小説「僕が、剣道ですか? 6」

十二
 表札を付けた後は、中庭の畑作りをした。土を掘り起こして、木の根や屑を拾い、たい肥を撒いて混ぜた。
 それから四つほど畝作りをして、二つの畝には、茄子の苗を植えた。残りの二つは二週間ほど放置し、キュウリの種を埋めるのだった。
 そのあたりで、風呂を沸かす時間になった。その時、風車が「あっ」と言った。
「どうしたんです」と訊くと「碁盤と碁石を買ってくるのを忘れていました」と言った。
「それなら、明日、買いに行きましょう」と僕が言った。
「そうですね」
 そう言いながら、風車は風呂に火をつけた。これは何度見ても真似ができなかった。

 風呂の後の夕餉は、昨日と変わらなかった。焼き魚がないなと思っていると、七輪がないことに気が付いた。干物を買ってくるにしても、七輪がなくては上手くは焼けない。明日は、碁盤の他に七輪と網を買ってこようと思った。

 寝る時刻になると、自分がそわそわしているのに、僕は気付いた。女を待っているのだ。それが女のまやかしだとしても、それならそれに乗ってみるのも悪くないと思った。
 きくと布団に入り、目を閉じた。すると、目蓋の裏に女の顔が浮かんでくる。
 女がしていることではないことは、分かっていた。
 ききょうが眠った。
 きくの眠りはまだ浅かった。しかし、待てなかった。時間を止めた。
 布団から抜け出すと廊下に出た。すると、そこに女が立っていた。
 すがりつくように僕に寄ってきて、「ここでお待ちしていました」と女は言った。
 僕は女の手を引いて奥座敷に入った。
 そこで時を動かした。
 畳に座ると、女は手を捕まれたまま、僕の胸に顔を埋めた。そして、下から見上げるように僕を見た。
 瞳が濡れていた。
 ゾクゾクするような気分だった。
 僕を見た後で、また胸に顔を埋めた。
 そして、空いている方の手を背中に回した。僕を抱くような形になった。
 女の躰が震えていた。
 僕も女の躰に手を回して、抱き取った。
 ますます、女の躰は震えた。
 どれだけそうしていただろうか。言葉は交わさなかった。こんなとき言葉は不要だった。
 時々、女の「あー」という溜息が漏れてきた。その度に、僕は女を強く抱き締めた。
 僕は畳に寝転がった。
 女は上に覆い被さっていた。
 女の顔がすぐ近くにあった。
 女の口に唇を当てた。女は口を開いた。舌を中に差し入れた。女の舌が絡まってきた。
 痺れるような感じだった。
 女の口を吸った。女も僕の口を吸った。
 どれだけの時間、そうしていただろうか。

「京介様」と呼ぶきくの声に、僕は我に返った。
 女はすぐには消えなかった。
「時を止めてください」と言った。僕は言われるままに時を止めた。
 女がまた口づけをしてきた。僕もそれに応じた。少しの間だった。
 女が口を離すと、「我が儘を申して、申し訳ありませんでした」と言った。
 そして、僕を見ながら消えていった。

 僕は廊下に出た。そして寝室に入り、布団を被った。何度も厠では、かえって怪しまれるだろうと思ったのだ。
 時を動かした。
「そこにいらしたんですか」ときくは言った。そして、横になった。
「京介様がいなくなった夢を見たんですわ、きっと」と言った。
 僕はきくに済まないと心の中で謝った。
 目を閉じると、女の顔が浮かんできたが、時を止めていたせいか、眠気が襲ってきた。その流れで眠った。

「京介様」と呼ぶきくの声に、僕は起きた。正面にきくの顔が見えた。左右を見た。女がいないか確かめたのだ。
「朝餉ができましたよ」ときくは言った。
「そうか、そんな時間だったか」
「ええ。京介様はよく眠っていらしゃいましたわ」
「草刈りの疲れが今頃出て来たのだろう」と僕は年寄りのようなことを言った。
「顔を洗ったら、居間に行く」ときくに言った。
「はい」ときくは応えた。

 井戸場で顔を洗い、居間の卓袱台の前に座った。
 風車はもう座っていた。
「後で、碁盤を買いに行きましょう」と言った。
 僕は「七輪と網も買おうと思っています」と応えた。
「なるほど」と風車が言った。
「干物を買ってきて、焼いて食べれば美味しいでしょう」と僕は言った。
「それはそうですね」と風車も応じた。
 きくは料理が上手く作れないと言われているようで悔しかったのだろう。すぐに「わたしは八百屋と煮売屋に行きます」と言った。

 両国に出ると、蕎麦屋の前に来て、正午にここで落ち合うことにして、きくと別れた。
 碁の店に入ると、風車は幾つもの碁盤を前に、実際に石を打ってみて、その音を確かめていた。僕にはどれも同じに聞こえるが、風車にとっては違っていたのだろう。結構、時間をとって確かめていた。結局、三つぐらいの碁盤に絞って、その間で悩んでいた。しかし、どれかにしなくてはならず、一番厚い碁盤を選んだ。畳の上に直に置いて打つので、その碁盤には台座が付いていた。
 碁盤が決まると、今度は石に迷った。僕には分からなかったが、風車にすれば、一長一短があるらしかった。石を選ぶのにも時間がかかった。
 やっと決まると、風車が代金を払うと言ったのを僕が断り、僕が代金を払い、風呂敷に包んでもらった。後は七輪と網を買うだけだった。これは道具屋に入り、適当な物を選んでもらった。僕に七輪の善し悪しが分かるはずもなかったからだ。網と鉄串も買って、風呂敷に包んでもらい、代金を払った。
 そして、蕎麦屋の前に行った。きくはまだ来ておらず、少し待たされた。
「遅れてすみません」と謝った。いろいろと教わることがあったのだろう。買ってきた物は風呂敷に包まれていた。
 蕎麦屋に入って、つけ蕎麦を三人前頼んだ。
 ききょうには、蕎麦を細かくちぎって食べさせた。ききょうがよく食べるので、もう一枚頼んだ。
 帰りがけに干物屋で鰺の開きを買った。また、菓子屋で羊羹も買った。

 家に帰り着くと、風車が表座敷で風呂敷包みを開けて碁盤を取り出し、僕に向かって「早速、一局やりましょう」と言った。
 これは受けて立つしかなかった。
 三子局だった。
 風車は右上の星の位置の石に攻めかかってきた。僕はこれをかわした。地は少し減らしたが、左上、星に打てたのが大きかった。
 この局は、僕が中押し勝ちになった。
 当然、風車は「もう一局」と言ってきた。
 きくがお茶と羊羹を運んできた。
 風車は羊羹を食べながら、天元に打った。僕は冷静に左上、星に打った。これで四子局で後手が天元に打ったのと同じになった。
 左下隅、三三に打ってきたが、これは小さく生かした。その代わり、左の辺を大きく稼いだ。この局も大差がついた。十五目、僕が勝った。
「今度は二子でいきましょう」と風車は言った。
 またハンディが少なくなった。