あの路地を曲がれ」とナイフを突き立てている男が言った。
似たようなことを考えているのに、違いなかった。
路地を曲がった。
彼女の手を引いて、彼女にナイフを突き立てている男から引き離した。
と同時に背中にナイフを突き立てている男の顔面をナックルダスターのついている拳で殴った。皮手袋をきちんと嵌めると、その路地にはお客さんが待っていた。ナックルダスターで顔を殴られた男が、「この野郎」と殴りかかろうとしていたので、足で膝を蹴って転ばせた。
僕は沙由理を抱き締めて、彼らを見た。路地には十人ほどの若い男たちが待機していた。最初から、この路地に引っ張り込もうとしていたわけだ。
「おうおう、昼間から見せつけてくれるな」と比較的背の低い男が言った。
路地から出ようとしたら、五人ほどが出口に回り込んだ。
僕らは十人のチンピラに取り囲まれていた。
さっき膝を蹴った男と沙由理の背中にナイフを突き立てていた男も加えると十二人だった。僕は携帯で録音を始めた。
「まずは女を寄こしな」
この中のヘッド格の男が言った。
「それはできないな」
「できないだと。するんだよ」
「だから、できないと言ってるんだよ」
「こいつにわかるように説明してやってくれ」とヘッド格の男が言った。
すると、側にいた男が殴りかかってきた。そいつのパンチをかわすと、顔面にナックルダスターを嵌めている拳で思い切り殴った。鼻の骨と、顎が砕ける感触がした。
「嘗めんなよ」ともう一人も殴りかかってきた。そいつも、ナックルダスターの餌食になった。沙由理を取り押さえようとしている奴がいたので、そいつの背中を踏みつけると、足を掬って、膝を捻じ曲げた。足は変な方向に捻れていた。
「きゃー」と言う声がするので、見ると沙由理に抱きつこうとしている奴がいた。そいつが空中に飛び上がり、沙由理に飛びつく瞬間がスローになって、僕はそいつのボディーに渾身の一発を撃ち込んだ。そいつは腹を抱えて悶絶していた。
「やるな、お前」とヘッド格の男が言った。
「もしかして、このところ俺たちの持ち場を荒らしてくれていたのは、お前か」
「だったら、どうするんだ」
「おい、お前たち。得物を用意しろ。こいつと素手で戦うのは危険だぞ」と言った。
残った八人がそれぞれ、ナイフやらチェーンやら、金属棒を持ち出してきたところを携帯のカメラで撮った。もちろん、奴らはカメラに撮られたことに気付くことはなかった。
沙由理は震えていた。
「大丈夫だから。あいつらは全員、やっつけるから」
「ほんとですか」
「ああ」
僕は金属棒を持っている男に目をつけた。沙由理とあいつら、金属棒の男と僕との距離を確認して、奪えると確信したタイミングで襲いかかっていった。
金属棒の男は、金属棒を振り回すだけで使い方を知らなかった。金属棒を掴んで、くるっと捻ると、そいつは簡単に金属棒を手放した。
こうなれば勝ったも同然だった。僕は金属棒を剣のように構えて、相手を待った。しかし、なかなか仕掛けてこない。一人が携帯を取り出しているのが見えた。仲間を呼ぶつもりだったのだろう。この状態で仲間を呼ばれてはたまらないから、僕はそいつが携帯を耳元に当てる前に手と携帯と耳を金属棒で叩いた。
携帯は壊れた。そいつの手の骨も砕けているだろう。
もう一人、携帯を取り出した奴がいたので、そいつも同じ目にあわせた。
チェーンを持っている男が振り上げてきた。同時に鉄パイプを持った男も襲ってきた。
チェーンを持っている男は腹を金属棒でしたたかに殴り、鉄パイプを持った男は、その鉄パイプを持っている手の腕を金属棒で叩き折った。
ナイフを持っている男は、後ずさりをしていた。スキンヘッドの男がナックルダスターをつけて殴りかかってきた。その拳をよけて、顔面にナックルダスターをぶち込んだ。
後三人を路地の奥に追い詰めた。後ろは線路で金網が張られているだけだ。
僕は録音を止めた。
「さぁ、追い詰めているのはどっちかな」
「ふざけるな」とナイフを持っている男が、そのナイフを突きつけてきた。それを金属棒で叩き落とすと、その腕を金属棒でへし折った。
ヘッド格の男の隣には、大男が立っていた。喧嘩には自信があるようだ。僕は金属棒を正眼に構えて、その手首に狙いをつけた。正面から金属棒を打ち下ろすと見せかけて、まず右手首を打ち砕き、その勢いで左手首も砕いた。
後はヘッド格の男だけだった。
「ここまでやるとはな」とその男が言い終わらぬうちに、顎を突いた。顎の骨が砕けたに違いなかった。
僕は金属棒を投げ捨てると、「早く行きましょう」と言う沙由理に、「もうちょっと待ってて」と言って、彼らの持ち物をさらっていた。やはり生徒手帳が出てきた。黒金高校のだった。それらを携帯に写してから、僕らはその路地から出た。
携帯に録音していた音声データや写真は、クラウドストレージにアップロードした。
僕らは歩いて新宿駅まで来た。
「ごめんね、怖い思いをさせちゃって」
「ううん、いいの。でも、京介さんって強いんですね」
「そんなんでもないさ」
「いいえ、あれだけの人数、普通、相手にできませんわ」
「そうか」
「そうですよ」
「まぐれだってば」
「いえ、なんて言うか、場慣れしていた感じがしました」
「必死だっただけさ」
「でも、今日は楽しかったです。あんな怖いことがなければもっと良かったんですけれど」
「そうか、そうだね」
そう言いながら、僕は、目の前に黒金高校が聳え立つような錯覚に囚われていた。
「あっそうそう、携帯の電話番号、登録し合いましょう」と沙由理が言った。
僕と沙由理は携帯を出して、電話番号を登録し合った。