小説「真理の微笑 真理子編」

五十七

 次の日、真理子は車で高瀬を会社に送り届けると、「また迎えに来るからね」と言って社長室のドアを閉めた。

 社内には、昨日の新年会の興奮がまだ残っていた。

 真理子は車椅子をトランクに入れると、車を発進させた。何となく躰がだるい気がした。

 

 一週間が経った。

 真理子の生理が遅れていた。今までも生理不順で遅れることはあったが、今回は違うと思った。毎晩、高瀬に抱かれていたからだった。

 期待と不安が真理子を包んだ。期待はもちろん、子どもが授かったかも知れないというものだったが、不安の方が大きかった。不妊治療でクリニックに通った時も、生理の遅れは何度もあった。しかし、その度に期待が裏切られたからだった。

 真理子は高瀬をリビングに入れると、「まだ、こないの。遅れているのよ」と言った。

 高瀬は車椅子に座りながら下を向いていた。

「もうきてもいいのに」

 高瀬が何も言わないのに苛立った真理子は「あれがないの」と言った。

 高瀬は、顔を上げ真理子の方を見た。

 真理子は「明日、クリニックに行ってみようかしら」と言った。

 それでも、真理子が何を言っているのか分からない様子の高瀬に、真理子が「あれがこないの」と再び言った。

 高瀬は「なに」と訊いた。

 何て鈍い人なの、と思いながら、真理子は「もう」とじれったそうに「生理がないのよ」と言った。

「えっ」と言って、高瀬は驚いていた。そして、ようやく「生理がきていないのか」と訊いた。

「そう言っているでしょ」と真理子は答えた。

「それって……」

「わからないわ。今までだって遅れたことはあるから。でも、今度のは……」今までとは違うと真理子は言いたかった。ただ、確信が持てなかった。

 

 次の日、朝、高瀬を会社に送り届けた真理子は、クリニックに向かった。しかし、幾度となく妊娠でないことを知らされてきた所でもあった。真理子は、車を高瀬が入院していた大学病院に向けた。ここで高瀬と出会ったのだ。真理子は縁起を担いだのだった。

 

 診察までには時間がかかったが、診察はそれほど時間はかからなかった。女医から説明を受けている真理子の顔がみるみるうちに輝いていった。

 家に戻っても信じられない気持ちでいっぱいだった。

 あれほど不妊治療を受けてもできなかった赤ちゃんを授かったのだ。

 クリニックの医師からは、真理子の体質のせいだとも言われていただけに、自責の念が強かったのだ。それが、ようやく子どもができた、これほど嬉しいことが真理子にあっただろうか。

 嬉しさに浸っているうちに時間も過ぎていった。時計を見ると、午後二時を少し過ぎた頃だった。

 しばらくして、真理子は化粧をし直すと、スーツを着た。

 そして会社に向かった。午後五時まで待ってはいられなかったのだ。

 

 二時間も早く会社に行った真理子は、社長室に入ると、机を回って、高瀬に抱き付いた。

「どうしたんだ」と訊く高瀬に「五週目ですって」と真理子は答えた。

「それって」

「できたのよ、赤ちゃんが」と真理子は言うと、不意に涙が出てきた。

 これまでの不妊治療のことや、今日、女医から赤ちゃんができた話を聞いたこといっぺんに頭を駆け巡ったのだった。

 高瀬が「よかったな」と言うと、真理子は泣きながら「うん」と答えた。

「今日は、お祝いしなくちゃ」と高瀬が言うと、真理子は「うん」としか答えられなかった。

 高瀬は高木を社長室に呼んだ。そして、「今日は早く帰らせてもらう」と言った。高木は、真理子が泣いているのを見て「大丈夫ですか」と声をかけた。

 真理子に代わって、高瀬が「大丈夫だ。心配はいらない。後は任せたよ」と言ってくれた。

 

 家に着くと、再び真理子は高瀬に抱き付いた。

「ああ、嬉しいー。こんなにも、嬉しいものなのね」

 そして、高瀬の顔を見て、「あなたの子よ。あなたの子が産めるの」と言って、また涙を流した。

 高瀬は「ありがとう」と言った後、泣いている真理子にキスをした。

 

 食卓には、真理子の手料理が並んでいた。真理子は生まれてくる赤ちゃんのために野菜を摂らなくちゃと思い、サラダ系を多くした。

 食事が終わると、高瀬を入浴させた。その後で、真理子はゆっくり風呂に浸かった。真理子はお腹をさすりながら、元気な赤ちゃんが生まれますように、と願った。

 真理子は浴室から出て、ベッドサイドに来た。高瀬は真理子のバスローブを開いて、そのお腹を見つめた。

「まだ、大きくはなっていないわよ」と真理子が言うと、「そりゃ、そうだけど」と高瀬は言った。

 真理子がベッドに上がるのを待っていた高瀬は、「いいんだろう」と訊いた。

「大丈夫だけれど無茶はしないで」と真理子は言った。今はまず胎児のことが心配だったのだ。

「いつ、俺が無茶をした」と高瀬が言うと、真理子は「いつもでしょ」と言った後、真理子はベッドの灯りを消した。

 

五十八

 真理子は高瀬を会社に送り届けると、そのまま区役所に向かった。母子手帳をもらうためだった。

 真理子は母子手帳をもらうと、早く高瀬に見せたくて会社に行った。

 しかし、社長室には高瀬はいなかった。高木が来て「新年会の御礼もあり、お得意様回りをしています」と言って出ていった。

 高瀬はお昼にも戻らなかった。

 戻ってきたのは、午後四時過ぎ頃だったろうか。

「忙しいのね」と真理子は言った。

「まあね」

「今日は区役所に行ってきたの」

「区役所」

「そう」

「何しに行ったの」

母子手帳を貰いに行ったのに決まっているじゃない」

「そうか」と言う高瀬に、真理子はハンドバッグから母子手帳を出して見せた。実感が湧くでしょう、とでも言うように。

「病院に行って予定日を訊こうかと思ったわ。昨日はつい嬉しくなっちゃって、予定日を聞いたかも知れないんだけれど、忘れちゃって」

「そういうのって忘れるもんかなぁ」

「意地悪、言わないでよ。わたしは、赤ちゃんができたってことで嬉しくなって他のことは考えられなかったのよ」

「そうか、で……」

「出産予定日は妊娠届出書に書いてあったわ。妊娠届出書を医師から渡されていたのをすっかり忘れていたの。出産予定日は九月十六日よ」

「九月十六日か」

「ようやく、できたのね」と真理子は実に感慨深げだった。

「そうなのか」と高瀬が言うと「そうよ」と、真理子は嬉しそうに言った。

 

 それから二週間近くが経った。

 会社に高瀬を迎えに行った真理子は、車を出すと「書店に寄ってもいい」と尋ねた。

「構わないよ」と高瀬は答えた。

 真理子が書店に高瀬の車椅子を押しながら入っていくと、赤ちゃんの名前の付け方の本が並んでいるコーナーに高瀬を連れて行った。

 真理子は見える範囲の本を取り出しては、何冊も見ていた。高瀬は、平積みされた本を見ていた。

 真理子は書棚から取り出した何冊かを籠に入れると、レジに持って行った。

 

 家に帰ると、真理子は本の入った紙袋をリビングのテーブルに置いた。そして、夕食の準備に取りかかった。

 真理子が「後で一緒に見ましょうね」と言うと、「分かった」と高瀬は応えた。

 夕食の後、紙袋の中から本を取り出した。

「男の子だったら、勇ってのはどう」

「勇か、勇ましい名前だね」

「あなたが修だから、おといを入れ替えたらそうなったの」

「おい、こらっ」と高瀬が軽く手を上げると、「うふふ」と真理子は笑った。

 その後で「ゆういち、っていうのもいいよね」と言った。すると、すぐに高瀬は「それはない」と言った。そして、高瀬は真理子を見た。週刊誌にも高瀬の子どもの名前は伏せられていたので、ゆういち、が高瀬に祐一を連想させるとは、真理子はもちろん思いもしなかった。

「どうせ、勇ましいのなら、たけるがいいんじゃないか」

「どう書くの」と真理子が訊くので、『猛』と、高瀬は本のページの余白に大きく書いた。

「なるほどね。じゃあ、女の子だったら」

「九月生まれだよね。えり、とか」

「どう書くの」と真理子が訊くと、高瀬はさっき書いた余白の隣に『恵梨』と書いた。

「富岡恵梨か。あっ、だったら富岡恵梨香の方がいいんじゃない」

「どっちでもいいよ。まだ、先は長いんだ。ゆっくり考えればいい」

「そうね」

 そうだった。生まれてくるのは、まだ先の話だった、と真理子は思った。しかし、こうして子どもの名前を考えることだけでも楽しい。子どもが生まれてきたら、もっと楽しいだろう、と真理子は思った。