小説「僕が、剣道ですか? 5」

三十三
 次の宿場が見えてきた。
「少し早いですが、あそこで宿をとりましょう」と僕が言った。
「早いのは良いですよ。風呂上がりに碁でも打ちましょう」と風車が言った。
 そうくるか、と僕は思った。

 僕が風呂を出ると、きくとききょうが風呂に向かった。
 トランクスとバスタオルと手ぬぐいを掛け竿に干すと、風車が碁盤を持ってきた。
「三子で良いですな」と言うので、僕は頷いた。
 碁は面白いもので、相手の打ってくる石に必ず応じなければならないことも多いが、それが一段落すると、どこに打ってもいいような場面が必ずやってくる。
 ここでどう打つのかが、その後の局面に影響する。しかし、影響するのはずっと先の話である。その石を打った時には、そこまで読めているわけではない。感覚的にこのあたりに自分の石があったらいい、と思うだけだ。だが、その感覚こそが大事なのだ。
 碁が強くなるのも、伸び悩むのも、その感覚のせいだとも言える。
 僕は、どうなのだろう。碁以外のことなら、ある程度、先を読むことはできる。しかし、碁だけはそうはいかなかった。
 風車の碁のセンスに僕は負けていた。打ち進んでいくうちに、風車が先に打ってあった石が働いてくる。いや、先に打った石が働くように、碁を誘導されているのだ。それが分かっていても、相手の術中に嵌まってしまう。
 公儀隠密は次はどう出てくるのだろう。
 どこかで待ち伏せていて、最後の決戦を挑んでくるしかないことは分かっていた。もう相手も相当やられている。この後、バラバラと向かってくることはないだろう。
 そして、根来兄弟のことだった。長兄を殺されて、黙っている訳がない。どこかで仕掛けてくるに違いなかった。
 そう考えているうちに、僕の大石は取られていた。僕は投了した。
「もう一局」と言って、風車は自分の石は片づけて、僕を待った。僕も石を片づけると、三子を置いた。
「では、参りますぞ」と風車は石を打ってきた。

 結局、三局やった。大石取られた直後の局では、僕が逃げ切った。しかし、最後の一局は五目負けだった。従って、一勝二敗だった。
 最後の局に勝って、風車は機嫌良く、自分の部屋に引き上げていった。

 布団に入ると、きくが「わざと負けたんですか」と訊いてきた。
「いや、本気で戦って負けたんだよ」と答えた。
「剣ではめっぽう強いのに、碁では駄目なんですね」
「そう何でも強いというわけには、いかないさ」
「お腹を触ってみますか」
「そうしようか」
「少し大きくなってきたのが、わかりますか」
「いや、それほど大きくなっているとは思えない」
「これでも大きくなっているんですよ」ときくは言った。
「そうか。あまり、大きくならないうちに江戸に入れると良いのだがな」と僕は言った。
「そうですね」
「そうでないと、風車殿にききょうをおんぶしてもらわなければならなくなるかも知れない」
 僕がそう言うときくは笑った。
 やがて眠りについた。

 次の日も晴れていた。
 朝餉をとると、おひつに残っていたご飯で、きくはおにぎりを三つ作った。ラップで包み、それをビニール袋に入れた。
 風車がラップを見るのは、初めてではなかったが、それを手にすると、「でも、不思議なものでござるな」と言った。

 朝餉を済ませると、宿を出た。
 台車を押しながら、歩いて行った。
 最初は田んぼが続いていたが、先に森が見えてきた。
 公儀隠密が潜んでいるかも知れなかった。用心に越したことはなかった。
 森の中の街道を進んでいった。定国が唸った。先に二人の侍が見えた。
 ただならぬ殺気が漂っていた。
 その殺気から、根来兄弟だということが分かった。
 僕は台車を止めた。
「この先に二人いるのが見えるでしょう」と僕は風車に言った。
「見えます」
「あの者たちは私に遺恨がある者です」
「そうなんですか」と風車が言った。
「ええ。根来信二郎と信三郎といいます。かなりの使い手です」
「拙者も加勢しましょうか」
「いや、ここできくとききょうを守っていてください」
 きくが側に来た。
「これから大変な戦いになる。いつかのように私は戦いの後で眠っているかも知れない」
「そんな」
「ここで戦いやすいように着替える」と僕は言った。
 彼ら二人とやり合うとすれば、着物では動きづらかったのだ。
 ジーパンを穿き、足袋を脱いで草履から安全靴に履き替えた。着物を脱ぎ、上は肌シャツと長袖のシャツに着替えた。そして、ベルトを締め、腰のあたりに帯を巻いた。そこに定国を差した。
「珍しい格好ですな」と風車は言った。
「これで十分戦えます」と僕は言った。
「そういうものですか」
「きくとききょうをお願いします」と僕は風車に言った。
「任せておいてください」と風車は言った。
「では、行ってきます」と言って、僕は根来兄弟の方に向かって歩き始めた。