小説「僕が、剣道ですか? 5」

二十二
 湯船に浸かると、風車が「それにしても足袋の中に小判を入れるなんてね。思いつきもしませんでしたよ」と言った。
「鏡殿は鋭いですな」と続けた。
「それほどでもありませんよ。ただ、部屋に上がってまで足袋を履いているのが気になっただけです」と言った。
「そこ、そこが鋭いと言っているんですよ」
 僕は定国が教えてくれたとは言えなかった。
「風呂から上がったら、一局打ちましょうね」と風車は言った。
 そう来ますよね。僕は「いいですよ」と応えた。

 一局、終えたところで商人夫婦は戻ってきた。囲碁の方は、僕の完敗だった。
 襖越しに「お騒がせして済みませんでした」と声をかけてきた。
 風車が襖を開けて、「お金は戻ってきたんですか」と訊いた。
「おかげさまで」と亭主の方が答えた。
「それは良かった」
「玄関のところですられたようなんです」と奥さんが言った。
「玄関ですか。お金だけすりとるとは凄い腕ですね」と風車は言った。
「そうなんですよ。だから、財布を取り出すまで気付かなかったんです」と商人の亭主が言った。
「何にしても良かったですね」と風車は言って、会話は終わった。

 そうこうしているうちに夕餉の膳が運ばれて来た。
「今日は何かな」
 風車はおかずの蓋を取るのが、楽しみのようだった。それだけでも、三十両得て、一品増えたのは良かったのだ。
 今日は焼き魚と煮物とこんにゃくの刺身だった。後は、漬物とお味噌汁にご飯だった。
 こんにゃくの刺身には、酢味噌がつけられていて、美味しかった。

 夕餉が終わると、風車が碁を打つ手の真似をした。
 仕方ないな、と思いながら、部屋の隅に碁盤を置いた。
 僕が黒石を持ち、一手目を打った。打ち進んでいくうちに、四丁の形ができてしまった。今度も完敗かと思い、それなら四丁で石を取られて投了しようと思った。
 しかし、風車は読み違いをしていた。それは四丁にはなっていなかったのだ。当たり当たりと石を打たれていくうちに、風車は四丁にならないことに気付いた。風車が気付いて、僕も盤上をよく見ると、四丁になっていないことが分かった。
 風車は諦めて、別の場所に打った。四丁当たりに打ってきていたので、断点は無数にあった。僕はその断点に打っていった。気持ちの良いように石が取れた。
 風車の顔が赤くなっていくのが分かった。身を乗り出して、頑張り始めた。普通なら投了しても良さそうな局面だったが、そこは経験の差が出た。大きく勝っていたはずなのに、じりじりと追い上げられてきた。
 そして、ついに逆転した。勝てる囲碁を勝ちきれないのが、弱さだった。結局、三目差で僕が負けた。しかし、三目差は最後まで打ち続けた負け碁の中ではもっとも石の差が近かった。もう一度、風車が四丁を取り逃すことがあれば、僕は次は絶対に勝ちたいと思った。しかし、風車の方でも、もう四丁を間違えることはしないだろう。
 石を片づけると、風車は自分の部屋に戻っていった。
 僕は布団に潜った。
「また、負けたんですか」ときくが言った。
「そうだよ」
「碁では勝てませんか」
「そう簡単に勝てるようになるものではない」と僕は言った。

 次の日も風車は上機嫌だった。ききょうのほっぺたを突っついて笑わせたりもした。
「何か良いことでもあったんですか」ときくが風車に訊いた。
 風車はそれを待っていたように「あったんですよ」と答えた。
「夢の話ではあるんですけれどね、拙者が鏡殿に真剣で勝負をして勝ったんですよ」と言った。
「まぁ」と言いながら、きくは笑った。
「いい夢でしょう」と風車は畳みかけるように言った。
 僕も笑うしかなかった。碁で勝っているので、それが夢になって現れたのだろう。
 朝餉は賑やかになった。
 風車は機嫌良く、夢の話を続けた。夢でも、僕に剣で勝てたことがよほど嬉しかったのだろう。
 僕は黙って風車の話を聞いた。

 朝餉が済むと、きくは哺乳瓶に白湯を貰いに行き、それから宿を後にした。
 台車を押すのも軽やかな良い日だった。
 街道は山道に入った。その途端に定国が唸り始めた。
 前方に敵がいるのだ。山道の両側は山だった。その間を街道は続いている。両側の山の中に忍びの者が潜んでいるのであろう。
 僕は足を止めると、風車に「どうやら、この先に敵が潜んでいるようです。風車殿、申し訳ないが、きくとききょうを頼みました」と言った。
「そうなのですか」
「はい。気配を感じるのです」と僕は嘘を言った。
「わかり申した。ここは任せてください」と風車は言った。
「では、頼みました」と僕は言うと、台車のショルダーバッグを開け、着物を脱いで、肌着を着て、長袖シャツに腕を通すと、ジーパンを穿いた。そして、草履を脱いで、安全靴に履き替えた。それから、前に向かって走り出し、右の山に入って行った。
 すぐに手裏剣が飛んできた。それは速くて正確だった。僕は定国を抜いて、弾き飛ばした。すると、次の手裏剣が襲ってきた。これも、定国で叩き落とした。それからは、次々と手裏剣に襲われた。
 僕は手裏剣の投げられた位置から、相手の居場所を探ろうとした。しかし、相手は手裏剣を投げると、すぐに木を飛び移って位置を悟られないようにしていた。これまで、対戦してきた忍びの者とは異なっていた。格段に強かった。
 相手は十人だった。だが、自分の位置を知られないように、絶えず動いていた。僕は弾き飛ばした手裏剣を拾うと、時を止めた。木から木へ飛び移ろうとしていた忍びの者が空中で止まっていた。そこに向けて手裏剣を投げた。手裏剣は、その者の腹に刺さった。
 時を動かすとその者が落ちてきた。駆け寄って、その者の腹を裂いた。
 その間にも手裏剣は襲ってきた。
 時を止めて、手裏剣を投げてきた場所に行った。相手は手裏剣を投げ終わると、もう移動しようとしていた。その腹を刺した。
 相手は巧妙に隠れているので、一回の時間を止めている間に数人をまとめて斬ることができなかった。どうしても相手の居場所を突き止めるために、時間を動かさなければならなかった。
 結局、全員を倒すのに、十回時を止めて動かすことを繰り返さなければならなかった。
 時間を長い間止めているのは、長距離走に似ているが、短時間に繰り返し、時を止めて動かすのは、ダッシュするのに似ていた。疲労の仕方が異なった。
 少し休んでから、街道に飛び出し、隣の山に入り込んでいった。
 やはり、すぐに手裏剣は飛んできた。その方向を見極めて、時を止めた。そして、そこにいた者の腹を突き刺した。そして、時を動かした。時を動かすとたちどころに手裏剣の雨に襲われた。
 今度の敵は、忍びの中でも選び抜かれた者たちだということが分かった。こちらに余裕を与えてくれなかった。
 手裏剣を定国で叩き落としながら、相手の位置を確認するのに必死だった。
 だが、それも簡単にはさせてくれなかった。そんな時は、また手裏剣を投げさせるしかなかった。手裏剣を投げさせ、その瞬間に時を止めて、その位置に走った。木の上にいる忍びの者を確認すると、木に登って、その者の腹を裂いた。そして、周りを見たが、忍びの者は巧妙に隠れていた。仕方なく、時を動かした。
 すると、手裏剣が襲ってくる。その瞬間に時を止めて、その手裏剣が投げられた位置まで走って行き、相手を見付けると、その者の腹を裂いた。
 こっち側にも十人いた。
 結局、こっちでも十回、時を止めて動かすことをした。
 十人を倒し終わった時には、僕は疲れ切っていた。
 木に凭れてすぐには立ち上がれなかった。
 木に凭れていると、沢の音が聞こえてきた。そっちの方向に歩いて行った。小さな沢だった。そこで水を飲み、長シャツとジーパンを脱いで洗った。血が飛び散って、ついていたからだった。それから安全靴を履いたまま洗うと、濡れた長シャツとジーパンを穿いて、街道に出た。遠くに風車ときくとききょうがいた。
 僕が手を振ると、彼らはこちらに向かってきた。
 台車は風車が押してくれていた。
 僕は濡れた長シャツと肌着、そして、ジーパンを脱ぐと着物を着た。それから安全靴を脱いで、足袋を履き、草履を履いた。
「相手は何人でしたか」と風車が訊くので、「二十人でした」と答えた。
「それはまた大変でしたね」と言った。
 僕は応える気力もなかった。
 濡れた長シャツなどは大きなビニール袋に入れて、台車の風呂敷包みの間に押し込んだ。
 街道の先は坂になっていて、その下に宿場らしき街並が見えた。
 そこに着いたら、昼餉にしようと思った。