三十五
火曜日の午前八時半頃に、真理子は病室に入っていった。富岡は朝食を済ませていて、看護師がその御膳を片付けに来ているところだった。
ショルダーバッグに入れてきた手帳とインタビュー記事が載った雑誌を、真理子は「これでいい」と渡すと、富岡は「うん」と頷いた。
ドアがノックされ、医師が入ってきた。主治医の中川だった。後ろに何人かの若い医師を従えていた。真理子は土曜日に中川医師に会いたいと思っていたので、良かったと思った。
中川医師は、真理子の隣に座ると「腎臓は、一時は透析も考えたくらいでしたが、随分と回復してきましたよ。肝機能の数値も良くなっている。皮膚はもう安定してきているので、包帯は明日取りましょう。手と足の骨折は、ほとんどくっついているんですが、肘と膝はまだ保護が必要なので、もう少しっていうところですね」と言った。
真理子は「歩けるようになるんですか」と訊いたが、中川医師は首を横に振り、「短い距離なら、松葉杖でも移動できるでしょうが、膝の損傷が激しいので、普通に歩くというのは難しいでしょう」と言った。
富岡が暗い顔をしたのを、真理子は見て「大丈夫よ。わたしが足になるから」と勇気づけた。
真理子が中川医師に富岡の記憶について尋ねた。特に、本人の記憶が失われているのではないか、ということを。
「頭の方は、脳に損傷も見られませんし、外科的に言えば何の問題もありません。ただ、記憶が失われているというのは、原因は事故によるショックとしか言いようがありません」
中川医師がそう言うと、真理子はすぐに「全部を忘れているというのではないんですよ。プログラムのことはよく覚えていたし……」と言った。
「もちろん、全部の記憶を失っているわけではないと思いますよ。部分的に記憶があるというのは、よくあることです。第一、私の話していることが理解できているでしょう。言語能力は失われていないわけです。そのうち、記憶を取り戻すということもあるでしょう」
そう言うと中川医師は椅子から立ち上がり、「では、これで……」と、部屋から出ていった。後ろにいた医師達も出ていった。
真理子はドアまで見送ると、富岡の枕元に座った。そして、「急いで、おうちをリフォームしなければね」と言った。
富岡が「えっ」と驚いているので、「バリアフリーにするのよ。一階と二階全部」と続けた。
中川医師の話を総合すれば、記憶のことについては不明だが、富岡は歩けるようにはならないので、車椅子の生活を送るしかないということになる。富岡はもはや自由に動き回ることができなくなったのだ。
真理子は心の中で、もう、あなたは女と遊ぶことができなくなったのよ、と言っていた。
「あなたが退院してくるまでに改修しておかなくちゃ」と言いながら、真理子はどこかそれを楽しく思っている自分を感じた。
富岡が「ありがとう」と言うので、真理子は、えっ、と思った。
「どうした」と、富岡が言うので「えっ、だって、あなたがそんなこと言うなんて……」と答えた。以前の富岡なら、真理子が何かをしてあげても「ありがとう」なんて言う言葉は言ったことがなかったからだ。
富岡は「事故のせいだろう。事故が性格を変えたのかも知れない」と言った。
下手な言い訳に聞こえたが、真理子は「そうね、そうかもしれない」と応えた。
富岡が手帳を開いたので、その様子を真理子はしっかりと見ていた。
「何か思い出した」
「いいや」と首を左右に振り、「俺はどんなんだったのだろう。会社人間だったのかな」と言った。
「あなたが、会社人間?」と真理子は言った。
「違うのか」と富岡が訊くので、「さぁ」と、真理子は言った。富岡の手帳が示しているように、平日は誰かと会うかクラブに寄って帰ってきたし、日曜日はゴルフに出かけた。しかし、会社での富岡を真理子は知らなかった、ということに、富岡に問われてみて、真理子は初めて気付いた。
富岡を見れば、自分が載ったインタビュー記事を読んでいた。そして、ベッドの上で手を組んでいるのを見た。左親指が上に来る組み方をしていた。開かれている雑誌の写真を見ると、写真の富岡は右手の親指が上に来るように手を組んでいた。真理子はベッドの下で手を組んでみた。自分は右親指が上に来る組み方をした。こうしたことは、記憶が失われたことで変わることなのだろうか。
わからなかった。
富岡が拘っているようなので、「何してるの」と問いかけてみた。すると、富岡は慌てて「いや、何でもない」と言って、雑誌に手を戻した。
「良く写っているわね」と言うと、「ああ」と富岡はすぐに次のページを開いた。そのページには富岡の顔が大きく写った写真が載っていた。
富岡はまたすぐにページを前に戻した。まるで大写しにされた自分の顔の写真を見たくないように、真理子には見えた。
このインタビュー記事を読んでいた真理子は「ここで言っていること、みんな、あなたの言ったとおりになったわね」と言った。
そう言うと富岡は「今日は、これから会社に行くのか」と言った。
「ええ」
「毎日、大変だね」
「そうでもないわ。これも慣れね」
「そうか」
「サポートで大忙しよ。何しろユーザー数が何十倍、いえ何百倍にもなったんだから」
「…………」
「会社が終わったら、すぐに来るわね」と言って、真理子は病室を出た。
会社に着くと、会社の中は騒然としていた。
社長室に入って、滝川がお茶を運んでくると、「どうしたの」と訊いた。
「みんな、サポートに追われて大変なんです」と答えた。
「そうなのね」
「通常のサポートならいいんでしょうけれど、バグの件は大変なようですよ。サポート要員が足りなくて、サポートが追いついていないんですよ。開発部の人もサポートの電話対応に駆り出されているほどです」
そう言って滝川が出ていくと、真理子は椅子に深々と座った。バグの件は、社内的にはこの土日で決着がついたが、ユーザーにまで伝わるには、まだ相当日数がかかることは容易に想像ができた。
真理子は午後六時の夕食の後に、病室に入っていった。
富岡が「何かトラブったのか」と訊くので、真理子は「そうじゃないんだけれど、サポート要員が少なすぎて、サポート・サービスが追いついていないのよ。開発部門の人たちまで電話対応に追われていて、大変だったの」と言った。
「そうか」
「このままじゃあ、通常業務にも支障をきたしかねないわ」
「そうだな」と言った後、富岡は考え込んでいるようだった。
やがて「真理子。こんなこと言うのは情けないのだが、会社がどんな所だったか分からないんだ」と言った。
「思い出せないの」
「ああ。何処にあるのかも、覚えていない」
富岡を当てにしてきていた真理子は当てが外れたことに困惑した顔になった。
「そこは狭いのか」
「狭いって言うか……」
「今は手狭になっているんだね」
「そうね。バイトでオペレーターを何人か雇ったんだけれど、もう限界ね」
真理子は昼間の会社の様子を思い出していた。大袈裟でなく、通路にまで人が溢れ出している状態だった。そうしている時に、突然、富岡が「会社移転しよう、もっと広い所に」と言い出した。
会社移転ですって……。真理子には悪い冗談にしか聞こえなかった。第一、富岡はベッドから出られないではないか。
「それはそうしたいけれど、今のあなたの状態じゃあ……」と真理子は言った。
それに対して「俺が病院にいたって、会社移転なんて簡単にできるさ」と、富岡はこともなげに言った。
真理子は富岡の顔を見た。富岡が冗談を言っているようには見えなかった。
真理子は「経理と相談してみる」と言うと、富岡が「専務と常務はいるよね」と訊いた。
「ええ、専務は経理部長の高木さんで、常務は営業部長の田中さんよ」と答えた。
「だったら、その二人に相談して決めてくれ」と言った。
「わかったわ」と言うと、富岡が「明日、シャワーがあるんだ」と嬉しそうに言った。そして「だから、肌着が欲しいんだ。売店に買いに行きたいんだけれど」と続けた。
「いいわよ」
コンビニに入ると、真理子は車椅子を押しながら「ようやく、躰を洗えるようになったのね」と言った。
「うん」
「わたしも何か手伝えることあるかしら」
「いや、いいよ。それより、会社移転の方の話を進めておいて欲しい。心に留まった物件があるなら、チラシでもなんでもいいから見せて欲しい」
真理子は「わかったわ」と言った後、「ほんとは裸を見られるのが恥ずかしいんでしょう」と珍しく冗談を言った。
富岡は「馬鹿」と笑いながら、右手で真理子のおでこを押した。