五十三
十二月二十八日は忘年会がある日だった。
会社に高瀬を送り届けた後も真理子は会社に残った。朝から会社は騒々しかった。
真理子は車椅子を押して、高瀬と社長室に入った。
「毎年、こうなのか」と高瀬が真理子に訊くので、「知らないわ。朝から来るのは、今年が初めてだもの」と答えた。
「今日は、最初に挨拶して、乾杯をしたらすぐに帰るから」と高瀬が言うと、「去年までのあなたの言葉なら信じなかったけれど、今年は信じるわ」と真理子は言った。だって、富岡ではなく高瀬なんだから、と思った。
夕方の五時になった。
五時半過ぎに、高木が社長室に顔を出し、「六時から開始ですからね。挨拶の方、お願いしますね」と言った。
「分かっている」と高瀬は応えた。
真理子は高瀬の車椅子を押しながら、二人で社員がいなくなったオフィスを見て回った。
「随分と大きくなったものだな」
「ほんとね」
「来年はもっと飛躍する年にするからな」と高瀬が言うと、「期待している」と真理子は言った。
そうしているうちに警備員が来て、「閉めますので、お出になってください」と言った。
会社を出ると、真理子は高瀬を乗せた車椅子を押しながら、駐車場に向かった。
車で、忘年会をする居酒屋に向かった。十分ほどの所だった。
エレベーターで二階に上がった。当然のことだったが、座敷だった。
高瀬が挨拶をする壇上には椅子が置かれていた。廊下から壇上までは僅かな距離だった。段差がある所で高瀬は車椅子から降りた。真理子と男性社員に支えられて、高瀬は壇上の椅子まで歩いて行った。
壇上には、当然のようにマイクが置かれていた。
高瀬が椅子に座ると、盛大な拍手が湧き起こった。指笛も吹かれた。
高瀬にとっては、何も知らない会社の忘年会なのだ。真理子は、高瀬が何を話すのか心配だった。
高瀬はマイクを取り、「座ったままでの挨拶をご容赦願いたい」と切り出した。
「いいですよ、座ったままで」と誰かが言った。
「ありがとう」
高瀬は一拍おいて話し始めた。
「今年はいろいろなことがあった。見ての通り私は自動車事故に遭い、下半身はまだ痺れたままだ。しかし、その間にも会社は成長していった。トミーワープロの発売、会社の移転と大きなことが続いた。そして、みんなの努力でここまでやってくることができた。社長として、みんなに感謝する。ありがとう。今夜は会社のおごりだから、ゆっくりと楽しんで欲しい。長い挨拶は退屈だろうから、これで挨拶を終わりにする。乾杯の音頭は……」と、誰にしたらいいのかわからない高瀬は、近くにいた高木を見ると「田中です」と答えたので、すぐに「田中君にお願いする」と言った。
営業部の田中が立ち上がると、「皆さん、乾杯の準備はよろしいでしょうか。いいですね。それでは、トミーソフトのますますの発展と富岡社長と令夫人のご健康を祈って、乾杯」と言った。
真理子と高瀬はウーロン茶を飲んだ。
駆け寄ってくる男性社員が、高瀬が椅子から立ち上がろうとするのを止めて、「いやいや、社長。一曲、歌っていきましょうよ」と言った。
その時には、高瀬の隣にマイクを持った秘書室の滝川節子が来ていて、すでにスタンバイしていた。
そしてすぐに「銀座の恋の物語」(歌:石原裕次郎&牧村旬子。作詞:大高ひさを、作曲:鏑木創。発売:テイチク:一九六一年)のイントロが流れ出した。
それに合わせて、滝川節子が歌い出し、次にマイクを渡された高瀬は歌わないわけにもいかなくなっていた。喉を痛めていた割には、渋い声で高瀬が何とか歌い終わると、盛大な拍手が起こった。
真理子の方を見て「勘弁して欲しいよ」と高瀬は言った。くすくす笑いながら、真理子は「渋い声だったわよ」と言った。
五十四
次の日、真理子は、千葉の房総にある富岡の母の施設を訪ねることを提案した。
高瀬にとって、富岡の母は何の関係もなかった。それは真理子も承知していた。しかし、高瀬が富岡の母を訪ねておくことも、この先必要になってくるかも知れないと思ったのだ。何のため……、それがいったい何であるのかは、真理子にはわからなかったが、とにかくそう思ったのだった。
富岡の母はベッドに寝ていた。真理子と高瀬が来ると介護士から起こされて、車椅子に座った。
高瀬と富岡の母とは車椅子で庭に出た。二人を見ていると本当の親子のように、真理子には見えた。
施設の庭からは、雄大な海が水平線まで広がっていた。強い風が吹いていた。
高瀬が「母さん、寒くないですか」と言ったので、真理子は「いつもは、お袋って言っているわよ」と注意した。僅かな隙も作ってはならないのだ、と真理子は思った。
高瀬が「子どもの頃に戻ったからだろう」と言うと「子どもの頃を思い出したの」と訊いた。富岡の母に会って、小さかった頃のことを思い出していたのかと真理子は思ったのだ。
「いいや、ただ、そう思っただけだ」
「そうだ」と真理子はハンドバッグの中から小さなビニール袋に入ったリングを取り出した。
「結婚指輪よ」
「貸してくれ」と高瀬が言ったので、渡すと高瀬はそれを自分の左手の薬指に嵌めた。
真理子は呆然とそれを見ていた。そんな真理子に向かって、高瀬は「これで俺は正真正銘のお前の夫だ」と言った。
真理子は後ろから高瀬に抱きついた。高瀬の母の車椅子を押す介護士がいなければキスをしていただろう。
風が急に強くなってきたので、中に入った。
「修、元気にしていたか」と、突然、富岡の母が高瀬の手を握った。
「ええ、こうして何とか」
真理子は「あなたのことはわかるようね」と言った。整形で若返ったような顔になっているが、高瀬の顔は富岡の顔だったからだ。
「どうだろう。本当に分かっているのかな」と言った後、富岡の母の手を解きながら、「お袋も元気にしていてくれよ」と言った。
「お義母さん、元気だったわね」
施設の帰りに、真理子が運転しながらそう言った。
「そうだったね」
目をつぶった高瀬は、自然に涙を流していた。
それに気付いた真理子は「どうしたの」と訊いた。
高瀬は「お袋を見ていて、昔を思い出したような気がしたんだ」と言った。
「思い出したの」
「いや、思い出したわけじゃない。ただ、お袋を見ていて、このお袋と一緒に過ごしていた時があったんだな、と思ったのだ」
帰りがけにデパートに寄った。
最初は高瀬も行こうとしたが、あまりに人が多かった。車椅子ではどうにもならなかったのだ。
真理子は「ごめんね。いったん、家に戻って出直してくるわ」と言ったが、高瀬は「車の中で待っている」と答えた。すると、「それじゃあ、ゆっくり買えないもの」と言う真理子に「気にするな」と、高瀬はシートを倒して目を閉じた。そして「こうして眠っているよ」と言った。
真理子はそんな高瀬の頬にキスをした。
「待っててね」と言って、真理子は買物に行った。
買物から戻ってくると、高瀬は眠っていた。真理子は高瀬を起こして、ハンカチを出し、高瀬の首筋の汗を拭いた。
「何か怖い夢でも見ていたの」
「そうかも知れない。買物は済んだの」と言う高瀬に、真理子は後ろの座席を指さした。高瀬が振り向くと、沢山の紙袋が積まれているのが見えたに違いない。
「カートを戻してくるわね」と言って、真理子はカートを置いてきた。
戻ってくると、車を発進させた。
田舎に帰る車が多いのか、道は渋滞していた。幹線道路を抜けると道は空いてきた。
家に着いた時は、暗くなっていた。
大きな紙袋を後ろの座席から下ろし、家に入れると、それから高瀬を車から降ろした。
冷蔵庫は買ってきた食品でいっぱいになった。
一段落ついたところで、高瀬の隣に座った。
「こうして年末年始を二人だけで過ごすのは、いつ以来かしら」
「いつまでだったろう」と高瀬が言うと、真理子は「覚えていないくせに」と言った。
「そうだね、ちょっと言ってみたくなっただけだよ」
その日は、近くの中華店に行った。
真理子と高瀬は、中華料理を堪能して、最後に杏仁豆腐を食べて店を出た。
自宅に戻ると、高瀬は真理子にアルバムを持ってこさせた。
「どうしたの、急に」
「昔のアルバムを見れば、記憶が戻るかと思ってね」
真理子は高瀬に富岡の記憶が戻るはずがないことはわかっていたから、高瀬が富岡という男の過去を知ろうとしているんだ、と考えた。
真理子が運んできたアルバムは埃で汚れていた。真理子にタオルを持ってこさせた高瀬はアルバムを丹念に拭きながら中の写真を見ていった。
真理子は、アルバムを見ていくと、富岡との記憶が呼び起こされていた。
真理子は、富岡と実に多くの場所を観光していたと思った。
海外では、グァムを初めとして、ハワイ、オーストラリア、アメリカ・ニューヨーク、西ドイツ・西ベルリン、デンマーク・コペンハーゲン……と、その他にまだいくつか行っていた。それらの写真を指さしながら、どこで撮ったものなのかを真理子は高瀬に説明した。
真理子はアルバムのページをめくる毎に高瀬がそのページを丁寧にタオルで拭いているのを最初は不思議に思ったが、あまりに丁寧に拭いているのを見ているうちに、アルバムに残っているかも知れない富岡の指紋を消すためだと気付いた。
アルバムの中に写真を入れたのは真理子自身だったから、それをカバーする表面の部分を拭えば富岡の指紋は確かに消せる。高瀬の周到さに真理子は感心した。