小説「真理の微笑」

 混乱に陥っていた私に声が聞こえた。

「あなた、わたしよ」

 不意に頬に手が触れて、女の顔が現れた。しかし私には見覚えがなかった。いや、そう言えば時々この病室に足を運び、包帯越しに私の顔に触れた女があったのを思い出した。そして、遠い記憶の底から響いてくる小川のせせらぎのようにすすり泣く女の声も……。だが、それも朦朧とした意識の中の途切れ途切れの記憶に過ぎない。

 私はきょとんとしたまま、女の顔を見続けた。

「ねぇ、わかる。わたしが」

 細く高い鼻梁を挟んで二つの大きな瞳が、私を覗き込んでいた。髪はショートカットだった。耳にシルバーのイヤリングが鈍い光沢を放っている。

 私の近くに顔を寄せて、次第にその細面の顔に心配の表情が広がっていった。

「ねぇ、真理子よ。真理子」

 女は、多分、自分自身の名を言った。しかし、私には女の顔も名前も、覚えがまるでなかった。一体自分に何が起こったのか、私にはまだ良く理解できていなかったのだ。

 女はくるっと振り向き、「先生!」と助けを求めるように叫んだ。

 先程、私の顎をぐいっと持ち上げた医者が、彼女の後ろに立っていた。そして、彼は頭を振ると「ご主人はまだ話せませんし、あれだけの事故に遭われたんだから記憶が一時的に混乱しているという場合だってありますからね」と言った。

 彼の答えは女の不安に対して、ただ説明を加えたのに過ぎなかった。私はこういうタイプは……嫌い……だった。

 と、頭の中に引っかかる言葉が浮かび上がってきた。

『ご主人はまだ話せませんし……』

 えっ、ご、主、人……だって……。すると……。

 私は医者から視線を女に戻した。今にも泣き出しそうに潤んだ瞳を持つ、この美しい女性は、私の〈妻〉……なのか……。

 

 私はどれほど〈妻〉を見ていたのだろう。時間の感覚がなかった。しばらくして誰かが私の視界を塞いだ。瞼を閉じるように言われたのだろうが、私には分からなかった。だから、死体の瞼を閉じるように誰かにそうしてもらい、目を覆う包帯がそれを補った。その前に、目薬でもさしてもらったかも知れない。閉じた目から頬に伝う涙のようなものを、私は感じた……。

 整理のつかないがらくた箱の中に踏み入れたようなものだった。視界が閉ざされた分だけ混乱は増幅していた。何を考えても(そもそも考えていたのだろうか)まとまらない。周りの声や器具の音が、ただガチャガチャと何も形を成さぬままに聞こえてくるだけだった。

 やがて人の出て行く気配がした、一人残して……。

 胸に僅かに重さを感じた。「あなた」という囁きが聞こえた。〈妻〉だった。その瞬間、甘美な声に心が流されていく感じがした。さっき見た女性の顔が、閉じた瞼を通しても見えるようだった。が、それはほんの一瞬でその次の瞬間には恐怖が湧き起こった。もう一人の顔が浮かび上がってきたのだった。

 私は……、〈妻〉が呼びかけている人じゃない!

 鼓動が激しくなり、私は硬直した。さっきまでは混乱していたがゆえに救われたが、今は違っていた。全身の震えが止まらなくなった。胸に感じた重さがなくなり、〈妻〉の「先生」と叫び出す声を遠くに聞いた。そう思った時には、多分気を失っていた。

 …………

 私は終わりのない悪夢の中にいた。起きては震え、痙攣し、鎮静剤を投与され(それは点滴のパックの途中についている小さな注入口に注射器のようなものを刺して行われた)、また浅い眠りについた。真っ白く四角い箱の中に私は膝を抱えて座っている。時々、上の蓋が開く。夥しい差すような光に包まれる。そして蓋は再び閉じ、私は膝を抱えたまま身じろぎもしない。夢と分かっていても永久運動のようにそれは果てなく続くように感じた。

 …………

 どれくらいそうした日々が過ぎたのだろう。おそらく自分が思っているよりもずっと短かったはずだが、どうであれ、一瞬よりも永遠に近かった。

 

 直接陽光が差し込まない時間帯は、カーテンが開かれていて、私は病室の窓から外を眺めていた。右にも左にも向かいにも、さらにその向こうにも建物が見える。ただ、向かいとの間に距離があるので、公園のようなものが下にはあるのだろう。八階のベッド(誰かがそう言った)に横たわる私にはそれを確認する事ができなかった。私は病院のベッドから一歩も外には出られなかったのだ。

 時折、看護師が現れては、傍らの点滴スタンドのパックを取り替えていく。時間の感覚がほとんどなかった。大体、自分の躰がどうなっているのかもよく分からなかった。右半身はほとんど何も感じる事はなかった。左手を動かそうとしても、そううまく指さえも動かなかった、包帯に巻かれていて。顔も動かすという感じではなく、ほんの僅かに左右に傾けられる程度だった。ただ、眼球だけは、たぶん普通に動かす事ができた。そんな状態の私にできる事といったら何かを見ているか、考える事ぐらいだった。

 だが、冷静に考える事からはほど遠かった。不安が心を満たしていた。眠りにつけば、再び起きる事ができるのだろうか。いや……、起きている事に安楽はあるのだろうか。これがまず頭を巡る。次に躰はどうなっているのだろうか……。私は横たわっているだけなのだ。排泄物の始末もしてもらっているようなのだが、それもよく分からない。今のところ、点滴だけで生き長らえている。何か排泄したとしても水のようなものだろうと想像する。

 また、時折、躰の位置や角度を変えられている。多分、床擦れの防止なのだろう。しかし、それも視界が動くからで、ビデオカメラで撮った映像が撮影者の手の動きによって、映像が横になったり、揺れたりするのに似ていた。

 また、ある時は、いや、もっと頻繁に……〈妻〉が語りかけるのを聞いていた。混乱している頭には、メロディーのようだった。すうっと近寄って、枕の位置を変えるとき、微かに漂う女性の香りは、嗅覚がある程度戻っている事の証左だった。

「だいじょうぶ……?」

 語尾を少し伸ばした、透明だが甘さの感じる声は、私が聞こえているのかいないのか、それを確かめているふうでもなく、何かをするにつけ「いたくない……?」と同じように、繰り返される旋律の一つだった。

 

 記憶の断片がフラッシュバックのように現れる。

 頬を少し寄せ、ふっと笑い、「ねぇ」って言う声が聞こえた。

 妻の夏美だった。もう十年も前の事だ。

「出来たみたい……」

 その声がまるで昨日のように夢の中に現れた。

 その喜びに満ちた声を私は抱き締めようとした。

 私は手を広げたが、できる事はそこまでだった。抱き締めたくても、そうする事もできずにいる。

 夜は深い。静かに涙が流れていく。