小説「真理の微笑 真理子編」

五十四

 次の日、真理子は、千葉の房総にある富岡の母の施設を訪ねることを提案した。

 高瀬にとって、富岡の母は何の関係もなかった。それは真理子も承知していた。しかし、高瀬が富岡の母を訪ねておくことも、この先必要になってくるかも知れないと思ったのだ。何のため……、それがいったい何であるのかは、真理子にはわからなかったが、とにかくそう思ったのだった。

 富岡の母はベッドに寝ていた。真理子と高瀬が来ると介護士から起こされて、車椅子に座った。

 高瀬と富岡の母とは車椅子で庭に出た。二人を見ていると本当の親子のように、真理子には見えた。

 施設の庭からは、雄大な海が水平線まで広がっていた。強い風が吹いていた。

 高瀬が「母さん、寒くないですか」と言ったので、真理子は「いつもは、お袋って言っているわよ」と注意した。僅かな隙も作ってはならないのだ、と真理子は思った。

 高瀬が「子どもの頃に戻ったからだろう」と言うと「子どもの頃を思い出したの」と訊いた。富岡の母に会って、小さかった頃のことを思い出していたのかと真理子は思ったのだ。

「いいや、ただ、そう思っただけだ」

「そうだ」と真理子はハンドバッグの中から小さなビニール袋に入ったリングを取り出した。

「結婚指輪よ」

「貸してくれ」と高瀬が言ったので、渡すと高瀬はそれを自分の左手の薬指に嵌めた。

 真理子は呆然とそれを見ていた。そんな真理子に向かって、高瀬は「これで俺は正真正銘のお前の夫だ」と言った。

 真理子は後ろから高瀬に抱きついた。高瀬の母の車椅子を押す介護士がいなければキスをしていただろう。

 風が急に強くなってきたので、中に入った。

「修、元気にしていたか」と、突然、富岡の母が高瀬の手を握った。

「ええ、こうして何とか」

 真理子は「あなたのことはわかるようね」と言った。整形で若返ったような顔になっているが、高瀬の顔は富岡の顔だったからだ。

「どうだろう。本当に分かっているのかな」と言った後、富岡の母の手を解きながら、「お袋も元気にしていてくれよ」と言った。

 

「お義母さん、元気だったわね」

 施設の帰りに、真理子が運転しながらそう言った。

「そうだったね」

 目をつぶった高瀬は、自然に涙を流していた。

 それに気付いた真理子は「どうしたの」と訊いた。

 高瀬は「お袋を見ていて、昔を思い出したような気がしたんだ」と言った。

「思い出したの」

「いや、思い出したわけじゃない。ただ、お袋を見ていて、このお袋と一緒に過ごしていた時があったんだな、と思ったのだ」

 

 帰りがけにデパートに寄った。

 最初は高瀬も行こうとしたが、あまりに人が多かった。車椅子ではどうにもならなかったのだ。

 真理子は「ごめんね。いったん、家に戻って出直してくるわ」と言ったが、高瀬は「車の中で待っている」と答えた。すると、「それじゃあ、ゆっくり買えないもの」と言う真理子に「気にするな」と、高瀬はシートを倒して目を閉じた。そして「こうして眠っているよ」と言った。

 真理子はそんな高瀬の頬にキスをした。

「待っててね」と言って、真理子は買物に行った。

 買物から戻ってくると、高瀬は眠っていた。真理子は高瀬を起こして、ハンカチを出し、高瀬の首筋の汗を拭いた。

「何か怖い夢でも見ていたの」

「そうかも知れない。買物は済んだの」と言う高瀬に、真理子は後ろの座席を指さした。高瀬が振り向くと、沢山の紙袋が積まれているのが見えたに違いない。

「カートを戻してくるわね」と言って、真理子はカートを置いてきた。

 戻ってくると、車を発進させた。

 

 田舎に帰る車が多いのか、道は渋滞していた。幹線道路を抜けると道は空いてきた。

 家に着いた時は、暗くなっていた。

 大きな紙袋を後ろの座席から下ろし、家に入れると、それから高瀬を車から降ろした。

 冷蔵庫は買ってきた食品でいっぱいになった。

 一段落ついたところで、高瀬の隣に座った。

「こうして年末年始を二人だけで過ごすのは、いつ以来かしら」

「いつまでだったろう」と高瀬が言うと、真理子は「覚えていないくせに」と言った。

「そうだね、ちょっと言ってみたくなっただけだよ」

 

 その日は、近くの中華店に行った。

 真理子と高瀬は、中華料理を堪能して、最後に杏仁豆腐を食べて店を出た。

 自宅に戻ると、高瀬は真理子にアルバムを持ってこさせた。

「どうしたの、急に」

「昔のアルバムを見れば、記憶が戻るかと思ってね」

 真理子は高瀬に富岡の記憶が戻るはずがないことはわかっていたから、高瀬が富岡という男の過去を知ろうとしているんだ、と考えた。

 真理子が運んできたアルバムは埃で汚れていた。真理子にタオルを持ってこさせた高瀬はアルバムを丹念に拭きながら中の写真を見ていった。

 真理子は、アルバムを見ていくと、富岡との記憶が呼び起こされていた。

 真理子は、富岡と実に多くの場所を観光していたと思った。

 海外では、グァムを初めとして、ハワイ、オーストラリア、アメリカ・ニューヨーク、西ドイツ・西ベルリン、デンマークコペンハーゲン……と、その他にまだいくつか行っていた。それらの写真を指さしながら、どこで撮ったものなのかを真理子は高瀬に説明した。

 真理子はアルバムのページをめくる毎に高瀬がそのページを丁寧にタオルで拭いているのを最初は不思議に思ったが、あまりに丁寧に拭いているのを見ているうちに、アルバムに残っているかも知れない富岡の指紋を消すためだと気付いた。

 アルバムの中に写真を入れたのは真理子自身だったから、それをカバーする表面の部分を拭えば富岡の指紋は確かに消せる。高瀬の周到さに真理子は感心した。