二十二
道場は活気づいていた。百人を二組に分けて、一日置きに五十人ずつが道場に稽古に来ていた。
選抜試験をしたためか、緊張感があった。
彼らは素振りの練習をしていた。場所がないため、同じ位置にいての打ち下ろしだった。
僕は、一度、練習を止めさせて、彼らに壁際に寄るように言った。
僕は中央に立ち、僕が知っている素振りの方法をやって見せた。それは、早素振りをして、前後に動き、木刀を振り下ろした時に少しずつ前進する方法だった。それで端から端まで行くと、また元の位置に戻り、素振りをして見せた。
この方法だと、全員一度にはできないので、順番にしていくしかない。僕は一列に五人並べて、十列作り、最初の列が中程に進んだら、次の列が素振りを始めるようにした。
これを繰り返させた。
さっきよりも素振りが素早くなった。
そのうち、弟子の一人がやってきて、「お客さんです」と言った。
僕は、そのまま練習を続けるように言ってから、道場の玄関に向かった。
来ていたのは、高木なみだった。
僕は、道場の玄関から出て、裏庭を通り、縁側から彼女を座敷に上げた。
井戸端を通ったので、女中たちの視線を浴びることになった。
僕は、なみに座布団を勧めたのだが、彼女はそれを脇にどかし、両手を畳に突いて頭を下げた。
「昨日は息子をお助け頂き、ありがとうございました」
なみはそのままの姿勢でなかなか頭を上げなかった。そのところに、きくがお茶を運んできた。
「顔を上げてください」
僕がそう言うとようやく、なみは顔を上げた。
きくはお茶を出しながら、その顔を見ていた。
「なみさんのご主人は何をやっている人ですか」
「主人は大工でしたが、胸を患い、昨年亡くなりました」
「そうでしたか」
「あのう、これは少ないものですが御礼に」と言って、なみは風呂敷包みを差し出した。
広げて見ると、大根やにんじん、ごぼうなどが入っていた。
僕はきくに「これは庖厨に」と言うと、きくはその風呂敷を持って座敷から出て行った。
「あの後、どうです。息子さんの様子は」
なみは困った顔をして、「すっかり元気になり、今日もどこかに遊びに行きました」と言った。
「そうですか。それは良かった」
一時は心臓が止まっていたとは言えなかった。今日ばかりは大人しくしていて欲しいものだと思ったが、それも言えなかった。
「なみさんは何をしているんですか」
「裁縫をしています。着物などを縫っています」
「あの野菜はどうされたのですか」
「息子が助けられた話をしたら、長屋の人たちが持ち寄ってきてくれたのです。御礼に持って行くようにと」
「そうでしたか。お気遣いは無用でしたが」
「そんなことできません」
そんな話をしている間に、きくが風呂敷を畳んで持ってきて、「どうぞ」となみの方に返した。
「では、わたしはこれで」と言って立ち上がった。
僕は屋敷の外まで、案内して見送った。
振り返ると、きくがいた。
「今の人が、おたえさんですか」
「違うよ。あの人はなみさんだよ」
「なみさん? おなみさんという人とも出会っていたのですか」
「昨日、話していなかった」
「聞いていません」
僕は昨日、起こったことをかいつまんで話した。
「で、その六歳の子の母親が、あのおなみさんなんですね」
「そうだよ」
「ご亭主は何をされている方なんですか」
「大工をしていたそうだが、亡くなられたとか言っていた」
「随分、若い後家さんですこと」
僕は、きくを残して道場に退散した。
相川が寄ってきて、「随分、色っぽい人でしたね」と言った。
「お前まで」と僕は言った。
今日は家老の島田源之助が屋敷に帰って来るというので、昼頃から奥は忙しそうだった。
昼餉の後、座敷に戻るときくが着物を持ってきて、「今日の夕餉にはこれを着て行ってください」と言った。家老には、初めてお会いするのだから、少しでも見栄えを良くしようというきくの計らいなのだろう。
「分かった」
「わたしは奥向きを手伝ってきますね」
「ああ」
道場に行った。
前進しながらの素振りは、今朝に比べるとスムーズになってきていた。
「素振りは基本だ。今度は、前進せずに、同じ位置での素振りをしてみよう」
僕は、両手で木刀を持ち、それを頭上に上げ背中に付くほどに後ろに倒して、一歩前進すると同時に素早く振り下ろし、すぐに一歩下がって見せた。
「これなら同じ位置で素振りができるだろう。やってみよう」
全員が立つと道場は一杯になるので五組に分けて、それぞれ二十回ずつ素振りしたら、次に交代させた。
「素振りが一人前にできるようになったら、打ち込みの練習をさせる。それまで素振りをしっかりとしろ」
僕はいつのまにか、自分が言われていたことを言っていた。こうして、指導する側に立つと何が必要か見えてくるものだなと思った。
練習が終わったら、全員に道場の床拭きをさせた。雑巾を端から端までかけていくのである。これも自分が道場に通っていた頃は、嫌だなと思っていたものの一つだったが、こうして雑巾がけをさせてみると、これも練習の一つだな、と思える。
「後は頼む」と相川に言って、僕は道場から出た。
庭に出て真剣で素振りをした。
切っ先が空間を切っていく感じが心地良かった。
正眼の構えから下段に切っ先を落とし、下から切り上げてみた。どの切り方をしても相手には僕の剣は見えないだろう。と言って、わざと剣をゆっくり動かしても、本気では切り込めない。途中まで見えるように剣を動かし、切る瞬間だけ見えなくする方法はないだろうか、考えた。柴田錬三郎(一九一七(大正六)年三月二十六日―一九七八(昭和五十三)年六月三十日)が書いた『眠狂四郎』のような円月殺法でも真似てみようかという気にもなった。
秘剣下弦の月とか、秘剣上弦の月とか言って、切れたらかっこいいなあ、なんて思っていた。それじゃあ、無神経か……と思っていたら、無心剣もいいかもと思えてきた。
剣を鞘に収めて、床の間に置いたところに、きくが来たので、今日は少し早めに風呂に入りたいと言った。
夕餉の席では、座敷に入らず廊下で家老が来るのを待っていた。
家老の島田源之助が入ってきて、上席に座ると、「鏡殿、そんな所におらずにこちらに参れ」と言った。
僕は頭を一度下げて、腰を低くしながら、下座に座った。
「御当家にお世話になっています」
頭を下げてからそう言った。
顔を上げると、家老は「聞いてはいたが、若いな。幾つだ」と訊いた。
「十七です」
「十七。そうは見えんなぁ。しかし、剣の腕は凄いらしいな」
「大したことはありません」
「盗賊を討伐したと聞いているぞ」
僕が黙っていると、家老の嫡男島田源太郎が「そうなんですよ。でも、父上にもそうは見えないでしょう」と言った。
「確かに」
「彼には門弟が百人もいるんですよ」と源太郎が言った。
「ほう」
「曾祖父の残した道場を興したんですよ」
「それでか、随分と若い衆がいるなと思ったが」
「父上が城に入られてからどれくらいになりますか」
「一月半、いや、もう二ヶ月近くになるかな」
「お城の生活も窮屈でしょう。もう少し、屋敷の方に戻られてはどうですか」
「そうしたいところだが」
家老がそう言うと、僕はつい「失礼ながら、お戻りになれない訳がございますのでしょう」と言ってしまった。
家老は顔色を変えた。
「鏡殿、何か知っているのか」と尋ねられた。
「いいえ、何も。しかし、御家老が城にお留まりにならなければならないというのは、尋常じゃないと思いましたので申し上げました」
「まさか、幕府の間者じゃあるまいな」
「そのような者ではありません」
「源太郎、この者を信じてもいいのか。お前の目でどう見える」
「大丈夫でございます。この者は信頼がおけます」
「そうか。わしも焼きが回ったようだな。人を信じることができん」
「父上に限って、そんなことはありません」
「私は、この場にいない方が話しやすいでしょう。下がることにします」と僕は言った。
「鏡殿、少し待ってくれ。訊きたいことがある」
「何でしょう」
「目付や側用人の子弟で、いたずらをしている者たちがいるとして、おぬしならどうする」
「叱ればいいでしょう」
「子どもなら、それでいいかも知れないが、大人だったらどうする」
「お灸をすえるしかないでしょう」
「そのお灸をすえる者がいないとしたらどうする」
「分かりません」
「そうか。わからんか。引き留めて悪かった」
「失礼します」
僕は自分の座敷に戻ってきた。
きくがいた。
「どうでした」と訊いてきた。
「どうもこうもない。ご家老はよほど用心しているのだろう」
「そうなんですか」
「ああ、城内で何かが起こっている、そう思った」
「まぁ。それは何でしょうか」
「私にも分からない。ただ、これは誰にも言ってはならないよ」
「わかりました」
「疲れた、今日は早く休むとしよう」