小説「僕が、剣道ですか? 5」

十七
 次の日も雨だった。
 僕は下に降りていき、女将に今日も泊まると告げた。そして、昼は食べられるかと訊くと「ご用意はできます」と答えたので、「鴨南蛮が食べたいのだが、できるか」と尋ねた。
「板長と相談して、後で答えます」と言われた。

 朝餉の膳が運ばれてくる時、女中が僕に「鴨南蛮は作れるそうです」と言った。それを聞いていた風車が「何のことですか」と訊くので、「今日は雨降りだから、もう一泊することを女将に言ったのです。その時、昼餉のことも、鴨南蛮にして欲しい、と頼んだのです」と答えた。
「それじゃあ、拙者ももう一泊するので、昼は同じく鴨南蛮を」と女中に言った。
 きくも「わたしも」と言ったので、女中は「昼は鴨南蛮三人前でよろしいですね」と確認した。すると風車が「拙者のは大盛りにしてくれ」と頼んだ。
「では、大盛り一人前に、普通盛り二人前でよろしいですね」と言った。
「ええ、それで頼みます」と僕が言った。
 女中が出て行くと、僕らは朝餉を食べ始めた。やはり、風車の膳も僕らと同じだった。
 風車は「朝餉の後は、碁をやりましょうな」と言うので、僕はご飯を頬張りながら頷いた。風車は僕に勝てるものができたので、嬉しくてしょうがないようだった。

 朝餉が済むと風車は早速、碁盤を持ってきた。
「今度は、鏡殿が黒石で良いですな」と言ったので、僕は頷き、黙って黒石を持つと、右上隅、星に打った。
「では、拙者は」と風車は左上隅、三三に打った。
 僕はその三三の右上にこすみつけた。風車は、その石を挟むように打ってきた。
 その碁も僕が大石を取られて、中押し負けになった。しかし、分かったことがあった。僕の大石が取られたのは、四丁(しちょう)という手で、石を逃がして当たりを続けられて最後に全部の石が取り上げられるという囲碁の手筋の一つだった。僕は四丁当たりを避けるように先手で先に遠くの方に石を置くと、風車も四丁逃れをしているのを見破り、四丁になるように石を打ってくる。僕は四丁から逃れることしか、頭にないから、そのうちに風車のペースになっていることに気がつかない。四丁を逃れたと思ったら、周りを囲まれていたりした。四丁で石を取られなくなっただけで、僕は大差で負けた。
 負けると悔しいものである。
「もう一局行きましょう」と、今度は僕の方から言っていた。

 昼餉の鴨南蛮は美味しかった。蕎麦屋で食べるのとは、また違ったおいしさだった。風車が「蕎麦屋だったら、もう一杯頼むところだったがな」というくらいだった。ご飯をもらい、汁をかけたものをききょうに食べさせると、ききょうは美味しそうによく食べた。
 鴨南蛮を食べ終わり、膳を女中が取りに来ると、風車が「おやつに何らか食べたいんだけれど、お汁粉でも作れる」と訊いた。女中は「お汁粉は作れませんが、羊羹なら近くに菓子屋があるので買ってきましょうか」と言った。
「だったら、おやつにお願いする」と言った。僕らも風車の話に乗って、羊羹を三つ買ってきてもらうことにした。風車は「二つ」と言った。合計五つになった。
 宿に留まっているから、公儀隠密に襲われることはなかったが、風車に碁で負け続けるのはしゃくにさわった。
 しかし、碁が一朝一夕で上手くなる道理もない。僕は風車と碁を打つ度に負けることを繰り返した。ただ、負け石の数は少なくなっていた。
 おやつ前に僕にチャンスが来た。風車の白い石を上手く囲い、五目中手にしたのだった。

 五目中手というのは、目が一眼しかできない状態になることだった。碁は二眼にして両目を作って自分の石が生きるようにし、かつ、目数(自陣の領域の広さ)で勝たなければいけないゲームだった。五目中手は自分が先着すれば、二眼できるが、相手に中程のある位置に石を打たれてしまうと、眼が一つしかできなくなってしまうのだった。
 僕はやったと思った。五目中手の中に風車は先着したいが、他に打たざるを得なくなっていた。しかし、碁が進んでいくと、僕が五目中手に囲っていたと思っていた石に、逆に攻められ始めた。攻め負けることはないと思っていたが、甘かった。一手負けだった。五目中手に囲っていた石によってこちらの石が攻め取りされた。それまでだった。僕は投了した。
「惜しかったですね」という風車の声が嫌味に聞こえた。
 その時、おやつの羊羹が運ばれて来た。
 風車の膳には、皿に二つの羊羹が載っていた。僕らの膳二つには、一つの膳の皿には二つの羊羹が、もう一つの膳の皿には一つの羊羹が載っていた。どの膳にもお茶が添えられていた。
 竹ぐしで羊羹を切ると差して、頬張った。甘くて美味しかった。ききょうには細かくして、きくが口に入れていた。ききょうも美味しそうに食べた。
 羊羹は忽ちになくなった。
 膳が片付けられると、「もう一局やりましょうよ」と風車が碁盤を取り出してきた。僕も悔しいから受けて立った。

 そのうち風呂の時間になった。
 僕は風車と一緒に入りに行った。
 湯船の中では、風車は「碁であろうが、何にしても鏡殿に勝つのは、嬉しいことです」と言った。
 僕は負け続けているから、へこんでいた。

 部屋に戻ると、きくとききょうが風呂に入りに行った。その間に夕餉の膳が運ばれて来た。
「明日は晴れるといいですね」と風車は言った。
「そう、願いたいですね」と僕も言った。これ以上、碁で風車に負け続けるのはご免だった。それくらいなら、公儀隠密とやり合っていた方がましだと思えたくらいだった。

 きくとききょうが風呂から戻ってくると、夕餉になった。
 風車はまたしても、昨日の脇村新左衛門との戦いの話をした。あれは戦いではなく、一方的に風車が剣を突き出して、刺し殺したのに過ぎなかった。しかし、話では凄い斬り合いをしたことになっていた。
 僕は黙って聞いていた。

 夜、布団に入ると、きくが「京介様が手を貸したのに、風車様は調子が良いですね」と言った。
 僕は「きく、声が大きい」と小さく言った。
 きくは慌てて「そうでしたか」と言った。
「そんなに大きくはなかったよ。でも、心の内にしまっておくことも大事だから」と僕は言った。
「京介様はお優しいんですね」ときくは言った。
 僕は応えなかった。