五十六
金曜日は、新年初出社の日だった。
真理子は高瀬を会社に送り、車椅子で会社の中に入っていくと、新年会の準備で忙しかった。高瀬を社長室まで連れて行くと真理子は帰った。
月曜日になった。今日は新年会の日だった。
新年会は午前十時に始まるので、真理子は高瀬とその一時間前にホテルの控え室に入った。
控え室の中はいろんな人が出入りしていた。その中で、広報の中山がやってきた。
「今日は一生懸命、司会を務めさせていただきます」
「頑張ってくれ」と高瀬は言った。
真理子に「毎年、こうなのか」と高瀬は訊いた。
真理子は「そうよ。もっともわたしは、この慌ただしい控え室ではなくロビーにいたけれど」と答えた。
「俺もロビーに行きたくなったな」
「あなたが緊張するなんて珍しい」
「珍しいか」
「珍しいわよ。あなた、こういう会を催すの、好きだったでしょ」
真理子はそう言ってから、今ここにいるのは富岡ではなく高瀬だったと思い直した。高瀬がこういう会が好きかどうかはわからなかった。しかし、様子を見ていれば苦手なのがわかった。真理子は、頑張ってあなた、と心の中で思うしかなかった。
ついに新年会が始まった。
車椅子を営業の田中に押してもらい、高瀬は壇上に上がった。高瀬の後を追うように真理子も壇上に上がり、高瀬の隣に立った。
壇上には、少し遅れて隣に高木も来た。
司会の中山は、向こう側のスタンドマイクの前に立っていた。
「ではこれよりトミーソフト株式会社の新年会を開催します。まずは、代表取締役社長、富岡修より皆様にご挨拶を申し上げます」
マイクが高瀬に渡された。高瀬ははマイクを握った。真理子は気が気ではなかった。
しかし、高瀬はスムーズに話し始めた。
「明けましておめでとうございます。富岡修です。皆様におきましては、新年早々、お忙しい中、トミーソフト株式会社の新年会に足をお運びいただきありがたく存じます。皆様もお気づきとは思いますが、昨年、私は自動車事故を起こしまして、このように車椅子に座っておりますことを、また、喉を損傷しましたのでこのような話し方をしておりますことを、お聞き苦しいかと存じますが、共々ご容赦願いたいと思います。私は一時的に命の危機に陥り、言わば一度失った命を拾ったようなものです。この事故は私にいろいろなことを考えさせてくれました。その結果、大げさに言えば人生観が変わったと言ってもいいと思っています。これまでの私はある意味で自分本位でありましたが、これからは他者に対する気遣いがもっとできればいいと考えております。これからの私をどうぞ見ていて下さい。さて、事故は不運なことでありましたが、幸いなことに、トミーソフトは昨年発売したワープロソフトが、皆様のおかげをもちまして五万本を超えるセールスとなりました。ここに御礼を申し上げます。今年は、グラフィックソフトとカード型データベースソフトの発売も予定しています。またユーティリティソフトとしては、文書変換ソフトも発売する予定ですので、よろしくお願い申し上げます。長々と話をしていては、後に余興も控えているようなので、私の挨拶はこれまでとさせていただきます。ご清聴、誠にありがとうございました」
高瀬は何も見ずに、これだけの挨拶をした。割れんばかりの拍手の中、高瀬は、田中に車椅子を押されて壇上から降りた。
真理子は「あなた、よかったわよ」と言った。心の底からそう思っていた。
「そうか」と高瀬が答えた。
壇上から降りた高瀬のもとに、誰彼とやってきて挨拶をした。それは引きも切らなかった。
さすがに高瀬も疲れたので、高瀬は田中を呼び、車椅子を田中に押してもらって控え室に向かった。控え室に入ると、田中を会場に返した。
真理子も控え室に入り、ドアを閉めた。会場の喧噪が遠くなった。
「誰と会ったか、覚えているか」
「無理よ、いったい何人と挨拶、交わしたと思っているの」
「そうだよな。俺も誰と挨拶したのか、まるで覚えていない」
「それでいいのよ」
「そうだな。会場に戻って何か食べるか」
「あんなの、食べられる」
「それもそうだな。今日は昼食抜きで、夕食に真理子の心のこもった手料理が食べたいよ」
「まぁ、だんだん、あなた、口も上手になってきたわね」
「口も、って、ほかにどこが上手なんだよ」
真理子は笑っていた。
「帰りにどこかに寄って、買物しましょう」と言った。
新年会を無事やり過ごしたという安心感に、真理子は包まれていた。