小説「真理の微笑 真理子編」

真理の微笑 真理子編

 

 ボンネットを閉じた。

 これで全ては終わった。後は富岡がこの車に乗って蓼科の別荘に向かえばいいだけだった。ブレーキに仕掛けた細工が、あの急カーブの坂のどこかでブレーキを利かなくさせ、その結果、車は崖下に転落するだろう。

 富岡の手帳にYの字を発見してから、随分と時間が経った気がする。

 富岡が浮気をするのは、初めてではない。楓とかいうクラブに通ってあけみという女性と遊んでいることも知っている。また、会社の秘書とできている可能性も捨てきれなかった。だが、新しく加わったYの文字には、不吉な予感のようなものを覚えた。そこに示された数字は、会う時間なのだろう。

 真理子は、自分の車ではなく、借りた車を会社近くの道路に止めて、富岡が出てくるのを待った。真理子は富岡の妻だった。髪はショートカットで、耳にはシルバーのイヤリングをしていた。細く高い鼻梁を挟んで二つの大きな瞳が、真理子の美しさを際立たせていた。

 やがて、富岡が会社から出てきて、自分の車に乗った。そして動き出す。真理子は富岡に気付かれないように尾行した。

 小一時間ほど走って、富岡の車はあるアパートの前で止まった。路上駐車すると、車から出てそのアパートの一階の端の部屋に入っていった。

 真理子は少し離れた場所に車を止めると、外国製の煙草を取り出した。普段はあまり吸わないのだが、気分がむしゃくしゃしたときなどにたまに吸うことがあった。今は時間を持て余しているから、煙草に手が伸びたのだった。

 二時間ほど経っただろうか、部屋から富岡が出てきた。中から女も出てきて、富岡の車までついてきた。富岡の車が出ると、手を振って見送った。

 真理子はその女の顔を双眼鏡で確認した。自分ほどではないにしても、美人と言える顔立ちをしていた。彼女が部屋に入るのを見届けると、車から降り、その部屋の番号と表札を確認した。斉藤由香里、それが彼女の名前だった。

 真理子は車をレンタル会社に返すと、自分の車で買物をして家に帰った。当然のことではあったが、富岡の方が先に帰っていた。

 真理子は何事もなかったかのように夕食の準備をした。

 

 次の日も、富岡が出かけると、真理子はカーレンタルをして由香里のアパートを見張った。カーレンタルをするのは、真理子の車が真っ赤なポルシェだったからだ。尾行するのには目立ちすぎた。

 由香里は午前中は干し物をして、午後には自転車で買物に出かけた。夕方になると少し着飾って、やはり自転車で出かけた。つけてみると、カフェだった。そのカフェは富岡の会社のすぐ近くだった。そこで五時から九時頃まで働いているようだった。あまり正確でないのは、ずうっと由香里をつけているわけにはいかなかったからである。九時まで働いていることがわかったのは、富岡が大阪に出張した時だった。

 Yの字が書かれている日を目安に尾行して、その翌日以降は富岡が出かけると朝から貼り付いた。

 そしてある日のこと、彼女が干し物を済ませると、自転車に乗りどこかに出かけた。その後をつけてみると産婦人科医院だった。真理子も患者を装って中に入った。こぢんまりとした医院だった。受付の人に保険証を求められたので、「友人を待っているんです」と答えた。なるべく隅の方に座り、由香里が診察室に入っていくのを待った。そしてその時が来た。しばらくして、顔を輝かせて出てくる由香里を見た。真理子は由香里が妊娠したことを知った。

 由香里は医院を出ると、そのまま区役所の方に自転車を向けた。真理子は気付かれないように尾行した。そして区役所の中に入った。建物の三階に「出産・こども・教育」と書かれた場所があった。由香里はそこに行き、母子健康手帳の交付を受けた。これで由香里が富岡の子を妊娠したことがはっきりとした。

 Yの字を見つけた時から、由香里を尾行していたが、他に男の影はなかった。おそらくそれ以前もなかったのだろう。あれば、一度ぐらい、その他の男と会っている現場を目撃しているはずだったからだ。とすれば、由香里の妊娠の原因は、富岡以外には考えられない。

 真理子は目眩がする思いで区役所を出た。

 そのあと、レンタルした車を返し、自分の車で自宅まで戻ったのだが、その間の記憶がなかった。怒りで頭の中がいっぱいだったからだ。

 富岡とは十二年前に結婚した。結婚した当初は、子どもを産むのは先延ばしにして二人の生活を楽しもうと思った。それも三年、四年経つと、そろそろ子どもが欲しくなってくる。それまで避妊していたのをやめて、普通にセックスをした。今度は子どもを産みたいという欲求があったから、あえて危険日にセックスをした。しかし、子どもは授からなかった。それが二年も続くと、さすがに何かおかしいと感じるようになった。そうなるとぜがひでも真理子は子どもが欲しくなった。嫌がる夫を説得して、二人で不妊治療専門のクリニックに通った。果たして結果は、真理子は妊娠しにくい体質であることがわかり、富岡はストレスによるものなのか生来的なものなのか、精子量が低下していることがわかった。いずれにしてもミトコンドリアが低下しているということなので、それを増加・活性化させる薬を飲むことから始めた。しかし、その効果は一向に上がらなかった。そこで、人工授精も試みた。一割から一割五分の確率で妊娠するということだったが、これも三度行ったが、駄目だった。クリニックは途中で、別のクリニックに変えたりもして、都合六年間も通ったが、真理子が妊娠することはなかった。

 それなのに由香里には子どもができたのだ。それをどんな顔をして富岡に報告するのだろうか。真理子は想像したくなかった。

 その後も真理子は由香里の尾行を続けた。そして、富岡が子どもを産むことを承諾しただろうことを、由香里と富岡の表情から読み取った。

 初めは、怒りの矛先は由香里だった。だが、苛立つだけで何もできない。時間だけが過ぎていく。そのうちに、由香里の部屋から出る富岡に嬉しそうな表情を見た。その時、真理子は急に孤独を感じた。と同時に富岡に対する怒りが吹き出てきたのだった。

 そして経済的なことも頭を掠めた。このままでは、由香里に妻の座を奪われやしまいか。少なくとも会社社長である富岡の後継者が誕生しようとしているのだ。

 と同時に六年間も続けた不妊治療のことが頭を過った。由香里の妊娠は、重大な不法行為ではないか。それよりも何よりも、あの嬉しそうな富岡の表情が憎らしかった。心の中に芽生えた殺意は、止めようがなかったのだ。