小説「僕が、剣道ですか? 5」

三十七

 時を動かした。

 立っていた者が次々と倒れていった。

 川に飛び込んだ役人が必死に泳いでいた。

 僕は、倒れている者の間を縫って、橋を渡っていった。橋の向こうにいた人も、渡ってきた。しかし、そこに切られて呻いている者たちを見て、立ち止まった。彼らの間をすり抜けるように、僕は橋を渡りきった。

 そして、きくとききょうと風車の待つところに歩いて行った。

「終わりましたか」と風車が言った。

「ええ、けりは着きました」と応えた。

「ご無事でようございましたわ」ときくが言った。

「心配をかけたね。でも、もう終わった」と僕が言った。

 これでようやく公儀隠密からは解放されたのだ。

「行こうか」と僕は言ったが、風車が橋の方を指さして「あれでは」と言った。

 橋の上は人の山で、身動きが取れない状態だった。いざ渡ろうとした人も、橋の上や向こう岸に倒れている公儀隠密たちを見ると、通り抜けることができなかったのだ。

 そのうち役人たちがやってきて、整理しようとしていた。しかし、時間がかかりそうだった。

「待つしかないですね」と僕は言った。

「そうですね」

 僕はショルダーバッグの中からチョコレートを取り出して食べた。それを見て、きくも風車も食べたそうにしていた。

「申し訳ないがこればかりはあげられません。疲れたときの栄養補給食なんです、数に限りがあるし、この先何があるか分からないし」と僕は言った。

 

 小一時間待っただろうか。橋の上の人が動き出した。

 僕らも立ち上がった。

 台車を押して歩き出した。

 橋を通る時、橋の上は血で染まっていた。

 斬られた者は、道の両側に並べられていた。僕らはその間を通っていった。

 血の臭いが漂っていた。

 

 通り過ぎると、「ふぅ」と風車が息を吸い込んだ。

「とんでもない修羅場でしたね」と言った。

「そうですね」と僕は他人事のように応えた。

 きくが小さな声で、「あんなにもお斬りになったのですか」と訊いた。

 僕は黙って頷いた。

「そうですか」

 

 次の宿場が見えてきた。

「昼餉にしましょうか」と風車に声をかけた。

「拙者は何だか食べる気分には」と応えた。

「きくは」と訊くと「きくもです」と答えた。

 でもこの先は関所を通らなければならない。この宿場の先にある関所を通るには、時を止めるほかはなかった。

 この宿場で休むしかなかったのだ。

「私は休みたい」と言った。

「では、そうしましょう」ときくが言った。

「拙者も付き合いますよ」と風車も言った。

 僕らは、食事処に入った。

 僕は鮭定食を頼んだ。きくと風車は、甘いものはあるかと訊いて、饅頭があると言うので、それにした。

 僕は沢山食べた。この先の関所では時間を止めなければ、ならなかったからだ。

 きくと風車は、死体の山を見てきたせいで、本当に食欲はないようだった。しかし、ききょうは饅頭をちぎってやると、よく食べた。

 お茶を飲んで、きくが哺乳瓶に白湯をもらって来ると、代金を払って、食事処を出た。

 

 しばらく歩いて行くと、関所に出た。行列ができていた。

 風車は最後尾に並んだ。

 僕らも並ぶと思っていたようだが、僕は台車を押して、先に進んだ。

「並ばないんですか」と風車が言った。

 僕は懐に手を入れて、「特別の通行手形を持っているんです」と言った。もちろん、嘘だった。

「そうなんですか」

「ええ。先に行って待っています」と言った。

「わかりました」と風車が一緒でないことを残念そうに下を向いた時に、僕は時を止めた。

「さぁ、きく行こう」と言った。

「えっ」ときくは言った。

 僕は台車を押して歩き出した。

「周りの人が……」ときくは言った。

「気にするな」

「でも」

「ただ、止まっているだけだから」

 きくは僕の横に来て、「本当に止まっているんですか」と訊いた。

「そうだ」と答えた。

「時を止められるって、こういうことだったんですね」ときくは言った。

「そうだよ。根来兄弟の時も時を止めただろう」

「でも、あの時はお一人でした。今はみんな、止まっています」

「きく、おしゃべりはそれくらいにしてくれ。早く行こう。時を止めるのには、とても力がいるんだ。早く、関所を出ないといけないんだ」と言った。

「申し訳ありませんでした」

 僕は台車を押して、関所を通過した。

 役人が一人一人の検査をしているまま止まっていた。きくは不思議そうにその役人を見ていた。

 関所を抜けると時間を動かした。そして、しばらく歩き、関所が見えなくなったところで休んだ。

 僕はショルダーバッグの中から、チョコレートを取り出して食べた。

 きくはききょうに乳を与えていた。

「お訊きしてもよろしいですか」

「もう、いいよ」

「あの橋の時も、時を止めていたんですよね」

「そうだ」

「それであんなにも沢山の人を斬ることができたんですね」

「ああ」

「京介様のお強さの秘密がわかりました」ときくは言った。

「時を止めてしまえば、相手を斬るのは簡単ですものね」と続けた。

「いつもそうしているわけではない」と僕は言った。

「それはわかっています。道場での稽古を見ていましたから」ときくは言った。

「でも、時を止められるのでしたら、京介様にかなう者はいませんね」と続けた。

「世の中はそんなに甘くはないさ」と僕は言った。

「でも、今までだって、一度も負けてはいませんよ」ときくは言った。

「いや、これでも負けたことはあるんだ」と僕は御前試合を思い出していた(「僕が、剣道ですか? 2」参照)。

「そうなんですか」

「そうだよ。無敵なんてこと、あるわけないじゃないか」

 その時、風車がやってきた。

「こんな所におられましたか」

「どうでした、関所は」

「大変でしたよ。拙者が四十両近くのお金を持っていたので、これはどうしたんだと散々問い詰められましたよ」

「風車殿も関所を通られたことだから、先に進みましょうか」と僕が言った。

「そうですね」

「もう、江戸も近いから、いい宿に泊まりましょうね」と僕が言った。

「いいですね」

 そうして歩いて行くうちに、宿場が見えてきた。

 この辺りになると人の数も多くなっていた。

 何軒かに当たったが、個室はなかった。そこで、大きな構えの宿に向かった。

「個室ですと、お一人一泊二食付きで六百文になりますが、いいですか」と訊かれたので、「個室が取れるなら、それでいい」と答えた。

 風車は僕らの隣の相部屋に泊まることにした。一人一泊二食付きで二百文だった。