三十三
日曜日だったが、真理子は午前九時過ぎに会社に行ってみた。会社は平日のように動いていた。TS-Wordが発売されたからだった。今は、会社にとっては土日もなかったのだ。
開発部に顔を出した。
寝袋から出てきたばかりの、真理子は名前の知らない人が「お早うございます」と言って、真理子の横を通り過ぎていった。
西野が「お早うございます」と言った後、「やはり、社長の指摘通りでした。確認もできました。今、修正プログラムを作っているところです」と言った。
「そう、それは良かった。でも、大変だったわね。ご苦労様」
会社を出て病院に着いたのは、午前十時半頃だった。
病室に入っていくと、富岡は眠っていた。そっと枕元の椅子に座ると、富岡は目を開けた。「起こしてしまったわね」と真理子が言うと、「いや、いいんだ」と富岡はゴロゴロする声で何とかそう言った。
富岡が電動ベッドを起こすと、真理子は顔を近づけて富岡にキスをした。
「あなたの指摘通りだったようよ。昨日、泊まり込んだ人もいたくらい。すぐに修正プログラムを作るって張り切っていたわ」
富岡はそうなることがわかっていたように「そう」と言った。
少し、違和感を持った真理子は、「でも、やっぱり不思議よね。プログラムのことは覚えていたのね」と探りを入れてみた。しかし、富岡の表情は変わらなかった。
「他のことは忘れてしまったようなのに……」と真理子は富岡の目を覗き込むようにして、そう言ってみた。やはり、富岡は表情を変えなかった。
「でも、それでいいと思っているのよ」と言った後、「新鮮だもの」と続けた。富岡が記憶をどこまで失っているのか、本当は知りたかった。
しかし、「まるで新婚時代に戻ったようだもの」と言った後、「また夕方来るわね」と言って病室を出た。
真理子が会社に戻ると、営業部の田中と開発部の内山が、すぐに社長室にやってきた。
「どうしたの」と真理子は訊いた。
まず内山が「修正プログラムは今週中には、何とかできる見通しがつきました。でき次第製作を始めるつもりです」と言った。それに続けて、田中が「そのことなんですが、修正プログラムができれば、ユーザー登録している人には、その修正プログラムを送付すれば済みます。しかし、全員がユーザー登録しているわけではありませんので、その人達をどうするのかというのと、すでに出荷した分についてはどうするのかというのが、問題になっていまして……」と言った。
「それなら回収してプログラムを修正したものに差し替えればいいのではないかしら」
真理子がそう言うと、「すでに出荷した分を回収するにしても、かなり刷り増ししているので実際問題として大変です」と田中は言った。
「確かにそうよね。今、どのくらい売れているの」
真理子がそう言うと、「販売宣伝部の松嶋に訊かないと確かな数字はわかりませんが、一万ロットを超えて、うなぎ登りに売れているようですから一万五、六千ロットぐらいには対応しないといけないでしょうね」と田中が言った。
「それで、どうしたらいいと思うの」と真理子は訊いた。
内山は「ユーザー登録している人には、修正プログラムを送付すればいいと思います。今、出荷している分については、取りあえず回収して、プログラムを修正したバージョンに差し替えるのが筋だと思います」と言った。すると、田中が「今、出荷分を回収するのは、そんなに簡単にはいかないよ」と口を挟んだ。
「どうしたらいいんでしょう」
三人はしばらく黙ったままだった。
「考えていても仕方ないわね。問題点はわかりました。田中さんと内山さんは持ち場に戻ってください」と真理子は言った。
二人は社長室から出て行った。そうは言っても、真理子に何か考えがあるわけではなかった。
その時、富岡のことが頭に浮かんできた。
「富岡に訊いてみようかしら」
そう真理子は思った。どうせ、駄目でもともとの話ではあったのだ。
真理子が会社を出たのは、午後三時前だった。そして病院に向かった。
病室に入ると、ゴロゴロする声で「どうしたの」と富岡が訊いたので、会社での顛末を真理子は富岡に話して聞かせた。
すると、富岡が、声にこそ出さないものの笑い出すのが、真理子にはわかった。
真理子はそれを見てびっくりした。富岡も深刻な顔をするだろうと思っていたからだった。
しかし、違った。
「何か考えがあるのね」
真理子は、そう富岡に尋ねた。富岡は頷いた。そして、しゃがれ声で「プログラムを担当している者と営業の責任者を呼んでくれ」と言った。
「わかったわ。電話してくる」と真理子は病室を出て、ナースステーションで電話がかけられる場所を訊いた。この階の北側の一角に公衆電話があることを看護師から教えてもらった。
会社に電話をすると、滝川が出たので、田中と西野と遠藤に病院に来るように言った。
真理子は病室に戻ると「すぐに来るって」と言った。
三十分ほど待つと、三人が病室に駆けつけてきた。
真理子は、富岡に西野と遠藤は知っていると思ったので、営業部長の田中を紹介した。
富岡は、真理子にメモ用紙を取ってもらうと、何やら書き出した。
この間に、田中は真理子に「社長は思ったよりも元気そうですね」と囁くように言った。真理子が頷くと、「若返ったような気さえします」と言った。やはり、そう見えるのね、と真理子は思った。
しばらくすると、富岡が真理子を呼ぶので、近寄ると、箇条書きにしたメモを見せた。
そこには次のように書かれていた。
『一、ユーザー登録しているお客様には、修正プログラムを送る。
二、今出荷している分は、修正プログラムを添付する。これは外箱に貼り付ける。
三、フロッピーディスクを付録にしているパソコン雑誌に修正プログラムを載せてもらうように頼む。
四、そうでない雑誌には、修正プログラムの入手方法を掲載してもらう。
三と四は、広告費をはずめば何とかしてくれるだろう。』
「三人を近くに呼んでくれ」と言うので、真理子はそうした。
富岡はメモ帳を三人に見せながら、話そうとした。しかし、富岡は上手くしゃべれないので、真理子が富岡の言いたいことを聞き取って、三人に話した。その内容は意外に細かかった。真理子が知らない言葉が飛び交った。
事細かに二時間半ほど富岡の説明は続いた。
そして、富岡は営業担当の田中に、「出版関係の方をくれぐれも頼む」と言うと、田中は「わかりました」と言った、
そうしているうちに、六時になった。夕食の時間だった、そこで、三人は病室から出て行った。
真理子は残った。
「この前もそう思ったけれど、今まであなたの仕事ぶりを見て来なかっただけに、今度もやっぱり目の当たりにすると凄いわね。事故に遭ったなんて思えないぐらい」
真理子は、本心からそう思って言っていた。富岡には、変に几帳面なところがあったが、ルーズな面も多かった。しかし、今、三人を相手にしていた富岡には緻密さがあった。
富岡はしゃがれた声で「そんなことはないさ。田中の顔も覚えていないんだから」と言った。それに対して、真理子は「そんなの気にすることないわ。そのうち思い出すわよ。いいえ、思い出さなくても覚えていけばいいのよ」と言ってみた時、何かが閃いたのだが、それはすぐに消えた。何だったんだろうと、真理子は思ったが、一度消えた考えはすぐには戻っては来なかった。
富岡が夕食を食べ終わるのを待ってから、真理子は病室を出た。