小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十九ー2

 昼頃になって、「堤邸に行ってくる」と言うと、きくは「わたしも」と言い出した。

「きく。私も京太郎と別れがしたいんだ。分かってくれ」

「おたえさんともでしょ」ときくは言った。

「すぐ戻る」

 

 堤邸に行くと、堤は登城していて、たえと小姓と女中しかいなかった。

 座敷に上がると「今日はどうされましたか」とたえに訊かれた。

 僕は昨夜、赤い月を見た話をした。そして、以前にも同じことがあり、僕は未来に戻ったことも話した。たえに僕の話が理解できたかどうかは分からなかった。しかし、たえも、僕が突然いなくなったことは知っている。

 たえは抱きついてきた。そして、唇を重ねた。

 長い時間が過ぎた。

 最後に京太郎を抱き上げた。

 門を出る時、もう一度、たえは唇を重ねた。

「さよなら」と言うと、たえは「言わないで」と言った。

 

 家老屋敷に戻ってくると、道場に行き、相川、佐々木、落合、長崎、島村、沢田を呼んで後を託した。

「先生はどこかに行かれるんですか」

「ああ、前のようにな」

「この前のようにですか」

「そうだ」

「あの時は困ったよな」

「そうだろうな」

「でも、なんとかなります。先生が戻られるまで、しっかり道場を守っています」

「そうしてくれ」

 もう戻ることはないとは言えなかった。

 

 風呂に入った。きくは何も言わず背中を流した。流しているうちに泣き出した。

「もう、こうしてお背中を流すこともないんですね」

「そうだな」

 

 夕餉の席では、僕はそれとなく、今までのご恩に感謝の言葉を述べていた。

「何を急に言い出すんだ」と家老の嫡男が言った。

「いや、いつも思っていることなので」と僕は言葉を濁した。

 

 座敷に戻ると、きくは僕が着てきていた物を用意していた。

 僕は着物を脱ぎ、上の肌着を着て、厚手のシャツを着た。そしてジーパンを穿いてベルトを締めた。それからオーバーを着た。

 側にあった巾着はきくに渡して、本差を手にした。

 きくはきちんと正装をしていた。見送るための装束だったのだろう。ききょうも寒くないように包まれていた。

 僕は靴下とシューズを履いた。

 屋敷の門番に言って、脇の戸を開けてもらい、そこから外に出た。きくとききょうも一緒だった。

 そして、野原の方に向かって歩き出した。その後をきくがついてきた。

 空は俄に雷雲が立ちこめてきた。

「きく、お別れだ」と叫んだ。

「はい」ときくは言った。

 きくは少し離れて立っていた。

「もう少し離れていろ」

「はい」ときくは言った。

 その時、豪雨が降ってきた。

 きくもききょうも僕もびしょ濡れになった。

 頭上に稲光を伴った雷雲がやってきた。

「きく、楽しかった。お前に会えて良かった」

「わたしもです」ときくは言った。

「きく、もっとずっと一緒にいたかった」

「わたしもです」

「もう行く時間だ」

 僕はそう言うと、本差の鞘から刀を抜いて空に突き上げた。

 僕は天を見ていた。

 刀の先に神経を集中させた。そうすれば、雷が落ちてくると信じていた。

 頭上の雲が、光り、龍のような雷が落ちてきた。

 凄い圧力が僕にかかった。

 その時、上を見ていた視線が下を向いた。

 すぐ近くにきくがいた。

「馬鹿、離れろ」と僕は叫んだ。

 しかし、僕を通過した雷は側にいたきくたちも巻き込んだ。

 光の渦の中に僕たちはいた。

 きくとききょうの躰から魂が抜け出ようとしていた。このままでは、きくとききょうはこの過去の世界に取り残される。そうなれば、この野原に意識不明の状態で置き去りになる。僕は現代にいるからこそ意識不明の状態でも生きていられるのだ。しかし、こんな過去の時代だ。意識不明の者が取り残されて生き残れるわけがなかった。

 僕は、激しい光の中をきくとききょうの所に何とか行き、その躰をしっかりと抱いた。そして、魂が抜け出ないように魂をその躰に押し込み、押さえつけた。そして、一緒に光の渦に入り込んでいった。

 過去を通り抜けたようだった。きくとききょうの魂はその躰に残った。

 しかし、次の瞬間、また新しい光の渦が襲ってきて、僕の手からきくとききょうを離し、奪っていった。

 きく。

 ききょう。

 僕は叫んだ。