小説「真理の微笑」

三十

 看護師が体温と血圧を測りに来るまで眠っていた。起きても、少し頭がぼうっとしていた。看護師が出て行くとベッドに横になった。そこでまた少し眠ってしまった。

 午前八時に朝食が運ばれてきて、再び起きた。

 朝食をとっている時、真理子がやってきた。眠れなかったのだろう。少し目が赤かった。

「休めているのか」

 私がそう言うと、真理子は首を左右に振った。

「今日は会社に行って、昨日決裁した書類を……」

 私はそう言いかけて、あの書類を真理子が誰に渡すのか分からなかった。会社組織がどうなっているのか、まだ知らなかったのだ。大事な事なのに後回しになってしまっていた。

「専務に渡してくれ」

 やっとそう言った。

「分かったわ。高木さんね、高木さんに渡せばいいのね」

 そうか、経理の高木が専務だったのか。

「社員名簿ってあるよね」

「あると思うわ」

「だったら、持ってきて欲しい」

「わかったわ。それだけでいい」

 議事録も欲しかったが、あれもこれも要求するのはやめた。

「書類を渡したら、社員名簿を持ってきてくれればいい。今日は、土曜日だからそれだけしたら家に帰るといい」

 真理子は素直にうなずいた。

 私は朝食をとり終わると、番茶で口をゆすいだ。もう番茶のとろみもなくなっていた。

 真理子を呼び寄せると抱きしめてキスをした。

 私たちは、思いのほか激しいキスをしていたのだろう。食べ終わった朝食の膳を片付けにきた看護師が、病室に入ったとたんに固まったくらいだったから。

 

 真理子が出て行くと、私はベッドサイドの電話機を取って、夏美の実家に電話をかけた。あいにく、義母が出た。私はすぐに電話を切った。少し待って、またかけた。また、義母が出た。また、すぐに電話を切った。

 電話機をサイドテーブルに戻そうとしたが、もう一度、かけてみようと思った。

 今度は長くコール音が続いた。受話器がとられた。

 しばらく沈黙が続いた。その後で、「いたずら電話ならやめんかい」という義父の声が聞こえてきた。私は受話器を置こうとした。そのとき受話器の向こうから「待って」と言う夏美の声が聞こえてきた。私は置こうとしていた受話器を再び耳に当てた。

「あなたね。あなたなのね」

 夏美は必死にそう言った。前は何も話さなかったが、今度はそうはいかなかった。伝えなければならない事があったからだ。

 私は緊張していた。少し心を落ち着かせてから、やはり潰れたような声で「そうだ」と言った。私の呻くような声を聞いて、「やっぱり、あなたね。声が変わっていてもあなただとわかるわ」と夏美は言った。

 私は自分に落ち着けと心の中で言った。何を話していいのか分からなかったのだ。

 だが、その時、昨夜、考えた事を思い出していた。私はゆっくり「パソコン通信ができるか」と言った。

パソコン通信?」

 夏美は、突然難しい事を言われたので、私の言葉を繰り返すしかなかった。

 私はもう一度「そうだ、パソコン通信だ」と言った。

パソコン通信って言っているのはわかるけれど、それをどうするの」

パソコン通信を知らないのか」

「そんな事、急に言われてもわからないわ」

パソコン通信ができるようにして欲しい」

「どうすればいいの」

「まず、パソコンがいる」と言った。

「パソコンが必要なのね」

「そうだ」

「わかったわ」

「それにモデムがいる」

「モデム」

「そうだ」

「ちょっと待ってね、メモを取るから」

 夏美はメモ帳とペンを探しているようだった。しばらくして「いいわよ、続けて」と言った。

 私はもう一度、「パソコンとモデム」と言った。これを夏美はメモしているのだろう。

「それに電話線ケーブルがいる」

「書いたわ。でもこれをどうしたらいいの」

電気屋に頼め」

「そうよね。電気屋さんにお願いすればパソコン通信できるようにしてくれるわよね」

「そうだ」

「でも、機械が揃ってもどうしたらパソコン通信できるの」

 そうだった。これでは肝心な事がわからないではないか。第一、パソコン通信するためのソフトがいる。今までは(株)TKシステムズが独自で作ったものがあり、もっぱらそれを使っていた。しかし、(株)TKシステムズが倒産した今、(株)TKシステムズで作ったソフトを新たに購入する事はできないだろう。とすれば、今売られているパソコン通信ソフトを使うしかない。使った事はないが、経験上、それぞれのソフトには設定の仕方にそれぞれに特徴がある。自分で使ってみて、試すしかない。そして、それを夏美に伝えるのだ。しかし、これは電話でできる事ではなかった。

「手紙を出す」

「手紙? 手紙を出すって言っているの」

「そうだ」

「わかったわ。手紙が来るのを待っていればいいのね」

 パソコン通信の仕方を書いた手紙と、通信ソフトを送れば、夏美でもパソコン通信できるようになるだろう。

「そう、手紙に必要な事を書いて送るから、手紙が来るのを待て」

「わかったわ。待つわ」

 何とかパソコン通信の事は伝える事ができた。

 そうなると、今の夏美や祐一の事が気になりだした。

「元気にしているか」

 夏美も私の話し方に慣れてきたようだった。もう、繰り返さずに「ええ、元気にしているわ」と言ってきた。

「良かった」

「心配しないでもいいわ。わたしたちは元気にしているから。でも、あなたはどう。あなたの事が心配よ」

「心配しなくてもいい」

「そんなの無理よ。あなたの声を聞いていると、苦しそうだもの」

「声帯を痛めたので、こんな声しか出せない」

「生体をどうかしたの。躰のどこかを痛くしたの」

 声帯を夏美は生体と受け取った。私は言い方が悪かったと反省した。

「喉を痛めたのだ」

「喉を痛めたのね。そうか、さっきは声帯って言っていたのね」

「そう。だから、上手く話せない」

「そうか、喉を痛めたので、あまり良くはしゃべれないのね。今、あなたはどこにいるの」

「病院」

「病院にいるの。病院から電話をかけているのね」

「そう」

「だったら、わたし、行くわ。どこの病院なの。教えて」

 教えたくても教えられなかった。

「教えられない」

「どうしてなの。わたしはあなたの妻なのよ。妻にも教えられないの」

「そう。どうしても教えられない」

「ねぇ。わたしがどれほど心配しているか、わかる」

 夏美は電話の向こうで泣いていた。

「…………」

「何があったか知らないけれど、あなたの事、忘れた事は一度もないのよ。あなたがいなくなってから一度もよ。あなたに会いたい。どこか教えて。どんなに遠くても、すぐに行くから。ねぇ、お願い。お願いよ」

 私は涙が出てきた。夏美の最後の言葉は悲痛な叫びのように聞こえた。これ以上、話していると、心がはち切れそうにいっぱいになり、破裂しそうだった。

 私は受話器を置いた。そして、泣いた。最初は静かに、やがて号泣した。

 

 電話で夏美と話したい事は、まだいっぱいあった。

 辛くはないか。祐一はどうしている、学校には馴染んだか……。

 そんな言葉が、次から次へと頭に浮かんだ。だが、そんな話をすればするほど辛くなっていくだけだった。今も、そしてこれからも夏美に会う事ができないのだから。

 

 電話をサイドテーブルに置くと、そこからパソコン雑誌を二冊取った。パラパラとめくり、パソコン通信ソフトが載っているページを探した。

 パソコン通信ソフトは何種類か載っていた。しかし、(株)TKシステムズの頃は、自作していたから、気にもしていなかった。しかし、こうして雑誌で見ると、どれがいいのかまるで分からなかった。値段も低価格のものから高価格のものまである。普通のユーザーが使うのであれば低価格のもので十分だと思えた。仕様を見ただけでソフトの善し悪しは判断できなかった。こういったソフトは実際に使ってみなければ分からなかったのだ。

 それでも、これと思うものにボールペンで丸をつけた。

 

 午後になって真理子がやってきた。そしてキスをした。この甘美なキスの中に、夏美との会話で辛くなった気持ちを溶かしたかった。

 真理子は社員名簿を持ってきていた。印刷されたものではない。黒い硬い表紙に綴じ紐で閉じられたものだった。それに八十名ほどが載っていた。

 最初の方のページを開けると、社長以下役員の名前がずらりと並んでいた。

 代表取締役社長である私を筆頭に、専務、常務と続いた。専務はやはり高木だった。そして常務は田中だった。その後に真理子の名前があった。

 その他のページには総務部、営業部、開発部、販売宣伝部……と順にずらり並んでいた。それらは後で見る事にした。

「で、今日は、どうだった」

「別に何もないわ。あなたが決裁した書類を高木さんに渡してきただけ」と言った。

「そうか。会社移転の方は進んでいるようか」

「そうみたいよ。総務部が忙しそうにしていたわ」

 真理子はすっかりやる気をなくしたような言い方をした。

「真理子、頼みがあるんだが」

「なぁに」

「これなんだが」と言って、パソコン雑誌のあるページを見せた。そこには、丸をつけたパソコン通信ソフトが載っていた。

「丸がついているものの事」

「そう。それを買ってきてくれないか」

「いいけど……、今から?」

「うん」

「そんな、今来たばかりよ」

「そこを頼む」

「それにパソコンが届くのは、月曜日よ。それからでも遅くはないんじゃない」

「そこをなんとか」

 私は、上手く動かせない手で、両手を合わせた。

「まったく、仕方ないんだから」

 真理子はハンドバッグを持って出て行こうとした。

「ちょっと待って、忘れていた。二つ買ってきて欲しいんだ」

「一つでいいんじゃないの」

「中身をいじるからさ、二ついるんだ。それと新しいフロッピーディスクも買ってきて欲しい。十枚パックのやつ」

「わかったわ。それでもういい」

「ああ」

「じゃあ、行ってくるわね」

 真理子は出て行った。ソフトの中身をいじるのに、いつもなら二つはいらなかった。プロテクトを外して、コピーすれば済む事だった。しかし、今、(株)TKシステムズにいるわけじゃない。プロテクトを外すのにも、それなりのプログラムがいる。(株)TKシステムズにはそれがあったが、ここでそれを一から作るのは、無理だった。解析プログラムを作るのにも、それを作るためのプログラムが必要だった。

 二つ買ってこさせたのは、もちろん、もう一つを夏美に送るためだった。パソコンがなくても、マニュアルを読めば、設定の仕方は分かる。

 夏美の事だから、すぐにでも近くの電気店に電話しているか、行くかしているだろう。来週になれば向こうでもパソコン通信の環境は揃っているに違いなかった。