六十九
十九日になって由香里が出産した。
陣痛がきたからこれから病院に行くという電話が、午前中の会社にいた私宛に由香里からあった。私は急ぎの仕事を片付け、高木に後の事を任せて病院に向かったが、電話から四時間ほどは経っていただろうか。病院に着くと、すでに由香里は出産を終えていた。
病室に入ると由香里の隣のゆりかごに赤ちゃんが寝かされていた。
由香里は赤ちゃんの方を見ていたが、私が入っていくのが分かると「あなた」と声を上げた。私はコートを脱いでハンガーに掛けると、由香里を抱きしめた。そして、「よくやった」と褒めた。それから、赤ん坊の顔をしげしげと見た。
「男の子よ。あなたに似ているわ」と由香里が言った。
「うん」と答えながら、これは富岡の子だから私に似るはずがないじゃないか、とは言えなかった。
看護師がやってきて、私に産着に包まれた赤ん坊を抱かせてくれた。
赤ん坊を抱いている私に向かって「名前、付けてね」と由香里は言った。
「分かった」
富岡の子を抱きながら、私はこの子の父親になるのか、と思った。
介護タクシーで会社に戻ると、社長室前に高木がいて、「中に奥様が来ていらっしゃいます」と言った。
「新年会の御礼もあり、得意様回りをしています、と答えておきました」と続けた。
「分かった」と答えると、私は社長室に入った。真理子は窓辺に立って外を眺めていた。
「忙しいのね」
「まあね」
「今日は区役所に行ってきたの」
「区役所」
「そう」
「何しに行ったの」
「母子手帳を貰いに行ったのに決まっているじゃない」
「そうか」
真理子はハンドバッグから母子手帳を出して見せた。
「病院に行って予定日を訊こうかと思ったわ。昨日はつい嬉しくなっちゃって、予定日を聞いたかも知れないんだけれど、忘れちゃって」
「そういうのって忘れるもんかなぁ」
「意地悪、言わないでよ。わたしは、赤ちゃんができたって事で嬉しくなって他の事は考えられなかったのよ」
「そうか、で……」
「出産予定日は妊娠届出書に書いてあったわ。妊娠届出書を医師から渡されていたのをすっかり忘れていたの。出産予定日は九月十六日よ」
「九月十六日か」
「ようやく、できたのね」
「そうなのか」と驚くと、「そうよ」と、真理子は実に楽しげだった。
妙なものだった。今日、由香里の赤ちゃんを抱いてきた。由香里はその子の父親は私だと思っているが、その子の父親は富岡だった。そして、今、真理子は自分のお腹にいる子の話をしている。その子は紛れもなく私の子だった。真理子との間にできた子だ、嬉しいはずなのだが、真理子は富岡の子だと思っていると思うと奇妙な気分になった。
七十
由香里は出産して一週間後に退院した。私はあいにく手が離せない用事があったので、病院には高木に行ってもらう事にした。会計は高木が済ませて、由香里を自宅までタクシーで送り届けてくれていた。
こちらの用事が済んだので、由香里に会いに自宅まで行くと、タクシーの運転手が「お孫さんですか」と高木に訊いた事を由香里は可笑しそうに私に話した。
由香里はテーブルの椅子に座っていて、赤ちゃんはベビーベッドの中で眠っていた。退院の日は分かっていたので、予め手配をして退院日に届けてもらい、組み立ててもらうように注文していたのだった。
「あなた」
由香里が私が座っている椅子の肘掛けにかけている手を掴んだ。由香里の部屋は狭いので、松葉杖で玄関から上がって、すぐ食堂の食卓の椅子に腰かけていた。
「この子の名前、考えてくれた?」
「いや、まだだ」
「わたしね、隼人って付けたいと思うんだけれど、どお」
「隼人か、いい名だ。それでいいんじゃないか」
由香里はベビーベッドに行き、中の赤ちゃんの手を掴んで「おとうちゃまは隼人でいいって言ってまちゅよ。あなたもそれでいいでちゅね」と赤ちゃん言葉で言った。
「躰は大丈夫か」
「大丈夫よ、病気じゃないんだから」
「そうか」
「なるべく早く出生届を出したいんだけれど、あなたも行ってくれる」
「私は……」と口ごもった後で、「一緒に行きたいが付き添えない」ときっぱりと言った。
「そう、じゃあ、わたしひとりで行くわ」
そう由香里が言った時、不安が過った。由香里がどう書いて出すのか確認した方が良いのではないかと思ったのだ。勝手に子の氏名を「富岡隼人」と書いて出すのではないかという疑いが頭に浮かんだのだ。
「いや、待て、私も行く、一緒に出す」
由香里は「ああ、良かった」と安堵の声を上げた。
由香里は五日後に隼人の出生届を区役所に出しに行った。私もついていった。赤ちゃんはベビーシッターを頼んで見てもらう事にした。
子の氏名は「斉藤」「隼人」と書き、父母との続柄の欄では「嫡出でない子」のところにチェックマークを付けた。
後は父親の氏名の欄に「富岡修」と由香里が書くのを黙って見ていた。
住所は由香里のアパートで世帯主も斉藤由香里と書いていた。
それらを私は確認すると、由香里は出生届を係の者に渡した。
七十一
帰るために会社に迎えに来た真理子は車を出すと「書店に寄ってもいい」と尋ねた。
「構わないよ」と私は答えた。
真理子が書店に私の車椅子を押しながら入っていくと、赤ちゃんの名前の付け方の本が並んでいるコーナーに連れて行かれた。
真理子は目の届くところの本を取り出しては、いろいろと見ていた。私は、手の届くところの本を見た。その本の帯には「子どもの名前は一生もの! そして、親からお子さんへの初めてのプレゼント」と書かれていた。
由香里の子の出生届は今日出してきた。しかし、その名前は由香里が考えたものだった。私には富岡の子に名前をプレゼントする義理はなかった。
真理子は何冊かを籠に入れると、レジに持って行った。
家に帰ると、それらの本の入った袋をリビングのテーブルに置き、真理子は夕食の準備に取りかかった。
「後で一緒に見ましょうね」と、真理子は言った。だが、私はすでに袋を開いて、何冊かパラパラとめくっていたので「分かった」と言い、慌てて本を袋に戻した。
夕食の後、二人で本を見た。
「男の子だったら、勇ってのはどお」
「勇か、勇ましい名前だね」
「あなたが修だから、おといを入れ替えたらそうなったの」
「おい、こらっ」と私が軽く手を上げると、「うふふ」と真理子は逃げるような振りをした。そして「ゆういち、っていうのもいいよね」と言った。私はゆういちという呼び方から、すぐに祐一を連想して「それはない」と言った。そして、真理子を見た。今のは偶然なのか、と思った。
「どうせ、勇ましいのなら、たけるがいいんじゃないか」
「どう書くの」と言うから『猛』と、本のページの余白に書いた。
「なるほどね。じゃあ、女の子だったら」
「九月生まれだよね。えり、とか」
やはり「どう書くの」と訊くから、私はさっき書いた余白の隣に『恵梨』と書いた。
「富岡恵梨か。あっ、だったら富岡恵梨香の方がいいんじゃない」
「どっちでもいいよ。まだ、先は長いんだ。ゆっくり考えればいい」
「そうね」