小説「僕が、剣道ですか? 6」


 石原のその家は、川から少し離れた所の薄ヶ原の中にぽつんと建っていた。
 周りは板塀で囲まれていた。
 店の小僧が門の脇の戸の鍵を開け、そして、玄関の鍵を開けた。
 広い庭には、薄が入り込んできていた。湯屋があり、開けて見ると五右衛門風呂だった。その他には、離れがあった。廊下で母屋と繋がっていた。
 玄関を入ると広い土間があり、廊下が建物をぐるりと囲んでいた。
 廊下に上がると、前座敷があり、そして奥座敷に続いていた。奥座敷には床の間があり、奥座敷の裏が寝室だった。土間は裏手に続いていて、その途中に庖厨があった。庖厨は居間に続いていた。そして納戸があり、その奥に三畳ほどの座敷があった。女中部屋なのだろう。
 離れは十畳一間に床の間と押し入れがあった。
「拙者はここがいいなぁ」と風車は呟いた。
「風車殿も一緒に住むんですか」と僕が訊くと、「当然でしょう」と答えた。
 やっぱりな、と僕は思った。
「幽霊が出るということを除けば、立派なもんですね」と言うと、風車は「だから、家賃がぐぅんと安いんでしょう」と言った。
「そうなんでしょうね。周りも薄ヶ原だから、寂しいし、いかにも幽霊が出そうな所ですね」

 小僧と一緒に店に戻ると、番頭に住むことにした、と伝えた。そして、家賃の九両を渡し、念書と門の脇と玄関の鍵を受け取った。
「今からでも、好きなようにお住みください」と番頭は言って、店の方に出て行った。
 僕らは店から出ると、宿に向かった。
「住むにしても家財道具が必要ですね」と風車は言った。
「そうですね。明日、手配しましょう。その間、風車殿ときくは宿に泊まってもらって、私は幽霊の正体を見ることにしますよ」と僕が言うと、「それはないですよ。拙者も同行します。拙者だって幽霊を見たいですから」と言った。
「そうですか」
「そうですよ」
「じゃあ、ご一緒しましょう。でも、雑魚寝ですよ」
「構いませんよ」

 宿に戻ると、事の次第をきくに話して聞かせた。
「では、一軒家を借りられることになったんですね」ときくは嬉しそうに言った。
「幽霊の出るな」と僕は付け加えた。
「でも、拙者と鏡殿で退治しますから、おきくさんは安心してください」と風車は言った。
「家財道具はないから、揃えないといけないな」と言うと、きくが「家財道具がないのですか」と訊くので、僕は「うん」と答えた。すると、きくは嬉しそうな顔をして、「家財道具を揃えなくてはなりませんね」と言った。
「そうだよ」
「布団や茶碗なども選ばせてくださいね」ときくは言った。
「それはいいけれど……」と僕は言った。
「布団や茶碗などを選ぶことなど、普通はできないんですよ」ときくは言った。
「そうなのか」
「そうですよ」ときくは嬉しそうに言った。きくは女中見習いから、家老家に入った時には、すべてが揃っていた。きくが選べるものは何もなかったのだ。そのことに僕は、しばらく気がつかなかった。きくが自分で布団や茶碗を選べるということは、特別なことだったのだ。
「明日は、きくもその新しい家に連れて行ってくださいね」
 風車が「おきくさんが来るのは、幽霊を退治してからじゃ、なぁ、鏡殿」と言った。
「そのつもりなんだけれどな」と僕が言うと、「きくも行きます。京介様と離れるのはもう嫌です。それは苦しいものです。もうわたしは、二度経験しました。わたしもその家に行きます」ときくははっきりと言った。
 僕は風車と顔を見合わせるしかなかった。

 風呂に入ると、風車は僕に話しかけてきた。
「明日、この宿を引き払うんですか」
「きくの様子では、そうなるでしょうね」
「そうなると家財道具を買わなくちゃならなくなりますね」
「少なくとも掃除道具は、いりますね」
「そうですね」と風車は言った。
「それから布団も買いましょう」
「途中に布団屋があるといいんですけれどね」と風車が言った。
「そうなら、買ってその日のうちに運ばせることにしましょう」と僕が言った。
「でも、幽霊の方はどうします」と風車が言った。
「成行きに任せましょう。霊を追い払ったことはあるんです。多分、大丈夫でしょう」と僕が言うと、「鏡殿は霊も退治したことがあるんですか」と訊いた。
「ええ」と答えると、「本当ですか。それは頼もしい」と言った。
 風車はそう言うと、声を落として「あのう、家賃のことなんですけれど」と切り出した。僕が「そんなものは、いりませんよ」と言うと、「それじゃあ、拙者の肩身が狭いではござらんか」と言う。
「あの離れに住んでもらうんだし、きくが身籠もっているから、いろいろと雑用をお願いしますから、気になさらないでください」と言った。
「そうですか」
「そうですよ」

 夕餉は楽しかった。きくが新しい家に必要なものをあれもこれもと挙げて言うと、それに風車は一々同意していた。
 きくの話が一段落すると、風車は「碁盤と碁石もいりますな」と言った。
 あーあ、と僕は思いながら、「それは明日でなくてもいいでしょう」と言うと、「ええ、そりゃもう」と風車は言った。

 その夜は早くに眠った。明日、朝餉をとったら、取りあえず新しい家に行くことになった。これは、きくのたっての願いだった。
 きくは新しい家に早く行きたくてしょうがなかったのだ。
 布団に入ると、きくが手を握ってきた。
「いよいよですね」
「そうだな。いよいよだ。良い家だよ。きくも気に入ると思う」
「お祓いをしたらいいんじゃありませんか」
「それができるくらいなら、大家がもうしているさ。きっと上手くいかなかったから、こんなに安く借りられたんじゃないか」
「霊は大丈夫でしょうか」
「どうだろう。でも、何とかなりそうな気がする」
「そうですか」
「ああ」
 いつしか眠っていた。