小説「真理の微笑」

六十七

 新年会は午前十時に始まる。

 私と真理子はその一時間前にホテルの控え室に入った。控え室の中はごった返したようだった。出し物をするグループが隅の方で、最後のチェックを行っていた。

 広報の中山がやってきて、「今日は一生懸命、司会を務めさせていただきます」と言った。私は「頑張ってくれ」と言った。このような新年会は初めてだったから、隣にいる真理子の腕を思わず掴んだ。

「毎年、こうなのか」

「そうよ。もっともわたしは、この慌ただしい控え室ではなくロビーにいたけれど」

「俺もロビーに行きたくなったな」

「あなたが緊張するなんて珍しい」

「珍しいか」

「珍しいわよ。あなた、こういう会を催すの、好きだったでしょ」

 こういうときに、私は富岡じゃないんだ、と叫び出したくなる。私は(株)TKシステムズでは会社経営をしていたが、もともとは社長という柄ではなかった。ソフトを作るのが好きだったのだ。だから、こうした会は極力出なかったし、出たとしても隅の方に座っていた。ましてや、主催する事など想像外だった。しかし、今日は主役だった。

 

 いよいよ新年会が始まった。私は車椅子を営業の田中に押されながら、壇上に上がった。隣には、真理子と高木がいた。司会の中山は、向こう側のスタンドマイクの前にいた。

「ではこれよりトミーソフト株式会社の新年会を開催します。まずは、代表取締役社長、富岡修より皆様にご挨拶を申し上げます」

 私はマイクを握った。

「明けましておめでとうございます。富岡修です。皆様におきましては、新年早々、お忙しい中、トミーソフト株式会社の新年会に足を運んでいただきありがたく存じます。皆様もお気づきとは思いますが、昨年、私は自動車事故を起こしまして、このように車椅子に座っております事を、また、喉を損傷しましたのでこのような話し方をしております事を、お聞き苦しいかと存じますが、共々ご容赦願いたいと思います。私は一時的に命の危機に陥り、言わば一度失った命を拾ったようなものです。この事故は私にいろいろな事を考えさせてくれました。その結果、大げさに言えば人生観が変わったと言ってもいいと思っています。これまでの私はある意味で自分本位でありましたが、これからは他者に対する気遣いがもっとできればいいと考えております。これからの私をどうぞ見ていて下さい。さて、事故は不運な事でありましたが幸いな事に、トミーソフトは昨年発売したワープロソフトが、皆様のおかげをもちまして五万本を超えるセールスとなりました。ここに御礼を申し上げます。今年は、グラフィックソフトとカード型データベースソフトの発売も予定しています。またユーティリティソフトとしては、文書変換ソフトも発売する予定ですので、よろしくお願い申し上げます。長々と話をしていては、後に余興も控えているようなので、私の挨拶はこれまでとさせていただきます。ご清聴、誠にありがとうございました」

 挨拶の途中でも拍手はあったが、最後は割れるような拍手が起こった。私は、田中に車椅子を押されて壇上から降りた。

「あなた、よかったわよ」と真理子が言った。

 「そうか」と答える間もなく、誰彼とやってきて、挨拶をした。私は挨拶を返しながら、真理子や田中に「誰」と訊いた。真理子は答えられなかったが、営業の田中は耳元で彼らの名前や会社名・役職などを素早く耳打ちした。

 壇上では、広報室と秘書室合同の寸劇が始まっていた。

 それにしても、次から次へとひっきりなしに挨拶に来る者が続いた。営業の田中に車椅子を押させていたのはこのためだった。本来なら、専務の高木も詳しいだろうが彼も挨拶を受ける側の一人だった。だから、顔の広い田中を選んだのだった。

 挨拶者が一通り来て、余興も半ば頃になると私も疲れた。田中に控え室に連れて行ってもらい、田中を会場に返し、真理子と二人だけになった。

「誰と会ったか、覚えているか」

「無理よ、いったい何人と挨拶、交わしたと思っているの」

「そうだよな。俺も誰と挨拶したのか、まるで覚えていない」

「それでいいのよ」

「そうだな。会場に戻って何か食べるか」

「あんなの、食べられる」

「それもそうだな。今日は昼食抜きで、夕食に真理子の心のこもった手料理が食べたいよ」

「まぁ、だんだん、あなた、口も上手になってきたわね」

「口も、って、ほかにどこが上手なんだよ」

 真理子は笑って答えなかった。その代わり「帰りにどこかに寄って、買物しましょう」と言った。

 

 新年会は盛況のうちに終わった。ビンゴの一等はどこかの出版社の社員が取り、二等はとあるプリンタ会社の営業部長が取った。最後に再び、私が壇上に上がり、今日のお礼を言って幕引きとなった。