小説「真理の微笑」

六十八
 次の日は、昨日の新年会の興奮がまだ社内に残っていた。あの後、飲み会に行った者も多かったに違いない。カラオケをやり過ぎて私のようにガラガラの声で挨拶する者もいた。
 社長室に入ると、真理子は「また迎えに来るからね」と言って帰っていった。
 その直後に、高木が来て昨日の出席者名簿を置いた。
「招待状を出したところは、ほとんど来ています」
「そうか」
「『週刊ピーシー』と『月刊ソフトウェア』には、昨日の新年会の記事が載るそうです」
「分かった。ところで由香里の事だが、もうすぐ出産だな」
「そうですね」
「出産したら会社を抜け出すつもりだが、その時は頼む」
「承知しています」
「出産したら、毎月三十万円、彼女の銀行口座に振り込むように手配してくれ。子どもの養育費だ」
「わかりました」と言うと高木は社長室から出て行った。

 十三日が来た。真理子が帰っていくと、さっそく由香里に電話した。
 しばらくして由香里が出た。
「どうなんだ」
 私は気が急いていた。
「まだ、陣痛が来ないの。十分置きぐらいになったら病院に行くつもりだけれど」
「そうか」
「初産だから遅れる事もあるって先生は言っていたわ」
「そういうものなのか」
 それで会話は終わった。
 十四日、十五日は家から電話したが、まだだった。
 私は、自分の子ではないのに心配している私がおかしくなった。何やってるんだろう、と呟いていた。

 十六日も由香里は同じだった。ただ、違っていたのは、迎えにきた時から真理子がそわそわしていた事だった。このところ、何となく落ち着きがないように思っていたのは気のせいだったのか、と思った。私が由香里の事を考えているので、そう思って見えるのかもしれないと思った。
 だが、家に着いても真理子はそわそわしたままだった。
 私は、背中に汗が流れるのを感じた。
「まだ、こないの。遅れているのよ」と言う真理子の声が、いっそう私を凍り付かせた。由香里の陣痛の事を言っているものと思い込んだ。知っていたのか、そう思った。
 車椅子に座りながら私はうなだれた。
「もうきてもいいのに」
 次の言葉が怖かった。
「あれがないの」と真理子が言った。
 私は一瞬、何の事だか分からなかった。
「明日、クリニックに行ってみようかしら」と言った。
 それでも、真理子が何を言っているのか分からなかった。ぼおっと顔を上げている私に、真理子が「あれがこないの」と再び言った。
「なに」と私が言った。
 真理子は「もお」とじれったそうにしながら「生理がないのよ」と言った。
「えっ」
 私は驚いた。そして混乱している頭に少しずつ、真理子の言いたい事が伝わってきた。
「生理がきていないのか」
「そう言っているでしょ」
「それって……」
「わからないわ。今までだって遅れた事はあるから。でも、今度のは……」
 真理子は今までとは違うと言いたかったに違いなかった。

 十七日も由香里に陣痛は来なかった。
 それとはうって変わって、二時間も早く会社に迎えに来た真理子の顔が輝いていた。
 社長室に入ってくるなり、私に抱き付き、「五週目ですって」と言った。
「それって」
「できたのよ、赤ちゃんが」と言うと、真理子は泣き出した。
 さぞ苦しかったんだろうな、と私は思った。不妊治療を続けてまで欲しかった、赤ちゃんをやっと授かったのだ。どれだけ真理子がその瞬間を喜んだか、想像に難くはなかった。
「よかったな」と言うと真理子は泣きながら「うん」と答えた。
「今日は、お祝いしなくちゃ」と言うと、真理子はまたしても「うん」と答えた。
 私は高木を呼んで「今日は早く帰らせてもらう」と言った。高木は泣いた顔の真理子を見て「大丈夫ですか」と声をかけた。
 真理子の代わりに私が「大丈夫だ。心配はいらない。後は任せたよ」と言った。

 家に着くと、再び真理子は抱き付いてきた。
「ああ、嬉しい~。こんなにも、嬉しいものなのね」
 そして、私の顔を起こして、髪を撫でつけながら、「あなたの子よ。あなたの子が産めるの」と言って、また涙を流した。
 私は「ありがとう」と言って、真理子にキスをした。そして、キスをしながら、そうか私の子なんだと改めて思った。真理子が妊娠したのは私の子なのだ。
 その時、祐一を妊娠した時の夏美の顔が浮かんできた。今の真理子と同じように喜んでいた。細い目からいっぱい涙を流していた。私はそんな夏美を抱きしめたのを今でも覚えている。夏美は体育会系の体つきをしていた。筋肉質が堅かった。
 でも、今抱きしめているのは夏美ではなく真理子だった。真理子は女に求め得る最高のボディラインをしていた。豊かな胸、くびれた腰、ちょうどいい大きさのヒップ……。
 私は真理子と濃厚なキスをした。そして、それは長く続いた。

 食卓には、真理子が腕によりをかけた手料理が並んでいた。心持ちサラダ系が多いように感じた。
 早々に食事を済ませると私は入浴して、真理子を待った。
 真理子が浴室から出てきてベッドサイドに来ると、バスローブを開いてお腹を見つめた。
「まだ、大きくはなっていないわよ」
「そりゃ、そうだけど」と言いながら、私は真理子のお腹に耳を当てた。
 真理子のお腹の音が聞こえたが、それが胎児の音であるかのように思えた。
 真理子がベッドに上がると「いいんだろう」と訊いた。
「大丈夫だけれど無茶はしないで」と言った。
「いつ、俺が無茶をした」と言うと、真理子は「いつもでしょ」と言った後、含み笑いをした。真理子がベッドの電気を消した。