小説「僕が、剣道ですか? 1」

二十一ー2

 そのうちに川に出た。橋を渡ろうとしたら、「子どもが川に落ちたぞ」と言う声が川上から聞こえてきた。続いて「あそこを流されている」とこちらの方に声が飛んできた。

 僕は走って、橋の川上の方を見た。もう橋のすぐ近くまで子どもは流されてきていた。僕は橋の川下の方に走りながら、着物を脱いだ。それを丸めて、後からやってきたたえに渡すと、橋の上から川に飛び込んだ。

「誰か川に飛び込んだぞ」と言う声が後ろから、聞こえてきた。

 川は意外に深かった。もう少し浅ければ、川底を蹴って、子どもに近寄れるのにと思ったが、泳いで行くしかなかった。川の流れは速かったが、僕にしてはそれほど速くは感じなかった。ただ、子どもを掴むのが大変だった。着物の襟首を掴もうとしたが、そのまま脱げてしまいそうだった。しかたなく、脇の下に手を入れたが、子どもは必死になって暴れた。仕方なく、当て身を食らわせて気絶させ、何とか岸に泳ぎ着こうとしたが、子どもを抱えての川での水泳はそう容易くはなかった。気が焦るばかりで、岸はなかなかに遠かった。そのうち、自分も水を飲んでしまった。陸で刀を振り回しているのとは違い、時間がスローに感じるだけに、余計に水に浸かっている時間が長く感じた。そして、足が川底に着かない恐怖が襲いかかってきた。左手に抱えている子どもも重かった。両手が使えたら、難なく泳げる距離が遠くに見えた。

 一度沈んだ。駄目かと思った。すると、川底に足が届いた。思い切り蹴った。躰の半分ぐらい宙に出た。そして、また水に沈んだ。また蹴った。今度は藻に足を掬われた。上手く蹴れなかったが、それでも少し進んだ。そして一かきしたら、完全に川底に足が着き、立ち上がれていた。子どもを抱き上げ、岸まで歩いた。

 倒れ込みそうになったが、まだそうはいかなかった。子どもの胸に耳を当てると音が聞こえなかった。心停止状態だった。すぐに胸骨圧迫を三十回行い、その後で鼻をつまんで人工呼吸を二回一組として、これを何度も繰り返した。これは防災訓練の時に、人形を使ってやった経験に基づいてのことだった。

 永遠とも思える時間だった。何度、繰り返しても心臓の音は聞こえなかった。それでも、止めることはできなかった。蘇生するまで、繰り返すことが大切なんです、という訓練を行ってくれた人の声が聞こえてきそうだった。

 子どもの母親が、そしてたえが僕の着物と草履を持って、駆け寄ってくるのが分かった。もう駄目だと思って胸骨圧迫をした時、子どもは水を吐いた。僕はすぐに人工呼吸をした。

 子どもの心臓が再び動き出したのが分かった。僕はしばらく人工呼吸を続けた後、倒れ込んだ。たえが駆け寄ってきた。濡れた躰を抱き締めてくれた。温かかった。

 

 子どもは六歳になる男の子だった。僕はたえが渡してくれた手ぬぐいで躰を拭き、着物を着た。そして、川の側の石の上に座った。さすがに疲れていた。

 子どもの母親は意外に若かった。十六の時に子どもを産んだと言うから、まだ二十二歳だった。

「お名前をお聞かせください」と言われたが、僕は応える元気を失っていた。代わりにたえが「鏡京介様です」と答えた。

「お住まいはどちらですか」

「家老家の島田様の屋敷です」と、これもたえが答えた。

「ありがとうございました。わたくしは高木なみと申します。この子は勇太と言います。また、御礼に伺います」と言って、子どもをおぶって帰って行った。

 

 堤道場に戻ったのは、夕刻近かった。

 帰る道すがら、たえは「あなた様はお強い人ですね」と言った。

「剣のことを言っているのですか」

「いいえ」

「では何を」

「川に飛び込む時、怖くはありませんでしたか」

「そうだなぁ、本当のことを言おう」

「ええ」

「飛び込む時は怖くはなかったが、飛び込んだら怖くなった」

 たえは笑った。

「また、ご冗談を」

「冗談じゃないよ。本当に怖かったんだ。そして……」

「そして……」

「子どもを川から助け上げた時が一番怖かった。もう助からないんじゃないかと思って」

「あなた様は必死でしたものね」

「ああ」

「あんなご処置の仕方、初めて見ましたわ。でも、正しいご処置でした」

「一度、訓練でやったことがあるんですよ」

「まあ、そんな訓練があるんですの」

「あっ、いや、ここでの話ではありませんが」

「でも凄かったですわ。あなた様は強いだけでなくお優しいお方ですね」

「そうまともに言われると照れるなぁ」

「まぁ」と言いながら、たえは僕の肩をぽんと叩いた。

「お屋敷では、お世話をしている女の方がいらっしゃるんでしょう」と訊いた。

「きくのことですか」

「おきくさんと言うのですか」

「ええ、私の世話係をしています」

「そうですか。いつかお会いしたいものですわ」

「はぁ」と溜息をつきながら、何故だろう、と思った。

 

 家老の屋敷に戻ったのは、すっかり暗くなった頃だった。

 風呂に入った時、きくに「この髪は誰に結ってもらったんですか」と訊かれた。そしてすぐに「女の人でしょう」と言われた。

 僕は何も言わなかった。

「こんな結い方をするのは、女の人に決まっているでしょう」

 きくは紐を解き、結い直した。

 夕餉の後、座敷に戻ってもきくは怒っていた。

「おたえさんって言うんですね、その人は」

「ああ」

「で、今日もその堤道場に行ったんですね」

「ああ」

「そのおたえさんは何歳ぐらいなんですか」

「十七」

「十七ですか」

「そう」

 それからきくは口を利かなくなった。

 布団に入って、手を掴もうとしたが払われた。