小説「真理の微笑 真理子編」

八-2

 陽の光に目が覚めた。昨夜は何時に眠ったのかさえ、覚えてはいなかった。今は午前七時少し前だった。
 起きるとすぐにシャワーを浴びた。バスローブのまま、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出して飲んだ。
 そして書斎に行き、金庫を開けた。この中に自動車保険に関する書類が入っていた。それはすぐに見つかった。
 時計は午前七時を過ぎていた。大きく書かれていた電話番号に電話した。しばらくして受付が出た。
「どのような用件でしょうか」と訊かれたので、夫が事故に遭ったことを話した。すると、「担当の者にお繋ぎしますから、しばらく、お待ちください」と言われた。待っている間、
オリビア・ニュートン・ジョンOlivia Newton-John 一九四八年九月二十六日 -  )の「そよ風の誘惑」(作詞・作曲 ジョン・ファーラー、リリース一九七五年一月二十一日、MCAレコード)が流れた。五小節目に入ろうとしたところで、「お待たせしました」と相手が出た。
 真理子は息せき切って、夫が事故に遭ったことを話した。
「わかりました。それでは、ご記入頂く書類等がありますので、それを送らせてもらいます。それから事故現場は長野県茅野市でいいんですよね。自損事故ということになりますので、場合によっては現場に立ち会って頂く必要がありますが、それはできますか」
「必要があれば、現場に出向きます」
「その時、警察官に立ち会ってもらうと話がスムーズに進むと思うのですが、それもよろしいですか」
「ええ、構いません」
「それでは書類をすぐにお送りしますので、必要事項をお書きになって返送してください。その後の、警察等の段取りはこちらで致しますので、こちらからの連絡をお待ちください」
「わかりました」
「では、これで失礼します」
 電話はそれで切れた。自動車に関しては保険会社への連絡は終わった。だが、生命保険会社への連絡が残っていた。数社の生命保険に入っていたので、それぞれに電話をした。
 こちらは事故証明書と手術をしたのならその担当医師が記述した証明書及び領収書、入院しているのであれば入院証明書か領収書、通院しているのであれば通院の領収書が必要だと言われた。領収書についてはコピーしたものでかまいませんと言われた。これらの領収書は確定申告の時に必要になるからだった。全部に電話をし終わったのは、午前九時少し前だった。
 後は、病院に行って確認したいことを確かめれば済む。
 真理子は、電話しただけで疲労感が広がっていくのがわかった。できるなら、病院には行きたくなかったが、確かめたいという欲求の方が強かった。
 化粧をして家を出て、病院に着いたのは、午前九時半を少し過ぎた頃だった。すぐに三階のICUのナースステーションに向かった。
 ナースステーションには二人の看護師がいた。一人が真理子に対応した。真理子は富岡がしていた指輪のことを話した。
 そして「もし差し支えなければ、外して見せていただけませんか」と申し出た。その対応した看護師が「そういうことは担当の医師の許可が……」と言ったところで、脇で聞いていたもう一人の看護師が「富岡修さんの奥さんですか」と訊いてきた。
「ええ、そうです」と答えると、「少しお待ちいただけますか」と言った。
「かまいませんが」と答えると、その看護師は奥に引っ込み、金庫のようなところから何かを取り出した。そして、真理子の方にやってくると、「誠に申し訳ありませんでした」と謝った。真理子がきょとんとしていると、目の前に、透明なチャック付きの袋に入った指輪が置かれた。その袋の表面には、富岡修様と書かれた白いテープが貼られていた。袋から出してみると、その裏側には「OSAMU&MARIKO」と書かれた文字が刻まれていた。正に結婚指輪だった。
「これは」と真理子が問うと、その看護師が「先日、全身のレントゲンを撮ることになりまして、貴金属は全て外さなければならなくなり、その時、指輪も外させて頂きました」と言った。そして、茶封筒を出して「本来なら、貴金属のようなものを預かるときには、この封筒に入れて、中身と氏名を書いて封をして頂くことになっていましたが、つい忘れていました。申し訳ありませんでした」と謝った。
「この指輪は持ち帰ってもよろしいんでしょうか」
 真理子がそう言うと、「ちょっとお待ちください」とその看護師は言って、ノートのようなものを取り出した。それは貴重品預かり帳だった。その中に「富岡修」「指輪」という項目があった。預かり日は七月六日になっていた。この病院に転院してきた翌日だった。真理子は、午前中にはここに立ち寄ったが、茶封筒に入れた写真と記入してきた用紙を渡したら、他に用はないと言われたので、家に戻ったのだった。もしレントゲンをするので指輪を外すという話があれば、その時に受け取っていただろう。おそらくレントゲンの件は、真理子が帰った後に起きたことなのだろう。
 返却日と書かれた欄に7/9と書いて、富岡とサインをしてそれを○で囲んだ。
「これでいいですか」
「結構です」
「では、この指輪は持ち帰らせて頂きます」
 真理子がそう言うと二人の看護師は頭を下げた。

 指輪をハンドバッグにしまうと、真理子はエスカレーターに向かった。そして降りながら考えた。今、バッグの中にあるのは、富岡がしていた正真正銘の結婚指輪だった。あの指輪がこの世に二つとないことは誰よりも真理子自身が知っていた。ということは、あのICUにいる包帯だらけの男は、富岡修に違いなかったことになる。富岡以外の男がバッグの中にある結婚指輪をしているはずがなかったからだ。
 ということはどういうことになるのだろう。
 真理子は、この指輪を見るまでは、てっきり、あの男が左手の薬指にはめていた指輪は非常に似ているもので、あの男は富岡ではなく別人だと思っていたからだった。それは写真で確認したからだった。だが、今は違っていた。実物を持っているのだ。
 真理子は訳がわからなくなっていた。