小説「真理の微笑」

二十六-2

 それからどれくらい時間が経っただろうか、三十分とは経っていなかったと思う。
 突然、病室に若い、少しケバケバした女性が現れた。
 私を見るなり、「修ちゃん、こんなところにいたの」と抱きついてきた。
 私は彼女を引き離すと、「ちょっと、待ってください。あなたはいったい誰ですか」と訊いた。
 彼女は私の発した声に一瞬、ぎょっとした。
「どうしたの、その声」
「声帯を損傷したので、こんな声しか出ないんです」
「そう。事故っちゃったんだものね」
 私は頷いた。
「ねぇ、あたし、あたしよ。あ・け・み、わかる」
 もちろん、見覚えはなかった。
 きょとんとしている私に「どうしちゃったの、修ちゃん。あたしがわからないの」と言った。私は頷いた。
「ほんとにわからないの」
「ええ」
「うそでしょう。誤魔化してない?」
「事故前の記憶がないんです。本当です」
「やだぁ~、困っちゃった」
「どうしたんですか」
「あたしとの約束も忘れちゃったってわけ?」
「約束?」
「そうよ、約束」
 私は頭を左右に振った。
「北さんの事よ」
「…………」
「あんな事になっちゃったから、言い出しにくかったんだけれど、約束したわよね。北さんと寝たら百万くれるって。あたし、守ったわよ」
 ケロッとして言う、あけみという女に、私は躰中が震え出すほどに、血が頭に上っていくのが分かった。この女だったのか、北村を誘惑したのは。
 躰が自由に動けば、この女を絞め殺したくなっているところだった。躰がガタガタ動き出した。この女と二人だけで病室にいる事に耐え難くなったのだった。
 私はナースコールした。すぐに看護師がやってきた。
 私はわざと激しい呼吸をした。看護師は彼女をベッドからどかして、血圧を測った。私は分からないように思いっきり力んだ。血圧は思ったほどには上がらなかったが、普段よりは高かった。
「どうしたんですか」
 看護師がそう訊いた。
「少し、胸が苦しくなって……」と言った。
「それじゃあ、先生、呼んできますね」
 看護師は出て行った。
 さっきの女は部屋の隅に立っていた。所在なさげだった。
「あたし、帰るね。また来るわ」と彼女が言うと、少しは冷静さを取り戻した私は「待ってくれ。話を聞くから」と言った。怒りは収まらなかったが、このまま帰しても、気になるだけだったからだ。
「そこにいてくれ」
 しばらくして、医者と看護師がやってきた。医者が私の胸に聴診器を当てた。やがて聴診器を首にぶら下げて「心配いりません。胸の音は綺麗です」と言った。
「そうですか。ご心配をおかけしました」と言うと、「いいんですよ。気になったらいつでも声をかけてください」と言って出て行った。
 部屋の隅にいた女がベッドに寄ってきて「あたしのせい」と訊いた。
「ちょっと、驚いただけですよ」と私は努めて冷静さを保って、そう言った。
「クラブにも来ないし、会社に電話しても社長はいないって言うし、一体、どうなっているのか、全然わからなかったの。これでも心配していたのよ」
 彼女は二十四、五歳といったところだろうか。もう少し若いかも知れなかった。化粧が濃いめなので、年齢がよくは分からなかった。ただ、声が若さを感じさせた。
「見ての通りです。自動車事故を起こして、今はベッドから出られません。そして、事故前の記憶を全部失っているんです」
「そう」
「自動車事故の事は報じられているかも知れませんが、どうしてこの病院が分かったんですか」と、私は疑問に思っている事を口にした。
 女はベッドの側の椅子に座って、「あたしだって馬鹿じゃないわ。二ヶ月も修さんと連絡が取れないなんて普通じゃないもの。何かあった事ぐらい、わかるわよ」と言った。
「でも葬式が行われた様子もないから、病気にでもなったんじゃないかと思ったの」
「そうか」
「いろいろ捜したわよ。でも、駄目ね。むやみに捜しても見つかるはずないもの」
 それはそうだろう、と思った。
「それでね、いい事思いついたの」
 女の目が輝いた。