二十一
帰りの電車の中では、夏美は涙を流しているところを人に見られるのを隠すのに苦労した。
祐一を連れて来なくて良かったと思った。最初に面会した時は、嬉しさと弁護士がいた事でわからなかったが、こうして一人で高瀬に面会に来ると、会っているのに、湧き上がってくる淋しさに堪えるのに苦労した。辛い面会だった。
裁判中に、富岡の顔をしている高瀬を見ていた方がどれほど高瀬に近かった事だろう。今日はアクリル板の向こうに高瀬がいるのに、とても遠い所にいる気がした。
そう思っているうちにまた涙が出てきた。
帰ったら、すぐに高瀬に手紙を書こうと思った。今のこの気持ちを書かなければ、一生、本当の気持ちを書くことができない気がしたからだった。
『高瀬隆一様
今日、あなたに会えてとても嬉しかったです。あなたは元気そうで良かったです。
アクリル板を通してあなたに会っているのが、とてももどかしかったです。
こんな事を書いていても仕方ないですよね。
今日、あなたに会っていて、わたしはとても悲しかった。あなたに直に会っているのに、なぜか寂しくて仕方がなかった。どうしてなのでしょう。
あなたはアクリル板の向こうにいるのに、もっと遠くにいる感じでした。
ねぇ、あなた。わたしはあなたの心にいますか。あなたはわたしを愛してくれていますか。わたしはあなたを愛しています。たとえ、どんな事があっても。これはあなたの犯した罪の事を言っているわけではありません。
最後に今度はいつ会えますか。できれば今月もう一度会いに行きたいです。あなたに会えないで帰って来るのは、辛いものです。会えそうな日があれば、教えてください。お願いします。 夏美』
その夜、祐一が帰って来ると、すぐに「お母さん、お父さんはどうしていた」と訊いた。
「元気だったわよ」
「僕の事、なんか言っていた」
ああ、と思いながら、祐一の事を話す事をすっかり忘れていた事に気づいた。
「元気にしているかって言っていたわ」
「そう」
夏美は嘘をついてしまった。それほど自分の事で頭がいっぱいだったのだ。
夏美は手紙で、祐一が東京の有名私立中学校に合格した事を伝えていた。しかし、高瀬からの手紙は一通も来なかったのだ。祐一の事は、面会の時に直接話すしかなかったのに、その事すら忘れていた。
祐一は、さすがに東京の有名私立校に通っているだけに、これまでのようにクラスでトップの成績は取れていなかったが、何とか、中間層の上の方にいて、頑張っていた。その事も話さずに面会を終えてしまった。
しばらくして高瀬から手紙が来た。
『夏美様
この前、会いに来てくれて嬉しかった。もし、悲しい思いをさせたのなら、許して欲しい。あの日は少しぼうっとしていた。別に病気じゃないから、心配しないでくれ。
祐一は頑張ったね。祐一の中学校合格の事は、気になっていたから、弁護士さんから、公判の打ち合わせをしている時に聞いた。これまで黙っていて済まない。凄いじゃないか。今はのびのびと学校生活を楽しんで欲しいと思っている。
今度、会いに来るのは来月にしてもらいたい。差入れは、祐一の入学式の写真があったら見たいので、それが欲しい。写真立ては規制があるので写真だけでいい。 隆一』
夏美は高瀬から手紙が来た事でホッとした。
やはり今月はもう会いに行く事はできないのか、と思った。おそらく、富岡真理子が赤ん坊を連れて会いに行くのだろう。その光景が頭に浮かんだが、夏美は頭を振って、振り払った。
二十二
十月になった。
夏美は、結婚指輪と祐一の入学式の写真を差し入れていた。
この前、面会に来た時に、退室していく時の高瀬の左手の薬指に結婚指輪が光っていたように見えたからだった。
今まで面会時に高瀬とアクリル板越しに手を合わせたが、それはすべて右手だった。
面会室に入ってくると、すぐに高瀬は「元気そうだな」と言った。
夏美は「あなたもね」と言うと、「規則正しい生活を送っているからね」と答えた。
高瀬は左手をアクリル板に押しつけて「指輪をありがとう。こうして付けているよ」と言った。夏美も高瀬と手を合わせた。
「これで揃ったわね」
「ああ」
その後は、祐一の話を夏美はした。いかに努力して私立中学校に入学したのか、そしてその後どのような学校生活を送っているのかを、高瀬に話して聞かせた。
「テニスは楽しそうか」
「楽しくやっているようよ」
「そうか、それは良かった」
「今は中間テストがあるからって、頑張っているわ。あの子、あなたに似て頭が良いから、きっと前よりも良い成績を取ってくると思うわ」
「僕じゃなく、君に似ているんだよ」
高瀬が「お前」ではなく「君」と言った事に、夏美は一抹の淋しさを覚えたが、「わたしなんか……」と応えた。
そして「あなたからの手紙、嬉しかったわ。何度も読み返しているのよ。また、送ってくださいね。わたしも書くから」と言った。
「わかった」
「時間です」と刑務官が言った。
「じゃあ、また」と言って高瀬は席を立った。
夏美も「また、来月来ます」と言った。
高瀬は背を向けながら左手でバイバイのように手を振って、面会室から出て行った。
「お父さん。どうだった」
「元気だったわよ」
「入学写真、見てくれたかな」
「見ていたわよ」
「そう」
夕食の時の会話だった。今日から中間テストが始まっていたのだった。
「今日のテストはどうだった」
夏美の父が祐一に尋ねた。
「数学はできたけれど、古文はいまいちだったかな」と答えた。
「お前は父親に似て、理系に強いんだな」
「うん」
祐一は誇らしそうにそう返事をした。夏美は祐一が事件の事を引きずっていない事に安堵した。
『高瀬隆一様
あなたに会えて嬉しかったです。あなたが結婚指輪をしていてくれた事も嬉しかったです。あなたが結婚指輪をしていてくれると、わたしはあなたと繋がっているんだと思えるんです。
祐一の事もよく話しましたね。祐一は今、凄く頑張っています。少し遠くなりますが、私立中学校に入れて良かったと思っています。今は中間テスト中ですが、テニス部に入って楽しそうにしています。この夏のテニス部の合宿の写真も差し入れますから見てくださいね。
あなたの事を愛しています。 夏美』
『夏美様
テニス部の写真、どうもありがとう。祐一が楽しくクラブ活動している事がよくわかった。祐一に負けないように、僕も頑張らなければね。
次に会える時を楽しみにしている。 隆一』
祐一の中間テストの結果は、中間層から抜けたものの、上位層の底辺にいるという感じだった。
『高瀬隆一様
元気にしていますか。
祐一は中間テスト、頑張りましたよ。少し成績が上がりました。
あなたは普段はどうしているんですか。きっと慣れない作業をしているんでしょうね。
あなたが、家に帰ってきても、パソコンの前に座ってキーボードを叩いているのを今でも思い出します。わたしがお茶を持って行くと、コーヒーを入れてくれと言いましたね。眠れなくなるわよ、と言うと、眠くなったら自然に眠れるさ、とあなたは笑っていました。あの頃が懐かしくてたまりません。あなたのキーボードを叩く音は、ショパンの調べに似ていましたね。わたしは、コーヒーを出し終えて、隅のソファに座っていたら、いつしか眠っていました。その頃が思い出されます。また、あなたの叩くキーボードの音を聞きたい。そして、その音を子守歌のようにして眠りたい。 夏美』