小説「僕が、剣道ですか? 4」

三十二

 堤道場に行った。

 門のところをたえが掃いていた。五年前と変わらなかった。

「たえ、いや、おたえさん」と声を掛けた。

 たえは顔を上げると、鏡京介を見て、信じられないとでもいったような顔をした。そして、すぐに涙を流し、走り寄って来て、僕の手を取り「会いとうございました」と言った。

 堤道場は、第二道場も出来て、大きくなっていた。

 玄関から入ると、すぐ道場が見える。かつての城崎信一郎は僕を見ると、すぐに寄ってきて、「お久しぶりでございます」と言った。

 僕も「こちらこそ、お久しぶりです」と言った。

「後で座敷に伺います。先に行っててください」とかつての城崎信一郎は言った。

 僕は頭を下げると、たえに従って、座敷に行った。座布団を勧められたので、座った。

「もう、五年になりますね」とたえは言った。

「そうですね」

「あなたは少しも変わっていない」

 僕は「あなたも」と言ったが、たえには苦労の跡が刻まれていた。

「お茶をお出ししますね」とたえは奥に引き込んだ。

 その時、道着を着たままの城崎信一郎が座敷にやってきた。

「わたしはすぐに道場に戻りますので、このままの格好で失礼します」と言った。

「それはお気にせずに」と僕は言った。

「いやあ、京介殿は全く変わりませんね」と言った。

「…………」

「わたしはたえと結婚をして、今は堤信一郎となりました」と言った。

「では、この道場を継がれたのですね」

「はい」

「師範になられたのですね」

「はい」

「それはよかった。堤先生も安心されたことでしょう」と僕は言った。

「それはどうでしょう」

「きっと、安心されてますよ。堤先生は御指南役として登城されているのですか」

「はい。今日は登城しています。明日は殿の稽古がないので、道場におります」

「では、明日、伺えばよかったですね」

「明日も来てください。義父も喜びます。ではわたしはこれで失礼させていただきます」

 たえは、僕と堤信一郎の話が終わるのを、待っていたかのように、座敷に入ってきて、お茶を出した。

「京太郎がいませんね。どうしたんですか」と僕が訊くと、たえはしばらく黙っていて、そして静かに泣き始めた。

「どうしたんですか」

 たえは泣きながら、「京太郎は、三年前、流行病で亡くなりました」と答えた。

 僕は呆然とした。

 しばらく言葉が出なかった。

 たえは懐から、包み紙を出して、僕に渡した。広げて見ると、短い髪の毛だった。

「京太郎のです」とたえは言った。

 僕は自分の懐紙を取り出し、「分けてもらってもいいですか」とたえに訊いた。

 たえは「それはお持ちになってください。あなたがいらした時に渡そうと思って、持っていたものですから」と言った。

 僕はそれを握りしめて、泣いた。

「これから京太郎の墓に参りますか」とたえが言うので、「ぜひに」と答えた。

 

 京太郎の墓は堤家の菩提寺にあった。

 来る途中で手折った花を添え、水を掛け、線香を立てて、手を合わせた。

「信一郎殿とはいつ結婚されたのですか」

「去年です」

「…………」

「今、ここにややこがいます」とたえはお腹をさすった。

「どうりで」と言い、少し太られたように見えた、とは言わなかった。

「男の子だったら信太郎っていう名をつけようと思っています」

「そうですか」

「京太郎は熱に浮かされて苦しみました」とたえは言い始めた。

「代われるものなら、代わってやりたかった」

「ご自分を責めるのはやめなさい。それが京太郎の天命だったのです」

 僕はそう言いながら、自分自身にそう言い聞かせていた。

 

 堤道場までたえを送り届けると、一人で蕎麦屋に入り、もり蕎麦を食べた。

 懐の包み紙を出して、京太郎の髪の毛を見た。

 細かった。

 

 家老屋敷に戻ると、きくが「どうでしたか」と訊いた。

 たえが信一郎と結婚したことや、たえが今、妊娠している話をした後で、京太郎が亡くなった話をした。

 きくは泣いてくれた。

 だが、そのきくとも別れなければならなかった。

 白鶴藩に戻ってきたのは、きくを置いていくためだったのだ。きくは現代の人ではない。現代には住めない。きくはきくが生まれ育った環境で暮らすのが一番良いのだ。それが自然の摂理だ。

 だが、このことをきくには話していなかった。

 話すことができなかった。

 

 風呂に入った。きくに背中を流してもらった。これも後何回だろうか、と思った。

 折たたみナイフで髭を剃り、顔を洗って、ききょうと頬ずりをした。これも後何回だろうか、と思った。

 ききょうを抱き締めた。お前は、流行病になんかなるなよ、と願った。

 

 夕餉の席では、堤道場に行ってきたことを話した。たえが結婚していたことや、堤道場が立派になったことを話した。堤家のことは、島田源之助も島田源太郎も知っていた。堤竜之介が御指南役であるから、知っていて当然と言えば当然だった。しかし、京太郎が亡くなったことは言わなかった。

 

 座敷に戻り、縁側に出た。

「月が大きく見えますね」ときくが言った。

「そうだな」

「もうじき、満月になるんですね」ときくが言った。

 僕は答えなかった。

 その夜、僕は激しくきくを求めた。