四十七
真理子は高瀬の車椅子を窓辺に押していき、書斎から外の風景を見させた。
「ねぇ、思い出す」
そう真理子が訊いたが、高瀬は首を左右に振った。
真理子が「そう、駄目なのね」と言うと、高瀬は「そうがっかりするなよ、俺はこうして真理子と二人だけでいられることで幸せなんだから」と言った。
「嬉しいことを言ってくれるのね」
真理子は、高瀬の頬を撫でた後、抱きついてキスをした。
鍵屋は、しばらくしてやってきた。小太りした中年の小柄な男性だった。
真理子は、奥の金庫を見せて、ダイヤルの回し方が分からなくなったことを鍵屋に告げた。
鍵屋は、胸ポケットからから小さなメモ帳を取り出して何か書き付けていた。それが終わると、首から提げていた聴診器のようなものをダイヤルの近くに押し当てた。そしてダイヤルを回し始めた。
少しずつダイヤルを回しながら、メモ帳に何やら書き付けていた。そうして、ダイヤルを回してはメモ帳に書き付けるという作業が繰り返された。
真理子と高瀬は書斎にいてもすることがなかった。鍵屋の作業には、まだ時間がかかりそうだった。
真理子と高瀬は書斎を出て、中央の扉を開け、高瀬の車椅子を押して、大きなテレビが置かれているリビングに入った。
リビングの隣はダイニングルームだった。その間の戸を開けると、相当な広さがあった。十数人でパーティーを開いても十分余裕があるように設計したのだった。
奥は対面式のキッチンになっていた。
高瀬は車椅子を自分の両手で動かして、キッチンに入った。
「凄いな」と言う高瀬に「テレビで見るようなキッチンでしょう」と隣にいた真理子が言った。
「そうだな」と高瀬が応えた。
「ちょっと見ていて」と言うと真理子は、キッチンに入り、戸棚から食パンを取り出して包丁で耳を取った。そこに冷蔵庫から取り出したレタスとハムとチーズを挟み、サンドイッチを素早く作った。
昼時を過ぎていた。時計はもう午後一時を回っていた。
真理子は、そのようにしてサンドイッチを何個か作ると、それを皿に載せた。トレーには、その皿と麦茶を入れたコップも載せて、書斎に向かった。サンドイッチを鍵屋に渡すためだった。
トレーを鍵屋の側のテーブルに置いた時、「ちょうど今、金庫が開きましたよ」と鍵屋が言った。
金庫は開いていた。
真理子が高瀬を呼びに行こうとしたら、高瀬は車椅子を自分で動かして書斎に入ってきた。
「これがダイヤルの回し方です」と鍵屋は書き取ったメモを破って、高瀬に渡した。
高瀬が「試してもいいですか」と言うと「いいですよ」と鍵屋は言った。
真理子は高瀬が金庫を閉めて、ダイヤルを適当に回し、扉が開かないことを確認してから、メモを見ながらダイヤルを回しているところを見ていた。高瀬は慎重なタイプだということがわかった。
高瀬が金庫を開けると「ねっ、開くでしょう」と鍵屋は言って、テーブルに置かれたサンドイッチを美味そうに頬張った。
「ええ」と言いながら、高瀬は金庫の中を見ていた。
真理子は少し離れてその様子を見ていた。高瀬にとって初めて見る金庫の中だ。高瀬が何を見ているのか、真理子も見ていた。
鍵屋がサンドイッチを食べ終えると、真理子は代金を渡した。
鍵屋が帰ると、真理子はキッチンに作って置いたサンドイッチを持ってきて、高瀬と食べた。
真理子は高瀬に「一人にして欲しい」と言われたので、空になった皿と盆を持ってキッチンに向かった。
真理子は金庫の中身が気になった。中に何が入っているのかは、富岡は教えてはくれなかったからだ。しかし、真理子は、今の高瀬はもっと気になっていることだろうと、思った。
高瀬が、病院では食べられなかったと言うので、夕食は寿司を注文した。
二人前が一つの桶に入って届けられた。夕食は今まで一人でとっていたのが、今は二人で食べるというのが、実感できる物だった。
大トロもウニもいくらも美味しかった。一人で食べることの味気なさを知っている真理子にとって、高瀬とつまむ寿司の味は、何よりも美味しかった。
夕食の後に、高瀬を風呂に入れることにした。
初めてのことだから、真理子は緊張していた。とにかく濡れてもいい服装に真理子は着替えて、脱衣所で高瀬を裸にした。
高瀬を裸にしてみると、背丈は富岡と同じぐらいだったが、富岡に比べると随分と痩せていた。入院生活が長かったにしても、富岡との体格差はかなりあった。
真理子にも高瀬を支えることが出来た。富岡だったら無理だったかも知れないと思った。とにかく、高瀬を風呂場に入れた。
まず高瀬の全身をシャワーで洗った。そして、改装して低くした浴槽に高瀬の足を片足ずつ入れさせて、その躰を半分ほど湯をはった浴槽に浸からせた。
「どぉ」と真理子がしゃがんで高瀬に訊くと、「ああ、いい気持ち」と答えた。
高瀬を風呂から上げるときには、少しく苦労した。高瀬に湯船に付けられている手すりにしっかり掴まるように言って、高瀬の躰を持ち上げ、真理子は何とか高瀬を洗い場に引き上げた。
その後、真理子はバスタオルを敷いた脱衣所の椅子まで、高瀬を支えて運び、座らせた。高瀬が頭や上半身は自分で拭いている間に、真理子は高瀬の下半身を拭いた。そして新しく買ったトランクスを穿かせ、パジャマを着せた。
それが済むと、高瀬を椅子から車椅子に移して、寝室まで押していった。
ベッドの脇まで車椅子で連れてくると、真理子は高瀬に肩を貸して立ち上がると、高瀬はそのままベッドに倒れ込んだ。
真理子は高瀬がベッドの中に入るのを見届けると、バスタオルとバスローブを持って、浴室に向かった。
真理子は浴槽に浸かりながら、この後どうなるのだろう、と考えていた。富岡だと思っているか、あるいは富岡を演じている高瀬が、自分の躰を求めてきたらどうしよう、と思った。
真理子は、高瀬のことを富岡だと思っているように演じているのだから、夫から躰を求められたら拒む理由がない。しかし、そう思うことで、高瀬を受け入れようとしていることに、真理子自身、自覚はなかった。
真理子は考えている間に入浴時間は長くなっていた。
髪をタオルで巻いて包んだ真理子は、寝室に入っていくと、「ごめんね、遅くなって」と言った。
「そんなことないよ」
真理子は浴衣のような素材のバスローブを身につけ、寝室の鏡台に座った。
鏡には自分の顔が映っている。わたしは誰、と鏡に問いかけてみる。
富岡真理子。
そう、その富岡真理子が初めての躰を合わせる男とベッドをこれから共にする。
真理子は気合いを入れるかのように顔に化粧水を付けて、ベッドに向かった。
そして、高瀬の隣に躰を横たえた。午後九時を少し過ぎた頃だった。
これからが始まりよ、と思って、真理子は寝室の灯りを消した。
高瀬の手が伸びてくるのを真理子は感じた。そして、その手は腕に触れた。高瀬はその手を腕に沿うように下ろしていき、真理子の手を握った。真理子も高瀬の手を握りしめた。その途端に、高瀬に強く引っ張られた。
真理子は高瀬の躰の近くに躰をずらした。高瀬は強く握っていた手を離した。そして、真理子が着ていたバスローブの前をはだけさせた。真理子は下着を着けていなかったから、裸同然の状態になった。
高瀬はより強く、真理子を引き寄せてその腰に手を回し、真理子を抱き締めた。
真理子は、富岡ではなく、高瀬隆一に抱きすくめられているのだ。そう思うと不思議だった。こうして、強く抱き締められるのも久しぶりだったし、高瀬に抱き締められるのは初めてだった。しかし、凄く自然な感じがしていた。
高瀬はパジャマの上を脱ぎ、トランクスと一緒にパジャマのズボンも脱ぎ捨てた。
高瀬は裸になった自分の胸を真理子の裸の胸に合わせた。真理子と高瀬の目が合った。その次の瞬間、高瀬は唇を重ねてきた。真理子もそれに応じた。
高瀬の手が真理子の胸を這う。そして、揉み上げていく。
真理子は小さく声を上げた。
長い愛撫の果てに、高瀬は真理子の中に入ってきた。初めての男を受け入れるように、真理子は受け入れた。富岡ではなく、高瀬としているのだ。奇妙な感覚が真理子を覆っていた。
真理子は狂おしいほど感じていた。そして、真理子が声を上げた時、高瀬が射精したのがわかった。
真理子は、高瀬の胸に顔を落として「良かったわ」と囁いた。高瀬が頷くのが胸の動きでわかった。
「まだ硬いわね」
射精した後でも、高瀬のそれはまだ立ったままだった。そんな高瀬に、自然と真理子の腰が動いていた。
高瀬は真理子の背中の真ん中を中指でなぞるようにしていた。それは腰までゆっくりと下りていった。真理子はその刺激にのけぞった。
そして、どれほどの時間が経ったのだろうか。真理子が「いく」と言った時、高瀬も射精したのだろう。
真理子は高瀬の横に転がった。
高瀬は左手で真理子の敏感な部分を触っていた。
「また」と真理子が言うと、高瀬は「真理子となら、何度でもしたい」と言った。
真理子は薄く笑い、「いいわ、好きなだけしてあげる」と囁くように言った。