小説「真理の微笑」

十二

 後で特別個室であると知ったが、看護師が入ってきて、「お名前を言ってください」と言った。私は富岡と言おうとしたが、うまく声が出せなかったので、真理子が代わって「富岡修です」と言った。

「では、検温しましょう」と、年輩の看護師は体温計を振りながらベッドの脇に立つと、ちらっと目盛りに目を走らせた。

「左の脇に挟みますから、しっかり脇を締めて動かないでくださいね」

 私は人形か何かのように言われるままだった。細い凶器のように見える体温計が左脇に差し込まれ、私は脇を締めた。看護師は腕時計に目をやった。そして真理子に向かって、「どんなふうですか。何か変わった事はありませんでしたか」と話しかけた。

「いいえ、別に。元気なようです」

「富岡さんは好運でしたわね。先生の、顔の手術の中でも、今回は出色の出来ですわよ。ほとんど芸術的と言ってもいいわ」

「ええ、ほんとに。あんなに凄い事故だったのに、以前の主人と寸分も違わないわ。むしろ、顎が少し鋭角になって、皺が取れた分若返ったくらい……」

「一時は駄目かと思いましたが、富岡さんは生命力がお強いんですよ。何しろ上半身火傷と全身打撲でしょう。最初は先生方も駄目だと思っていらっしゃったほどですもの。顔だってフロントガラスに突っ込んでしまって歯は勿論、顎や鼻の骨までほとんど粉々でしたからね」と、看護師は他人事のように得意気にしゃべった。しかし、その一言一言が自分の事であるから胸に突き刺さってくるように感じた。その間に看護師は脈拍も測っていた。

 看護師がいなくなると、真理子が椅子を寄せて座った。

 真理子は美人だった。それほどのミニではなかったが座ると膝頭が出てスカートがずり上がった。その膝が私の顔の方に向いている。両腿とスカートの間に三角の薄い闇ができている。それが否応なく目に飛び込んでくる。顔を動かそうにも上手く動かせない。さっき、体温計を脇に差し入れた時に看護師が動かした角度のまま、真理子を見る事になった。もっともその方が自然と〈妻〉である真理子と相対する感じにはなっていた。

「気分はどう」と訊くので、声を出そうとしたが呻くような声にしかならなかった。

「無理しなくていいのよ」

 真理子は少し鼻にかかった甘い声だった。包帯に巻かれたままの私の手を彼女は包むようにとった。不思議な感じだった。彼女は富岡の〈妻〉だから、当然、富岡を愛している。今、その愛情が自分に向けられている。悪い気持ちはしなかった。というより、妖しい感情が湧き起こってきていた。

 真理子の顔を見た。潤んだ瞳で私を見ていた。すると、突然のように妻の顔が浮かんできた。妻は目が細く、いつも眠そうに見えた。平凡な顔立ちだったが、笑うとその目が閉じるような感じになり、かえって愛嬌があって可愛く見えた。私は結婚する前、妻の夏美を笑わせる事に熱心になった。何かにつけ面白い事を夏美に話しかけていた。

 潤んだ瞳の真理子は全く逆だった。その瞳に吸い込まれそうになっていく自分を感じた。

 包帯を通して真理子の手の温もりが伝わってきた。それは富岡に対するものであったとしても、〈愛情〉が伝わってくるかのようだった。

 

 真理子は小一時間ほど病室にいて、「また夕方に来るわね」と言って出て行った。

 会話も何もなくただ手を包んでいた彼女は、その小一時間一体何を思っていたのだろう。

 分からない!

 真理子は表情を変えず、ただ私を見ていた。何度か口を開きかけていた。だが、その度に言葉を飲み込んでいた。仮に真理子が「大丈夫」と訊いたとしても、私には呻き声でしか答えられない事は、彼女にも分かっていた。だからか、お互いにただ見つめ合っているしかなった。何も言わない時間だけが、ただ過ぎていき重苦しかった。

 彼女は富岡の目を何度も見ているはずだった。目の違いに気付くという事はあるのだろうか。分からなかった。分からないだけに、沈黙の間中、彼女の目に浮かぶ表情を読もうとした。私は必死だった。彼女から得られる情報はそれしかないのだから。

 真理子が立ち上がった時、正直、ホッとした。

 

 午後、看護師が点滴を交換すると、その後に医者が診察に来た。

 ネームプレートを見せて「中川といいます」と言った。

「気分はどうですか」と言った後、「あっ、すみません。無理に話さなくてもいいですよ。声帯が損傷していたので元のような声ではしゃべれないかも知れません。しかし、幸いな事に話せないわけではありません。そのうち、普通に話せるようになりますよ。今はまだ喉が治っていませんから『はい』『いいえ』で答えてください。いいですね」と言った。

 私は「はい」とは言わずに頷いた。

 医者とは、どこか痛いところがないかといった簡単なやり取りをしただけで出て行った。

 

 点滴がゆっくり落ちるのを見ながら、ベッドに横たわっているしかなかった。

 躰を動かしてみた。腕を上げる事はできた。両手には掌から指先まで包帯が巻かれていた。左手を挙げた。包帯を通しても薬指にリングのようなものがあるのが分かった。

 結婚指輪だった。一瞬、妻との……と思ったが、あの山荘の出来事がすぐに蘇ってきた。これは富岡のものに違いなかった。とすれば、この指輪を処分する間もなく、事故を起こした事になる。

 トランクに入れた富岡の死体が見つかっていないから、今、自分はこうして富岡になりすましていられる。そうであれば、富岡の死体は予定通り埋めた事になる。そして、おそらく、証拠品になりそうなものも処分したのだろう。

 その後、車を発進させ、東京に向かった。そして、どこかで指輪を抜いて投げ捨てるつもりだった。その途中で事故に遭ったのだ。

 富岡の車に乗っていた私は、フロントガラスに突っ込んで顔がぐしゃぐしゃになっていたが、富岡の結婚指輪を嵌めていた事で、皮肉にもその事故に遭った者が富岡である事を立証したのだ。腰ポーチに入れていた私の免許証や財布などは、その時に焼けてしまったのだろう。だから、結婚指輪が決め手になったのだ。