小説「真理の微笑」

七十三

 早く帰ってきた私に真理子は驚いて、「どうしたの」と訊いた。

「少し疲れているんだ」と応えると「それならベッドで休んだら」と言った。

「いや、そうもしていられない。気にかかる事があるんだ」

 つい、口に出してしまった。しまったと思った。

「なに」と言われたので「仕事上の事だ」と答えた。

 私は書斎に上がった、真理子もついてきた。

「気が散るから、一人にしてくれ」

 私はそう言った。今までこんな事は真理子に言った事がなかったので、真理子はびっくりしたようだった。

「心配だわ」

「大丈夫だ。思い出さなければならない契約について、すっかり忘れていたようなので確認したいんだ」と、思いついた嘘をついた。

「そうなの」

「契約については、忘れてしまったので済みませんでしたでは、済まないからね」

「それもそうね」

「だから確認したいと思うんだ。しばらくは一人にしておいてほしい」

「わかったわ。何かあったら呼んでね」と書斎から出て行ったので「そうする」と言った。

 真理子が書斎から出て行ったのを確かめると、金庫の前まで車椅子で行き、手帳を出してダイヤルを回し、鍵を開けた。中には契約書の類いがずらりと入っていた。今まではその一つ一つを見る事はなかった。だが、今は手に取ってみる気になった。契約書を見るためではなかった。何かが、ここにある、と思えたからだった。

 一つ一つを見ていくうちに、調査報告書というものが出てきた。ある調査会社に富岡が依頼したものだった。どこかの会社でも探っていたのだろうか。富岡ならやりそうな事だった。そして、すぐに(株)TKシステムズの事が頭に浮かんだ。

 そう思って中を見ると、二通の調査報告書が見つかった。その一通は意外な事に富岡真理子に対するものだった。その時、富岡は真理子の浮気を疑っていたのか、と思った。

 調査報告書を開いてみた。

 調査報告書の中には、真理子が由香里を尾行していた事が書かれていた。その調査は一ヶ月に及んでいた。由香里が産婦人科の病院を度々訪れ、区役所にも行った事、そしてそれを真理子が尾行していた事が詳細に書かれていた。

 そこからは、真理子が由香里の妊娠を知っていた事が容易に想像できた。

 もう一通の調査報告書は、真理子の調査とは別に、由香里に対する調査だった。富岡は由香里に自分以外の男関係があるのかないのかという事も調べさせていたのだ。何しろ真理子と富岡は不妊治療のためにクリニックに通っていたのである。それなのに、由香里だけが妊娠したというのであれば、富岡以外に男性関係があって、その男との間にできた子を富岡の子だと言い張っている可能性だって考えられるではないか。富岡はその可能性を疑ったか、否定したかったのだ。その報告書には、富岡以外の男性の影はない事が書かれていた。ともかく、その二通の調査書から読み取れる事は、富岡は由香里の男関係をはっきりさせる事と、真理子が由香里の事を何処まで知っていたのかを探る事だった事が分かる。どちらの調査報告書も私が事故を起こす一週間前に届けられていた。

 不妊治療を長年続けていて、それでも子どもに恵まれなかった真理子が、由香里の妊娠を知ったらどう思うだろうか。哀しみや怒りや絶望が一気に、真理子を襲ったのではないか。そして残ったものは、何だろう。憎しみではなかっただろうか。

 もちろん、それは最初は由香里に対するものだったろうが、不妊治療を続けていた事を考えると、富岡にも向けられたのではないか。

 今日刑事が言っていた、ブレーキに細工がされていた、という事が頭から離れなかった。刑事は高瀬を疑っていたようだが、高瀬がそんな事をしていない事は私がよく知っている。としたら、ブレーキに細工ができるのは、真理子しかいないではないか。真理子の父親は自動車修理工場をやっていた。真理子は子どもの頃から、その工場で遊び、車の事も詳しくなったのに違いない。真理子ならブレーキに細工する事ができる。というよりも真理子以外に富岡の車のブレーキに細工をできる者がいるのだろうか。そう思うと、ゾッとした。真理子も富岡を殺そうとしていたのだ。

 私は奇妙な気持ちになった。富岡を殺すという事では、目的が一緒だった。ただ、ちょっとした手違いがあったのだ。それだけだ。だから、私と真理子は、いわば共犯なのだ、と私は思った。

 

「あなた、コーヒーでも飲む」と、書斎の外から真理子の声が聞こえてきた。

「ああ、ここに運んでくれ」と、私は調査報告書を金庫に仕舞いながら答えた。この報告書は、後でスキャンしてファイル化したら、強力な暗号をかけてハードディスクとフロッピーディスクに保存し、シュレッダーにかけて処分してしまおうと思った。これで報告書の存在は私にしか分からなくなる。