小説「真理の微笑」

二十八

 真理子は苛立っていた。

 話を聞いていくうちに、会社で浮き上がっている真理子が想像できた。

 真理子は取締役の一人に名前を連ねているが、形式的なものに過ぎなかった。それが私が入院しているので、私の代理になろうとしたのだ。

 しかし、会社組織は、にわか社長で務まるものではない。真理子には何の決定権もない。最初はともかく、何日かするうちにそれが真理子にも分かってきたのだろう。社外の誰かが訪ねてきても真理子に直接、話をする事はなかった。大抵は営業の田中が応対に出たのだろう。真理子は、自分の思うとおりにならないトミーソフト株式会社という会社に腹を立てていたのだった。

 

 私は夕食をとりながら、真理子の愚痴を散々と聞かされた。

 会社移転の話も場所が決まれば、いちいち真理子の指図は受けずに勝手に進んでいく。

 夕食が終わると、真理子はベッドテーブルの上に山のような書類を置いて、「これに目を通して決裁をお願いします、だって」と言った。

 とうとう社員たちも、真理子を女王様扱いするのをやめたのだろう。彼女の機嫌をとっていても仕事が捗るわけではなかったからだ。おそらく、敬遠し始めたのだ。そうなれば会社は居心地悪い。

「わたし、明日から会社に行きたくないわ」

「そう言わないでくれよ。俺は真理子の事を頼りにしているのだから。真理子が会社に行きたくないのと同じように、俺も病院にはもういたくない」

 真理子はくすりと笑った。

「なあ、前は真理子の事をどう呼んでいたんだ。お前って言っていたのか、それとも君か」

 私は思いきって訊いてみた。

「何言ってんのよ、お前って呼んでいたでしょ」

「そんな事も覚えていないんだよ。分かってくれよ」

「あなたは何もかも忘れているのに、何故かソフトの事は覚えている。不思議よね」

「…………」

「都合の悪い事だけ、忘れているんじゃないでしょうね」

「そんな事……」

 あるわけないさ、人が変わってしまったんだから、と思っても言えるはずがなかった。

 私は、真理子と話しながら、せっせと文書に目を通した。知らない事の方が多かったので、単に判を押すだけだった。

 ただ、データベースの開発の件についての書類を見た時、手を止めた。まだ開発中だったが、そこに書かれていた仕様は、(株)TKシステムズで作ろうとしていたカード型データベースと同じだった。カード型データベースソフトは、北村より私の方が詳しかった。北村は私の作ったソフトまで富岡に渡していたのだ。それを改めて確認する事になった。

 手は止めたものの判は押した。

「明日、これを会社に持っていってくれ」

 私は書類を真理子に渡しながら言った。

「わたしは伝書鳩なの」

「そんなわけないさ」

 私は書類を受け取ろうとする真理子の手を掴んでその唇にキスをした。長いキスだった。

 床に散らばった書類を拾いながら、「あなた、キスもうまくなったのね」と言った。

 ドキッとしたが、「そんな事ないさ。これは記憶を失った事の唯一の効用かも知れない」と言った。

「何、それ」

「初めて恋した時の気分になっているから」

 そう言ったら、真理子は拾っていた書類を置いて、再びキスをした。

 

二十九

 夜、ベッドに入ってもなかなか眠れなかった。昼間聞いた夏美の声が耳に残っていた。

 真理子が病室に入ってこなければ、もっと夏美の声を聞いていただろう。私が話さなくても、夏美が話してくれさえすれば良かった。

 明日になったら、また電話をしようと思った。夏美が出てくれればいいが、そうでなければすぐ切ればいい。夏美が出るまで、電話し続ければ済む事だった。

 しかし、夏美が出たとしても何を話せばいいのだろう。第一、この声では上手く話せないではないか。伝えたい事は山のようにある。しかし、電話では上手く伝える事はできない……。そう思っていた時に、パソコン通信の事が頭に浮かんできた。パソコン通信を使ってメールを送ればいいではないか。

 だが、夏美の実家には、パソコンはなかった。パソコン通信のやり方は夏美も知っているから、パソコン通信ができる環境を、夏美の実家に作れば良かった。

 もし、夏美が出たら、パソコン通信ができるようにする事を伝えなければならなかった。上手く伝えられるだろうか。心配しても始まらない事だったが、考えずにはいられなかった。

 

 あけみの事も気にかかった。

 彼女の事だ。また来るに決まっている。百万円、渡さなければどうなるのだろうか。

 分からなかった。しかし、最初に病室に現れた時、修ちゃんと言って抱きついてきた事を思い出した。富岡とは親しかったのだろう。あるいは肉体関係を持っていたかも知れない。とすれば、そう無理は言ってはこないだろう。

 だが、お金が絡むと男女の仲は分からなくなる。早く手を打っておくにこした事はなかった。とはいえ、いいアイデアは全く浮かばなかった。

 躰が自由でありさえすれば、自分はトミーソフト株式会社の社長なんだから、百万円ぐらいのお金なんて何とでもできそうだった。そう思えるだけに歯痒かった。

 

 ナースコールをした。看護師がやってきた。

「どうしました」

 私は眠れない事を訴えた。

「じゃあ、眠剤をお持ちしますね」

 少しして、錠剤を入れた小さなカップと水の入ったコップを持ってきた。

 私は電動ベッドのスイッチを押して躰を起こして、小さなカップに入った錠剤を口に含むと、看護師が渡してくれたコップの水を飲んだ。看護師は空になったカップをポケットに入れると「これで眠れますよ」と言った。

 そうだといいが……と思ったが、看護師が病室の電気を消して出て行って、間もなくすると、睡魔に襲われ、私は眠りに落ちていった。