小説「僕が、剣道ですか? 5」

三十八

 部屋に入ると、僕はすぐに寝転がった。

 今日は大変な一日だった。

 午前中は、公儀隠密との戦いがあり、午後は関所を通過しなければならなかった。

 だが、少しは時の止め方が分かり、全部の時を止めるのではなく、その場所一帯の時だけを止めればいいことが分かって、少しは楽になった。それでも大変な負担であることに違いはなかった。ただ、前ほどには疲れなかった。

 寝転がっているうちに眠ってしまった。

 

 風車が「風呂に入りに行きませんか」と、誘いに来た。

 それで起きた。

「行きます」と答えた。

 風呂に浸かると、風車が「それにしても凄い数の人でしたね」と言った。

「そうですね」

「それを全部、やっつけたんだから、鏡殿は凄いですね」

「それほどでもありませんよ」

「あの血の臭い、今でも忘れられませんよ」

 僕は黙っているしかなかった。

「それにしても鉄砲の音が聞こえませんでしたね。どうしてなんでしょう」

「私が突然現れたので、びっくりしたのでしょう」と言うと、風車が「そんな、馬鹿な」と言った。

 

 夕餉は、風車もきくもよく食べた。昼餉に饅頭しか食べていなかったからだ。

 夕餉が終わったら、布団が敷かれた。

 僕は布団に入った。

 今日はさすがに、風車も碁は誘ってこなかった。僕が疲れていることを知っていたからだ。

 僕は布団に入ると、すぐに眠った。

 

「朝餉ですよ」と言うきくの言葉に起こされた。

 朝餉の膳が廊下に運ばれていた。

 僕が起きると、布団が押入れにしまわれ、朝餉の膳が並べられた。

「よく眠っていたか」と訊くと、「はい」と答えた。

「そうか」

 やはり疲れは躰の奥に残っていたのだ。

 朝餉を食べている時に、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。

「雨になったな」と僕が言うと、「そうですね」ときくが言った。

「今日もここに泊まりましょうか」と言った。ここが他よりも料金が高いことを気にしたのだろう。

「そうしよう」と僕は言った。

 風車にも「今日はここに泊まることにします」と言った。

「そうですね。雨になりましたものね」と言った。

 

 朝餉を済ませると、風車は囲碁をしたいようだったが、僕は布団を敷いて眠った。疲れはやはり残っていたのだ。

 昼餉を食べて、僕はやっと風車の囲碁の相手をした。

 風車は嬉しそうに碁盤を持ってくると、三子を置いて、自分の手を打った。

 僕の三子の一つにかかってきたのだ。僕は風車の石を挟んだ。

 すると、かかった石に付けてきた。僕はその石を伸びた。

 風車も石を伸ばした。僕ももう一つ伸ばした。

 二子の頭をはねられて叩かれるのが、どうも良くないように思ったからだ。

 相手も伸ばしてきたので、その頭を押さえた。風車はその石を切ってきた。

 それからは激しい応酬になった。

 しかし、僕は冷静に生きる道を選んだ。地では大分損をしたが、もともと三子のハンディがあった。それを思い出したのだ。

 相手に多少とも地で稼がれても、大石をとられなければ、負けることはないと思った。

 そして、碁はそのように進行した。

 僕は相手に少しずつ地を与えていったが、最初の三子のハンディを超えるほどには負けてはいなかった。

 最後に目数を数えたら、僕が五目勝っていた。

 すぐに風車は「もう一局」と言った。

 結局、その碁も僕が三目勝った。

 

 おやつの時間になった。

「甘いものは頼めないのかな」と誰に訊くでもなく言った。

 すると、きくが「訊いてきます」と言った。

 しばらくして、「羊羹を持ってきてくれるそうです」と言った。

「それは、ありがたい」と風車が言うと、「では、もう一局」と続けた。

 僕も仕方ないと思って、もう一局付き合った。

 そのうち、羊羹が運ばれて来た。

 打ちかけにして、僕らは羊羹を食べた。

 きくは小さく切った羊羹をききょうに食べさせていた。

 羊羹を食べ、お茶を飲むと、「では、始めましょうか」と風車が言った。

 風車は一口で羊羹を食べ、僕は少しずつ切って食べていた。だから、風車は少しいらいらとして待っていたのだ。

 

 僕は三子の勝ち方が分かってきた。とにかく、大きく取られないこと。相手の地を少しでも増やさせないこと。これに尽きた。そうすれば、最初から三子のハンディがある分、こちらが有利に戦える。多少、へこまされても、そこは堪えて、目を作ることに専念した。その結果、三子では、負けなくなった。

「駄目だ。三子では勝てません」と、風車も言い出した。

「二子にしましょう」と言った。

 対角線の星に二つの黒石が置かれた。

「では」と言って、風車は空いている隅の三三に白石を置いた。

 僕は、星に置いた石を補強するように石を桂馬に置いた。

 さすがに二子では、風車に勝てなかった。最初に置かれた三三の地点の石を大きく囲われて、こちらが守りに入った二子が攻め立てられた。その結果、こちらの地が小さくなり、相手に大きな地を取られた。十五目の差で敗れた。

 風車は気分を良くしたのだろう。

「さあ、もう一局」と言っている。

 僕は付き合わざるを得なかった。

 

 次は大敗をした。相手がやはり三三に打ってきたので、残る打たれていない箇所の星に打った。これだと、後手番の三子局になると思ったのだ。

 しかし、事はそう甘くはなかった。その星に打った石をすぐに攻められて、取られてしまったのだ。

「やはり駄目か」と僕は手にしていた石を碁盤に放った。

「投了ですか」

「投了です」

 

「もう一局どうです」と訊いてきたので、「そろそろ、風呂に行きましょう」と言った。

「そうですね。もうそんな時間になるんですね、で、風呂上がりに一局」と言った。

「それはその時に考えます」と僕は言った。

 

 脱衣所には、手ぬぐいと浴衣が置いてあった。僕は新しいトランクスと折たたみナイフとバスタオルを持っていった。

 髭を剃っている僕の隣に、風車がやってきて、「その折たたみのカミソリはどこで売っているんですか」と訊いてきた。

「これはこの辺りでは売ってはいません。特注品なんです」と言った。

「それあったら、欲しいなぁ、と前から思っていたんですよ」と言った。

「そうでしょうね。でも、この辺りでは買えません」

「残念だなぁ。それにあの茶色い食べ物、凄く美味しそうでしたよね」

 チョコレートのことを言っているのだ。

「あれもこの辺りでは買えませんか」

「ええ、無理です」

「そうですか。鏡殿は珍しいものを沢山持っている。羨ましいです」と言った。

「千両箱も持っているし、おきくさんもいる」と続けた。

 風車もきくのことを気にしているのか、と思った。

「奥さんじゃないんですよね」

「ええ、世話係です」

「お子さんもいるのに」

「子どもがいてもです」

「それがわからない。拙者には、いい夫婦に見えるんですけれどね」と風車は言った。

「それはきくに言わないでくださいね」

「えっ、もう言ってしまいましたよ」

「…………」

「拙者の肩を叩いて、『もう風車さんなんて』と笑って言ってましたよ」

 ああ、と僕は思った。

 風車ときくが二人で並んで歩いているときに、何を話しているのか、想像ができた。

 きくは僕とずっと一緒にいたい、それが夢なのだ。それを風車に話しているのに違いない。こればかりは、心の問題だから、どうしようもなかった。だが、タイムパラドックスという問題があることを、きくに説明しても分からないだろう。僕もタイムパラドックスなどどうでもいいと思うようになっていた。

 

 脱衣所で躰を拭いて、新しいトランクスを穿き、浴衣を着ると、風車が「湯上がりに一局、行きましょうね」と言った。

「はい、はい」と僕はしょうがないように返事した。