小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十三
 次の日も風車は帰ってこなかった。

 その翌日、朝餉の後に両国に向かった。約束したおむつを取りに行くためだった。代金を払って、おむつを受け取ると大きな風呂敷、二つに包んでくれた。大きな方を背負って、もう一つはぶら下げて店を出た。
 その後で、食料品を売っている店で、胡椒などの香辛料を手に入れた。結構な値段がした。そこで羊羹も買った。

 おむつを持って帰ると、きくが喜んだ。風呂敷を開けると、意外に沢山のおむつが出て来たからだった。これなら、当分、大丈夫という数だった。

 昼餉を食べ終えた頃に、風車は帰ってきた。風車は昼餉を食べて帰ってきたようだった。
 疲れているようなので、そのまま離れに行かせた。
 きくが「朝まで起きていたのでしょうか」と訊いたが、僕には答えようがなかった。そんな気もするが、帰らざるを得なかったことが口惜しかったのかも知れなかった。

 僕はききょうをおぶって、中庭の畑を見た。野菜が順調に成長していた。簡単じゃないかと安易に思ってしまった。
 水をやって、畑を後にした。

 おやつは買ってきた羊羹を食べた。風車にも声をかけたが、寝ているようなので、そのままにした。
 風呂は、ききょうをおぶって僕が焚いた。

 風呂が沸いた頃、風車に声をかけると、一緒に入ると答えたので、先に脱衣所に行った。すぐに風車も来た。
 風呂場では、風車がしんみりと「時間というものは、経つのが速いものですね」と言った。
「そうですね」
「あっという間に、二日経ってしまいました」と呟くように言った。
 心からの声だろう。風車の心は、今も吉原にあるような気がした。
「でも、金がなくなれば帰らなければならない」
 そこで、風車は大きく溜息をついた。

 夕餉は、風車には粗末な物に見えただろう。吉原で何を食べていたのかは知らないが、今、卓袱台に並んでいる物よりは、良い物に違いなかった。
 でも、それを風車は美味しそうに食べた。お代わりもした。僕は、正直、ホッとした。

 きくとききょうが眠ったので、時を止めて、奥座敷に行くと女が待っていて、「風車様が帰ってきましたね」と言った。
「ああ」
「でも、心はここにはありませんね」
「そうだな」
「遊女に惹かれています」
「男はそういうもんだ。特に風車のような男はな」と僕は言った。
「私は吉原に行かなくたって」と僕が言うと、すぐにあやめは「わたしがいますものね」と続けた。
 僕はあやめを抱いて、寝室に戻った。そして、時を動かした。

 次の日、風車は普通に朝餉を食べた。
 僕が朝の素振りをした後、中庭の畑を見せようと風車を探した時には、もういなかった。
「きく、風車殿はどこにいるのかな」
「離れにいるんじゃありませんか」
「いや、いないんだ」
「だったら、どこかに出かけたんでしょう」
「どこに行くと言うんだ」と言いながら、また道場破りに行ったのではないか、という悪い予感がした。
「吉原っていうことはありませんよね。もう、お金はないんだし」ときくは言った。
「そうだな」

 昼餉になっても、風車は帰ってこなかった。
 おやつの時間になって、トウモロコシを焼いたのを食べていると、門を叩く音がした。出て行くと、門のところに風車が横たわっていた。
 ひどい怪我を負っていた。
 通りを見ると、遠くに戸板を持って走って逃げていく門弟らしき者何人かの姿が見えた。追いたかったが、今は風車の方が心配だった。
 門を開けて、引きずって家の中に入れた。着物はひどく汚れていた。このまま家に上げることはできなかった。きくに風車の着物を取ってこさせて、土間の上がり口で着替えさせた。そうして、肩を支えながら、立ち上がらせると、何とか、離れまで運んだ。
 布団を敷いて、そこに風車を横たえた。
 きくに後の面倒は見させて、僕は隣の家に行き、医者のいる所を教えてもらい、医者の所に走った。
 老齢の医者を引きずるように連れてきて、風車の容態を見させた。
「肋骨にひびが入っている。後は、打撲だな。相当、腫れているから、湿布薬を塗っておいた。この壺に湿布薬が入っているから、時々、塗り替えるように。幸い、頭は叩かれていないようだから、命に別状はない。それにしてもひどくやられたもんだな」と言った。
「肋骨のひびが治るには、一月はかかるだろう。腫れはそれよりも前に引くだろう。今日は熱が出るから、額を冷やすといい。湿布薬がなくなったら、取りに来なさい」と続けた。
 この時代のことだから、医者の見立てや湿布薬にどれだけの効果があるのかは分からなかったが、するだけのことはしないではいられなかった。
 医者に礼を言い、代金を払って帰ってもらった。

「どうでしたの」ときくが訊いた。
「肋骨にひびが入っているそうだ。頭は叩かれていないようだ。後は、打撲の腫れだな。湿布薬を塗っていった」と答えた。
「そうですか」
「熱が出たら、額を冷やすように、と言われた」
「わかりました。今夜は起きて、風車様の看病をします」ときくは言った。
「そうか」と言った後、明日は私が看病しよう、と言おうとしたが、それよりもすることがあることに気がついた。それが心に広がると、そっちに心が奪われた。それは、風車の敵討ちをすることだった。ここまで、風車を袋叩きにした道場は許しておけなかった。
 明日はその道場に出向くつもりだった。
 だが、肝心の道場が分からなかった。ただ、一つだけ心づもりがあった。

 考え事があるからと言って、ききょうとは入らず、一人で風呂に入った。
 風車の躰の怪我は、僕も見た。あれは、一人で付けられるものではなかった。何人かに寄ってたかって、木刀で殴られれたものに違いなかった。
 肋骨にひびが入ったところで、叩き出せばいいのに、その後も嬲りものにしたのに違いなかった。
 許せなかった。
 風呂の湯で顔を拭った。

 夕餉はお通夜のようだった。ききょうだけがいつも通りだった。ききょうに救われている気がした。
「どうなんだ」と訊くと、「うなされています」ときくが言った。
「そうか。食べ終えたら、様子を見てくる」と言った。

 夕餉の後に、離れに向かった。きくもききょうを連れてやってきた。
 襖を開けると、顔を腫らした風車がいた。
 きくが桶の水で額の手拭いをすすいで絞り、また当てた。
 風車は何か言っているようだったが、意味は分からなかった。