小説「真理の微笑 真理子編」

三十四

 月曜日午前九時だった。病院に寄らずにそのまま会社に直行した。

 真理子は、昨日の件がどうなったのか、気になっていたのだった。富岡もそれを知りたいだろうと、思ったのだった。

 社長室に田中を呼んだ。

 昨日の件を訊くと「方針が決まったので、今日はバリバリやるだけです」と応えた。

「そう、それは良かったわ」

「社長は、細かいことまでよく気付きますよね」

「そうなの。わたしも傍で聞いていてビックリしたほどだもの」

「早く治ってほしいものですね」

「ありがとう。そう富岡に伝えておくわ」

 

 田中が出て行くと、真理子はすることがなかった。滝川に今日の面会予定がないことを確かめると、これから病院に行くと伝えた。

 病室に入ると、富岡はいなかった。ナースステーションで訊くと洗髪中ということで、もうすぐ戻ってくると言われた。

 病室で待っていると、しばらくして車椅子に乗った富岡が戻ってきた。

 看護師が出て行くと「さっぱりしたわね」と真理子が言った。十数年前の富岡を真理子は思い出していた。

 くぐもった声で「ああ」と富岡は応えた。

「会社に寄ってきたわ」

「そうか」

 やはりくぐもった声だった。

「昨日みたいに混乱していなかったわ。田中さん、張り切っていたわ。指揮官がいないと駄目ね。あなたには、早く治ってもらわなければ……」

 そう言いながら、真理子は半身を起こしている富岡の後ろに回った。そして、後ろから富岡にキスをした。上下逆さまのキスになった。それから、前に回るとディープキスをした。富岡が包帯に巻かれた手を動かして、真理子の腰に触れたのがわかった。

 昼食が運ばれてきた。

 食べ終わるのを見届けた真理子は、「会社に寄ったらまた来るわね」と言って病室を出た。

 

 会社の方は順調に進んでいるように見えた。

 しばらく社長室にいたが、何もすることがない部屋にいつまでもいるには真理子にとって退屈すぎた。

 午前中にした富岡とのディープキスが思い出された。かつてした富岡とのディープキスとは違っていた。それは顔や歯の形成手術のためだけのようにも思えなかった。自分の記憶をなくしていたとしても、キスの仕方まで変わるだろうか、と真理子は思った。しかし、今の富岡のディープキスは決して嫌ではなかった。むしろ、優しく包んでくれる感じがした。いったんは、ブレーキに細工をして殺そうとした男だった。しかし、それは愛憎が混じった殺意だった。こうして一命を取り留めて、十数年前に若返ったような富岡が戻ってきたのだ。記憶をなくしていることもあり、やり直せばいいことなのではないのか、と真理子は思った。

 そう思うと会社にいるのが馬鹿らしくなった。滝川に早退する旨を伝えて、病院に向かった。

 病室に入ると、富岡は眠っていた。真理子は富岡を起こさないように枕元に座った。

 そしてしばらく、富岡の寝顔を見ていた。こうして富岡の寝顔をまじまじと見るのも久しぶりだった。やがて、富岡は突然、大声で「夏美ぃ」と叫んだ。その声は、ゴロゴロもしていなければ、しゃがれてもいなかった。そして、真理子が普段聞き慣れている富岡の声とも違っていた。富岡がはっきりと「夏美」と言ったのを真理子は聞いたのだった。

 すぐに富岡は起きた。真理子は「譫言を言っていたわよ」と言うと、汗をかいている富岡の額を見て、クローゼットの中からフェイスタオルを取り出して拭いた。

「よほど怖い夢を見たのね。それとも……」と言うと、その先を真理子は続けなかった。その代わりにキスをした。可哀想な富岡の口に蓋をしたのだった。

 少しして「会社の方はどうだった」と、いつものように少ししゃがれた声で富岡が言った。

「大丈夫よ。うまく行っているわ」

「そうか」とこれもしゃがれた声だった。

「あなたの方は、どう」と真理子が訊くと、「退屈で仕方がない」と答えた。

 すると「良くなっている証拠ね」と、真理子は笑った。

 しゃがれ声で「明日来る時、私の手帳を持ってきて欲しい」と富岡が言った。

 すると、真理子は富岡が言った「私」という言葉に引っ掛かった。

「どうした」

「今、わたし、って言った」

「それがどうした」

「変ね、いつもは俺って言うのに」

 そう言うと、富岡は黙ってしまい、俯いた。そして俯いたまま「記憶を失っているからだろう」と答えた。

「そうね、きっとそうよね」と真理子は言った。

 顔を上げた富岡はしゃがれ声で「それと、この前、インタビューした記事の載った雑誌も。それと……」と言った。まだ、続けようとしていたので、真理子は人差し指で富岡の唇を封じた。

「気になるのはわかるけれど、無理はだめよ。今は躰の方が大事。早く治してね」と言った。

 富岡の唇を封じたのには訳があった。富岡にかまをかけてみようと思ったのだ。

「でも、いつも持ち歩いている手帳なら事故を起こした時に焼けてしまったんじゃないの」と言ったのが、それだった。

 真理子は富岡の手帳を別荘から自分で持ってきたことはわかっていた。わかっていてそう訊いたのだ。

「いや、手帳は持って出なかった……と思う」と富岡は答えた。狼狽しているように真理子には見えた。

「事故前の記憶が戻ったの」と、さらにかまをかけた。

「いや、そう思うだけだ」

「どうして」

「どうしてって、理由など……」

「だって、東京に戻ろうとしたんでしょ」

 真理子は富岡が東京に戻ろうとしてなどいなかったことを知っていて、そう言った。

 富岡は首を左右に振った。

「やっぱり、事故前の記憶が戻ったんじゃないの」

「そうじゃない」

「そう。じゃあ、どうして普段着で車に乗ったの」

 疑問に思っていることを富岡にぶっつけた。

「あなたが、意識をなくしているひと月の間、わたしは何もしなかったわけじゃないのよ。警察の人に案内してもらって、事故現場を見に行ったわ。保険の調査員も一緒だった。もちろん、わたしはわたしの車で行ったけれど。事故現場は急カーブの手前だった。そこでブレーキをかけたけれど間に合わなかったのね。ガードレールを突き破って崖下に落ちてしまった……。車は大破してしまったけれど、こうして助かったのが、奇蹟的なくらい」

 真理子は、最初に別荘に行ったことを隠して、その後のことを話した。

「それから別荘に行ったわ。合鍵を持っていたからそれで入ったの。警察の人とは事故現場で別れたけれど、保険調査員には、上がってもらってお茶を出したわ」

 真理子は一呼吸置いた。これからが本番だった。

「ジャケットとズボンがクローゼットの中にあったの。ジャケットの中には財布もあったわ。そして、あなたの言っている手帳は机の上だった。だから、東京に戻ろうとしていたんじゃないことは、すぐにわかった。それにね。不思議なのは、お酒を飲んでいたあなたが、どうして車を運転しようとしたのかなの」

 真理子には、富岡のブランデーとコップがテーブルの上にあったのを見ていた。そのブランデーを棚にしまい、コップを洗った記憶は忘れられるはずもなかった。明らかに富岡はブランデーを飲み、好きなワーグナーの曲を聴いていたのだ。

 しゃがれ声で「そんなこと分からないよ、どうしてなのか。第一、酒を飲んでいたことも覚えていない」と懸命に訴えた。

「そうよね、事故前の記憶がないんだものね」と助け船を出した。

 富岡はホッとしたように「ああ」と応えた。この時はしゃがれ声ではなかった。

 再び、富岡はしゃがれ声で「それで手帳はどうした」と訊いた。

「もちろん、持ってきたわ。財布や服も一緒に」

「それなら、明日、持ってきてくれ」

「いいわ」

 真理子がそう答えると、沈黙が重苦しい空間を作り出していた。

「一階に売店があったよね」としゃがれ声で富岡が言い出した。

「ええ」

「車椅子で買物に行けるかな」

「欲しいものがあるのなら、買ってきてあげるわよ」

「あ、いや。自分で行ってみたいんだ。雑誌なんかも選びたいし……」

「そうよね、退屈だって言っていたものね。いいわ、看護師に訊いてくる」と真理子は言うと病室を出た。ナースステーションまでの僅かな時間だったが、真理子はさっきの富岡とのやり取りを反芻してみた。やはりどこか不自然さを感じた。

 真理子は、ナースステーションに着くと、「一階の売店に富岡を連れて行きたいんですけれど」と話すと、看護師は「わかりました」と言って、車椅子を用意して、一緒に病室についてきてくれた。

 看護師は富岡が車椅子に自分で乗れるのを確認した。真理子は、富岡が包帯だらけの姿に甚平のようなパジャマを着ているのを見ると、一階の売店に行くのだから人目が気になり、病室備え付けのクローゼットから薄手のカーディガンを取り出して、富岡に羽織らせた。病室を出ると、「あとは私が……」と真理子が言い、看護師はナースステーションに戻って行った。

 

 一階の売店にエレベーターで下りていくと、普通のコンビニとあまり変わりがなかった。富岡が書籍コーナーに行きたがるので、連れて行くと、パソコン雑誌と週刊誌を何冊か買物かごに入れた。

「これでいい」と真理子が確かめると、富岡が頷きレジで会計を済ませた。

 病室に戻ると、ナースステーションの看護師に声をかけて、富岡が自分でベッドに上がるのを確認してもらってから、車椅子を持って行ってもらった。

 富岡の方を見ると早速、パソコン雑誌を開いていた。

 真理子が後ろから覗き込むように見ると、トミーソフト株式会社のワープロソフトの広告が大きく見開きで出ていた頁を開けていた。

「凄いでしょう」

 真理子の言葉には返事をしなかった。

「何を考えているの」

 真理子は後ろから、富岡の首に腕を巻き付けるようにしながら訊いた。

 しかし、富岡はパソコン雑誌に目が釘付けになっていた。

 しばらくして富岡は「こんなにも載っている」と、パソコン雑誌を真理子に見せると「そうね」と言った。

 

 病院を出て車で家に向かっていた。

 今日の富岡との会話は変なところがいっぱいあった。しかし、それよりも「夏美ぃ」と叫んだ富岡の声が消えなかった。

 夏美とは一体、誰なのか。真理子には、新たな疑問が湧いてきた。