小説「真理の微笑」

 直接陽光が差し込まない時間帯は、カーテンが開かれていて、私は病室の窓から外を眺めていた。右にも左にも向かいにも、さらにその向こうにも建物が見える。ただ、向かいとの間に距離があるので、公園のようなものが下にはあるのだろう。八階のベッド(誰かがそう言った)に横たわる私にはそれを確認する事ができなかった。私は病院のベッドから一歩も外には出られなかったのだ。

 時折、看護師が現れては、傍らの点滴スタンドのパックを取り替えていく。時間の感覚がほとんどなかった。大体、自分の躰がどうなっているのかもよく分からなかった。右半身はほとんど何も感じる事はなかった。左手を動かそうとしても、そううまく指さえも動かなかった、包帯に巻かれていて。顔も動かすという感じではなく、ほんの僅かに左右に傾けられる程度だった。ただ、眼球だけは、たぶん普通に動かす事ができた。そんな状態の私にできる事といったら何かを見ているか、考える事ぐらいだった。

 だが、冷静に考える事からはほど遠かった。不安が心を満たしていた。眠りにつけば、再び起きる事ができるのだろうか。いや……、起きている事に安楽はあるのだろうか。これがまず頭を巡る。次に躰はどうなっているのだろうか……。私は横たわっているだけなのだ。排泄物の始末もしてもらっているようなのだが、それもよく分からない。今のところ、点滴だけで生き長らえている。何か排泄したとしても水のようなものだろうと想像する。

 また、時折、躰の位置や角度を変えられている。多分、床擦れの防止なのだろう。しかし、それも視界が動くからで、ビデオカメラで撮った映像が撮影者の手の動きによって、映像が横になったり、揺れたりするのに似ていた。

 また、ある時は、いや、もっと頻繁に……〈妻〉が語りかけるのを聞いていた。混乱している頭には、メロディーのようだった。すうっと近寄って、枕の位置を変えるとき、微かに漂う女性の香りは、嗅覚がある程度戻っている事の証左だった。

「だいじょうぶ……?」

 語尾を少し伸ばした、透明だが甘さの感じる声は、私が聞こえているのかいないのか、それを確かめているふうでもなく、何かをするにつけ「いたくない……?」と同じように、繰り返される旋律の一つだった。

 

 記憶の断片がフラッシュバックのように現れる。

 頬を少し寄せ、ふっと笑い、「ねぇ」って言う声が聞こえた。

 妻の夏美だった。もう十年も前の事だ。

「出来たみたい……」

 その声がまるで昨日のように夢の中に現れた。

 その喜びに満ちた声を私は抱き締めようとした。

 私は手を広げたが、できる事はそこまでだった。抱き締めたくても、そうする事もできずにいる。

 夜は深い。静かに涙が流れていく。