小説「真理の微笑」

三十五

 月曜日になった。

 真理子が朝食後に顔を出し、午前九時前に会社に向かった。

 午前中に、電気店から待望のラップトップパソコンなどが届いた。私は早速、業者に使えるように設置してもらった。壁の電話線の差し込み口から電話線をモデムの電話線の差し込み口に入れ、電話はモデムについている電話線差し込み口から電話機に接続し、モデムとパソコンは、モデムについている通信用シリアルポートから出ているケーブルをパソコンのシリアルポートに繋いだ。これで電話機からの信号を受信したら電話が鳴るようになり、こちらからパソコンを通してダイヤルアップ接続しようとすれば、電話回線に繋がるようになった。それを確認して業者は帰っていった。

 業者が帰ると、すぐにパソコン通信ソフトをインストールして、ダイヤルアップ接続ができるように設定した。そして通信会社のサーバーに接続し、新たに契約を結ぶと支払方法をクレジットカードに指定してから、いくつかのフリーソフトをダウンロードした。ソフトがなければ、パソコンは何もできないからだった。

 日本語入力には、トミーソフト株式会社が使っているFEP(front-end processor、フロントエンドプロセッサ)があれば便利だったが、今はパソコン通信で手に入れた単漢字変換のFEPで我慢する他はなかった。ワープロではなかったが、フリーソフトテキストエディタもダウンロードした。FEPと組み合わせる事で、日本語文書も書く事ができる。

 私は通信会社のサーバーに接続して、自分宛のメールをテスト用として書き送った。

 果たして「これはテスト用です」と書いたメールを読む事ができた。

 夏美が設定しなければならない事は、こちらから設定した。後は夏美がパソコン通信会社と契約を結べばいい。その手順はテキストファイルに書いて、フロッピーディスクに保存した。フロッピーディスクをドライブに差し込めば、オートラン機能が働いて、自動的に必要なソフトがインストールされるようにした。後は、テキストエディタを起動して、指示したファイルを読み込めば、パソコン通信会社への契約方法やパソコン通信の方法、メールの読み方などが表示される。

 木曜日に手紙が着くとして、それからパソコン通信会社に手紙を出し、向こうから必要な書類が届いて、夏美が送り返す。そうしてパソコン通信が夏美の方でもできるようになるには、一週間ほどはかかるだろう。私のように、直接パソコン通信会社のサーバーに接続して手続きをする事もできるが、夏美には難しいだろうから、それは選択しなかった。

 その間に、私はせっせと夏美のメール箱にメールを送り続けるのに違いない。

 会う事はできないが、夏美や祐一の様子を知る事はできる。今は、それで満足しなければならなかった。いや、今だけではない。これからずっとそうなるのだ。

 

 昼食を挟んで、私はパソコン通信の事に没頭していた。

 午後三時になりリハビリの時間がくると、私は看護師に車椅子に乗せられて、リハビリルームに向かった。

 今日は手すりに掴まって立つ練習と車椅子を右左に動かし、或いはターンする練習をした。その後で、苦手な頭の体操が待っていた。

 そして、今日から加わる話す練習をした。奥の右側の部屋には、男性の言語聴覚士がいた。私が入っていくと、「言語聴覚士の菊池といいます。よろしくお願いします」と言った。私も「お願いします」と言ったが、上手くしゃべれなかった。

「富岡修さんですね」

 私は頷いた。

「今は上手くしゃべれなくても、喉の腫れが治れば、元のような声を取り戻す事ができます。全く元の声という事にはならなくても、普通に会話ができるようにはなりますよ」

「…………」

「これから、どの程度話せるのかを試していこうと思います。では始めましょう」

 私は言われるままに従った。

 

 病室に戻ったのは、午後五時近かった。声帯の検査に思いのほか時間がかかった。

 すぐにラップトップパソコンを取り出して触ってみたが、そのうち夕食が運ばれてきた。ラップトップパソコンをサイドテーブルに載せて、膳がベッドのテーブルに置かれた。

 今日のメインはハンバーグだった。

 食べている時に、真理子が入ってきた。

「届いたのね」

 私は頷いた。

「どお」

「食べ終わったら、後で欲しいものをメモする」

「わかったわ」

 私は夕食を終えると、メモ用紙に、いくつものソフトを書いた。

「こんなに買ってくるの」

「会社の……」と言いながら、私は社員名簿を取り出した。開発部の先頭に内山貴之という名前があった。部長という肩書きがついていた。

「この内山という人に訊けばいい。これらのソフトは大抵、会社にある。ないと言われたら、買ってくるしかないが……」

「いいわ、明日、会社に行ったら訊いてみる」

「そうしてくれ。もし、分からなかったら、電話してくれ。ここの電話番号は分かっているよね」

「ええ」

 私はまた真理子と長いキスをして、真理子は病室を出て行った。

 

 真理子が出て行くと、私は便せんを取り出して夏美に手紙を書いた。

『夏美様

 俺も夏美に会いたい。でも、それができない。その事情は手紙に書けない。

 俺は、無事だ。元気だと言いたいが、そうでもない。分かっているとは思うが、怪我をして、ある病院に入院している。しかし、病院の場所を教える事はできない。電話でも話したように声帯を損傷した。今はうまくしゃべる事はできないが、そのうち、普通に話せるようになるだろう。

 夏美や祐一がどうしているか、もっと知りたい。お前たちの事が分かれば俺はそれだけでいい。パソコン通信ができるようになったら、メールしてくれ。きっと何度も読むから。隆一』

 私は手紙を封筒に入れると、封をした。

 それから、パソコン通信の方法を、契約の仕方も含めて、素人でも分かるように詳細にメモ用紙に書いた。パソコン通信ソフトとマニュアルにメモ、フロッピーディスクと夏美への手紙を封筒に入れた。宛先は夏美の実家だった。

 差出人のところに「Ryu」と書いた。これで私だと分かるはずだ。

 

 午後十時に看護師が体温と血圧を測りにやってきた。明日は採血があると言った。

 私は封筒を見せて、「これを出してもらえますか」と訊いた。

「病院内にポストがあるから出しますね、でも、明日でいいですか」

「ええ」

「切手、貼らなくちゃならないけれど、今日はもう窓口閉めちゃったから」

「大丈夫です。それと糊をお願いします」

 私は開いている封筒の口を見せた。

「わかりました」

 私は看護師が渡してくれるコップの水とともに眠剤を飲んだ。

 今日は、ゆっくり眠れそうだった。