二十二
堤竜之介の武家屋敷への引越しは翌月、早々に行われた。
堤道場には、師範代となった城崎信一郎が住み込むことになった。
「城崎信一郎殿が師範代に決まったことに、他の三人から文句が出ませんでしたか」と僕が堤に訊いたら、「いや、三人ともあの場にいました。鏡殿がいかに真剣に師範代を決められたのか、その現場を見ています。文句を言う者がいるはずもありません」と堤は答えた。
「そうですか。これから、ますます堤道場は大きくなっていくでしょう。師範代を含めた、あの四人が支えになっていって欲しいものです」
「それはそうです。あの四人には、堤道場を支えていって欲しい、私もそう願っています」
「そうでしょう」
引越し先の屋敷では、集まってきた町民に餅が盛大に投げられた。そして、引越祝いも三日間続いた。
僕は遠慮していたが、堤に呼ばれて、引越祝いの主賓扱いにされた。そのため、次から次へと酒を注ぎに来る者が絶えなかった。僕は酒が飲めないと断るのに、必死だった。
引越祝いの間は、僕は帰ることが出来ずに、堤邸に泊まり込むことになった。僕が寝付く頃になると、たえが寝室に忍んできた。さすがに来月産み月になるので、ただ躰を寄せ合うだけだったが、キスは何度もした。そして、明け方近くになるとたえはいなくなっていた。
四日目に家老の屋敷に帰ってきた時は、我が家に帰ってきた感じがした。
きくは三日も帰ってこなかったことに、怒っていた。
「鏡様がそんなにいる必要はないでしょう」というのが、きくの理屈だった。確かにそうだったから、「分かった。分かったから」と言うのが、精一杯だった。
道場は普段通りに稽古が行われていた。
真剣白刃取りを間近に見たせいか、心持ち気合いの入り方が違うようにも思えた。
相川、佐々木、落合、長崎、島村、沢田を呼んで、今月下旬に行われる選抜試験について話した。
「多分、今回の選抜試験は受験者が減るだろう。堤道場からは、受験者は来ないと思っていい。御指南役になられた所の道場に通っているのだから、それより格下の当道場を受けに来るはずがない。だから、少なくなったとしても、いつものように対処するように」
そう言うと、皆が「はい」と答えた。
実際、選抜試験の日に集まったのは、八十四人だった。今までに比べれば大違いだった。
道場の者、八十四人と組み合わせて、八十四組の試合を行うことにした。
午前中に組み合わせと戦い方を教えて、午後に二十四組戦わせることにした。残りの六十組は次の日の午前の部と午後の部に分けた。
ほとんどが当道場の者が勝ったが、当道場の者でも四人が敗れた。
敗
「そうか。だったら、三ヶ月後にまた受けに来い。そして、今度は負けるな」
僕はそう言った。
九月になった。
堤屋敷から使いの者が来て、たえに陣痛が来たことを知らせてきた。
僕は、使いの者と一緒に堤屋敷に向かった。
取り上げ婆が呼ばれていて、奥の部屋で、出産が行われているのだろう。
僕は座敷に通されたが、落ち着かなった。堤竜之介も落ち着かないようだった。
庭に出た。
刀を持つイメージで素振りをしてみた。
「落ち着きませんな」
堤が隣に来て、そう言った。
「はい」と答えた。
出産は午後になっても終わらなかった。なかなかの難産のようだった。
無事、生まれてくれ、とそれだけを願っていた。
それから半刻が過ぎた頃だったろうか、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
堤は縁側から、座敷に上がっていった。僕もそれに続いた。
そして、奥の座敷の襖を開けた。
たえが横になったまま、白い布に包まれた赤ん坊を隣にして抱いていた。
堤が赤ん坊の顔を見ていた。
たえは、僕に目を向けた。そして、笑った。
堤が白い布の中を覗いて、「男の子だ」と叫んだ。
僕は、たえの顔の近くに座って、差し出してきた手を握った。
「男の子を産みました。ちゃんと名前をつけてくださいね」
僕は頷いた。
硯と筆と紙を用意してもらって、水で墨を擦った。色が濃くなったところで、筆に墨をつけて、紙に「京太郎」と一気に書いた。
その様子をたえも見ていた。
書いた紙をたえに見せた。
たえは、目から涙を流した。そして、赤ちゃんに「京太郎」と呼びかけた。
堤も赤ちゃんに向かって「京太郎」と呼びかけた。それから、僕の肩を叩いて、前から決まっていたのにもかかわらず、「いい名ですな」と言った。
家老の屋敷に戻ってくると、きくがききょうを抱いて、僕を待っていた。
僕を見ると、すぐに「京太郎様が生まれたんですね」と言った。
「えっ、どうしてそれを」
「帰りが遅いので、使いの者を出したのです。そしたら、男の子が生まれたと言うではありませんか。京太郎、って言う名前だそうですね」
「そうだが」
「やけに堤道場に肩入れをしていると思ったら、そういうことだったんですね」
「そういうこととはどういうことなんだよ」
「そういうこととは、そういうことですよ。わたしに言わせたいんですか」
「いや、そうじゃない」
「あー、わたしも男の子が欲しいなあ」
きくはそう言って僕を見た。
「六月に産んだばかりだぞ」
「年子だって平気ですもの」
僕は溜息をついた。
「一姫、二太郎って、言うでしょう。今度は男の子よね」
きくは僕の腕を掴んで「ねっ」と言った。
なんでそうなるのかな。飛び上がりたくなった。
風呂に入り、夕餉の席でも、早くも京太郎の話が出た。
家老が「今度、御指南役になられた堤殿の所の娘さんにお子が生まれたそうだ」と言い出した。
誰かが知らせたのだろう。こういう話題は伝わるのが、はやい。ひょっとしたら、きくが出した使いの者の情報かも知れなかった。いや、その可能性が非常に高い。こんな情報がそんなにはやく伝わるとも思えない。通常なら、明日、堤が登城した時にお殿様に言上するかも知れないが、それまでは分からない方が普通だ。使いの者が、この話を知れば、きくに伝えるだけでなく、黙っていろという方が難しい。きっと吹聴したのに違いない。
家老は「それが何と、鏡殿のお子と言うではないか」と続けた。
僕はどうしてそれを……、と言いたくなった。
「鏡殿が京太郎と名付けられたそうだな」
「はい」
もう全部、ばれている。僕は観念した。
「いい名だ」
家老の嫡男が、「うちのきくにも、鏡殿のお子がいますね、確か、ききょうと言う。とすれば、異母姉弟ということになりますね」と言った。
「そういうことになりますな」と佐竹も言った。その後で、僕に向かって「あっちこっちにお子を作られて大変ですな」とも言った。
家老が「堤殿には、何か祝いの物を差し上げないといけないな」と言った。
佐竹が「男の子ですからね」と言って、僕を見た。
「いやいや、私には何がいいのか、分かりません」と首を振った。
「でしょうね」と佐竹は笑った。
そして「何か考えておきましょう」と言った。
その日の夜は、きくは激しく僕を求めてきた。また、女中たちに何を言われるか分からないぞ、と思いながらも、その若い躰を抱いた。