小説「僕が、剣道ですか? 2」

三十九

 次の日、堤邸に行った。

 たえが門の掃き掃除をしていた。

「今日、鏡様が来られるような気がしていました。お躰の疲れはとれましたか」

「ええ、このとおり」

 そう言うと、僕の手を取って指を絡ませてきた。

 玄関から座敷に上がると、堤竜之介がやってきた。

「今日は、お城ではないのですか」

「今日は非番です。明日、お城に上がります」

「そうですか」

「黒亀藩の話で、今や城は持ちきりですよ」

 僕は照れて首の後ろを掻いた。

「二十人槍や氷室隆太郎の話は随分と聞きました」

「会う人ごとに、その話をされて困っています」

 堤が笑った。

 その時、たえがお茶を持ってきた。

「また、凄いお働きをなさいましたね」

「ねっ」と僕が言うと、堤はまたも笑った。

「わたし、何かおかしなこと言いました」とたえは、困った顔をした。

 僕は、人に会う度に、二十人槍の話や氷室隆太郎との立ち合いの話をせがまれるし、そうでなければ聞かされるということを言った。

「そういうことでしたか。京太郎を連れてきますね」

「それにしても殿は上機嫌でしたな」

「ええ」

 僕は報奨金として三百両頂いた話をした。

「なるほど」

 たえが京太郎を連れてきた。僕は京太郎を抱いた。

 京太郎はすやすやと眠っていた。

「道場の方はどうです」

「おかげさまで、上手く行ってますよ。城崎の師範代もようやく板についてきたといった感じです」

「そうですか。そりゃ、良かった」

 堤と話をした後、堤邸を出た。

 

 屋敷に戻り、道場をみた。皆、稽古に励んでいた。

 すぐに座敷の方に行き、ききょうを見た。

 そうしているうちに眠ってしまった。

 

 夕方になっていた。

 風呂に入った。夕餉をとって、座敷に戻ってきた。

 障子戸を少し開けた。

 空が晴れ渡っていた。

 そこに大きな月が浮かんでいた。

「きく、今日は満月か」

「明日よ」

「そうか、やけに月が大きく見える」

 そう言った瞬間に、月が見る見るうちに赤くなっていった。

「きく、月が赤くなっている」と言うと、きくが走ってきて、月を見た。

「赤くなんかなっていませんよ」ときくが言った。

「いや、月が赤くなっている」

 僕がそう言うと、「わたしには普通の月にしか見えませんが、前にも鏡様は同じことを言われましたよね」と言った。

「その時、わたしは、昔から、赤い月を見た人には災いが来ると言いますと言った記憶があります。そして赤い月が見えた鏡様は、次の日、落雷に打たれて消えてしまった」と言った。

「あー、あの時と同じだ。鏡様がいなくなって、わたしがどんな思いをしたか、ご存じですか。もう、半狂乱になったんですよ。でも、この子が救ってくれました。お腹の中の子が暴れたのです。いえ、そう思ったのです。私がいる、そう言っているように思えたのです。鏡様がいなくなってからは、このお腹の中にいた子がわたしを救ってくれたのです」ときくは言って泣き出した。

「もう、いや。あんな思いはしたくない」

 僕は言葉を失っていた。

「これは予兆なんですよね」

「分からない」

「前と同じだとしたら、明日、鏡様は消えてしまわれる。そんなの、きくには堪えられない」

「本当に分からないんだ。だが、その時が来れば、感じる」

「今度は連れて行ってください」

「それはできない」

「どうしてですか」

「私が来たのは、未来というところからなんだ。そこには過去の人を連れては行けない」

 あー、ときくが叫ぶように泣いた。

 一晩が長かった。

 きくは僕に抱きついたまま、離そうとはしなかった。

 夜が明けても、ききょうに乳を飲ませるほかは、僕にしがみついていた。

 

 昼頃になって、「堤邸に行ってくる」と言うと、きくは「わたしも」と言い出した。

「きく。私も京太郎と別れがしたいんだ。分かってくれ」

「おたえさんともでしょ」ときくは言った。

「すぐ戻る」

 

 堤邸に行くと、堤は登城していて、たえと小姓と女中しかいなかった。

 座敷に上がると「今日はどうされましたか」とたえに訊かれた。

 僕は昨夜、赤い月を見た話をした。そして、以前にも同じことがあり、僕は未来に戻ったことも話した。たえに僕の話が理解できたかどうかは分からなかった。しかし、たえも、僕が突然いなくなったことは知っている。

 たえは抱きついてきた。そして、唇を重ねた。

 長い時間が過ぎた。

 最後に京太郎を抱き上げた。

 門を出る時、もう一度、たえは唇を重ねた。

「さよなら」と言うと、たえは「言わないで」と言った。

 

 家老屋敷に戻ってくると、道場に行き、相川、佐々木、落合、長崎、島村、沢田を呼んで後を託した。

「先生はどこかに行かれるんですか」

「ああ、前のようにな」

「この前のようにですか」

「そうだ」

「あの時は困ったよな」

「そうだろうな」

「でも、なんとかなります。先生が戻られるまで、しっかり道場を守っています」

「そうしてくれ」

 もう戻ることはないとは言えなかった。

 

 風呂に入った。きくは何も言わず背中を流した。流しているうちに泣き出した。

「もう、こうしてお背中を流すこともないんですね」

「そうだな」

 

 夕餉の席では、僕はそれとなく、今までのご恩に感謝の言葉を述べていた。

「何を急に言い出すんだ」と家老の嫡男が言った。

「いや、いつも思っていることなので」と僕は言葉を濁した。

 

 座敷に戻ると、きくは僕が着てきていた物を用意していた。

 僕は着物を脱ぎ、上の肌着を着て、厚手のシャツを着た。そしてジーパンを穿いてベルトを締めた。それからオーバーを着た。

 側にあった巾着はきくに渡して、本差を手にした。

 きくはきちんと正装をしていた。見送るための装束だったのだろう。ききょうも寒くないように包まれていた。

 僕は靴下とシューズを履いた。

 屋敷の門番に言って、脇の戸を開けてもらい、そこから外に出た。きくとききょうも一緒だった。

 そして、野原の方に向かって歩き出した。その後をきくがついてきた。

 空は俄に雷雲が立ちこめてきた。

「きく、お別れだ」と叫んだ。

「はい」ときくは言った。

 きくは少し離れて立っていた。

「もう少し離れていろ」

「はい」ときくは言った。

 その時、豪雨が降ってきた。

 きくもききょうも僕もびしょ濡れになった。

 頭上に稲光を伴った雷雲がやってきた。

「きく、楽しかった。お前に会えて良かった」

「わたしもです」ときくは言った。

「きく、もっとずっと一緒にいたかった」

「わたしもです」

「もう行く時間だ」

 僕はそう言うと、本差の鞘から刀を抜いて空に突き上げた。

 僕は天を見ていた。

 刀の先に神経を集中させた。そうすれば、雷が落ちてくると信じていた。

 頭上の雲が、光り、龍のような雷が落ちてきた。

 凄い圧力が僕にかかった。

 その時、上を見ていた視線が下を向いた。

 すぐ近くにきくがいた。

「馬鹿、離れろ」と僕は叫んだ。

 しかし、僕を通過した雷は側にいたきくたちも巻き込んだ。

 光の渦の中に僕たちはいた。

 きくとききょうの躰から魂が抜け出ようとしていた。このままでは、きくとききょうはこの過去の世界に取り残される。そうなれば、この野原に意識不明の状態で置き去りになる。僕は現代にいるからこそ意識不明の状態でも生きていられるのだ。しかし、こんな過去の時代だ。意識不明の者が取り残されて生き残れるわけがなかった。

 僕は、激しい光の中をきくとききょうの所に何とか行き、その躰をしっかりと抱いた。そして、魂が抜け出ないように魂をその躰に押し込み、押さえつけた。そして、一緒に光の渦に入り込んでいった。

 過去を通り抜けたようだった。きくとききょうの魂はその躰に残った。

 しかし、次の瞬間、また新しい光の渦が襲ってきて、僕の手からきくとききょうを離し、奪っていった。

 きく。

 ききょう。

 僕は叫んだ。